ノート:和田惟政

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キリスト教徒であったという記述について[編集]

和田惟政は当時の畿内最大のキリスト教保護者であり、信長とフロイスの会談の仲介役を果たしたりと、キリスト教に対し理解を示していたのは事実ですが、洗礼の儀式も受けておらず、高山右近キリスト教の影響を受けたのも和田惟政ではなく、父(高山友照)の影響が強かったはずです。当時の戦国大名が布教を許可した理由の中には、キリスト教を信じていたわけではないが、布教を許すことで、そこから間接的に得られる外国の最新の武器や文化が手に入るという実利を目当てにしていたという側面もあり、惟政個人が「キリスト教の信者であった」というソースは存在するのでしょうか?「理解者であった」というのと「教徒であった」というのでは、また別の話だと思いますので。例えば織田信長もキリスト教に理解は示していますが「キリスト教徒」ではありませんし。--125.14.65.141 2007年8月3日 (金) 01:19 (UTC)[返信]


いろいろ調べましたが、惟政自身がキリスト教徒であったというソースはありませんでしたので、「キリスト教徒」から「キリスト教の保護者」に変更しました。また、高山右近が和田惟政の影響でキリシタンになったという話も、惟政の直接関与は薄く、むしろ父の影響の方が強かったと判断しましたので、該当部分を削除しました。--125.14.65.75 2007年8月11日 (土) 04:45 (UTC)[返信]

ソースはフロイス日本史にあります。

「予はキリシタンになることを堅く決心している。だが教理の説教を全て承わろうとすると、この城にいては不断に用務があって忙しいすぎ、そのための時間がない。それゆえ、密かに都に赴き、御身らの教会の傍に一軒の家を借り、そこで妨げられることなく10日ないし12日隠れ留まりたいものだ」。

そしてロレンソの説教を受け「今この時、予はようやく人間の本質を知った。すなわち、かくも論理的に筋の通った明らかなことを知らぬような者は、理性なき禽獣にも劣る」。

その後「ですが彼は、救いに必要なことをあらかじめ徹底的に理解せねば洗礼を受けるのに何の妨げもないようにしておかねばならぬ、と申しました」。

他にも「内裏様がかく振舞われる(=伴天連を追放)のなら、予も今後は内裏様にお仕えいたしますまい。また内裏様の顧問である公家たちに好意を寄せもいたしませぬ」と言ったり、彼の屋敷にいた老婆がロザリオを取り上げられた際、犯人の若者をロレンソやフロイスが止めたにも関わらず斬首したりと、惟政の行為は、利害目的や単なる好意の域を越えています。

ちなみに信長については「デウスを認めるという最も大切な事が欠けていた」と明確に否定しています。

210.88.243.122 2010年11月16日 (火) 13:44 (UTC)[返信]


生没年について[編集]

寛政重修諸家譜」や「諸家系図纂」には戦死時の年齢を42歳としており(ただ、前述の二つは一般的に資料性に乏しいとされるので正確がどうかわかりません。より正確な資料があるなら補記お願いします。)、逆算すると1530年頃の生まれと思われるのですが、現在の「1532年生まれ」とするのは出典は何になるのでしょうか?詳しい方の補記・修正をお願いします。--ポテンシャル0 2009年10月30日 (金) 10:08 (UTC)[返信]

1532年説の根拠が不明のため、とりあえず1530年生まれに修正します。上記の資料以上に信憑性のある裏付け資料があったら修正しなおしてください。--ポテンシャル0 2009年11月28日 (土) 09:26 (UTC)[返信]