ノート:南京事件/過去ログ6

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写真の説明なき差し戻し

右の写真が 112.187.128.237さんにより追加されましたがすぐに大和屋敷さんの手で差し戻しされました。この差し戻しは要約欄に説明がありません。もし過去に議論済みであれば、要約欄にその議論を示していただきたかったと思います。また議論は無かったが掲載すべきでない理由が明確にあるということであれば、こちらでご説明願います。--miya会話2012年6月30日 (土) 23:17 (UTC)

  • 過去ログに議論があります。ご確認ください。[1]--大和屋敷会話) 2012年7月1日 (日) 06:24 (UTC)ノート:南京大虐殺論争の過去ログにも複数の議論が展開されていたようです。要約しますに「中国大陸においておこなわれた何らかの虐殺の証拠写真らしきもの、ということは画像から分かるものの、誰がどの時期に撮影をおこなったものか、写真撮影の経緯や撮影場所、時期などに【wikipedia外部で】議論があり、南京事件当時の証拠写真と特定されていない」「あるいは加工されたり宣伝目的で演出撮影された可能性がある云々」という議論がある、ということのようです。つまり適切にキャプションを付けようが無いので百科事典として採録することができないという結論です。--大和屋敷会話2012年7月1日 (日) 06:35 (UTC)
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    • 議論の提示をありがとうございます。たとえ過去に合意があったとしても、要約欄にはその旨お書きください。なお「適切にキャプションを付けようが無い」とのことですが、虐殺の証拠写真とされているものというキャプションが可能ではないですか。たとえば「メディアAがXX年XX月に南京虐殺の証拠として報じた写真」といった具合です。百人斬り競争の写真にしても、このような報道があったことは事実なのですから、のちに遺族によって否定されたことも含めて画像説明すればよいと思います。--miya会話2012年7月1日 (日) 12:44 (UTC)
  • では検証可能で信頼できる情報源にもとづき投稿をおこなってください。なお著作権についてはご注意下さい。--大和屋敷会話2012年7月1日 (日) 15:21 (UTC)
    • ご理解ありがとうございます。信頼できる情報源で確認できたら掲載します。なお、過去ログで見るときに分かり易いように見出しを具体的なものに変更しました。--miya会話2012年7月18日 (水) 23:03 (UTC)

写真の「観点」

大和屋敷さんが写真を取り除いたせいで記事の中立性が損なわれています。日本軍が救護活動を行っていたという写真や中国側の残虐行為を示唆する写真は残したままで、日本軍による虐殺を伝える写真だけ取り除いてますので。どの写真を使うかにこだわりはないですけど、日本軍が虐殺行為を行ったという観点を伝える写真を同じ数だけ加えなければだめです。Commonsには著作権をチェックする仕組みがあるので、著作権が問題になることはないはずです。--Bugandhoney会話2012年8月17日 (金) 23:43 (UTC)
  • そういう観点は「中立性」とは言いませんよ。撮影者・撮影場所があきらかではなく、あるいは加工されているないし演出されている等と信頼できる情報源による批判があるものを、一方的なキャプションを利用するなりまったくキャプションなしに掲載しようとする方がおられるので削除されているだけのことです。--大和屋敷会話) 2012年8月18日 (土) 02:14 (UTC)たとえば上でMiyaさんが提示されている「百人切り」報道記事などは、文脈しだいでは私は採録可能だと考えています。ただし、これを何のキャプションもなく、あたかも議論の余地なく虐殺の証拠である"かのごとく"印象的に採録しようとするヘンテコな嗜好の方がおられたり、文脈に関係なくキャプションもなく放り込もうとする乱暴な方がおられるので、記事の体裁上それはちょっと待ってもらえませんか、というだけのことです。なんだかよく分からないけれども虐殺シーンらしき出所真偽不明瞭な写真を、とにかくもう放り込んでおかなければ気が済まないヘンテコな編集方針をお持ちの方には、編集方針を再考して頂きたいという次第です。--大和屋敷会話2012年8月18日 (土) 02:25 (UTC)
  • コメント 中立的観点をめぐっては過去に何度も編集合戦が発生している。写真の中立性が問題となると、編集合戦が再発する可能性が極めて高い。現在(2012年8月18日時点)の3枚の画像も除去し、画像を一切掲載しない形にした方が良いのかもしれない。--花蝶風月雪月花警部会話2012年8月18日 (土) 03:06 (UTC)
    • 最近はさほど激しく対立してないので、とりあえず画像掲載に関して同意が得られるかどうかノートでは話し合えばいいのでは。うまくいかなかったら、そういう消極的な選択肢になるとは思いますが。--Bugandhoney会話2012年8月20日 (月) 15:31 (UTC)
  • コメント前月の議論と区切るため小見出しを追加しました。もっと良いタイトルがあれば変更してください。◆コモンズで写真を色々探したのですが、なかなか適切なものがなく、そのままになっていました。あえて入れるとすれば

当たりでどうでしょう。しかしこの程度でも合意が難しいなら、「画像を一切掲載しない」にも反対しません。--miya会話2012年8月20日 (月) 05:47 (UTC)

  • 右2件はやはり問題になるとおもいますね。左3件については大和屋敷個人としては問題ないと思いますが他の編集者の方から反論がでるかもしれません。右2件の左は撮影場所・時期・撮影経緯・画像処理の点で外部に反論があったはずです。右は戦闘死であるという証言があったはずで、これはキャプションの付けようが無い写真の部類だと思います(どのような経緯による死者か判然としない)。他の方の意見も伺いたいところです。--大和屋敷会話) 2012年8月21日 (火) 05:13 (UTC)現在掲載中の写真画像を含めて「画像を一切掲載しない」にも反対しません。編集者の手に余り、外部の信頼できるソースで深刻に対立している内容を安易に記事化して、編集者間で延々もめるくらいなら記載しないという合意は過渡的に有効な合意だと考えます。--大和屋敷会話2012年8月21日 (火) 05:25 (UTC)
    • 分かり易いように数字を振りました。(5)に関して撮影者も確証を持っていないので「戦闘死であるという証言」があるなら掲載はあきらめますが、その証言の出典はどちらでしょうか。そういう情報もコモンズに参考情報として加筆していただくと助かります。(4)は中国側がどのような主張をしているかを説明するのですから、外部の反論もキャプションに含めれば両論併記で問題ないはずです。現在は日本側のプロパガンダしかない状態ですから中国側のプロパガンダも含めるべきでしょう。--miya会話2012年8月21日 (火) 13:46 (UTC)
  • 「プロパガンダ」写真なら含めるべきではないでしょう(日中双方とも)。仮に「プロパガンダ写真と南京事件」をテーマに記事化するならば、南京大虐殺論争のほうで1項目として取り扱うか、別途そのような単独記事を作成するのが誠実な編集方針でしょう。南京城内の平穏な写真が外部の文献で「日本軍によるプロパガンダだ」と誹謗されているようじゃ、もうどのような種類の写真も掲載可能では無いような気がしてきました。--大和屋敷会話2012年8月21日 (火) 15:39 (UTC)
@miyaさん。Photos for Japanese propaganda during Nanking Massacreのカテゴリは、以前検証してみたところ該当するものがなかったので (アサヒグラフの写真が入っていました)空にしてから削除していただいたのですが、再び復活しています。以前はたくさんの画像がこのカテゴリに振り分けられておりましたが、現時点ではFile:Nanking Incident, 1937.jpgFile:Japanese medical service in Nanking01.jpgFile:Nanking Safety Zone street.PNGの三点が入っています。一番目のものは靖国の掲示ですが、仮にプロパガンダと識別されたとしても"during"にはなりません。他の二つでは、撮影者にプロパガンダ目的はありません。利用者:Whymさんにもお伝えしているのですが、南京に限らずコモンズのカテゴライズやキャプションをそのまま鵜呑みにするのは極めて危険であると思います。Takabeg会話2014年9月24日 (水) 21:16 (UTC)

肯定側に有利な写真、否定側に有利な写真問わず、当時その場で撮影された。と、自分に不利な写真であっても認めざるを得ない。という写真はそもそも存在しうるのでしょうか?そうでなければ、この写真は相手側に有利。として結局百科事典としての内容でなく、単なる論争の的にしかならないのではないかと感じたのですが。--三角縁神獣鏡会話2012年12月29日 (土) 07:35 (UTC)

(1)新聞記事は3月12日に紫金山で書かれたとされており、写真は常州東門で撮影されていますので、この記事の中では使うべきではないと思います。

(2)マギー牧師提供とされる画像 (複数)はどれも不明瞭 (画質だけでなく内容も)なので、この記事の中では使うべきではないと考えます。ただし、ジョン・マギーでは使用できると思います。

(3)捕虜写真は、オリジナルキャプションとともに、ソースを付したうえで各論者の主張 (解説)を掲載すれば問題がないのではと思います。

(4)日寇暴行實錄軍事委員会政治部から出版されていますので、中立な百科事典を目指すのであれば、この記事の中では使うべきではないと考えます。もちろん日寇暴行實錄という記事では使用できると思います。

(5)村瀨守保さんのものは、オリジナルキャプション (村瀬さんによるものか、編集者によるものかは知りませんが)「揚子江岸には、おびただしい死体が埋められていました。虐殺した後、河岸へ運んだのでしょうか、それとも河岸へ連行してから虐殺したのでしょうか」とともににソースを付したうえで各論者の主張 (解説)を掲載すれば問題がないのではないかと思います。

また、現在、ファイル:Hanjian poster in Nanking.jpgファイル:Japanese medical service in Nanking01.jpgファイル:Field hospital of Nanking.jpgの計3点 (これらは2012年2月29日に利用者:Chichiiiさんにより追加されていますが、ご本人が無期限ブロック中ですので、直接意見をうかがうことができません)が本記事で使用されています。どれもカメラマンはプロパガンダ目的で撮影していないはずですが、この3点だけを使用するのは、本記事の中立性を損うものであると考えます。Takabeg会話2014年9月24日 (水) 22:27 (UTC)

コメントこの記事の日本語バージョン以外には、写真(4)はほぼすべての外国語バージョンに使用されています。どうして日本語バージョンだけは例外である訳を考えたら、さすがに「今の記事は中立的です」など、言いづらいですね。ちなみに、写真(1、5)は英語バージョンにも見えます。Huhu9001会話2015年1月16日 (金) 08:05 (UTC)

コメント上でも申し上げたように、いくつかの写真が残っている状態では中立な記事であるということは難しいでしょう。一方、英語ウィキペディアで使用されても、明白なプロパガンダ目的で当時出版された書籍が初出の寫眞であったり、撮影日や撮影者、オリジナルキャプションなどが不明なものが多数です。また、英語ウィキペディアやコモンズでは、プロパガンダ目的で活動しているユーザーが少なくなく、特にキャプションに関して検証可能性が乏しいにもかかわらず無理やり添付しているものが多いわけで、多言語ウィキぺディアが中立でない可能性が極めて高いので、多言語ウィキペディアにあるのに日本語ウィキペディアにはないという理由だけで、「中立的な記事」でないという主張はできません。したがいまして、本記事から写真を除去することで、とりあえずは、中立的な観点のタグを外すのが適切とかんがえます。どうしても、写真の使用を希望されるのでしたら、写真使用に否定的なコンセンサスが存在しているようですので、まず検証可能性の観点から補完したうえで、合意形成する必要があると思います。それと、写真(1)の「百人斬り競争」の新聞記事および写真に関しては、南京入城前のものなので本項目への掲載には反対します。Takabeg会話2015年5月18日 (月) 06:35 (UTC)

コメント Takabegへ:WP:NPOVより、今の記事にある画像が一方的に日中両方の協力するとこを強調し、対立するとこを隠蔽していますから、まさに読者に偏りの誤解を与える状況です。なので、ここはWP:Vに関わらず、中立的な観点のタグを外すのは反対します。Huhu9001会話2015年5月19日 (火) 02:23 (UTC)
コメント「読者に偏りの誤解を与える状況」を解消したつもりだったのですが、残念です。「今の記事にある画像」とおっしゃりますが、今の記事には画像はありませんが、何かの誤解でしょうか?再確認してみてください。画像がないにもかかわらず、「観点」タグがないとどうしても気が済まない、ということでしたら、私が写真を除去する前の版に戻したうえで、広く意見を求めてみることとします。Takabeg会話2015年5月19日 (火) 08:22 (UTC)
コメント Takabegへ:見間違いました。ご指摘ありがとうございます。Huhu9001会話2015年5月19日 (火) 08:34 (UTC)
コメント そうですか。よかったです。Takabeg会話2015年5月20日 (水) 02:30 (UTC)

Commons

大和屋敷さんのこの編集Commons:Category:Nanjing Massacreが削除されましたが、正当な理由はあるのでしょうか?記事名こそ南京事件となっておりますが、インターウィキがen:Nanking Massacre他である以上、Commons:Category:Nanjing Massacreが付けられるのは当然だ考えます。Takabeg会話2014年9月24日 (水) 20:48 (UTC)

  • 引用元や信頼性に問題の指摘される画像が多数収録されており、信頼できる参照先とはいえない状況です。掲載すべきではありません。たとえwikipeida間であったとしても、自動的に参照が保証されるわけではありません。--大和屋敷会話2014年9月25日 (木) 01:18 (UTC)
ご危惧はわかっているつもりです。しかしながら、コモンズ・ウィキペディアはそもそも参照先ではありませんし、本記事中に画像を掲載することと、リンクとしてコモンズ・ウィキペディアを付けることは、全く別のことです。また、他の外部リンクはよくて、コモンズ・ウィキペディアが駄目となると、ダブルスタンダードが適用されたと見なされます。とはいえ、現在付けられている外部リンクのうちいくつかは「外部リンクの選び方」の"考慮に値する"の枠に入ってしまうようです (直ちに排除されるわけではありませんが)。いずれにしても、コモンズ・ウィキペディアを外すのは、「ウィキペディアでは検閲は行われません」という方針にも反していると考えます。Takabeg会話2014年9月25日 (木) 01:42 (UTC)

利用者:Tom-springさんのこの編集でカテゴリに統一しますという理由でCategory:大量虐殺が外されていますが、Category:日本軍による民間人殺害事件に統一したのですか?Category:日本軍による民間人殺害事件は本記事にはふさわしくないと思いますが、上記の編集の結果、この記事にもCategory:南京事件 (1937年)にもCategory:大量虐殺が見当たらない状況となっています。Category:大量虐殺のカテゴリ使用 (適用)基準が明確化されていないので、どの記事がCategory:大量虐殺になり、どの記事がCategory:大量虐殺にならないのか、今ひとつわかりませんが、今回の件は「事故」で外れてしまったものなので、カテゴリを復帰させておきます (Category:日本による大量虐殺を付加しました)。Takabeg会話2014年9月24日 (水) 22:54 (UTC)

出典の明記テンプレートについて

利用者:Bugandhoneyさんにより出典の明記テンプレートが「投降者の殺害」の節に付けられましたが、現時点の版で、かなりの部分に出典がつけられています。ソースの吟味は行っていませんが、外形的に見て出典の明記テンプレート添付は必要なく、もし必要であれば個別に要出典範囲を使用するのが適切であると考えます。Takabeg会話2014年9月24日 (水) 23:18 (UTC)

渡部昇一『昭和史』

利用者:祝紀元弐千六百六拾九年さんによりこの編集で追加されており、現時点では{{要ページ番号}}がついています。掲載箇所を確認したいのですが、この著者には幾つか『昭和史』という著作があるようです。これはどの書籍のことを指しているのでしょうか?Takabeg会話2014年9月26日 (金) 06:30 (UTC)

『渡部昇一の昭和史 正 改訂版』Wac、2008年10月30日、ISBN978-4-89831-592-7 の第300頁には、「『ニューヨーク・タイムズ』やアメリカの地方紙の中には「大虐殺」があったと伝える記事もあるが、、、、便衣隊(あるいは気の毒にもそれと間違われた市民)の処刑を見て誤解したものと推定される」とあります。Takabeg会話2014年9月30日 (火) 05:41 (UTC)

リンク切れの証言による「南京戦史」

ここにpdfファイルがありますが、結構な分量なので、本記事の該当部分を探すのが困難です。お時間とご興味のある方、補完作業をしてみてください。Takabeg会話2014年9月26日 (金) 09:02 (UTC)

関連項目

Wikipedia:関連項目とその関連項目を読む限り、関連項目過多のような気がします。「気がする」としたのは数的制限が規定されているわけではないので、私のPOVによると過多と感じたからです。例えば、「関連人物についてはCategory:南京事件 (1937年)の人物‎を参照のこと」、「事件を題材とした作品についてはCategory:南京事件 (1937年)を題材とした作品‎を参照のこと」ではだめなのでしょうか?日本の戦争犯罪は既にCategoryとしてつけられているので、日本の戦争謝罪発言一覧は、本文中に「南京」の単語すら入っていないので、いらないのではないでしょうか?通州事件は関連性を指摘する意見がありますが、尼港事件済南事件通化事件は本事件と直接の関連性は見いだせませんのでいらないのではないでしょうか?それとは別に、ジョン・ラーベ - ナチス党南京副支部長"にだけ肩書がついているのには何か意味があるのでしょうか?肩書は必要ないと思いますが、いかがでしょうか?Takabeg会話2014年9月27日 (土) 00:14 (UTC)

『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された写真

"当時『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された「南京虐殺の証拠写真」とされる写真"というのは、具体的にはどの写真のことをいっているのでしょうか?Takabeg会話2014年9月27日 (土) 01:29 (UTC)

若杉参謀の講話

利用者:Ekobassanさんによりこの編集で追加された「支那派遣軍参謀として南京に派遣された昭和天皇の末弟である三笠宮崇仁親王は日清戦争からの侮華思想(中国を下に見る思想)に原因があるのではないかと南京の総司令部で行われた教育講話で述べている」との記述についてですが、提示されたソースによると、「日清戦争頃からの侮華思想(チャンコロ思想)」は、昭和十九年一月五日の教育講話の研究課題のうち「第二研究、一、なぜ支那事変は解決しないか」において「蒋介石が抗日になった原因」として挙げた「日本人として十項の反省点」の第二項にあたり、南京事件の原因としても南京事件の背景としても扱われていません。非常に興味深い講話ではありますが、本記事の「事件の背景について」から除去するのが適切かと思われます。Takabeg会話2014年10月2日 (木) 08:39 (UTC)

ページ番号補完のお願い その1

利用者:大元帥さんは、これらの編集で<ref>東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』</ref>を付加していますが、頁番号がありません。<ref>大井満「仕組まれた“南京大虐殺”」<ref>は幸い類似箇所を発見することができたので補完および修正しましたが、<ref>東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』</ref>については、当該書籍を調べたのですが現時点で該当する記述を発見できていません。ということで、頁番号を補完してください。最悪の場合、除去されるかもしれません。Takabeg会話2014年10月2日 (木) 13:33 (UTC)

ページ番号補完のお願い その2

利用者:ロンドルさんは、この編集で<ref>南京事件調査研究会・編『南京大虐殺否定論13のウソ』柏書房</ref>を付け加えていますが、頁番号がありません。この書籍は七名の執筆者により分担されて書かれていますので、一つのソースとしてまとめてしまうのは不適切ですし、当該箇所を見つけるのは簡単なことではありません。頁番号を補完してください。最悪の場合、除去されるかもしれません。Takabeg会話2014年10月2日 (木) 13:41 (UTC)

まず、関心をもっていただいたことには感謝いたします。しかし、残念なことに、利用者:ロンドルさんが付けてくれたページを検証したところ、そのような記述がないのです。より正確に言えば、本文と出典との間に著しい乖離があるのです。ご存じのようにWikipedia:検証可能性はウィキペディアにとり重要なポイントの一つです。利用者:ロンドルさんの編集を受容してしまうことは、Wikipedia:検証可能性を否定してしまうことになります。従いまして、当該箇所を2011年8月24日に利用者:Worldwidewaffleさんや利用者:大元帥さんによって出典を求められた状態(この辺りの編集です)に戻すのが適当だと思われます。文章を書いた利用者とソースを添付した利用者が同じであれば、このような事態は避けられたのでしょうが、現状を検証した読者にとって、「ウィキペディアはインチキだ」ということになってしまいかねません。既存の文章に正確なソースを添付するのもいいですし、既存の文章をキャンセルして『南京大虐殺否定論13のウソ』に書かれている内容を正確かつ中立的な観点にたって引用する、というのもいいでしょう。Takabeg会話2014年10月23日 (木) 08:33 (UTC)
私は本文と出典の間にそれほどの乖離があるとは思わないし、ましてや記述がないとは全く思わないのですが、あなたがそう考えるのならそうなさったらいいでしょう。そもそも最初に指摘された私の編集は5年も前の2009年になされたものであり、今頃になって言われても正直ちょっと困るところです。--ロンドル会話2014年10月26日 (日) 12:38 (UTC)
あなたが付け加えたページ番号はこのようになっています。一つ一つ検証してみます。

まず、

1937年12月13日の南京陥落の翌日から約6週間にわたって行われた南京城の城内・城外の敗残兵・便衣兵の掃討でも、大規模な残虐行為が行われたと言われている(城内は主に第16師団(師団長:中島今朝吾)が掃討を行った)<ref>[[#南京事件調査研究会 1999|南京事件調査研究会 1999 p92-96]]</ref>

92-96ページは、同書の第五章の笠原十九司「数字いじりの不毛な論争は虐殺の実態解明を遠ざける」のうちの「南京大虐殺の実像」という部分に該当しますが、「1937年12月13日の南京陥落の翌日から約6週間にわたって」という記述もなければ、第16師団にも言及していません。それと、笠原氏は、6週間論者ではなく3か月論者のようです。それだけをとってみても、文章とソースが矛盾してしまうのです。

次に、

第16師団長である中島今朝吾中将は、日記において、「捕虜ハセヌ方針」、即ち捕虜を取らない方針であることを書いている。この方針に基づいて、南京城内外での掃討で、中国軍の中の多くの投降者が殺害されたのではないかと見られている。南京の北方に位置する幕府山では、山田支隊(第65連隊基幹、長・山田栴二少将)が投降者約14,000名を殺害したと言われている。山田少将は上部組織からの命令があったことを日記に書いている<ref>[[#南京事件調査研究会 1999|南京事件調査研究会 1999 p140-156]]</ref>

140-156ページは、同書の第八章の小野賢二「虐殺か解放か 山田支隊捕虜約二万の行方」のうちの「東中野修道氏の実証なき解釈」という部分に相当しますが、14000という数字は出てきません。日記に関しても、東中野氏の解釈への批判に主眼が置かれていて、命令があったと書いているのは既にデフォルトと考えているようで、「上部組織からの命令があったことを日記に書いている」という記述はありません。この部分に関しては、『南京戦史資料集2』などを引いたほうがよいでしょう。南京大虐殺論争#山田支隊の捕虜処断にも書かれているようなので、小野氏の主張だけでなく他の説も併記して要約すればより中立性の高いものとなるでしょう。

この事件は主に軍人や外国の情報に触れる事の多かった外交官などに南京の欧米人から報告がなされている(前者の代表例としては陸軍中将 岡村寧次関係の記録が、後者の代表例としては外務省欧亜局長 石射猪太郎の日記が、それぞれ挙げられる)。 軍人が戦地から内地に宛てた手紙がもとで日本国内でも流言になっていた<ref>[[#南京事件調査研究会 1999|南京事件調査研究会 1999 p16-18,p31-37]]</ref>

p16-18ページは、同書の藤原彰「東京裁判によるデッチ上げ説こそがデッチ上げ」の「南京大虐殺は連合国の創作だった?」という箇所に該当し、スティール、ダーディンなどに言及していますが、藤原氏の主張は、「日本国民だけには知らされなかったのである」というものです。p31-37ページは、吉田裕「本当に誰もが南京事件を知らなかったのだろうか」の「情報は確実にひろがっていた」及び「知っていた国民もいた」という箇所で、「少なくとも中国の日本人社会の中ではこの噂はかなりひろがっていたようである」とはありますが、「日本国内にも、中国戦線における日本軍の残虐行為が流言の形でひそかに伝えられていた。その中には南京事件を指しているのではないかと思われる『流言』がある」とあります。が、いずれの箇所からも、「軍人が戦地から内地に宛てた手紙がもとで日本国内でも流言になっていた」という文章を捻り出すことはできません。

南京に在留していたジャーナリストは日本軍の南京占領後しばらくして脱出したため、事件の全容が報じられたわけではないが、 事件初期における日本軍による殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為がほぼリアルタイムで伝えられていた。無線が日本軍によって管理されていたため、彼らは南京を脱出して日本軍の占領後に行なわれた略奪や大量殺害を船舶の無線を使って報道した<ref>[[#南京事件調査研究会 1999|南京事件調査研究会 1999 p15-16,p42,p48-51]]</ref>

15-16ページ,同書の藤原彰「東京裁判によるデッチ上げ説こそがデッチ上げ」、p42ページ,第三章の笠原十九司「リアルタイムで世界から非難を浴びていた南京事件」の「世界の報道を知らなかったのは日本国民ばかり」という箇所では、ダーディン、スティール、マギー、フィッチに言及していて、p48-51は、同章の「南京駐在の外交官は南京事件の報告を本国に送っていた」という箇所で、エスピー報告「南京の状況」(2月2日郵送)、グルーの日記、ローゼン書記官の報告、ラーベ報告書、ラーベの日記に言及されていのものの、いずれの箇所でも、大公報には触れられていませんし、“Nanking Massacre Story”という用語も「彼らは南京を脱出して日本軍の占領後に行なわれた略奪や大量殺害を船舶の無線を使って報道した」というのも見当たりません。が、ここは修正でなんとかできるような感じです。

南京事件以前にも、日本軍は移動中に上海、蘇州、無錫、嘉興、杭州、紹興、常州のような場所でも捕虜や市民への暴行・殺傷・略奪を続けていたとされ、日本軍将兵の従軍日記や回想録から、進軍中にそれらが常態化していたのではないかと疑われている<ref>[[#南京事件調査研究会 1999|南京事件調査研究会 1999 p101-116]]</ref>

101-116ページは、本多勝一「据えもの斬りや捕虜虐殺は日常茶飯事だった」に該当します。本多氏は、101ページで、「そのほか南京大虐殺に関して、事実に反するデタラメでひどい記述が多いが、ここでは百人斬りだけにしぼっておく」と言明しています。さらに、上海、蘇州、無錫、嘉興、杭州、紹興、常州という地名にも言及していませんし、事件の背景としても論じていないので、この文章のソースとして不適切であるのは明白です。

ロンドルさんも「そうなさったらいいでしょう」とおっしゃってくれていることですし、修正及び削除を実行します。Takabeg会話2015年5月20日 (水) 08:26 (UTC)

元兵士102人の証言!?

この編集で追加されたようですが、この「証言集」の該当ページを読んでみました。下に「命令」に関する箇所を引用しておきます。

  • 56-57頁、町田義成 (1913年~) 第16師団第33聯隊第3大隊 部隊本部から「韓家頭の部落を攻撃する。部落に入ったら、猫の子でもいいから生きとるものは、男でも女でも全部殺せ」40歳くらいの妊婦とこども2名
  • 69頁、吉川定国 (1915年9月~) 第16師団第33聯隊第1機関銃中隊 上陸の命令受領に行ったら「普通の男も殺せ、皆敵や」と言われていたで。
  • 77頁、野田典吾 (1915年11月~) 第16師団第33聯隊本部 「上海の白茆口に上陸したときすぐ、松井石根大将が、この地方は共産主義思想が強いのであらゆるものを殺せと指示したと聞きました」
  • 95頁、依田修 (1916年11月~) 第16師団第33聯隊第3機関銃中隊 台連から南下して上海から揚子江を上にいった白茆口という所に着きました。そこでは敵前上陸で、そこからどんどん追撃して南京まで行ったんです。その時、私は上からの命令文を見ました。「支那人は全部殺せ、家は全部焼け」と書いてありました。その命令は白茆口を上陸する前日に出たんです。
  • 116頁、吉川克己 (1913年12月~) 第6師団第45聯隊第1大隊 「揚子江では、うろうろしている中国兵はやっちまえ、というので迫撃砲や軽機関銃などでも攻撃していました」という一文はありますが、命令には言及されていません。107頁に「兵隊も民間人も同じ服をしていたから区別できませんでした」というのがありますが、ここでも命令には言及されていません。
  • 135頁、徳田一太郎 (1914年6月~) 第16師団第33聯隊第2大隊 南京に向かう途中どこの戦闘だったかは忘れたけど、部落があってそこに共産党がいるということで、上から「負傷者に関わらず全部共産兵なので、全部殺せ」と命令してきたんです。
  • 159-160頁、外山武雄 (1914年2月~) 第16師団第33聯隊第1大隊 しかし南京のことは忘れてしまったな。ぜんぜん憶えていない。ただ上から「男見たら殺せ」と命令されたことだけはよう憶えとる。南京へ行くまで常熱か無錫辺りかな、もうそういう命令が出ていたな。部隊長のXX中尉が言ったんじゃないか。あるいは「人見たら殺せ」とな。何しろ、喰うか喰われるかの戦争や。うっかり見逃したら、こっちがやられるからな。
  • 173頁、福田治夫 (1915年10月~) 第16師団第9聯隊第2大隊 子どもとか年いったお婆さんまで、抗日排日の教育で手榴弾かくして持って、宿舎に入ってきたのが子どもですやろ、こっちは油断しますわな。寝てる所に放り込まれるのが再々あってね。「子どもにしても年寄りにしても誰でも全部殺してしまえ」と聯隊長の命令がでました。
  • 188頁、山田忠義 (1914年7月~) 第16師団第38聯隊第3機関銃中隊 命令に関する記述はありません。
  • 208頁、安藤猛治 (1915年4月~) 第16師団第33聯隊大隊砲 命令に関する記述はありません。
  • 251頁、内村和郎 (1915年10月~) 中部第38部隊第2停泊所 「男であろうが女であろうが生かしておくな、みんな銃殺や」と、隊長が言うとったとその時、南京にいた歩兵から聞いた。
  • 271頁、鬼頭久二 (1926年8月~) 第16師団第33聯隊第1大隊 南京戦のとき、当時の宮さんから命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」ちゅう命令やった。天皇陛下の命令やと言ったな。
  • 302頁、南泰吉 (1913年7月~) 第16師団第33聯隊第1大隊 放火分隊って、上陸の時はうちの中隊もありましたな。中隊長があの部落焼いてこいって、家の中には、住民が隠れていますわな。それを殺さなならんのですわな。それで兵隊嫌がってましたな。その命令が出ると。おると殺さないかんのです。
  • 312-314頁、沢田小次郎 (1915年9月~) 第16師団第33聯隊第1大隊某中隊指揮班 この中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が出ました。反日の根拠地というので、南京に入るまでは家を全部焼けという命令がずっとでていました。するとまた後続部隊が泊まる所がないからといって、焼くのを中止したんです。とにかく「家は全部焼いて、人間は全部殺せ」という命令でした。命令が出てなかったらこっちはしませんよ。
  • 325頁、大川護男 (1916年4月~) 第16師団第33聯隊大隊砲 駐屯してからな、慰安的な女の子をさがしてきたこともあったな。その場でやったな、その時分は少々悪いことしても、後でわかったらいかんというので、殺してしまやいいんや、自分らが悪いことしたら殺してしまえと部隊の中で言っている者がいた。反日の思想が強いので全部ころしてしまえという部隊があったと聞いている。
  • 343-344頁、中田清次 (1915年9月~) 第16師団第33聯隊第3機関銃中隊 中島師団長という人は豪胆な人で、「支那の家を全部焼いてしまえ」と言いました。白茆口へ上陸した時です。「ここは抗日の一番ひといとこやから各部隊の家は全部焼け」とも言いました。私も上陸してから直営して、すぐに家を焼きました。仲間内で伝わって来ましてな、「師団長が言うたんで、やってしまえ」と。まぁでも後から来る兵隊は泊まるところがなくなるので、焼くのを中止してくれとなってね、無錫から焼くのはやめました。

中島師団長はそういう人ですので、支那兵はみんな殺してしまえと、二十聯隊か三十八聯隊か九聯隊か知らんけど、そういうことをやりましたでしょうな。それが問題になったわけです。反日運動が盛んやとは聞いていましたけど、「徹底抗戦」とか「抗日」とか白壁に書いてました。南京に行くまでの至る所に書いてましたな。「日本悪鬼」って書いてましたな。

これらを読んで、1926年8月生まれの鬼頭久二さんを横に置いといても、「おかしいなぁ」と感じました。また、この証言集を、東中野修道氏が『諸君』において、阿羅健一氏が『正論』において、本多勝一氏と小野賢二氏が『週刊金曜日』において、信憑性に欠けているとして批難しています (秦郁彦『南京事件』、p. 305、「南京大虐殺をめぐる二つの空しい書物」『週刊金曜日』12月20日号、『諸君』平成14年11月号、[2]『正論』平成14年11月号)。

この「証言集」が出版された事実とその反響を説明するのはいいのですが、この証言集だけをソースにして、「南京攻防戦では無差別に市民を虐殺する命令を受けたとする元兵士の証言がしばしば取り上げられる」と書いてしまうのはかなり乱暴であると考えます。Takabeg会話2015年6月15日 (月) 10:28 (UTC)