ノート:地獄の黙示録

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2003年の話題[編集]

こんにちわ、tekkenと申します。えーと、記事本文が個人のレビューになっている感じがします。ですので修正してもよろしいでしょうかね?(^^;Tekken 01:11 2003年10月22日 (UTC)

どんどん書き直して下さい。このレビュー(^^; は、わたしも前から気になっていました。いぬ 01:22 2003年10月22日 (UTC)
いぬさん、ご賛同感謝です。とりあえず書き直して見ましたが、いかがでしょうか?Tekken 02:09 2003年10月22日 (UTC)
分かりやすくなりました。ありがとうございます。映画のデータを付け加えました。形式などまだ試行錯誤中。いぬ 07:45 2003年10月23日 (UTC)

2001年宇宙の旅[編集]

冒頭の「スタンリー・キューブリックの代表作『2001年宇宙の旅』と同じく」は直前の編集で付け加えられたもののようですが、意味不明。『2001年宇宙の旅』は、A.C.クラークの短編をモチーフにしつつ、映画と小説が同時的に制作されたものとされていると思います。160.185.1.56 2005年9月15日 (木) 03:11 (UTC)[返信]

2005年8月25日 (木) 05:46 の版で加えられた文章ですが、アーサー・C・クラークにも同じようなことが書いてあります。(ノート:アーサー・C・クラーク参照)
仮に、2001年~が『闇の奥』を下敷きにしているとしても、本項目に書くようなことではないでしょう。 --忠太 2006年3月19日 (日) 14:30 (UTC)[返信]

闇の奥[編集]

主人公(マーロウ)がアフリカの奥地へと河を遡り、現地人を支配して象牙取引を行う人物(Kurz カーツ)に会う、といった話。ヨーロッパ文明が批判される。
この小説とベトナム戦争の体験を元に脚本が書かれた。 --忠太 2006年3月18日 (土) 16:37 (UTC)[返信]

記事本文中の独自研究と思われる記述について[編集]

出典の無い作品の評論を、新しく作った「作品解説」の項目に転写しました。執筆された方は記述の根拠となったソースの明記をお願いします。しばらくこのまま放置しておくつもりですが、ソースの提示がなされないならば項目ごと削除したいと思います。--Murmur1868 2009年4月8日 (水) 13:38 (UTC)[返信]

ぽつぽつ手を加えていますが、典拠が無い上に特定の観点に立った記述ですので、除去には賛成です。--Extrahitz 2009年4月11日 (土) 08:45 (UTC)[返信]

出典の提示、有難うございます。しかし現時点ではまだ問題の本質的な解決には至っていないように見受けられます。そのため僭越だとは思いましたが、再度「要出典」と「独自研究」のテンプレートを貼付させていただきました。

現在の記事本文中の「解釈も可能である」「高い評価を与えるかも知れない」「低い評価を与えるであろう」「正確な理解かもしれない」というような記述は、百科事典にふさわしいものではありません。Wikipediaに求められているのは「○○という批評家が××という解釈をした」「△△という人物によって高くor低く評価された」「□□氏によればこの映画のテーマは☆☆である」というような単純な事実、すなわち客観的に検証可能な事柄です。もし上記の記述が記事執筆者の独自研究ではなく、検証可能性を満たす第三者の論評ならば、このように言葉を濁す必要も無いはずです。結局のところ、論旨の中核にあたる部分の信頼できる出典が提示されない限り、現在の「作品解説」の項目が記事執筆者による独自研究ではないかという印象は拭いきれません。該当部分の記述の根拠となった出典の提示をお願いします。

とりあえず最後の段落の「本映画製作のための巨額負債の返済のためもあって製作したといわれる」というのは、事実関係で言えば完全な誤りです。コッポラが『地獄の黙示録』製作のために私財を投じたのは事実ですが、作品が大ヒットしたため制作費は十分回収できています。コッポラが破産したのは1982年に製作された次回作『ワン・フロム・ザ・ハート』の興行的惨敗が原因です。数多く出版されているコッポラの伝記のほか、英語版Wikipediaの関連記事でもこのあたりの事情は述べられています。どうかご確認ください。--MURMUR4040 2009年5月17日 (日) 14:38 (UTC)[返信]

訂正してみました。私の書いた部分でないところ、間違いかもしれない部分は僭越ながら除去しました(復活が可能でしたら、出典とともに復活してください)。「解釈も可能である」「高い評価を与えるかも知れない」「低い評価を与えるであろう」についてはウィラード大尉の犯罪行為、すなわち現地人の殺人、カーツの非合法的暗殺から、直接、自然に解説できることですので、独自研究にはあたらないと思いますがいかがでしょう? また、結論を限定していません。さらに、さまざまな非常に多くの批評家がいる以上、批評家が何かコメントしていないとダメというのもおかしいと思います。
また、これは本質的なことなのですが、批評家たちの間で「ストーリーもあるようでないようなものである」「戦争の狂気を上手く演出できている」「前半は満点だが後半は0点」など、意見が分かれがちな映画である。とありますが、これは批評家の間でも混乱がみられるということで、本叙述はそれに答えを与えるものです。混乱した状態を放置するよりは良いと思いますがいかがでしょう?--96.231.126.156 2009年5月19日 (火) 00:51 (UTC)[返信]
小説や映画などの芸術作品において、「自然に解説」できるのはあくまで物語の基本的な筋書き(『地獄の黙示録』でいえばウィラードがカーツを暗殺した、という事実)のみで、作品に込められた製作者のメッセージ(ウィラードの行為と暴力肯定・否定と結びつける考察など)を読み取ろうとするのは、その範疇に入りません。残念ですが現在のWikipediaの規定では、96.231.126.156さんによる映画の解説は独自研究になります。Wikipediaの編集者(私や貴方のことです)に期待されているのは、映画の内容を解説し「答え」を与えるということではなく、信頼できる媒体に公表された作品について言説(権威ある研究者・批評家たちによる評論のことです)を出来るだけ中立的な観点を保ちながら紹介することです。編集者独自の判断による「解説」は、Wikipediaにおいてむしろ有害なものだと見做されています。
考えてみてください。Wikipediaに「独自研究を排除する」というルールが存在せず、編集者がそれぞれ勝手に自分の価値観に従って作品を評価している有様を。この『地獄の黙示録』の記事でも初稿[1]は酷いものでした。もしWikipediaが独自研究を容認するならば、この手の評論家気取りによる感想文が横行して収集がつかなくなります。上で紹介したような感想文もどきを排除するために、信頼のおける本物の批評家による内容保証が必要であるとWikipediaでは考えられているわけです。Wikipediaを閲覧する一般の読者にとっても、何処の誰が書いたかわからない作品の解説よりも、権威のある批評家によってなされた評論の方がずっと有難いはずです。そういうわけで、小説や映画などの芸術作品について踏み込んだ評論を記述する場合、「批評家が何かコメントしていないとダメ」というルールが現在Wikipediaでは形成されているのです。
念のために申し上げておきますが、私はここで96.231.126.156さんの解釈が間違っていると主張しているわけではありません。そこは議論の争点ではありません。ただ信頼できる第三者による保証の無い作品の評論を、百科事典であるWikipediaに掲載することはできないというだけのことです。出典が提示されない以上、問題の記述は96.231.126.156さんの独自研究であると判断せざるをえません。しばらくの猶予期間を置いた後、それでもなお出典が提示されないならば、立花隆氏によるギリシャ神話の影響の指摘など一部の記述を除いて項目ごと削除したいと思います。--MURMUR4040 2009年5月19日 (火) 13:48 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。タグには「ある情報の根拠だけではなく解釈、評価、分析、総合の根拠となる出典を示してください」とあります。よって、執筆者は、それがあまりにも飛躍していないかぎり、解釈、評価、分析、総合をして書いてもよいと解釈できます。MURMUR4040さん自身が、独自研究自体について、独自研究に陥っていないでしょうか? 
また、「小説や映画などの芸術作品について踏み込んだ評論を記述する場合、批評家が何かコメントしていないとダメ」はどこに記載されていますか? さらに、踏み込んだ評論かどうかも議論の余地が残ります。全体のバランスから考えて、冒頭に独自研究を張るのはすでに行きすぎと考えます。--96.231.126.156 2009年5月20日 (水) 00:18 (UTC)[返信]
Wikipedia日本語版の公正な方針であるWikipedia:独自研究は載せないの全文と、Wikipedia:中立的な観点#中立的な観点についての方針声明(新版 拡張版)#芸術作品などの特徴に関する意見をご参照ください。文中の青リンクをクリックすることで該当するページへ飛べます。--MURMUR4040 2009年5月20日 (水) 02:55 (UTC)[返信]
リンクをありがとうございます。残念ながら、それではお答えになっていません。独自研究の見解の全文の代表が、「ある情報の根拠だけではなく解釈、評価、分析、総合の根拠となる出典を示してください」なのです。すなわち、きちんとした出典を示すかぎり、筆者が解釈、評価、分析、総合できると明記されているのです。よってMURMUR4040さんの主張は曲解、誤解といえます。
Wikipedia:中立的な観点#中立的な観点についての方針声明(新版 拡張版)#芸術作品などの特徴に関する意見にも、「批評家が何かコメントしていないとダメ」との直接的表現は見受けられません。--71.191.13.211 2009年5月20日 (水) 22:35 (UTC)[返信]
IPアドレスが以前のものと違いますが、会話の流れからして96.231.126.156さんと同一人物であると判断させてもらいます。どうやらWikipediaにおける独自研究の解釈について、根本的な見解の差異が有るようですね。これ以上の当時者間の対話は無意味に思えますので、他の利用者の皆様方の意見を募るため、コメント依頼にかけさせてもらうことにします。--MURMUR4040 2009年5月20日 (水) 23:17 (UTC)[返信]
コメント依頼を見てきました。IPさんはタグの「解釈、評価、分析、総合の根拠」が青リンクになっていることに気づいておられますか? これは「解釈、評価、分析、総合の根拠」という言葉を、リンク先のWikipedia:検証可能性にのっとった形で解釈してくださいという意味です。検証可能性に示された3つの主要な論点を見ていただければ、MURMUR4040さんのおっしゃる内容がお分かりいただけるのではないかと思います。--HANSON 2009年5月21日 (木) 05:26 (UTC)[返信]
なるほど、HANSONさん、コメントありがとうございます。気づいておりませんでした。それなら、話は一部わかりますが、基本的な3大叙述ルールに重大な矛盾や誤解を招く点があるとも指摘できます。この小さな部分については、日本版にしてはすでに異常に多くの出典がついており、私がMURMUR4040さんとHANSONさんの意見を取り入れて書き直せば、それで済む場合も、もしかしたらあるかもしれません。ちょっと考えてみます。IP71(仮命名、ここのDefendant側は今のところすべて私です)--71.191.13.211 2009年5月23日 (土) 00:16 (UTC)[返信]
ある程度、ご批判に答える形で、前回問題とされていた部分を編集。これに伴い冒頭タグ除去、本節でのタグもご批判がなければ近いうちに除去します。IP71--71.191.13.211 2009年5月24日 (日) 12:03 (UTC)[返信]
誤解が解けたようで何よりです。編集部分は以前より見通しが良くなったと思います。ただ、『ゴッドファーザー』と絡めた解説へのつなぎ部分が少々唐突な感じがします。コッポラ監督についての解説であればよいと思うのですが・・・。『地獄の黙示録』という作品との関連を分析した出典をもとに加筆がほしいと感じましたがいかがでしょうか。--HANSON 2009年5月27日 (水) 01:35 (UTC)[返信]
遅くなりましたが、IPユーザーさんの変更を確認いたしました。最初に私が問題提起をさせていただいた部分が大幅に改善され、更に段落全体に十分な出典が挙げられているようなので、ひとまず独自研究のタグは削除させていただきました。Wikipediaの公正な方針に則って、『地獄の黙示録』の記事をより良いものにしようとするIPユーザーさんの努力には頭が下がります。
ただ、段落中盤の「暴力、殺人を積極的に描写してその一見「かっこいい」雰囲気を肯定的に表現している傾向があるという解釈も可能である」という点について一言。出典として挙げられているTim Darks氏の評論のどの部分がこのような記述の根拠となったかを、もう少し具体的に指摘していただけないでしょうか?“This provocative film did for the Vietnam War genre what The Godfather did for the gangster movie.”という文章は、「『地獄の黙示録』がギャング映画における『ゴッドファーザー』と同様に、ベトナム戦争映画の流行のきっかけとなった」という程度の意味で、「暴力をかっこよく~」という論旨とは無関係に思えます。また、HANSONさんの仰るとおり、最後の段落は殆ど監督であるコッポラもしくは『ゴッドファーザーPARTIII』に関する記述となっており、この記事の主題である『地獄の黙示録』とはややずれた内容となっていると思います。該当部分をフランシス・フォード・コッポラか『ゴッドファーザーPARTIII』の記事に転載した方が、読者にとってもわかりやすいと思いますがどうでしょうか。--MURMUR4040 2009年5月27日 (水) 02:12 (UTC)[返信]
ええとこの部分が記述の根拠です。Apocalypse Now (1979) is producer/director Francis Ford Coppola's visually beautiful, ground-breaking masterpiece with surrealistic and symbolic sequences detailing the confusion, violence, fear, and nightmarish madness of the Vietnam War. 監督自身、暴力礼賛であることを認めた発言がゴッドファーザーにおいて引用されています。2つきちんと引用している以上、ゴッドファーザーの暴力礼賛>本映画の「かっこいい」beautifulな雰囲気を肯定的に表現している。は特に問題ないと考えます。また、ある意味とても分かりやすい、同じ監督の超有名なマフィア映画と関連付けることで、本映画の本質的な解説が成立するのです(それゆえに出典元もある程度鋭い解析がされているように見えるのです)。よってずれているというのは、見当違いと考えます。MURMUR4040さんの編集後、「解説がまったく解説でなくなっている」ように見えますのでリバートさせていただきました。私はなるべく議論は避けたいのですが。IP71--96.241.4.113 2009年9月17日 (木) 23:51 (UTC)[返信]
以下に該当部分を訳出いたします。
「『地獄の黙示録』(1979年)は、ベトナム戦争の混乱・暴力・恐怖・悪夢的な狂気を超現実的かつ象徴的に描出したシークエンスを持つ、プロデューサー兼映画監督のフランシス・フォード・コッポラによる視覚的に美しい革新的な傑作である。」
この一文を根拠に、「暴力、殺人を積極的に描写してその一見「かっこいい」雰囲気を肯定的に表現している傾向がある」というのは無理があると思います。「暴力を視覚的に美しく表現する」と、「暴力を肯定的に表現する」は似て非なるものであることを理解していらっしゃるでしょうか?私やHANSONさんが指摘した『ゴッドファーザー』への繋ぎが唐突であるという点も全く改善されていません。コッポラが『ゴッドファーザー』でマフィアによる暴力を美化したと批判されたことと、『地獄の黙示録』がベトナム戦争の暴力を描いた映画であること。そこにある共通点は「暴力」という単語だけで、それを無理やり結びつけてどうこう言うのは、Wikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成に過ぎません。『ゴッドファーザー』における暴力と『地獄の黙示録』における暴力、両者を包括的に叙述している信頼のできる情報源があって初めてWikipediaに記載できる内容になります(もっとも、そのような情報であれば個々の映画の項目よりも、その監督であるコッポラの項目に記述すべきでしょうが)。
以上の理由で、IPさんがなさった編集は不適切であり、百科事典には相応しくない内容であると私は考えます。IPさんがもしこれに納得できず、指摘された問題点を解決しないまま再度記事の編集をおこなうようであれば、再び第三者の皆様によるWikipedia:コメント依頼や、Wikipedia:保護依頼といった措置をとらせていただきます。ご了承ください。--MURMUR4040 2009年9月19日 (土) 23:48 (UTC)[返信]
(1) 繰り返しますが、ゴッドファーザーを解説に持ってくるのは、唐突ではなくまったく自然です。「同じ監督の作品」であり、年代的にもゴッドファーザーPARTIIの直後に作られているからです。本映画の評価が分かれているということからも、この映画は分かりにくいのです。それゆえに、解説においてはこのゴッドファーザーとの関連付けは「『ゴッドファーザーPARTIII』の記事に転載した方が、読者にとってもわかりやすいと思います」ではなく、こちらにもあるべき(必須)なのです。それでも唐突と思われるのなら、ご自分で書き足されるべきと思います。
(2)>Coppola had already become a noted producer/director, following his two profitable and critically-acclaimed Godfather films (1972 and 1974) - the epic saga of a Mafia-style patriarch and his successor. This provocative film did for the Vietnam War genre what The Godfather did for the gangster movie.
ここの文で(監督自身みとめる暴力礼賛の要素がある)ゴッドファーザー(の主題)と同じことをベトナム戦争でやったとありますので、出典的には問題ないと考えます。
また、この映画の主題はベトナム戦争の暴力の描写だけでは片手落ちです。私の叙述には、ベトナム戦争の暴力の描写と、主人公ウィラードの住民の殺害、腕力による暴力的な最終の目的である殺害両方がきちんと指摘されているので、より適切だと考えます。むしろ、「ゴッドファーザー(の主題)と同じことをベトナム戦争でやった」という場合、それは主人公ウィラードの暴力的でクールな最終的任務遂行の成功を指しているとするのが正しいでしょう。ベトナム戦争の暴力批判だけなら、主人公は最終の標的を追いまわし、最終の目的を達成する必要はないのです。両方を指すことも少しはあるかもしれませんが、両方の可能性を言及している以上問題ないと思います。IP71
以前も申し上げましたが、“This provocative film did for the Vietnam War genre what The Godfather did for the gangster movie.”というのは、「『地獄の黙示録』がギャング映画における『ゴッドファーザー』と同様に、ベトナム戦争映画の流行のきっかけとなった」という意味です。1970年代末の『ディアハンター』や『地獄の黙示録』といった興行的・批評的に成功した映画のおかげで、当時のアメリカではベトナム戦争を題材にした映画が急増したのです。これを『プラトーン』が起爆剤となった第二次ベトナム戦争映画ブームに対し、第一次ベトナム戦争映画ブームといいます。『ゴッドファーザー』の場合も同様で、1930年代に全盛期を迎え衰退したギャング映画が、より洗練された『ゴッドファーザー』が登場したおかげで再度人気ジャンルとして蘇ったことを指してるのです。このあたりの事情は、貴方が引っ張ってきたサイトの著者Tim Dirks氏も書いておられます。同氏による『ゴッドファーザー』のエッセイ中の一文“This gangster film re-invented the gangster genre, elevating the classic Hollywood gangster film to a higher level by portraying the gangster figure as a tragic hero.”を参照してください。というわけで、上の文章を「ゴッドファーザー(の主題)と同じことをベトナム戦争でやった」と解釈するのは、正しくありません。
二段落目に対しては私は返事をいたしません。何度も申し上げますが、映画の解説をWikipediaに記載するには、それが信頼できる情報源に書かれていることが必要最低条件です。『ゴッドファーザー』と『地獄の黙示録』の両作品において、監督であるコッポラがどのような意図で暴力を表現したかについて書かれたソースを持ってきてください。ここでは貴方の独自研究は必要とされていません。最後に老婆心ながら一つ申し上げますが、ノートにおけるコメントの最後には署名をお願いします。投降ページの注意にもありますが、文章の最後に「--(半角波線4つ)」と入力することで、署名ができます。これがないと、一見しただけでは誰が発言したのかわかりづらくなります。よろしくお願いします。--MURMUR4040 2009年9月20日 (日) 05:01 (UTC)[返信]
(1)については唐突ではなく自然であるという指摘にMURMUR4040さんはきちんと答えていません。いずれにせよ、だれかが加筆するのは自由としても、削除する理由はないと考えます。やりすぎなのではないですか? 
(2)については私はMURMUR4040さんが出典を独自解釈していると思います。文脈的にも、マフィア映画の再発掘になったのと同じことをベトナム戦争でやり、戦争映画の先駆けなったとは取れません。そういった文が該当する段落にまったくないからです。この文は「監督がギャング映画の分野において(悲劇的な美化されたヒーローを描いた)ゴッドファーザーでやったことを、同監督がベトナム戦争においてやった」が正しい解釈です。
(3)よって、「そこにある共通点は「暴力」という単語だけで、それを無理やり結びつけてどうこう言う」という表現は、「主人公ウィラードの暴力的でクールな最終的任務遂行の成功」というメインストーリーを無視していることを示しており、MURMUR4040さんが独自解釈して、より浅い、間違った解釈にとどまっていると考えます。IP71--96.241.4.113 2009年9月20日 (日) 12:30 (UTC)[返信]
ここでIPユーザーさんがいくら『地獄の黙示録』と『ゴッドファーザー』の繋がりについて「関連性は自然である」と主張しても無意味です。「作品解説」の項目において貴方の書いた文章を読む限り、私もHANSONさんもどちらも「唐突に思える」という一致した意見を持っています。大幅にリライトされる前ですが、Extrahitzさんも同様の意見を表明しておられます。多数決ではありませんが、ここでは貴方の書いた文章を読んで無理があると思う人の方が多いのに、なぜIPユーザーさんが自然な論理の流れであると強弁するのかが私には理解できません。「ご自分で書き足されるべき」という理屈も不可解なものです。貴方の独自研究に、一体貴方以外の誰が書き足すことができるというのでしょうか。どうしても掲載を望むなら、『地獄の黙示録』と『ゴッドファーザー』における暴力表現について解説した信頼できる情報源を、あなた自身が明らかにする必要があります。そうすれば、その資料にあたった他のユーザーが、貴方の望む方向に加筆することもできるかもしれません。
Tim Dirks氏の英文については既に私が指摘した通りで、これ以外の解釈はできません。というか、少しでもアメリカ映画について興味がある人間なら、『ディアハンター』や『地獄の黙示録』がベトナム戦争映画というジャンルで果たした役割は、ほぼ常識と言って良い事柄です。当時のアメリカ映画について書かれた書籍や、ネットで「ベトナム戦争映画ブーム」と検索をしてみれば、このあたりの事情は一目瞭然です。「(監督自身みとめる暴力礼賛の要素がある)ゴッドファーザー(の主題)と同じことをベトナム戦争でやった」も、「監督がギャング映画の分野において(悲劇的な美化されたヒーローを描いた)ゴッドファーザーでやったことを、同監督がベトナム戦争においてやった」というのも、どちらも無理のある解釈です。おそらく最初から固定観念を抱いて文章をお読みになるから、偏った読み方をしてしまうのだと思います。(3)については私から申し上げることは何もありません。上の段落で既に述べたことですが、貴方のすべきことはその解釈の根拠となる出典の提示であって、私に論戦を挑むことではありません。
どうしても私の意見(というよりWikipediaにおける基本方針なんですが)に納得できないのであれば、以前に私がしたようにIPユーザーさんもWikipedia:コメント依頼にかけて、第三者の皆様方による意見を伺うこともできます。というより、貴方が『地獄の黙示録』の記事に独自研究を掲載することに固執し編集を強行なさるなら、私の方から議論への参加呼びかけを行います。これ以上私からIPユーザーさんに直接申し上げることはありません。今まで何度も繰り返してきたことですので。最後になりますが、IPユーザーさんが実りの多いWikipediaライフを送ることをお祈り申し上げます。--MURMUR4040 2009年9月20日 (日) 19:32 (UTC)[返信]
(1)唐突とされた部分を少しだけ手直して、同監督の同時代の作品であることを明記。(2)についてはMURMUR4040さんの「暴力を視覚的に美しく表現する」を採用。これに伴い、全体をリバートしました。コメント依頼などはご自由に。IP71--96.241.4.113 2009年9月21日 (月) 11:11 (UTC)[返信]
(1) 繰り返しますが、ゴッドファーザーを解説に持ってくるのは、唐突ではなくまったく自然です。「同じ監督の作品」であり、年代的にもゴッドファーザーPARTIIの直後に作られているからです。関連性は十分にあるのです。本映画の評価が分かれているということからも、この映画は分かりにくいのです。それゆえに、解説においてはこのゴッドファーザーとの関連付けは「『ゴッドファーザーPARTIII』の記事に転載した方が、読者にとってもわかりやすいと思います」ではなく、こちらにもあるべき(必須)なのです。私はきちんと譲歩して唐突とされた部分を少しだけ手直しています。削除は私をここで十分に説得してからにしてください。合意がうまく得られていない以上、相手とうまく妥協しながら編集するというのがフェアーな態度ではないでしょうか。IP71--96.241.4.113 2009年9月22日 (火) 00:49 (UTC)[返信]

残念ながら編集合戦になっていたようなのでいったん記事を保護しました。いまは時間がないんですが、あとで現行の文面に対するコメントを書こうと思います。とにかく冷静な議論をお願いいたします。--Makotoy 2009年9月22日 (火) 07:04 (UTC)保護したつもりがしてなかった><・・・とりあえず無駄に版を重ねてしまう恐れは薄れたのでこのままにしておきます。--Makotoy 2009年9月24日 (木) 18:50 (UTC)[返信]

コメント
評価と解説を読みましたが、中立性・独自研究の点で問題があるように感じました。
特に、「評価・解説」という、主観のみで成立し得る項目は、信頼できる書籍などの引用のみにとどめるべきだと思います。引用のつなぎ合わせも控え、箇条書きに留めるのがベターだと思います。
wikipediaのルールは、
1.記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです。
2.記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典(参考文献)―を明らかにすべきです。出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。
3.出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。
ですから、どうしても意見が対立する場合は、 検証可能な出典のない文章は削除 → 復活させたいなら出典付きで復活 がルールに則った対応だと思います。
たとえば、ゴッドファーザーと関連があるのかどうか?という件は、現状では、検証可能な出典が明示されていないので削除されても文句は言えない状態にあると思います。--糖類ゼロ 2009年9月22日 (火) 16:19 (UTC) 修正--糖類ゼロ 2009年9月23日 (水) 02:30 (UTC)[返信]
(コメント)問題となっていた部分を中心にコメントします。
  1. 「ウィラード大尉は・・忠実に服従している。」ですが、何を説明しようとしているのかよくわからず、唐突な印象を受けます。そのようなメインキャラクターのあり方が『地獄の黙示録』自体の、映画としての何らかの評価に寄与しているならば、そのことを出典のつく範囲で書かないと何のことだかわからないし、そのようなことにつながらなければこのような価値判断(「〜は矛盾している」)を含んだ言及を地の文として述べるのは中立性などの観点から問題があるでしょう。
  2. その次の、コッポラの告白の文はコッポラ自身の記事にあれば十分でしょう。この知識人たちからの批判は『黙示録』に対するものではなく、直接この記事に関係ないためです。この「批判」によって『黙示録』が影響を受けている、という話なら別ですが。
  3. その次と、さらに次の文は基本的に問題ないと思います。ただし「視覚的に美化された表現によって暴力を描く傾向」のような言い回しの方がその意味することが伝わりやすいと思います。
  4. その次の「評論家によって異なった評価」と次の「ギリシャ神話」は前の方の記述(「評価と解説」節冒頭、「映画製作の背景」節第2段落最後の文)と重複しています。ここでは必要ないでしょう。
  5. 最後の段落の「大変な皮肉であった」というのはどういうことだかよくわかりません。
  6. その次の人気・興行的な成功に関する文は問題ないと思います。その次の「最重要人物の一人」はこの記事では不要でしょう。「この映画の成功によって彼の名声が増した」ということならば出典を示して書けると望ましいと思います。
  7. 最後の文はコッポラ本人に関する優劣の価値判断(「弱みをコッポラは持っている」)を含んだ批判・批評になってしまっています。そもそもこの映画に関することというよりはコッポラ本人に関する言及ですし、そちらの記事に移すにしてもこのような直接的な批評の形で置くことは無理でしょう。
IPさんの主張されている、[おなじ監督で製作時期が隣接しているので十分に関連している』という理屈だったら、『雨のなかの女』と『ゴッドファーザー』も同じくらい十分に関連していることになるし、『ペギー・スーの結婚』(こっちのほうが非暴力的だと思いませんか?)のほうが『ゴッドファーザーPARTIII』よりもっと『黙示録』に関連しているのだから省くのはおかしいということになりませんか。まあ、『PARTIII』はともかく、「PARTI/II」で模索した暴力的なテーマが『黙示録』にも表れている、という線でなら実際に評論で語られているでしょうし、出典を引いた上でこの記事に書けばいいと思います。Dirks氏の評論の読み方についてはMURMUR4040さんの2009年9月20日 (日) 05:01 (UTC)のコメントを支持します。--Makotoy 2009年9月22日 (火) 22:12 (UTC)後の参照のために番号を振る--Makotoy 2009年9月24日 (木) 18:50 (UTC)[返信]
MURMUR4040さんから再度議論が起きている旨うかがってきましたが、私の言えることは上でMakotoyさんが述べていらっしゃる内容に含まれていますのであえて述べません。Dirks氏の評論の翻訳についてもMURMUR4040さんがおっしゃっている通りであると考えます。もし「(コッポラが)同じような主題を表現した」という意味であれば"film did"ではなく"Coppola did"かそれに類する表現になっているはずだと思います。--HANSON 2009年9月23日 (水) 00:04 (UTC)[返信]

皆さん、コメントありがとうございます。長くなるので、MURMUR4040さんと最終的に問題となった部分についてだけ述べます。(<ゴッドファーザーと関連があるのかどうか?という件は、現状では、検証可能な出典が明示されていない)

そうでないという意見のほうが多いのですが、該当段落全体読み直しても「(コッポラが)同じような主題を表現した」ということだと取れます。これは段落全体を読む必要があると思います。ゴッドファーザーがthe epic saga of a Mafia-style patriarch and his successorであると直前にあり、しかも歴史的新規性に対する言及が段落全体にまったくありません。よって反対意見には同意できません。

>「PARTI/II」で模索した暴力的なテーマが『黙示録』にも表れている、という線でなら実際に評論で語られているでしょうし、出典を引いた上でこの記事に書けばいいと思います。

基本的にはその線(プラス おなじ監督で製作時期が隣接している)です。出典は見つけました。これが適切であれば、なるべく多くの批判に答えた形で一時的に書き直してみるということでよろしいでしょうか? http://books.google.com/books?id=njdtarPtU5UC&pg=PA150&lpg=PA150&dq=Godfather+apocalypse+now+violence&source=bl&ots=uTfwmPzeQt&sig=EQ-_e9Nv2sAXV-1AtUhmxL3aCO8&hl=ja&ei=HDS7SueGF8imlAell7SWDQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1#v=onepage&q=Godfather%20apocalypse%20now%20violence&f=false --96.241.14.230 2009年9月24日 (木) 09:31 (UTC)IP71[返信]

出典を示した形で新しく書いていただけるならば歓迎なのですが、また異論がつく可能性もあるので記事を編集する前にまずはこのノートで具体的な編集案を出して他の利用者の同意を得たからにしていただけますでしょうか?それまでの間、上で指摘したうち3.以外の該当する部分については取り除いておくということでいいでしょうか。
また、Dirks氏の評論については、MURMUR4040さんとHANSONさんが上で具体的な文面に立ち入った検証をされていますし、その通りだと僕も思います。おっしゃるような、「段落全体」として『ゴッドファーザー』シリーズと『黙示録』の内容・思想的な関連が読み取れる、というのはお二人の挙げられていることに比べれば曖昧すぎるでしょう。繰り返しになりますが、これらの映画の、内容に立ち入った関連性については他にもっとよい出典があるはずなので、そういうものを探されることをお勧めします。新しく挙げられている評論では、前者が後者に与えた影響までは論じていないように見えますが、ほかにもっと直接的な言及をした評論はないでしょうか。--Makotoy 2009年9月24日 (木) 18:50 (UTC)[返信]
(報告)上で挙げた1.~7.について特に反対はないようなのでそれぞれ変更・除去を行いました。--Makotoy 2009年9月30日 (水) 17:30 (UTC)[返信]

>「PARTI/II」で模索した暴力的なテーマが『黙示録』にも表れている、という線でなら実際に評論で語られているでしょうし、出典を引いた上でこの記事に書けばいいと思います。

この点で先の出典は、「ゴッドファーザー三作と黙示録は、際限のない復讐劇の原動力に疑問を与える悲劇的な側面を創出した。」と訳出できます。この訳はともかく、原文は両映画の本質を表した良いセンテンスだと思います。ここでvengeance は被害者が自分以外の場合にも用いられる復讐を指しており、『黙示録』においてはウィラードを使ったアメリカ軍の報復的な暗殺命令を指していると考えられます。

このように、ゴッドファーザー三作と黙示録とのテーマ(際限のない暴力による復讐劇)の共通項を示した文献が示された以上、これが明確に不適切であるという理由がない限り、これで十分でないとするご意見を了承することは難しいと考えます。さらに、ここでは両映画がどう影響を与えあったか?を話しているのではなく(おそらく、影響を与え合ったのでしょうが)、単純に同監督による暴力のテーマという共通項が両映画にあるかどうか?です。

この議論(あまりやりたくないのですが。この百科事典サイトはメインには議論の場ではないのです。)にすでに参加された「更なるコメントのない他の方々」にお聞きしますが、『ゴッドファーザー』で表現された暴力とはほとんど関係のない主題を『黙示録』は扱っているということでしょうか? もしそうなら、(たくさんありますが、1つの反証として私が挙げるとすると)瀕死の原住民を自分の目的遂行の単なる都合のため非情に銃殺したりする場面を描いたりしないと思うのですが。百科事典の分かりやすい解説として何が主題であるか、(監督が意識的、もしくは無意識的に何を表現したのか?)、なぜ『ゴッドファーザー』のテーマとは(もしそう思うならですが、、、)ほとんど無縁なのか?をすべての「更なるコメントのない他の方々」にできれば出典付きで簡潔に説明していただきたいと思います。IP71 --96.241.14.230 2009年10月2日 (金) 21:51 (UTC)[返信]

IPさんが引かれている文献での'the drive to perpetuate vengeance in ... colonial wars'や'(mechanism for) repetitive violence' から、上で述べられているような「ウィラードによるカーツに対する復讐・暴力」に絞り込むのは飛躍しています。単に、戦争で起きる暴力の応酬、と言ったところでしょう。改めて注意させていただきたいのですが、どのような編集をしたいのか、加筆したいのであればその文案をここで提案していただけませんか。今挙げておられる引用の『黙示録』に関わる部分から言えることは「『ゴッドファーザー』シリーズと同様に、暴力や殺人の繰り返しを積極的に描写していること」「(ベトナム)戦争への批判をふくむこと」であって、これらは基本的に現在の記事に既に含まれています。--Makotoy 2009年10月2日 (金) 23:41 (UTC)[返信]

上の続きと、百科事典の分かりやすい解説として何がこの映画の主題であるか? について。[編集]

Makotoyさん、お返事ありがとうございます。長くなりましたので、続きのスレッドを立てます。いままで、他の方の応答をうかがっていたのですが、反応はないようです。

基本的には、MURMUR4040さんとの編集競合の部分だけ、Makotoyさんとのおおまかな同意をお伺いしたいと思います。「あくまでもその上のお話として、」すべての部分は、せっかちな編集競合を避け、理由を明らかにするというお約束の上で編集させていだだこうと考えています。すなわち、ひとりの編集者にここで特殊な検閲を強要する権利はないのではないか?ということです。この辺でMakotoyさんの編集のやり方は大丈夫でしょうか?(それでも荒れた場合はお手数ですが、遠慮なくブロックしてください。)

>今挙げておられる引用の『黙示録』に関わる部分から言えることは「『ゴッドファーザー』シリーズと同様に、暴力や殺人の繰り返しを積極的に描写していること」「(ベトナム)戦争への批判をふくむこと」であって、これらは基本的に現在の記事に既に含まれています。

「既に含まれている」から削除すべきである理由にはならないと考えます。たとえば、多くの記事に、ほかにメインの記事があるという注意書きがあります。これは多少のダブリがあっても許されるということを明確に証明しています。

MURMUR4040さんの論理によりますと、とある文章は『ゴッドファーザー』に移したほうが分かりやすいということですが、それはこの記事を訪れたすべての読者が『ゴッドファーザー』はある程度理解している、もしくはこれから理解するであろう、という仮定に立っているようにも見えます。もちろん、この仮定は成立しません。同じ暴力をテーマとした『ゴッドファーザー』の構想が同一監督によってどう変わっていったかを簡潔に叙述することは、解説として分かりやすいと同時に、積極的に排除する理由は希薄であると考えますがいかがでしょうか? IP71--96.241.14.230 2009年10月9日 (金) 03:10 (UTC)[返信]

何か誤解をされているのではないかと思うのですが、ウィキペディアでは中立性検証可能性を満たさない記述は「検閲」を受け修正または削除されます。これは僕や他の方達が挙げた各方針文書に述べられている通りです。それから、ぼくのした編集は基本的に問題となっていた箇所の多くを削除、というものでしたが、その根拠を上で明示してから、それらに反対意見のつかないことを1週間待ちましたし、その間にHANSONさんの同意(賛成を明言していただけたのは部分的にだと見えるかもしれませんが、とにかく少なくとも消極的賛成とは言えるでしょう。)もついています。したがって僕の編集に特に問題はなかっただろうと思います。次に、「既に含まれて」はこの地獄の黙示録記事に、ということです。物事を説明する文章の原則として、おなじことを繰り返し何度も述べたりしない、ということが挙げられます。
繰り返しになりますが、挙げられた文献では「『ゴッドファーザー』の構想が同一監督によってどう変わっていったか」までは説明されていません。また、この記事の主題は『ゴッドファーザー』でなく『地獄の黙示録』ですから、『黙示録』がどのような影響を他から受けたか、どのような影響を他に与えたか、というふうに記事の主題に関係あることのみを、きちんとその関係がわかる形で書くべきです。繰り返しになりますが、僕がここで提案して1週間待ったように、IPさんが編集したいことについてもここで提案して1週間くらいは他の利用者の反応を待ってくれませんか。--Makotoy 2009年10月9日 (金) 15:12 (UTC)[返信]