ノート:堀川 (北九州市)

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補足について[編集]

  1.  このたび、堀川運河は、経済産業省より「地域活性化に役立つ近代化産業遺産」として認定を受けました。この記事の出典;福岡県北九州土木事務所
  2.  堀川運河が開発された動機、理由とは。
  3.  黒田長政の功績の件についての注釈を要す。
  4.  栗山大膳の功績についての注釈を要す。
  5. 黒田騒動と深い関係があることを記載する。開発に、長年要した理由の一番の理由。そのために、何百、何千の人間が死んだか。
  6.  かわひらた五平太船についての注釈を要す。
  7.  堀川運河遠賀堀川の開発について、「開発年表」の作成を要す。
  8.  近代化産業遺産としての評価、価値の注釈を要す。
  9.  堀川運河遠賀堀川として呼ばれていること。
  10. 注釈;堀川運河とは、河川管理者の「福岡県北九州土木事務所」の概念規定を明記。
  11. 遠賀堀川とは、地元の郷土史家、産業考古学者の呼称、遠賀堀川は、遠賀川の水を洞海湾分流することが開発の目的であった。遠賀川江川とは切り離して語れない。
  12. 遠賀堀川がはたした役割
遠賀川の洪水確率の高さ。毎年、洪水が起き人が死ぬ。遠賀川の築堤とともに、洞海湾への河川水の分流。
筑豊地域の農産物の輸送。芦屋経由か、江川経由であった。それほど、小倉豊前藩は貧しかった。
日本の近代文明開花を支えたエネルギー、「石炭」の「運搬」。筑豊炭田と洞海湾の八幡製鉄所。

  --おりぐちなまぶ 2008年11月29日 (土) 17:34 (UTC) --220.61.243.7 2008年12月7日 (日) 20:49 (UTC)[返信]

暫定記事名「堀川 (北九州市)」[編集]

この河川が北九州市外も流れるため、記事名としてもっと適切なものがないか探しています。この件に関しては曖昧さ回避ページ「堀川」でご迷惑をお掛けしました。

河川の記事名は、PJ河川のルールに沿うのが一番ですが、よいものがない場合は「ノート:桜川 (茨城県南部)#暫定記事名「桜川 (河川)」」のような独自の議論が必要になることもあります。

  • 考えられる候補

--Triglav 2008年11月29日 (土) 15:03 (UTC)[返信]

かわひらた[編集]

関連項目節の「川ひらた」(赤link)を「かわひらた」(赤link)へ差し戻されましたが、大手の検索結果ですと前者のほうが多いですが、なにかこの川特有の理由があるのでしょうか?--Triglav 2008年11月30日 (日) 03:43 (UTC)[返信]

なにかこだわりをお持ちのようで。でしたらそれで記事を起こしてください。後日、改名提案が提出されるような事になったら、またお話しします。--Triglav 2008年11月30日 (日) 11:11 (UTC)[返信]
いえいえ、ただ淡々と、事実を書いているのです、本文の主文には一切、記述しません。すべて、管理人さんたちで協議され、管理人様方で協議、普遍化を図ってください。出所は、九州産業考古学会です。お好きなように、加除訂正されてください。しばらく、加筆を休止します。ご迷惑をおかけしました。    --おりぐちなまぶ 2008年11月30日 (日) 15:26 (UTC)[返信]
「こだわり」という部分には深い意味はありません。威圧的に感じられたらのでしたら失礼しました。このノートページでの整理が終わりましたら、どんどん本文に上げてください。詳しい方たちから書き加えていただけることでしょう。ちなみに私はM3kz36r様と同じ一般利用者です。--Triglav 2008年12月1日 (月) 02:07 (UTC)[返信]
<利用者:Triglav  様へ> 色々と調べましたが、最近「遠賀堀川の歴史」という本が出版されました(国土省)。それには「遠賀堀川」、「川ひらた」とされています。出典としては、一番、オーソライズしやすいのではと想っていますがいかがでしょうかと勝手に想っています?(資料出所;「遠賀堀川の歴史」、2008年3月、遠賀川下流域河川環境教育研究会編集、出版;国土交通省遠賀川河川事務所、事務局;河口堰管理支所)。--おりぐちなまぶ 2009年1月7日 (水) 02:20 (UTC)[返信]

補足説明(遠賀川流域市民が定義する「遠賀堀川」についての説明)[編集]

遠賀堀川は、北九州市の八幡西区の楠橋から、中間市、遠賀郡水巻町、八幡西区の折尾を通過して、洞海湾まで続く、全長12.1KMの“運河”である。つまり人間が掘った川である。(資料出所;「遠賀堀川の歴史」、2008年3月、遠賀川下流域河川環境教育研究会編集、出版;国土交通省遠賀川河川事務所、事務局;河口堰管理支所)。  なお、上述のように、人間が土砂を掘って川をつくったというところから、堀川と呼称される川は全国に無数にある。(50箇所以上あるのではないだろうかと言う説;出所、九州考古学会員からのヒヤリングによる);そこで、他の無数の「堀川」と区分して呼称するために、地元の遠賀流域河川地域では、遠賀川洞海湾とを12KMにもわたって、固い岩を、水巻町吉田地区の職工が、その高度な技術を遺憾なく発揮して、長年にわたり、ノミを使用して掘削した「河川」であるから、これを「遠賀堀川」と呼んでいる。 広大な「遠賀平野」に存在していることからも「遠賀堀川」という呼称は、地元では通説である。(出所;いずれも九州考古学会員の口頭説明による説である) この遠賀の遠賀川は、近世(約400年前)から何度も大洪水を起こし、その被害たるものは例えようがないものであった。そこで、福岡藩は、遠賀川の直線化と築堤工事を目的として、大規模な河川改修を行うこととなった。その一環として、遠賀川を分流して洞海湾に流すという壮大な計画を建てた。 その遠賀川河川改修計画の一部として、長年に亘ったが、この遠賀堀川は、遠賀川下流域の新田の灌漑用水の供給や、洞海湾一帯の干拓工事にも貢献するなど重要な工事であったのは間違いない。 また、この工事には地元農民が数万人参加していたが、遠賀川の洪水、氾濫、そして日照りに苦しめられた農民達は、命をかけて使役をなし、1804年にようやく概ねの完成を見た。 地元農民、住民の命を救った「遠賀堀川」を、当時は、「宝川」と呼んだと言います。完成時では、米作の灌漑用水だけではなく、飲料水や、川船(川艜)による水運にも使われる宝物のような川だったからです。


  • 注釈の1;「遠賀堀川」は、当初は、遠賀川上流域の「筑豊」の穀物、そして近代は「川ひらた」(五平太船)による石炭の運搬媒体としての「運河」として、「川ひらた」(五平太船)が通過できるように、を随所に設けて、堀川運河のとして諸機能を立派に果たしたことから、「河川管理者」の「福岡県北九州土木事務所」は、「堀川運河」と呼称していることも十分に理解できよう(出所;福岡県北九州土木事務所のホームペイジによる)。 つまり、「遠賀堀川」は、本格的な「運河」として、「八幡製鉄」の「1901」(最初の高炉)のエネルギー源として大変な貢献をしたのである。文字通り、日本の近代文明の礎となったものであり、「遠賀堀川なくして日本の文明開花はなかった」といっても過言ではない。
  • 注釈の2;なお、現在は、「遠賀堀川」は川水が流れていない川であり、「運河」としても機能はしていない。折尾の街の土着文化として、「まりづくりの象徴」、および「まちおこしの資源」として再生されんとしている。
  • 注釈の3; 昨今、この「遠賀堀川」は、経済産業省によって近代化遺産として認定された。これは、この「遠賀堀川」が運搬の媒体と存在したからこそ、「筑豊炭田」の石炭を大量に、短期間で、洞海湾の「八幡製鉄」に運搬して、「鉄は国家なり」という言葉の象徴であった「八幡製鉄所」の「1901高炉」の灯火を支えることができたのである。日本の製鉄をはじめとした装置系の基幹資源が他産業のエネルギーであった”石炭”を運搬する大きな運搬機能として、まさしく「遠賀堀川なくして、日本の文明開化はあり得なかった」といえる。“石炭運搬の大動脈”という石炭産業遺産として大きく評価されたわけである。なお、この“遠賀堀川”をはじめとして、日本の近代文明開化をもたらした産業遺産群については、世界遺産として登録するべく経済産業省や九州山口各県が中心となってその登録手続きを進めている。
  • 注釈の4; また、2004年より15年間にかけて行われる”折尾地区総合整備事業”では、”遠賀堀川”を”まちづくり”の最大の資源として「まちおこし」の最大の種として考えて、その育成を計画している。また、福岡県においても、“遠賀堀川”を生かすことにより、遠賀川諸都市との広域連携、つまり遠賀諸都市の要として広域都市計画の中で位置づけており、“遠賀堀川”の遠賀川流域河川地域においても、”まちづくり資源”としての役割は高まりつつある。

以下、更に概要を説明する。

遠賀堀川の概要[編集]

  1. 九州の河川は、そのほとんどが英彦山を起点とした水系といわれている。この水系の最大の河川である一級河川の遠賀川は、直方市から以南は広大な範囲にわたり分流していた。それは、現在の鞍手郡、遠賀郡、八幡西区西部、若松区西部、芦屋町などが遠賀川の下流の一体であって、この一体を、地元の郷土史家としては、昔から「遠賀平野」として、「遠賀」という漠然とした地域名で呼んでいた。そして、「折尾」は「遠賀の都」と、地元では呼ばれていた。
  2. 遠賀川は流れがゆるく天井川といわれた時代が長くあり、下流域にある、いわゆる「遠賀平野」では、洪水確率が非常に高く、何度も河川の氾濫を起こしていた。そこから、「川筋気質」という精神的風土が形成された。つまり、「宵越しの金は持たない」という。要は、何時、蔵の穀物が流されるかわからないからだ。
  3. そこで、徳川の治世になって以来、遠賀川の築堤を行うこととなった。また、遠賀川を分流して洞海湾へ流す計画を立てる計画が持ち上がった。
  4. 1621年から1804年までの183年間(128年間休止、実働55年間)もかけて堀川の掘削が完成した。休止の間は、遠賀川を直線化する築堤工事を行った。
  5. 遠賀堀川開通以前の川艜は、遠賀川を経由して筑豊の豊富な農産物を(藩の年貢米、ハゼの実、ロウ、菜種、卵等を芦屋に輸送する。その後、藩内向けの石炭輸送が始まり、石炭需要が拡大するにつれて、石炭輸送の比重が増大する。
  6. 洞海湾へは、芦屋経由と江川経由がとがあったが、遠賀堀川開通後は、もっぱら遠賀堀川経由となった。1891年(明治24年)に若松~直方間を鉄道が敷設されて、水運と陸運とで石炭輸送を行った。そして、遠賀堀川の川艜通船数が、1899年(明治32年)をピークにして鉄道輸送に変わっていた。
  7. 遠賀堀川の”川艜(川ひらた)”はついに、1939年(昭和14年)に姿を消した。
  8. 遠賀堀川の灌漑用水の恩恵を受けた村は、中間、岩瀬、二、吉田、伊佐座、立屋敷、下二、頃末、杁、古賀、猪熊、折尾、本城、御開、陣原、則松の16ヶ村である。
  9. 昭和初期から「洗炭」による汚濁水がすべて遠賀川に排出された。このため遠賀堀川も黒く汚濁した。昭和40年代から、石油へのエネルギー転換により鉱山の閉山が相次ぎ、遠賀川の汚濁は低下した。しかし、遠賀堀川沿いの市街化が進展し、その生活雑排水が流れ込み、都市下水路として新たな汚濁が始まった。
  10. 石炭採掘の後遺症であるところの鉱害は至るところで発生し、あらゆるものの陥没を来たらした。そのため大雨による水害があらたに発生した。このため、遠賀堀川も、中間の岩瀬で切断されて曲川に河水が落とされて、そこから下流域は河水が流れない河になる。
  11. 生活用の雑排水は、「遠賀堀川」に流したが、河水が流れない遠賀堀川は汚濁が堆積するようになる。水質の汚濁が進んだ遠賀堀川は、一時、廃しするという風説が建つほどであったが、昨今は、地域住民の遠賀堀川の清掃が頻繁に行われている。
  12. このたび、遠賀堀川は「近代化産業遺産」として経済産業省から指定を受けたことから、この遠賀堀川をまちづくり資源として、折尾地区総合整備事業が進む中で、折尾駅舎とともに、日本の近代化を大きく支えた石炭運搬文化としての産業資産を活用し、「まちおこし」を行う運動が展開されている。


遠賀堀川の歴史解説[編集]

  • 1620年(元和06);黒田長政、遠賀川を二度視察。
  • 1621年(元和07);総責任者の栗山大膳、岩瀬より吉田間の遠賀堀川の掘削工事を着工したが工事が進まず苦しむ。
  • 1623年(元和09);黒田長政死去他の理由により、遠賀堀川掘削工事を中止する。
  • 1751年     ;第2期工事(車返し拡張工事)開始された。
  • 1755年(宝暦05);六代藩主黒田継高が遠賀堀川の工事を届出、本工事再開。
  • 1757年(宝暦07);車返三間幅で切貫きが貫通する。
  • 1759年(宝暦09);車返半間拡張工事完了。
  • 1762年(宝暦12);第3期工事。則松川へつなぐ工事が完了。一田九作備前の吉井川へ派遣、唐戸を視察、作図し持ち帰る。
  • 1763年(宝暦13);中間総社山唐戸完成完成。正式に通船が始まる。
  • 1802年     取り入れ口を変えることを検討。
  • 1804年(文化元);第4期工事、楠橋村寿命唐戸完成。
  • 1846年(弘化03);河守宮建築棟上げ。
  • 1891年(明治24);筑豊興業若松~直方間開通する。
  • 1895年(明治28);折尾駅完成。
  • 1939年(昭和14);最後の川艜が通過。
  • 1962年(昭和37);県立折尾高等学校の中庭に展示されている「川艜」は、福岡県有形文化財指定。
  • 1971年(昭和46);寿命唐戸、北九州市の文化財指定。
  • 1983年(昭和58);中間総社山唐戸、福岡県文化財指定。
  • 1989年(平成02);曲川との交叉地点で分断、下流に河水が流れなくなる。

(加除訂正中)

関連する事柄[編集]

川艜(かわひらた)
「遠賀堀川」の「堀川運河」を通過して、古くは穀物を、近代は石炭を「筑豊」から「洞海湾」へと運搬した。石炭は、若松港、八幡の新日鐵、そして一部は、門司港へと運搬された。その船を「川艜」と言った。「九州産業考古学会」としては、漢字で、「川艜」と統一して表現するようにしているが学会では、「川ひらた」と書いている人もいるが、「ひらた」の漢字が難しいので「ひらかな」で記載しているのではとの説もある。また、地元住民としては、江戸時代は漢字が書けなかたこともあるのだろうが、庶民の多くは、ひらがなで「かわひらた」と書いたのでひらがなで表記すべきだという郷土史家もいる。学会の規定の「川艜」とするか、地元住民が使用する「かわひらた」にするかについては、確定は難しい。「川艜」の大きさは、大型で長さ10㍍、横幅2.7㍍、深さ66㎝、積載量約6トン余り。小型で長さ8㍍、横幅2㍍、深さ54㎝、積載量約4トン位。「川艜」は、五平太船(ごへいたぶね)とも呼ばれている。その由来は、藩主の用船には、敬意を払い「御」をつけ、「御艜」と呼んだようだ。それが御平太(ごひらた)から五平太(ごへいた)と呼ばれたと言う説が遠賀地域では一応、通説になっている。五平太については、各地で諸説がいろいろあり確定できないが、遠賀地域ではそのように言っている。

資料の出所など[編集]

    1.  基本資料;九州産業考古学会「会報」
    2.  ヒヤリング;郷土史家の語り、「堀川を愛する会」
    3.  ヒヤリング;九州大学の研究者の語り
    4.  川艜の資料;県立折尾高等学校保存資料
    5.  年表関係資料;「堀川探訪12KMの旅」(編集;「堀川再生の会・五平太」会長;中村恭子)

文責--おりぐちなまぶ 2009年1月7日 (水) 05:41 (UTC)[返信]

堀川(北九州市)の書き加え記事の草稿(校正中)[編集]

素稿として考えている案です。皆様方の合意形成を頂くための「タタキ台案」で御座います。是非、御批判を賜りただく伏してお願い申し上げます。なお、「テオニハ」等々校正中です。これに固執していません。まだまだ調べて書き加えて一ヶ月後にアップロードしたいので宜しくご賢察下さい。不尽草々。

以上の文責は、利用者「でくのぼう」です 2009年2月8日 (日) 03:48 (UTC)[返信]

堀川(ほりかわ)は福岡県中間市から北九州市八幡西区洞海湾に注ぐ川。堀川運河とも。遠賀川化流域の「遠賀平野」では、庶民の日常会話では、通称で堀川と呼んでいるが、郷土史家、九州産業考古学会、及びまちづくりNPO[1]において公式で呼称する場合は、川としては、「遠賀堀川」として呼称し、運河としての機能を重視する場合は、「堀川運河」という名称を使用している。(以下、「遠賀堀川」として記述する) [2]

要約[編集]

  1.  江戸時代遠賀川から舟を通すことや洪水などの水害防止のために開発され、開墾が進められた。明治時代以降は筑豊炭田、沿岸には昔ながらの店が軒を連ねる。また、不法投棄が後を絶たず、自転車電化製品などが放棄されている。1年に数回程度、近隣の住民や大学生により堀川清掃が行われる。さらに外来生物であるスクミリンゴガイ(ジャンボタニシ)が数多く繁殖しており、からにかけて産卵を行うため、コンクリート等に紅い卵が目立つようになっている。 [3]
  2.  「遠賀堀川」は、北九州市八幡西区遠賀川沿いにある「楠橋」から中間市水巻町八幡西区折尾を経由して、日本の近代文明開化を支えた八幡製鉄所があった洞海湾へと続く永延と12KMに亘っている。江戸時代の初期に掘削、開発された。しかし、これは人間が硬い岩を掘削して水運のために利用した運河でもあった。そのため、国土交通省遠賀川河川事務所、及び福岡県北九州土木事務所等々はは、これを堀川運河と一般的に呼称している。 [4]

沿革[編集]

  1.  江戸時代初期、一級河川である遠賀川は、洪水が引き続いた為、福岡藩は、遠賀川下流域の複数の支流を一本化して堤防を築造するための河川改修工事を計画した。それとともに、遠賀川の下流域の流量を軽減するがために、河川水を分流して洞海湾まで流すことを目的として、「遠賀堀川」の掘削工事を計画した。これは、遠賀川の水を洞海湾まで分流させるという目的と共に、遠賀川下流域の一帯の新田開発や洞海湾一帯干拓工事と連動した重要なる工事であった。遠賀川の洪水で数え切れない人間が死んでいったことや、数万人を超える農民達の「血と汗と涙」の掘削工事は、1804年に一応の完成をみた。往事の農民達は。この「遠賀堀川」を「宝川」と呼んで喜んだという。水田への灌漑用水というだけではなく、生活にかかせない飲料水であり、川船による水運にも使用された文字通り「宝物」のような川だったのである。[5]
  2.  当時、遠賀川は、下流域では分流していた。そのため、下流域の「遠賀平野」の全体が泥炭地帯であった。当時の遠賀川は、現在の中間市の西側を流れており、それを「古川」と呼び、今でも一部残っている。高い堤防もないために満潮時には海水がこの「遠賀平野」の一帯に流れ込み、それが大雨の洪水時期にぶつかれば、川はすぐに氾濫して多くの農民が死亡。とくに、遠賀郡水巻町周辺では常時、川が氾濫して米作に大きな支障をきたした。逆に、日照りが続けば水が引けず干ばつで大きな被害が出た。1617年には12日間も大雨が続いて、「遠賀平野」の一帯が入海のようになった。家、蔵、家畜、田畑、の全てが流失する災害が頻繁に起きた。また、飢え死にする農民が数え切れないほど出たこと等々から、福岡藩はこの頻繁なる洪水をなくすために大がかりな河川改修工事を施工した。分流していた遠賀川の支流を一本化して真っ直ぐに流し、堤防を築造した。しかし、この工事には延べ十万人以上が使役に出て、1613年から施工が開始され、15年間を要した。しかし、施工された堤防は、現在の遠賀川堤防の高さからすれば、約半分以下であり、洪水が、多少は減ったが、なくなることはなく福岡藩は大いに頭を痛めた。[5]
  3.  1620年福岡藩藩主の黒田長政は、遠賀川の洪水を無くし、米作を促進するために、「遠賀平野」一帯を視察し、 [6]水田への灌漑用水路を開発することを目的し、中間市から八幡西区の大字則松の長崎まで「遠賀堀川」を掘削することを決定した。1621年に掘削工事が始まった。総指揮は、福岡藩の家老であった栗山大膳 がこれに当たり、延べにして約6万人の農民が使役に出たと言われた。[5]
  4.  しかし、工事開始してより2年目、水巻町の吉田地区にある「貴船神社」の近辺の工事にさしかかったところ、特別な地層のために掘削工事が困難になった。「貴船神社のたたりだ」と言って農民達は恐れた。同時期、黒田長政が逝去し工事は中断された。その後、黒田騒動により、総指揮の栗山大膳が失脚し、1623年に工事中断となった。中断された「貴船神社」の近辺は、「大膳堀」と呼ばれた。近辺に「大膳」という地名が残っているのはこの為だ。[5]
  5.  その後、「試掘」等々が繰り返されたが、難工事となり中断の繰り返しであった。しかし、福岡藩洞海湾干拓が先に進んだことから、それらの新田に、農業用水を確保することが急務となったため、上記の黒田騒動での工事中断から128年後、工事が再開された。その際、「貴船神社のたたりだ」と恐れられた、いわゆる「大膳堀」をあきらめ、大きく迂回して、一つ山を越えた水巻町の吉田の近辺、「車返」(くるまがえし)といわれる固い岩山を掘削することとなった。この工事の総指揮官は、工事にかり出された村人達にはその働きに応じて「金品」を供与したので、「遠賀堀川」の工事は大人気となり多くの人が集まり1759年、無事に「車返し」の工事は終了した。[5]
  6.  堀川運河の「車返」の工事が終了すると同時に、上流と下流の工事も再開され、下流の工事は1762年に終点の洞海湾に達した。一方、遠賀川方面の上流の工事は中間市に水門を造り、遠賀川の水を引き込んで流し込む(仮通水)工事を繰り返したが、難航を極めた。 [7]水門の度重なる破壊を克服し、 [8]1762年に、中間市の「総社山」(そうしゃやま)に頑丈な水門が完成しました。この水門は、「中間唐戸」と呼ばれて、表戸と裏戸との二重構造になっており、洪水時の流水の圧力に十分に対応できる構造の堅牢なる水門であった。この「中間唐戸」は現在も当時の場所に保存されている。[5]
  7.  ところが、この堅牢な「中間唐戸」に川水を流すために上流の川をせき止めたりしたために、水門から上流の地域が湿田になった。その為、「遠賀堀川」は「中間唐戸」の上流の八幡西区の「楠橋」まで掘削、延長工事がなされ、そこに「寿命唐戸」(じめいからと)が建造された。それは1804年のことだった。黒田長政が工事を決意して工事開始してから183年間の長い長い歳月をかけて、北九州市八幡西区の「楠橋」から洞海湾までの全長12.1KMの「遠賀堀川」が一応完成した。[5]

経緯[編集]

  • 1617年(元和03);遠賀川大洪水が起きる。
  • 1620年(元和06); 黒田長政栗山大膳遠賀川の大洪水の被害を二度視察。
  • 1621年(元和07); 黒田長政の命により、総責任者の栗山大膳、「岩瀬」より「吉田」までの「遠賀堀川」の掘削工事を着工したが工事が進まず苦しむ。
  • 1623年(元和09);黒田長政死去、その他の理由により、「遠賀堀川」掘削工事を中止。
  • 1628年(寛永05);御牧川の東流れが掘られる。
  • 1708年(宝永05);川東の村々の人々から、「遠賀堀川」の工事再開の検討が始まる。(水巻苗代谷の試掘)
  • 1732年(享保17);享保の大飢饉(翌年にかけて福岡藩内10万人の餓死)
  • 1734年(享保19);川東12ヶ村の庄屋が水害と度重なる大飢饉の実態を談合し述べた「古来の覚え書き」を福岡藩に差し出した。
  • 1737年(元文02);苗代谷の岩山にトンネルをくり貫く工事が開始。 [9]
  • 1738年(元文03);難工事のために苗代谷の工事中止。「三里松原」の植え立てを開始。
  • 1750年(寛永03);「遠賀堀川」の第二期工事開始。 [10]
  • 1751年(宝暦元); 正月、吉田車返しの切貫工事開始。
  • 1755年(宝暦05);梅雨時期から 六代藩主「黒田高継」が遠賀堀川の工事を届出、本工事再開。
  • 1757年(宝暦07);「車返」の三間幅で切貫きが貫通する。
  • 1759年(宝暦09);「車返」の半間拡張工事完了。
  • 1762年(宝暦12); 第3期工事。則松川へつなぐ工事が完了。一田九作備前の吉井川へ派遣、唐戸を視察、作図し持ち帰る。
  • 1763年(宝暦13);中間総社山唐戸、通称「中間唐戸」完成。正式に通船が始まる。
  • 1765年(明和02);「遠賀堀川筋条目」を制定。
  • 1804年(文化元) ; 第4期工事、楠橋村「寿命唐戸」が完成。
  • 1821年(文政04);吉田切貫の図作成「筑前名所図鑑」
  • 1842年(天保13);遠賀堀川を通った川艜は9,648艘。
  • 1845年(天保16);河守神社図作成「遠鞍紀行」
  • 1846年(弘化03); 河守宮建築棟上げ。
  • 1848年(嘉永元);湯原日記作成。 [11]
  • 1891年(明治24); 筑豊興業の若松~直方間が開通。
  • 1895年(明治28); 折尾駅が完成。
  • 1899年(明治32);遠賀堀川を通った川艜の通船数は約13万艘。
  • 1939年(昭和14); 最後の「川艜」が通過。
  • 1962年(昭和37); 県立折尾高等学校の中庭に展示されている「川艜」は、福岡県有形文化財指定。
  • 1971年(昭和46);「寿命唐戸」、北九州市の文化財指定。
  • 1972年(昭和47);遠賀堀川の雨水がパイプ送水に切り替わる。
  • 1983年(昭和58);「中間総社山唐戸」、福岡県文化財指定。
  • 1986年(昭和61);「曲川の伏越」が取り除かれた。
  • 1989年(平成02);「曲川」との交叉地点で分断、下流に河水が流れなくなる。
  • 2004年(平成16);「堀川サミット」堀川開削200周年記念事業。
  • 2005年(平成17);車返しの切貫の調査で「線刻文字が見つかる」
  • 2008年(平成20);経済産業省より「近代化遺産」の認定を受け、現地に看板を設置。遠賀堀川を満水にして川船を浮かべるなどのイベントを行った。

関連項目[編集]

宝川
 「遠賀堀川」が完成して、農業の灌漑用水路として多くの水田を潤した。元来、灌漑用水が無かった水巻町、下流の洞海湾の干拓でできた新田の「御開」、「陣原」などでは米作が促進して、約2万石は増加したと言われている。しかし、その代わりに年貢米も増え、遠賀川の洪水も無くなったわけではないので農民達の暮らしは苦しいものだった。さらに、農民達は遠賀川の築堤の工事にも相変わらずかり出された。しかし、「遠賀堀川」の効果は日増しに農民達に浸透し、川艜の通行による村の活性化と合わせながら、宝を生んだ「宝川」となった「遠賀堀川」とともに生活の質を向上させていった。また、堀川を守るために「堀川筋条目」がつくられ、その掟を守り続けました。
堀川筋条目[12]
  •  堀川の土手を勝手に切って、自分の田に水を引いてはいけない。
  •  堀川の水は、食事の用事や飲み水に使う人がたくさんいるので、土手に牛や馬をつないではいけない。
  •  堀川の水は、どの村もこまらないように分け合って使うこと。
  •  堀川を通る船は、1そうにつき50文(今のお金で約千円)はらうこと。
  •  水門には、水番人をおき、水のちょうせつをすること。
川艜(かわひらた)
  •  「遠賀堀川」を通過して、古くは穀物を、近代は石炭筑豊から洞海湾へと運搬した。石炭若松港、八幡新日鐵、そして一部は、門司港へと運搬された。その船を「川艜」と言った。「九州産業考古学会」としては、漢字で、「川艜」と統一して表現するようにしているが、「川ひらた」と書いている人もいる。「ひらた」の漢字が難しいので「ひらかな」で記載しているのではとの説もある。 [13]また、地元住民としては、江戸時代は漢字が書けなかたこともあるのだろうが、庶民の多くは、ひらがなで「かわひらた」と書いた。「川艜」の大きさは、大型で長さ10㍍、横幅2.7㍍、深さ66㎝、積載量約6トン余り。小型で長さ8㍍、横幅2㍍、深さ54㎝、積載量約4トン位。「川艜」は、五平太船(ごへいたぶね)とも呼ばれている。 [14]
  •  「遠賀堀川」が完成すると遠賀川の上流の筑豊地域から「穀物」が沢山、「川ひらた」により、運ばれた。この川船の往来が頻繁に行われると、この川沿いは大変に賑やかになり徐々に遠賀堀川沿いに町が形成されてきました。筑豊地域で大量の石炭が掘られるようになると、この「川艜」に積まれ、「遠賀堀川」を通過して若松へと運ばれました。多い年には1万艘を超える「川ひらた」が「遠賀堀川」が遠賀堀川を通行した。[5]
  •  1891年に鉄道が開設されると、石炭は「水運」から「陸運」へと転換し、「川ひらた」の数は徐々に少なくなった。最盛期は、13万艘強の「川ひらた」の石炭輸送も急激に減少し、ほとんどが鉄道による「陸運」に切り替わってしまった。ついに、1938年には、「川ひらた」は「遠賀堀川」から姿を消してしまった。[5]
川艜の船頭
  •  川艜の船頭は、筑豊の炭田地域から洞海湾の若松港まで石炭を運ぶのに相当の高額の収入があった。そのため、熊本天草などのかなり遠くから多くの船頭が集まってきた。仕事はかなりきつく、下りは狭い川の間を岩にぶつからないように、対向の船にぶつからないように慎重に舵取りをし、若松港で石炭を降ろした後は、上りとは逆の船を進めていった。船の先にはロープを括り付けて、川岸から引っ張って帰ったそうだ。時には、腰のあたりまで水につかりながら数人がかりで、船を引いた。遠賀川上流の嘉麻市の船着場(ふなつきば) [15]から若松まで往復するのに一週間以上は要した。[5]
  •  船頭は船の中で寝食を行った。当時の「遠賀堀川」の沿岸には沢山の店が建ち並び、大層、賑わった。旅館、酒屋、食堂、豆腐屋、薬屋、呉服屋等々、大いに繁盛を極めていた。それは、「中間唐戸」付近、中間の屋島村、川端付近、岩瀬付近、水巻の車返付近や、折尾村付近の堀川沿いの商店街が形成された。[5]
現在の遠賀堀川の状況
  •  完成から250年経った「遠賀堀川」は、水が黒く濁り、水深もとても浅い「どぶ川」になった。昔は、食物を洗ったり、飲料水に使ったり、しじみを取ったりできた「宝川」であったが、現在の堀川は、生活汚水の排水、雨水排水の川になってしまった。川艜が通船する運河としての役目が終わった後も、「遠賀堀川」は、1970年頃までは、水田に水を引く役割を果たしていた。しかし、「鉱害」による河川の地盤沈下などによって、河川そのものの埋没も起こった。更に、微粉炭(びふんたん) [16]が「遠賀堀川」に流れ込んだために水田に引く用水の確保が困難となった。1972年には、この用水はパイプによる送水に切り替えられた。[5] 
  •  また、曲川の「伏越」 [17]の上流部の中間市では、水害が起こり1986年には水害防止のために「伏越」は完全撤去された。そして、中間市の岩瀬付近で鉄板で完全に塞いだ。そのために遠賀堀川の流量は激減した。[5]
  •  遠賀堀川が完成してから約250年の今日、遠賀堀川は汚水排水のヘドロの貯まった川になってしまった。現在は、「堀川を愛する会」、「堀川再生の会・五平太」等々の住民団体が中心となり遠賀堀川の清掃が頻繁に行われ、昔のきれいな川になるように住民運動が進められている。昔の遠賀堀川を呼び戻す運動が、国、県、市と協働して「まちづくり」運動として進められようとしている。[5]
堀川
 日本各地に流れる同名の河川と名称の由来について。
折尾
折尾町

脚注[編集]

  1. ^ 「堀川を愛する会」、「堀川を再生する会」、「学園&地域交流ネットワーク」等々の地元折尾の市民団体を言う。
  2. ^ これは「九州産業考古学会」の説によれば、全国には、無数の堀川が存在しており、これと差別化して呼ぶ為である。下記の参照資料の「遠賀ほりかわ物語」、「遠賀堀川の歴史」等々から出典。
  3. ^ 以上は、従前の改訂前の記事である。
  4. ^ 堀川運河についての「福岡県北九州土木事務所」のホームペイジを参照。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n 「遠賀ほりかわ物語」、「堀川の歴史と文化」、「堀川工事の史実」、及び「遠賀堀川の歴史」等々の参考資料から出典
  6. ^ 福岡編の石高は「禄高五十二万石」といわれたが、実際は、かなり下回っていたようである。したがって、この「遠賀川」の河川改修による石高を増大させることは、当時の福岡藩の藩政としては、重要な課題になっていた。(参考資料より)
  7. ^ 遠賀川の流水量があまりにも多いことから、そのために幾度となく「水門」が破壊された。(出典 ;参考資料より)
  8. ^ 福岡藩は、底井野村出身の「九作」に備前(岡山県)の吉井川に造られていた井出と水門(石唐戸)を調査することを命令しました。その調査を元に頑丈な水門が完成したのだ。
  9. ^ 石工、岩瀬村 与一
  10. ^ 第六代藩主 黒田継高、総司 櫛橋又之進
  11. ^ 波田野弓子
  12. ^ 「わたくしたち」の水巻より
  13. ^ 九州産業考古学会の説
  14. ^ その由来は、藩主の用船には、敬意を払い「御」をつけ、「御艜」と呼んだようだ。それが御平太(ごひらた)から「五平太」(ごへいた)と呼ばれたと言う説が遠賀地域では一応、通説になっている。 「五平太」については、各地で諸説がいろいろあり確定できないが、遠賀地域ではそのように言っている。以上、九州考古学会の説である。したがって、ここでは、以下、「川艜」と称する。
  15. ^ 八反田船入場;嘉麻市上臼井にある。船入場の模型が「碓井郷土館」に展示されている
  16. ^ 石炭を洗ったために出た石炭の粉
  17. ^ 遠賀堀川が、曲川などの自然にできた川と交叉するところに「伏越」(土木用語では「逆サイフォン」、もしくは「連通管」と呼ばれる)を造った。「伏越」は、 「遠賀堀川」の下に、石組みのトンネルを造り、立体交差させて遠賀堀川の余った水は曲川にも排水できるという、優れた土木技術だった。曲川の「伏越」は、現在は取り除かれたが、水巻町吉田の貴船橋付近の「伏越」は残されている。

参考文献[編集]

  1.  「遠賀堀川の概説」(九州産業考古学会会員、清永憲道)
  2.  「堀川運河12KM旅物語」(堀川再生の会・五平太)
  3.  「遠賀堀川の歴史」~宝川といわれた川~(2008年3月、編集遠賀川下流域河川環境教育研究会、出版;国土交通省遠賀河川事務所)     
  4.  「遠賀堀川12KMの旅」(2009年、堀川再生の会・五平太&九州産業考古学会作成パンフレット)
  5.  「水巻町誌」(水巻町郷土誌編集委員会)
  6.  「水巻おもいでの写真集」(水巻町企画課)
  7.  中間市広報市誌閑話(中間市役所総務部総務課広報統計係)
  8.  「堀川の歴史と文化」(中間市歴史民俗資料館)
  9.  「堀川の歴史と文化」(中間市歴史民俗資料館-一周年記念特別展9
  10.  「堀川散歩マップ」(みんなで創るふるさと会)
  11.  「中間市史」上巻・中巻(中間市史編纂委員会)
  12.  「堀川工事の史実」(中間郷土史会)
  13.  「遠賀『堀川』の歴史」(中間市歴史民俗資料館)
  14.  「堀川再発見」(福岡県立折尾高等学校)
  15.  「遠賀ほりかわ物語」(水巻町歴史資料館);平成18年度企画展による。
  16.  「堀川200 堀川開削二百年記念事業報告」(堀川まちおこし実行委員会)
  17.  「堀川まちおこし事業報告書 ウラカタヴォイス」(堀川まちおこし実行委員会)
  18.  「堀川まちおこし事業報告書 2006」(堀川まちおこし実行委員会)
  19.  「吉田車返切貫跡」(水巻町教育委員会)
  20.  「わたしたちの水巻」(「わたしたちの水巻編纂委員会」
  21.  「遠賀川、もっと知りたい遠賀川」(NPO法人遠賀川流域住民の会)
  22.  「堀川の話」(斉藤勝明)
  23.  「宝川と呼ばれた川」(斉藤勝明)
  24.  「堀川の歴史」(太田博敏)
  25.  「遠賀堀川」(小川 賢)
  26.  「堀川の流れに」(坂井涼一)
  27.  「筑前遠賀郡堀川開墾史談」(夏秋 茂)

                      

関連リンク[編集]

福岡県北九州土木事務所
遠賀堀川の「近代化産業遺産」認定に関してのホームペイジ。


「合意形成」のためのご意見箱[編集]

以上の記事についての、ご意見を頂戴したくお願いします。ご意見箱としておきます。「言葉」の概念規定について現在再考中です。以上の文責は、利用者「でくのぼう」です 2009年2月9日 (月) 03:58 (UTC)[返信]

以上について、疑義があれば御教示下さい。一ヶ月後の3月10日に、アップロードする予定です。さらに長期に亘って研究して、記述して内容のあるものにしたいと願っています。「折尾まちづくり」の最大の資源です。宜しくご賢察を下さりたく、伏して御願い申し上げます。不尽草々。
以上の文責は、利用者「でくのぼう」です 2009年2月8日 (日) 03:22 (UTC)[返信]
こちらのスタブテンプレが使えるんじゃないかとは思います。

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また、年号や数字、単位などに関しては機種依存文字を排するとともにWikipedia:スタイルマニュアルにもある記述に直しておく必要があろうかと。--KAMUI 2009年2月8日 (日) 03:43 (UTC)[返信]
ありがとう御座いました、早速、校正してみます。感謝します。以上の文責は、利用者「でくのぼう」です 2009年2月8日 (日) 14:35 (UTC)[返信]

すごく良いと思います。ただ、関連項目の「堀川筋条目」は引用ではなく「転載」になりそうな気がします。「転載」があった場合、記事が削除されてしまいます。条目の原文が分かれば、そちらは著作権が切れているだろうと思うので、原文を書いたほうが良いと思います。あと、その直前の部分(「掟を守り続けました。」の部分)も転載のように思えますが、どうなのでしょうか? 違っていたらすみません。

関連項目内に書いてある文章は、本文に入れたほうがいいんじゃないでしょうか。「川艜(かわひらた)」と「川艜の船頭」については、新しく「川ひらた」という記事を作っても良いかもしれません。そのときは、記事(ページ)名の制約につき、「ひらた」は平仮名にしてください。もちろん、本文では漢字を使ってもいいですよ。--58.3.138.191 2009年3月1日 (日) 21:59 (UTC)[返信]

ご厚意を感謝します。おっしゃるとおりに校正してみます。ご期待下さい。また是非ともいらして下さい。__木偶 乃棒 2009年3月3日 (火) 18:13 (UTC)[返信]
近日中にアップロードします。宜しく建設的な意見をお願いします。この百科事典の「理念」に反したネガティブな言動はご遠慮下さい。__木偶乃棒 2009年3月4日 (水) 00:29 (UTC)[返信]
当方の「過誤」によりアップロードが遅れていましたことをお詫び申し上げます。皆様方のご意見を拝聴して、近々、「遠賀堀川」をアップロードさせていただきますので宜しくお願い申し上げます。

__木偶乃棒 2009年3月23日 (月) 18:18 (UTC)[返信]