ノート:南京事件 (1937年)

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この項目がここに移動される以前に同一名称だった項目にはノートページが存在します。詳細はノート:南京事件 (1937年)(移動以前の過去ログ)を確認してください。--Himetv 2010年6月14日 (月) 10:49 (UTC)

この項目が南京大虐殺から移動された際にノートページが移動されませんでした。移動が行われた2010年6月14日 (月) 05:39以前のノートについては、ノート:南京大虐殺をご覧下さい。--Himetv 2010年6月14日 (月) 10:56 (UTC)

Archive過去ログ

サブページ[編集]

「南京事件を扱った作品」節におけるドキュメンタリの注釈について[編集]

  • 「ドキュメンタリー」や「ノンフィクション」は学術的に批判のある術語であり当記事のように論争のあるテーマ記事で安易に使用するのは避けるべきです。ドキュメンタリについては[1]がweb上で読めます。また森達也『ドキュメンタリーは嘘をつく』があります。【(ドキュメンタリの)問題は、つまるところ「現実的なるもの」の「提示」あるいは「現前化」の不可能性と、表象=再現前の制度の問題とさらには表象=再現前の不可能性および「禁止」という事態と関わらざるをえない】【ドキュメントとドキュメンタリを区別しようとする動きはフランスではすでに1922年に表れていたという指摘(もあり、ロシアのジガ・ヴェルトフらによれば)ドキュメンタリは「映画芸術の自立した一領域」であり「映画的エッセー、映画的パンフレット、映画誌、映画ポートレート、歴史的プロパガンダ的映画までもが包含されていた】【ドキュメンタリー映画は映画の起源から存在した単なる記録映画ではないという認識が、フラハティーの登場に従って生じた。このことは一方ではドキュメンタリーというジャンルの創出の大きなバネになったという点で評価されるが、他方では結局記録映画の本質をなしていた事実性や現実の切り取りの暴力的な力を、映画という制度の中に回収する働きをもなしたと考えられる】阿部宏慈[2]。云々。
  • さて、ドキュメンタリはしかしながら、一般には【フィクションではなく、事実を伝えているという視聴者の信頼感に依拠し】【社会的に大きな影響力を持つと考えられている】[3]ものですので、ですので当記事のような論争の多い主題ではこのような修飾語をWikipedia編集者の一意的な判断によって使用することは回避し、「創作・フィクション・ノンフィクション・ドキュメンタリ」等々のラベリングをせずに済ませるべきだと判断いたします。--大和屋敷会話) 2014年3月28日 (金) 13:33 (UTC)
ドキュメンタリーそのものが問題というよりも、戦中の記録映画がプロパガンダであったことが論争になっているのではないでしょうか。少なくとも、事件を題材とした劇映画(フィクション)と、記録映画(ドキュメンタリー・プロパガンダ映画)を区別するべきでしょう。論争がある場合はそのことを明記し、南京事件論争へ誘導すればいいのでは。--さんぽーる会話) 2015年12月25日 (金) 14:00 (UTC)
  • 「この作品はドキュメンタリです」と自称ないし他称している、その発言者の中立性についてwikipediaで評価できないから慎重にあつかうべき、ということです。むろん南京事件にかかわる複数の動画のドキュメンタリ性について正面から論じている「信頼できる情報源」(学術ベース)があれば記事として記述すべきですが、現状ではたんにwikipedianが「これはドキュメンタリ、これは文芸作品」と割り振っているだけですので、それは当記事のように高度に中立性がもとめられる記事にふさわしくない編集方針ではないか、ということです。--大和屋敷会話) 2015年12月27日 (日) 09:18 (UTC)
慎重に扱うべきなのは同意できますがどの映画が該当するのですか。大和屋敷さんが指摘されることに、戦前の記録映画もラストエンペラーなどの劇映画(俳優がセリフを話すドラマ)も該当しないでしょう。該当しそうなのは、『南京 引き裂かれた記憶』(日本、2007年)と『南京の真実』(日本、2008年)の2本だけですが、この2本を「ドキュメンタリではない」と批判し、これを劇映画に分類すべきであると主張する編集者がいるとは思えないです。議論が終了するまでリストは地域別にします。--さんぽーる会話) 2015年12月30日 (水) 05:07 (UTC)

投降兵の処遇[編集]

「投降兵の処遇」という項目の内容、特に不法か否かという主張は、南京大虐殺論争#主な論点でも扱われています。が、残念なことに、こちらの記事にあってあちらの記事になく、あちらの記事にあってこちらの記事にないものがあり、中途半端な感じになっています。そこで、こちらの記事にあるものを南京大虐殺論争#主な論点に移植し、こちらの記事では、何時、何処で、どれだけの兵士が、どの部隊によって、捕虜になり、「処断」され、解放されたのか、といった情報を加筆したほうが有益ではないかとかんがえています。Takabeg会話) 2015年6月8日 (月) 13:09 (UTC)

一部分割提案[編集]

上記につき、「投降兵の処遇」の項の先頭から吉田裕氏の主張までを南京大虐殺論争この部分と統合するためにWikipedia:分割提案で提案しました。これと同時に「投降兵の処遇」の項には殺害捕虜の一覧を典拠、信憑性、各論者が採用しているかいないのか (不法・適法など)を加筆する予定です。Takabeg会話) 2015年7月8日 (水) 11:12 (UTC)

長期間ページ番号が示されない記述除去[編集]

ただし、東中野らはこれらを根拠に乏しい虚偽報告とし、それがおこなわれた要因として、当時の中華民国政府からの多額の献金により、これらのマスコミが買収された可能性を主張している<ref>[[#東中野 (1998)|東中野 (1998)]]{{要ページ番号|date=2014年9月}}</ref>。
また当時『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された「南京虐殺の証拠写真」とされる写真も虚偽写真の可能性が指摘されている<ref>[[#東中野 (1998)|東中野 (1998)]]{{要ページ番号|date=2014年9月}}</ref>。無線を通じた報道も全て中国人からの伝聞をもとにして報道していたためその正確性には問題があるという主張もある<nowiki><ref>[[#東中野 (1998)|東中野 (1998)]]{{要ページ番号|date=2014年9月}}</ref>。
また、内地への手紙についても正確性や信憑性に疑問が呈されている(例えば、虐殺行為を手紙で内地へで伝えたとしても検閲で落とされるため)<ref>[[#東中野 (1998)|東中野 (1998)]]{{要ページ番号|date=2014年9月}}</ref>。

:南京モノに関心のある利用者は、上記の東中野さんの指摘や主張のことは知っていますので、ページ番号がないのはわってていても除去していなかったものと推測します。一応、ソースは提示されていてますので、ページ番号が無いというだけで除去するのは、あまりにも乱暴であると考えます。利用者:番組の途中ですが名無しですさんは、他の記事でもこういうことを続けていてブロックされてしまったわけですから、ウィキペディアのルールを熟読するとともに、日本語版ウィキペディアのコミュニティーの共通理解や共通良識を理解しておいたほうがよいと思いますよ。Takabeg会話) 2015年10月25日 (日) 00:10 (UTC)

2015年10月下旬の編集について[編集]

Japanese sincerityさんのノートにコメントを残しておきましたので、参照してください。Takabeg会話) 2015年10月25日 (日) 00:10 (UTC)

2015年10月下旬の編集について その2[編集]

Japanese sincerityさんによる編集について疑問点があります。まずは、この差分を見ていただけますか? ティルマン・ダーディンの『文藝春秋』に掲載されたインターヴューは南京事件論争に移されているようなのですが、次の箇所はソースごと削除されており、どこにも移動・移植されておりません。とりあえずソース・ベースで列挙しておきます:

  • 『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』
  • 『平和の発見』
  • 『現代歴史学と南京事件』
  • 『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』
  • 『真崎甚三郎日記』
  • 『渡部昇一の昭和史 正 改訂版』
  • 『仕組まれた“南京大虐殺” 攻略作戦の全貌とマスコミ報道の怖さ』
  • 『「南京虐殺」の徹底検証』

室清野戦術に関する記述も無くなっています。

個人的は「要らないよね」と思う箇所もありますが、ノートを使った議論を経ずして、独断で除去してしまうのはあまりにも乱暴です。

次に、追加されたものを見てみましょう。笠原さんが3つでちょっと偏重しているかなぁ、という印象を持ったのですが、その点は省略し、『広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像』に関する問題などもこちらで伝えましたので省略しますが、『最後の殿様 徳川義親自伝』の引用が不正確です。現行版では、「兵士とともに市民(婦女子も含む)が銃撃を受けて殺されたり」となっていますが、徳川義親は「日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒濤のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。中国兵がまぎれているとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士は躊躇して撃たなかった。それで長中佐は激怒して、人を殺すのはこうするんじゃと、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。」という具合に書いていますので、兵士がまぎれこんでいたという点を明確にしておかないことには、ウィキペディアはチェリーピッキングをやってるとの誹りを受けることになります。それと『南京難民区の百日 虐殺を見た外国人』のところですと、ジョン・ラーベの日記などを「安全区国際委員会側の記録」と定義するのは、安全区国際委員会の文書ではないのですから、間違った印象を与えることになります。Takabeg会話) 2015年10月25日 (日) 10:53 (UTC)

コピペ[編集]

Japanese sincerityさん、"南京安全区国際委員会(なんきんあんぜんくこくさいいいんかい、The International Committee for Nanking Safety Zone 南京難民区国際委員会)は、戦災に巻き込まれたり南京から避難できない市民などを救済するために、南京城内の一部に安全区(難民区)を設定することを試み、、、"という部分は、南京安全区国際委員会からのコピペですよね? Takabeg会話) 2015年10月26日 (月) 17:00 (UTC)

差し戻し提案[編集]

Japanese sincerityさんは、Wikipedia:分割提案を経ずして、このような編集を行っています。論争のあるものは、南京事件論争へ移すとおっしゃっていますが、論争のないもの (例えば、畑俊六岡村寧次河辺虎四郎真崎甚三郎の回想など) 論争があるなら南京事件論争においても論じても構いませんが、ここから消す必要はなく、いつ、誰から、聞いたのかという情報とともにより具体的に記述するのが望ましいと考えます。また、消されている情報もあります。例えば、トーチカに鎖でつながれていたエピソードはなくなっています。高山正之氏は、トーチカの件も挹江門での事件であるとの誤解を生じさせてしまうような書き方をしていますが、実際には雨花台でのことです。個人的には高山正之氏の本はソースとしてよろしくないと考えていますが、Japanese sincerityさんにおかれましては、独断で除去してしまうのではなく、ノートで議論で意見を募ってから作業に入るようにしてください。また、Japanese sincerityさんは、メインの流れを主として笠原十九司氏の本を使って加筆していますが、同氏のものも東中野修道氏のものも、主張が織り交ぜられているため、メインの流れを書くのに用いるべきではないと考えています。「日本軍の進撃は、兵站が整わない、多分に無理のある進撃であったこともあり、南京行政区内での日本軍の略奪につながる」というのは笠原氏だけでなく他の大虐殺派の人々も共通して主張している点なのですが、実際には、進撃速度もそれほど早いとはいえなかったですし、食料は足りていました。『証言による南京戦史』でも読んでみてください。食料以外の兵站 (武器弾薬など)については、住民から掠奪できないですよね。主張は主張という形で書けばいいのですが、主張が多いものをメインの流れを書くために使うのは中立性を危険にさらします。また、ページの示し方もおかしく、「17-72頁」、「45-106頁」、「109-140頁」っていったい何ですか?『最後の殿様 徳川義親自伝』の引用の仕方も不正確です。これは、長勇が「武勇伝」を『東京毎日新聞』 (『東京日日新聞』とは別物)元社長藤田勇に話し、それを藤田から聞いたという話を米寿を過ぎた徳川義親が回想したものです。脚注を見ると、"「最後の殿様 徳川義親自伝」徳川義親、講談社、1973年、170-173頁(新路口事件)"となっていますが、徳川義親が「新路口事件」のことなんて知っているわけがないじゃないですか。とりあえず、Ashtrayさんのこの版に差し戻して、ノートを使って提案しながら加筆していっていただきたく存じます。 Japanese sincerityさんが次にログインされた日の夜中までにお返事をいただけない場合は無条件で差し戻すということでよろしいですね? 以前の版も決して優れたものではありませんでしたが、現行の版はさらにおかしくなってしまっています。南京事件論争におけるに編集についても同様の提案をさせていただく予定です。それでは。Takabeg会話) 2015年10月30日 (金) 16:55 (UTC)

了解しましたが、中立性を保つために「高山正之氏は、トーチカの件も挹江門での事件であるとの誤解を生じさせてしまうような書き方をしていますが、実際には雨花台でのことです」については、戻しますし、、"「最後の殿様 徳川義親自伝」徳川義親、講談社、1973年、170-173頁(新路口事件)"は直します。。「日本軍の進撃は、兵站が整わない、多分に無理のある進撃であったこともあり、南京行政区内での日本軍の略奪につながる」も前にあった内容に加えた部分は消すし、頁の件も修正(より正確にします)。ただし、前の部分にもどしたら、時間的な経緯も戦闘状況もさっぱりわからず、南京事件の前提である南京攻略戦のことが理解不能です。よって、取り急ぎ、貴殿の私的部分を直します。笠原氏の本ですが、問題ある(剽窃や誤りは過大でないが、数字の部分や資料について無批判に入れている)のは承知していますが、時間的経過を事件にそって過大でなく、過小でなく表現するのは可能です。 取り急ぎの返答です。--Japanese sincerity会話) 2015年10月31日 (土) 04:03 (UTC)

コメント Japanese sincerityさんは、挹江門の部分で督戦隊に関する記述を復活させなかったのには何か意図があるのですか?「混乱による単なる同士討ち」ではありません。また、Japanese sincerityさんは、この記事に南京安全区国際委員会などからコピペされていますよね。「(なんきんあんぜんくこくさいいいんかい、The International Committee for Nanking Safety Zone)」までコピペしてしまっていますよね。南京事件論争においてもマイナー・シール・ベイツなどからコピペされていますよね。Carroll Daily Herald 紙は、たまたまネットで閲覧できるものとして同紙のものがあったのでソースとして提示したまでで、アイオワ州キャロル郡の地方紙が上海や南京に記者を派遣していたわけではありません。「Carroll Daily Herald というIowa州Carrollの1937年12月30日の5ページ目」などと書く必要などないのです。笠原氏以外に提示されたソースはご自身で読まれていますか? ソースの表記の仕方などから[www.geocities.jp/yu77799/ 南京事件-日中戦争 小さな資料集]からのコピペではないかと疑っています。一つだけ例をあげて冒頭のものについてコメントさせていただきます。

1937年7月に始まった日中戦争は、8月には華北から上海に日中両軍の戦場が移った(第二次上海事変)。8月から日本海軍は、渡洋爆撃とよばれる海軍機による空爆を南京などの有力都市に行い、軍事的な成果を上げる。一方、日本陸軍の上海派遣軍は、中国軍の抵抗もあって、大きな被害を出しつつも膠着状態であった。しかし、その後陸軍も、増派によって形勢は日本に有利となる。11月5日には、杭州湾に上陸した日本陸軍第10軍に背後を襲われた中国軍は、上海方面より潰走する<ref> 「南京事件」、[[笠原十九司]]、岩波新書、1997、16、17、28、58頁</ref>。

とお書きになっていますが、笠原氏は「華北から上海に日中両軍の戦場が移った」などと書いていませんよ。16頁は全ページが年表になっていますから、それを見て思い込みで作話されたではありませんか?笠原氏の本ですと、58頁に「これを期に、参謀本部の作戦の重点が華北から上海攻略戦に移行することになったが、」という記述はあります。が、北支でも戦闘は続いていましたから、「戦場が移った」というような歴史的事実はありません。59頁の最後のところに「上海攻略戦は一段落をつげた」とありますよね。つまり、これらの記述は上海戦のことであって、この部分のみだしにある南京攻略戦のことではないのです。渡洋爆撃について、南京市民が避難を開始したことと絡めるならば、この記事にあってもよいかもしれませんが、この書き方では何のために書かれているのかわかりません。さらに一般市民への被害の部分で「日中戦争での日本軍による南京市民に対する被害は、第二次上海事変の開始直後に起こった8月15日開始の、渡洋爆撃と呼ばれる日本海軍機による南京空襲での死傷・戦災が最初である。」との文章を押し込んでいらっしゃいますが、この記事のリード文に書かれている「(南京占領後)約6週間から2ヶ月にわたって」起きたとされる事件というのと矛盾しますよね。

時間があれば、ひとつひとつコメントしたいところですが、本日はあまり時間をさけませんので、他の利用者にも検証していただきたいと思います。最近の編集で三笠宮のエピソードを入れているようですが、若杉参謀に関しては、上にあるノート:南京事件 (1937年)#若杉参謀の講話という部分を読んでください。三笠宮が南京事件に言及しているわけではないことが理解できるかと思います。それと、ソースは正しく引用してください。すみません ご指摘のとおり 三笠宮殿下の1938年春の言説に資料変更しますというのを目撃してしまったのですが、1943年春じゃありませんか? Japanese sincerityさんの熱意は分かりますが、これでは読者にとって有害になってしまいます。まずは、利用者:Japanese sincerity/sandboxをつくって、そこで下書きを書いてから他の利用者に読んでもらってから記事に反映するようにされると非常に助かります。いずれにしても、笠原氏の新書でメインを書いてしまうのはWikipedia:中立的な観点に反してしまいますので、時間ができたときに、中国側の《抗戰簡史》からも大量に引用している『戦史叢書 支那事変陸軍作戦 <1>』の関連部分をメインにして書き直してみます。本来は南京攻略戦を充実させるべきなのかなぁと思いますが。。。Takabeg会話) 2015年11月1日 (日) 15:16 (UTC)

三笠宮様の部分、督戦隊の件、日中戦争の華北からうんねん、これ等はすでに修正済みです。なお、一般市民の被害について、渡洋爆撃から記載しましたが、私は本文に、明確に南京事件の被害は12月13日以降のみ、と書きました。つまり南京事件の背景を記述するとき、その被害を日中戦争の中で記述する場合は渡洋爆撃とその被害から記述したほうがよいと思ったからです。もちろん、渡洋爆撃(12月13日当日は別として)は南京事件の被害では基本的にはありませんし、そのほかの南京行政区での農村部の被害についても、別のところで南京事件の被害と見なすのは一部の研究者のみと書きました。 なお、言葉の説明でのコピペの件ですが、確かにある言葉の定義の記述を正しくするためにほかのwikipediaからそのままもってきたのですが、あまり感心した行為ではなかったと思います。米国新聞の日付は実は、ゆうさんのサイトより先に気が付いていたのであまり意識せずに同じ表現をそのまま使いました(いいわけにはなりませんが)。笠原氏の本は、前も申したように時間的事実経過をたどるために用いたので、彼の意見を出すときは、あくまで説である、として慎重に書いています。貴方の「時間ができたときに、中国側の《抗戰簡史》からも大量に引用している『戦史叢書 支那事変陸軍作戦 <1>』の関連部分をメインにして書き直してみます」という提案にも反対しませんが、全体の流れは把握できるようにしてほしいと思います。取り急ぎお返事します。いつも貴殿の冷静な対応には、感謝しています。 --Japanese sincerity会話) 2015年11月2日 (月) 13:09 (UTC) なお、三笠宮殿下の発言の年は単純ミスですが、非常に反省しています。すみません。 --Japanese sincerity会話) 2015年11月2日 (月) 13:31 (UTC)

Japanese sincerityさんが2015年11月4日にWP:SOCKでブロックされたこと、同氏の編集が他の記事やネットからのコピペを中心とするものであり、同氏が検証を行ったものではないこと、それらのコピペを他の利用者が検証するよりも初めからソースを参照しながら書いたほうが有益であること (単にソックパペットによる編集だからということではありません)などを考慮して、同氏が編集を開始する以前の版まで差し戻しいたします。Takabeg会話) 2015年11月13日 (金) 12:05 (UTC)

南京城内の死者は1793人である。[編集]

議論するなら、先ず死者数の確定が必要。 南京城内の死者は1793人である。

これは、極東軍事裁判で検察側証拠として中国が示したものであり、それを覆す事は全て伝聞証拠に過ぎない。 1次資料に基づき判断すると、これ以外の判断はできない。

1次資料に基づく反証が有れば、お示し頂きたい。

参考文献 PHP研究所 ひと目でわかる「GHQの日本人洗脳計画」の真実   水間 正憲 著

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タグ貼りの理由は?[編集]

Leowllさんのこの編集およびCcgxkさんのこの編集で{{国際化}}が貼り付けられておりますが、具体的には何が問題だと感じたのでしょうか? 具体的な指摘がなければ、他の利用者が何をどうしたらよいのかわかりませんので、非建設的な編集と考えられますし、WP:DISRUPTSIGNSと見做されることがありますのでご注意ください。また、まだ私論ではありますがWikipedia:タグ爆撃にもあたります。具体的な指摘がなされなければ除去させていただきます。Takabeg会話) 2015年11月23日 (月) 14:47 (UTC)

対立する様々な立場をバランス良く紹介しているかどうかを問題にして「中立性」に関するタグを貼るのならまだ分かりますが、「国際的な観点」というのは、私も意味が分かりません。現行版の記事に取り上げられていない「世界的観点」があるとは思えませんので、とりあえず差戻します。
あくまでタグが必要と言うのなら、どのような「世界的観点」が足りないのか明確に主張なさるべきです。あるいは、信頼できる情報源に基づいて、足りない「世界的観点」の加筆がなされれば、もっと良いです。--Dwy会話) 2015年11月24日 (火) 11:54 (UTC)
まず「南京事件」という呼び方は世界的な呼び方ではない。諸外国がNanjing Incidentという呼び方はしてません。Leowll会話
Wikipedia:記事名の付け方をお読みください。「歴史的事件」という項目に「出来る限り一般的に知られており通用しやすい名称を使用する。」とあります。そして、日本語において一般的に知られており通用しやすい名称が南京事件ですので、諸外国がどう呼ぶかということは、記事名を左右しません。もちろん、他言語でどう呼ばれているかというのは記事の中で紹介できると思いますし、実際に紹介していますよね。どうしても、気に入らないというのなら、改名提案をためしてみるか、Wikipedia‐ノート:記事名の付け方で「諸外国がどう呼ぶかに従って記事名を決定する」というルールの導入を提案してみれば、と言いたいところですが、そんなことしてもLeowllさんの貴重な時間も他の利用者たちの貴重な時間も無駄になってしまいますよね。いずれにしても、既存の方針やガイドラインに従うと、記事名は「南京事件」になりますので、そのこと自体には何の問題はありません。Takabeg会話) 2015年11月24日 (火) 14:28 (UTC)
コメント "南京大虐殺"から"南京事件"への改名までの流れでは、中立的観点への配慮が使用頻度よりも優先されたように記憶している。"南京事件"が日本で一般に通用している名称かどうかは、各種報道のほか、ここで過去に行われた議論によっても判断がつきにくい(個人的には、鉤括弧付きの"「南京大虐殺」"や"いわゆる「南京大虐殺」"などの表現も同じ位通用している印象もある)。--花蝶風月雪月花警部会話) 2015年11月27日 (金) 01:59 (UTC)

真相[編集]

中国語版を見て、あなたが理解真相。私はあなたが読める。-Yhy9630会話) 2015年12月5日 (土) 02:33 (UTC)

  • やっている行為が完全に五毛党ですが。--hyolee2/H.L.LEE 2015年12月19日 (土) 10:50 (UTC)

一般市民への被害について[編集]

辻英二「スパイ嫌疑で二千名銃殺 敗戦支那の苦悶する姿」『画報躍進之日本』(東京東洋文化協会、1937年12月1日)

という出典について、第三者に検証されているでしょうか。そうではない場合、出典にならないと思う。Leowll会話) 2015年12月19日 (土) 11:22 (UTC)

月刊誌の記事であり、Wikipedia:信頼できる情報源にある「編集者の監視や、事実の検証プロセスを経ている」、「合作していない」、「利用できる一次資料を彼ら自身で見ており、評価するに当たっては彼ら自身の判断を使っている」には当てはまるとは思いますが、なにせ古すぎますね。他の二次資料でもって補完するのが望ましいでしょうね。ただ、日本語版にはソースの古さによって規制するような厳格なしばりはないようで、別の記事のノートでも話したことがあったのですが、それ自体が出典とならないと判断することはできないので、別のソースで補完するのがよいといった感じの御意見をいただいたように記憶しています (確か利用者:Zakincoさんだったような)。日本語版ウィキペディアには当時の新聞だけで構成されている記事も少なくなく、良くないことなのですが、現状は放置されています。Takabeg会話) 2016年1月6日 (水) 13:52 (UTC)

保坂晃のこと[編集]

利用者:Krebelordさんによるこの編集ですが雑すぎます。資料を提供しますので修正してみてください。もしも、「各自で足していただければ」、「自由に文章を編集してください」とおっしゃるのであれば、リバートにて対処します。

楊大慶さんのものは、利用者:Krebelordさんもご存知のとおり、Daqing Yang, "About the Cover: Diary of a Japanese Army Medical Doctor, 1937", Researching Japanese War Crimes, Introductory Essays, p. ix-x.にあります。

また、笠原十九司さんの『「百人斬り競争」と南京事件』では、保坂晃さんは「歩兵二〇連隊近藤大隊の衛生兵」と紹介されていて (『京都師団関係資料集』には、殺害命令とは無関係の箇所で、「保坂軍医」として登場しています)、で英訳されていない日記の日本語の原文は以下の通りのようです:

一一月二九日 常州

午前一〇時出発、常州の敵を掃蕩に行く。正午入城す。住民を殺せの命により、全部で八○人程老若男女を一まとめにし、夕方銃殺す。 最初にして最後の光景ならん。全部一カ所に集める。念仏をとなえるもの、泣くもの、助けを乞うもの、惨状まったく目もあてられず、やがてひびく重機関銃により、バタバタ悲鳴をあげて倒れる光景は、まったく心を鬼にしても見ておられぬ。実際戦争は悲惨である。(笠原十九司『「百人斬り競争」と南京事件: 史実の解明から歴史対話へ』大月書店、2008年6月20日、ISBN 978-4-272-52080-0、125頁。)

また、注のところには、「日記はワシントンの国立公文書館に所蔵されていた皮の手帳に書かれた日記で、戦争直後、山梨県塩山町 (現在、甲州市)の保坂晃から東京日比谷の第一相互ビルにあった連合軍総司令部 (GHQ)法務部長カーペンター大佐宛に書留めで郵送されたものが、米国立公文書館のWar Department Nanking China のファイル (RG153-180-Box5)に収録されていたもの、林博史よりコピーの提供を受けた。」(同書142頁)とあります。それと、楊大慶さんは、南京における日本軍の残虐行為が単独の事件ではなく、上海戦以降、揚子江下流地域で行われていたという本多勝一の主張とからめて書いていますので、この記事のなかのどのセクションで言及するのが適切かを考えてみたほうがいいと思います。Takabeg会話) 2016年1月6日 (水) 13:52 (UTC)

いずれにしても、南京ではなく常州のことですので除去しました。南京事件論争の本多さんの主張の箇所でならば使用できそうですね。Takabeg会話) 2016年1月13日 (水) 13:38 (UTC)

松井、畑など、[編集]

利用者:Japanese sincerityさんによるこの編集ですが、「その当時、陸軍の高級幹部も早くから南京事件の内容を把握しており、松井石根司令官の後任の中支那方面軍司令官の畑俊六や中国派遣軍である第十一軍司令官に就いた岡村寧次大将のように当時の南京派遣軍の規律に否定的な評価をした人もいた」という箇所を加筆されていますが、この記事の上の方に「松井石根司令官、畑俊六大将、阿南惟幾・陸軍省人事局長、岡村寧次大将、河辺虎四郎・参謀本部作戦課長、真崎甚三郎大将などの軍関係者が「強姦、略奪」行為に言及している。」というのがあります。くどくないですか?

特に「陸軍の高級幹部も早くから南京事件の内容を把握しており」というのは誰が言っているのですか?それぞれの日記や回想録などから、彼等が南京で掠奪や強姦が起きたことを聞き知ったことは分かるのですが、今日主張されているような「南京事件」の内容を把握していたというのは不可能に近いですよね。この箇所は、独自研究にあたるのではないでしょうか?

また、広田の死刑の件ですが、服部が著書でそう書いているのは確認しています。しかし、広田が死刑になった理由には諸説あり、六対五の僅差で死刑になっており、死刑を決定づけた理由についても諸説あります。例えば、三国同盟締結時の首相だったこと (本人は同盟に反対いていましたが)などもあります。したがいまして、死刑になった理由については、この記事ではなく広田弘毅の記事において「服部によると、、、」と書くのが適切であると考えます。

次に、ティルマン・ダーディンの箇所を、この記事だけでなく南京事件論争にもこの編集でも加筆しているようですが、そもそも、ダーディンのインターヴューは両方の記事にあるべきものなのでしょうか?言い換えますと、論争の対象になっているなら南京事件論争に書けばいいですし、なっていないならこの記事に書けばいいのではないでしょうか?それと、「ただし、この文春の記事は、以下の本人の別証言から事実を誤認している可能性がある」という箇所はソースに書いてあるのですか?それとも、個人的な意見ですか?Takabeg会話) 2016年1月6日 (水) 14:11 (UTC)


Takabeg会話) さん

(貴殿)「この記事の上の方に「松井石根司令官、畑俊六大将、阿南惟幾・陸軍省人事局長、岡村寧次大将、河辺虎四郎・参謀本部作戦課長、真崎甚三郎大将などの軍関係者が「強姦、略奪」行為に言及している。」というのがあります。くどくないですか?」

(私)「松井石根司令官、畑俊六大将、阿南惟幾・陸軍省人事局長、岡村寧次大将、河辺虎四郎・参謀本部作戦課長、真崎甚三郎大将などの軍関係者が「強姦、略奪」行為に言及している。」は、一般人の被害の項目に、こんな証言を書いているほうがおかしい(リンクで別に書けばいい)と思いますが、人が書いたものですのでけしませんので、結局くどくなりました。一方でこちらの項目にはこの内容は必要と思います。

(貴殿)「陸軍の高級幹部も早くから南京事件の内容を把握しており」というのは誰が言っているのですか?それぞれの日記や回想録などから、彼等が南京で掠奪や強姦が起きたことを聞き知ったことは分かるのですが、今日主張されているような「南京事件」の内容を把握していたというのは不可能に近いですよね。この箇所は、独自研究にあたるのではないでしょうか?

(私)表現ぶりを変えます。了解しました。

(貴殿)広田の死刑の件ですが、服部が著書でそう書いているのは確認しています。しかし、広田が死刑になった理由には諸説あり、六対五の僅差で死刑になっており、死刑を決定づけた理由についても諸説あります。例えば、三国同盟締結時の首相だったこと (本人は同盟に反対いていましたが)などもあります。したがいまして、死刑になった理由については、この記事ではなく広田弘毅の記事において「服部によると、、、」と書くのが適切であると考えます。

(私)表現ぶりを変えます。了解しました。

(貴殿)「ティルマン・ダーディンの箇所を、この記事だけでなく南京事件論争にもこの編集でも加筆しているようですが、そもそも、ダーディンのインターヴューは両方の記事にあるべきものなのでしょうか?言い換えますと、論争の対象になっているなら南京事件論争に書けばいいですし、なっていないならこの記事に書けばいいのではないでしょうか?それと、「ただし、この文春の記事は、以下の本人の別証言から事実を誤認している可能性がある」という箇所はソースに書いてあるのですか?それとも、個人的な意見ですか。

(私)そもそも、文春の記事の「見てなかった」などという記事を鬼の首でもとったがごとくに、とってつけて扱う方がおられるから、こんなことになるのです。私も論争でもこっちでも、片方のみに残して、もう片方は文春の記事も含めて消してしまいたいです。なお、事実誤認については、個人的意見ですが、独自研究的でないように表現は変えます。

感想ですが。。他の人の書いたものは、消したくも整理したくもないですが、もし、全体の構成から変更したくなったら、どのように対応すべきでしょうか???あまり、また悪者になりたくはないですが。。


--Japanese sincerity会話) 2016年1月6日 (水) 14:40 (UTC)

まず、「ただし、この文春の記事は、以下の本人の別証言から事実を誤認している可能性がある」という箇所はソースに書いていないのであれば、二つのインターヴューを時系列的にただ並べておくだけにしておくのがウィキペディアのやり方です。利用者の個人的見解は書かかず、判断は読者に投げればいいのです。また、陸軍関係者の言ったことや書いたことを列挙しておきますので、内容をご自身で確認してみてください。現行の書き方が果たして正しいのかおかしいのか、どれが回想でどれが日記なのか、などなどお気づきになられると思います。

  • 松井石根
ここで松井さんは、めずらしく長く、中国を中心とするアジア諸国の性格、について論じられた。

それから、『日本人の反省はむろんのことだが、こちらが少しやさしくいうと、媚びるというふうにとる向うの国民感情もよくない。お互いに反省しなければならぬ。群長という人は、旧友で、困っている時分ずい分世話したことがあり、家内も、向うの夫人をよく知つているので、家内からこの間ぜひ興亜観音に詣つてくれといつたが、なかなか明答はしなかつた。しまいには行きますといい、私のことについて「御同情にたえない」とも・・・・・・』などと語られた。

宗教を通じての精神的つながりによらねば、十年、二十年の間には、ほんとうの親善はむずかしいともいわれた。

なお、法廷でものべておられるように、『こうなつてみると、日本は大きな犠牲を払つたことになる』といい、また『私に生命があれば、仏印の安南にいつてみたい』ともいわれた。

それから、あの南京事件について、師団長級の道徳的堕落を痛烈に指摘して、つぎのような感慨をもらされた。

『南京事件ではお恥しい限りです。南京入城の後、慰霊祭の時に、シナ人の死者も一しよにと私が申したところ、参謀長以下何も分らんから、日本軍の士気に関するでしようといつて、師団長はじめあんなことをしたのだ。私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいつていた。今度はそうはいかなかつた。政府当局ではそう考えたわけではなかつたろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とは全く変つておつた。慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒つた。その時は朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だつたが。折角皇威を輝かしたのにあの兵の暴行によつて一挙にしてそれを落してしまつた、と。ところが、このことのあとで、みなが笑つた。甚だしいのは、或る師団長の如きは「当り前ですよ」とさえいつた。従つて、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなつたのだから、このまま往生したいと思つている』

『まことに、尊いお言葉ですね・・・・・・』

『家内にもこの間、こうして往生できるのは、ほんとに観音さまのお慈悲だ、感謝せねばならんといつときました』

『あなたのお気持は、インド判事の気持と一しよですね』

『ああ、あのインド判事の書いたものを見せてくれたが、大へんよくいつておる。われわれのいわんとするところを、すつかりついておる。さすがにインド人だけあつて、哲学的見地から見ている。あのひとたちは多年・・・・・・経験しているので・・・・・・』

『では、また来週・・・・・・。風邪などめさぬようお気をつけ下さい』

松井さんは、ガウンを将校から着せてもらい、仏に向つて礼をして、下駄をカラカラ曳きずつて、いつもの通りそろそろと去られた。戸口を出られる時『ご機嫌よう』と声をかけると、振り向いてあいさつされた。

典拠:花山信勝『平和の発見』朝日新聞社、昭和二十四年二月十五日発行、定価百五十円、228~230頁。

笠原十九司/吉田裕編『現代歴史学と南京事件』柏書房、13頁を見ると、早尾乕雄、田中新一からの引用はありますが、阿南からのものはありませんでした。また、12頁は、岡村寧次からの引用です。本記事には引用した内容が具体的に書かれているわけではないので探すのはそれほど容易ではないのですが、阿南資料、南京視察メモなどから引用すればよいでしょうか?

一月二十九日

本日より二月六日まで第七師団、第八師団留守部隊の教育情況視察のため、北海道、弘前地方に出張。

支那派遣軍も作戦一段落と共に軍規風漸く頽廃、掠奪、強姦類の誠に忌はしき行為も少なからざる様なれば、此際召集予后備役者を現役者を以て代らしめ、又上海方面にある松井大将も現役者を以て代らしめ、又軍司令官、師団長等の招集者も逐次現役者を以て交代せしむるの必要あり。

此意見を大臣に進言致しをきたるが、出張前大臣に面会、西尾、梅津両中将を南北軍司令官たらしむるを可とする意見を申述べ出張したる処、意外にも二月五日夕青森に到着したる処本部長より特使あり書状携帯、それによれば次官、軍務局長は余を松井の后任に推薦し、 余の后任は西尾を可とする意見なりとの内報に接し聊か面喰ひたる次第なるが、とにかく帰京の上とし六日朝上のに帰着したる処、中島参本総務部長役にて待合せ本部長の来信の如き意味を伝へ、次で大臣より面会したしとのことにその足にて官邸に至り大臣に面会したるに、大臣より上述の如き申し出あり。

典拠:『現代史資料 続4 陸軍(畑俊六日誌)』みすず書房、ISBN 4-622-026654-6、1983年3月30日、120頁。

私は、従来書物によって日清戦争、北清事変、日露戦争当時における我軍将兵の軍、風紀森厳で神兵であったことを知らされ、日露戦争の末期には自ら小隊長として樺太の戦線に加わり、大尉のときには青島戦に従軍し、関東軍参謀副長および第二師団長として満洲に出勤したが、至るところ戦場における軍、風紀は昔時と大差なく良好であったことを憶えている。それなのにこのたび東京で、南京攻略戦では大暴行が行われたとの噂を聞き、それら前科のある部隊を率いて武漢攻略に任ずるのであるから大に軍、風紀の維持に努力しなけらばならないと覚悟し、差し当り「討蒋愛民」の訓示標語を掲げることにした、それはわれらの目的は蒋介石の軍隊を倒滅することであって無垢の人民には仁愛を以て接すべしというに在った。

上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。

一 南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。

一 第一線部隊は休養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある   註 後には、荷物運搬のため俘虜を同行せしめる弊も生じた。

一 上海には相当多数の俘虜を収容しているがその待遇は不良である。

一 最近捕虜となったある敵将校は、われらは日本軍に捕えられれば殺され、退却すれば督戦者に殺されるから、ただ頑強に抵抗するだけであると云ったという。

七月十五日正午、私は南京においてこの日から第十一軍司令官として指揮を執ることとなり、同十七日から第一線部隊巡視の途に上り、十八日潜山に在る第六師団司令部を訪れた。

着任日浅いが公正の士である同師団長稲葉中将は云う。わが師団将兵は戦闘第一主義に徹し豪遊絶倫なるも掠奪強姦などの非行を軽視する。団結心が強いが排他心も強く、配営部隊等に対し配慮が薄いと云う。

以上の諸報告により、私はますます厳格に愛民の方針を実行しようと覚悟を決めたことであった。

典拠:『岡村寧次大将資料 上巻 ―戦場回想篇―』≪明治百年史叢書≫第107回配本/第99巻、原書房、昭和四十五年二月二十日、3323-11990-6945、290~291頁。

華北にせよ華中にせよ、戦場兵員の非軍規事件の報が頻りに中央部に伝わって来る。南京への進入に際して、

松井大将が隷下に与えた訓示はある部分、ある層以下に浸透しなかったらしい。外国系の報道の中には、かなりの誇張や中傷の事実を認められたし、殊にああした戦場の常として、また、特に当時の中国軍隊特室などから、避け得なかった事情もあったようであるが、いずれにせよ、後日、戦犯裁判に大きく取り扱われ、松井大将自身の絞首刑の重大理由をなしたような事実が現われた。

南京攻略の直後、私が命を受けて起案した松井大将宛参謀総長の戒告を読んだ大将は、"まことにすまぬ"と泣かれたと聞いたが、もう事はなされた後であった。

典拠:河辺虎四郎『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』時事通信社、昭和三十七年十一月五日初版四千部、153頁。

四月一日 金 晴

上海毎日新聞社長深町君ヲ主賓トシ其ノ談ヲ聞ケリ。会スル者小寺、米田、森及勝次ナリ。別ニ耳新シキコトアラザルモ軍ノ不統一、掠奪強姦ノ例、支那ガ降伏セザルコト等ニ関スル談話ナリシ。

典拠:伊藤隆・佐々木隆・季武嘉也・照沼康孝編『真崎甚三郎日記 第3巻 昭和十一年七月~昭和十三年十二月』近代日本史料選書 1-3 1982年2月1日発行、291~292頁。Takabegによる注:深町=深町作次郎、小寺=小寺謙吉、米田=米田国臣、森=森伝、勝次=真崎勝次

Takabeg会話) 2016年1月10日 (日) 13:11 (UTC)

章立て変更と「一般人被害」の項目記述の変更[編集]

Takabeg会話) さん

今回は、十分な批判を覚悟で意見ます。他の方もどうぞ・・

最初のほうの章立てを以下のように書きかえたいのですが、いかがでしょか?

1. 事件の概要と経緯

1.1 南京事件とは

1.2 南京占領までの戦闘経緯 (注)中支那方面軍の編成も入れる

1.3 被害者(南京の一般市民)

1.4 被害者(中国軍の捕虜・敗残兵・便衣兵)

1.5 外国メディアによる報道

1.6 日本政府・・・・・・

このうち、1.1 について 南京事件の場所、時期、被害者の範囲、内容(死亡のみか暴行、強奪も?)を整理して、諸説ありの中で、関係者の認識においてほぼ合意した内容を記載して、諸説ありでリンクするのはどうでしょうか?


また、 被害者(南京の一般市民)については、以前書いた内容を修正した、以下の内容に全面書き換えしてはまずいでしょうか?まず、事実を書くことが、重要と思いますが。 資料注釈はきちんと対応します。


1.3 被害者(南京の一般市民)

「日本軍による南京市民に対する被害は、第二次上海事変の開始直後に起こった8月15日開始の渡洋爆撃と呼ばれる日本海軍機による南京空襲での死傷・戦災が最初であり、中国側の記録では10月までの二か月(その後も続く)の空襲で400人近くの市民が死亡した[14]。空襲の後、多くの南京市民が市街から遠方に避難し始め、100万人を越えるとされた南京城市の人口は大きく減少し、一方で11月に日本陸軍の中支那方面軍が南京周辺の広大な農村地域の近郊六県を含む南京行政区に進入したため、農村地域等から多くの被災者が南京城市に流れ込む現象も起きた[15]。


「陥落戦時の被害(南京城区での12月13日の南京陥落戦時及びその直後に発生)」

日本軍による南京城市陥落(12月13日)の前後に、日本軍の攻撃や掃討や暴力行為に巻き込まれた市民が少なからず存在したとされる(城外を出て長江を渡って逃げる途中の市民(婦女子も含む)が兵士とともに銃撃を受けて殺された証言、日本兵による攻撃や暴力で殺害された証言(新路口事件)がある)[16]。


「占領時に発生した被害」

陥落後の日本占領期には、南京城内に残ったほとんどの市民は、城市内の南京安全区(英語版)(注)に避難した。その後の占領期間に安全区内(もしくは区外)において、日本軍の市民への暴行・殺傷行為(安全区へ逃亡した中国兵掃討に関する一般人の誤認逮捕・処刑も含む)の情報が伝えられる。[18]


以上のように、南京事件における一般市民の被害とは、「陥落戦時の被害」とその後の「占領時に発生した被害」のみを指す。


日本側の殺害、暴行、略奪等の内容や規模やその真偽についての論争があり、以下にその議論が詳しく記載されている。 また、南京城区と設置された安全区の人口とその推移について犠牲者の情報と比較するために、以下にその議論が詳しく記載されている。


議論については「南京事件論争#一般市民に関して 」を参照

議論については「南京事件論争#人口推移」を参照


なお、南京城市とその周辺ではなく、南京行政区(参考:南京国民政府の行政区分)という広大な農村部(日本の東京・神奈川・埼玉を含めた広さ)を中心とした地域において、日本軍はその地域に侵入したときに住民の殺害・強姦・強奪をそれも安全区の住民よりもより非道かつ過酷な例も含めて行ったとされる日中双方の証言に基づく説がある[19]が、これも一部の日本人研究者の意見(例:笠原十九司等)や中国側研究者の意見では、南京事件の被害に含められている。


(注)南京安全区(英語版)とは、南京攻略戦前の11月、アメリカ人宣教師(ジョン・マギー、マイナー・シール・ベイツや女性宣教師ミニー・ヴォートリンなど)を中心とする15名ほどによって、戦災に巻き込まれて南京城市から避難できない市民などを救済するために組織された南京安全区国際委員会(別称:南京難民区国際委員会)が、南京城市内にアメリカ大使館に協力を依頼して、設定した地域である。南京城市内の北西部にあり、面積は約4平行キロで城市内全域の1割程度であり、外国人施設・邸宅が多くある。ドイツのジーメンス南京支社の支配人であるジョン・ラーベが委員会の委員長となり、南京陥落前に安全区への市民の避難を呼びかけた。安全区は被災民によって南京陥落直後は約20万人(諸説あり)とされ、南京城市内の安全区外には住民が少ない状況となった。[17]。日本側は、安全区には砲撃もせず(いわゆるラーベ感謝状に記載)、組織的な殺戮も起こしていない。」


--Japanese sincerity会話) 2016年1月7日 (木) 13:55 (UTC)

まず、この記事に現在書かれている内容の検証と修正を行って、それらが解決したら章立て変更などを考えたらよいのではないかと思います。Takabeg会話) 2016年1月10日 (日) 13:12 (UTC)

Takabeg会話)さん 松井さんのは有名な文献なので、何度も読んだことがあります。他のもすでに畑さんのは読んだことがあります。なお、すでに文春記事関連は、表現ぶりを変えています。また、細かいことですが、広田は日独伊三国防共協定のときの首相です(三国同盟は近衛)。なお、「現在書かれている内容の検証と修正」 といのは、今ネットに載っているものですか?そのひとつひとつの内容修正ということですか? --Japanese sincerity会話) 2016年1月11日 (月) 11:53 (UTC)

広田・近衛の件は失礼しました。広田は検事から南京事件のことでかなり攻められたようですが、広田が死刑になった理由ははやり不明のようです。本文を書いた利用者たちとソースを貼った利用者たちが別の人々であることも原因のひとつとは思いますが、ページ番号がないものが多いですので検証が困難になっています。そもそも、東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』とか南京事件調査研究会・編『南京大虐殺否定論13のウソ』とかは、論争で使用するたぐいのものだと思います。それらを不備として削除して書き直すという手もあります。「日本メディアによる報道」という箇所ですが、『戦争と検閲』の巻末には検閲関係の資料が掲載されていますが、記事にあるようなことを著者の河原理子さんは書いていません。それと細かいことですが、中支那方面軍の編成はいらないのではないかと思います。Takabeg会話) 2016年1月13日 (水) 13:37 (UTC)


Takabeg会話) さん


広田が死刑になった理由は松井と同じく南京事件の不作為であるという説の可能性は高いとも思います。それはそれとして。 中支那方面軍の編成は「南京攻略戦」の項目に移してもよいと思います。


さて、現在の「一般市民への被害」の以下の記述ですが、私の意見を申し上げます。他の方も含めてご意見願います。

*最初のこの部分(漢奸狩り)は、最初に記するのはどうかなと思います。日本側の対応を書いて、さはさりとてと書いてはどうでしょうか?

「日本軍入城以前の南京では、日本軍の接近にともなって南京市民が恐慌状態となり、中国人が親日派の中国人、日本留学生などを「漢奸狩り」と称して殺害する事件が相次いでいた」

*この部分も、実際に、南京城市陥落(12月13日)の前後に、南京の安全区外や城外での、日本軍の攻撃や掃討や暴力行為に巻き込まれた市民の存在、殺害の規模は不詳だが、新路口事件などの実例をいくつか書くほうがよく(どうでしょうか?)、証言、あったなかったは論争で書くのが本当かなと思います。

「市民への暴行・殺傷行為を直接指示する命令書は確認されていないが、南京攻防戦では無差別に市民を虐殺する命令を受けたとする元兵士の証言がしばしば取り上げられる。夏淑琴は、理由もなく暴行を受けたり、家族や周辺の人々が殺害されたと証言した 」

*以下は、いったん削除するか、他のところに移してもいいんじゃないでしょうか?

松井石根司令官・・などの軍関係者が「強姦、略奪」行為に言及している。」

*以下も、まず安全区の存在とそこでの委員会の活動の説明なしで、報告があっただ、信頼できるだできないだでなく、もっと事実関係を書いて、この項では、このような証言のソースがあるという書き方にかえたいですが。。。

「当時南京に残留して南京国際安全区委員長を務めていたジョン・ラーベは、安全区の警護のために残されていた中国軍や発電所の技術者が、日本軍によって殺害されたことを記録に書き残している。一方で、ドイツ大使館や、報告する大使館によって被害者数が6万人から50人以下まで報告の内容がまちまちであり、全て伝聞の情報を元にした数字であって本人はただの一度も虐殺とされるものを目撃していないことから、信憑性を疑う説もある。当時南京に残留したアメリカ人牧師ジョン・マギーは東京裁判で「市民を殺害するその瞬間を目撃したのは一人の事件についてだけであった」と答え、ついで強姦の現場を二件見たと証言している。マギー牧師が日本軍占領期間中の中華民国の南京で、南京事件の犠牲者・被害者を撮影した8リールの16ミリフィルム(通称「マギーフィルム」)がある。女性アメリカ人宣教師ミニー・ヴォートリンは「ミニー・ヴォートリン日記」として南京での惨状を書き残している。」

どうでしょうか?みなさん すでに書いている自分の書いたのについても、あまり自信ありませんが。。

--Japanese sincerity会話) 2016年1月13日 (水) 15:14 (UTC)

私ばかりがこたえてしまって申し訳ないのですが、漢奸狩りや支那兵による略奪と日本軍の入城とは、時系列的に書くのが定石でしょうね。「さはさりとて」と書いて、という提案については、Wikipedia:避けたい言葉をお読みください。安全区についてはen:Nanking Safety Zoneを開設すればいいですし、安全区は南京安全区国際委員会がありますので、この記事とそれらの記事とのバランスもとったほうがいいと思います。それと、細かいことですが、ミニー・ヴォートリンは支那兵による略奪の恐怖も描いていますよね (和訳本では割愛されていますが)。とりあえず。Takabeg会話) 2016年1月17日 (日) 11:54 (UTC)


Takabeg会話) さんへ

「漢奸狩りや支那兵による略奪と日本軍の入城とは、時系列的に書くのが定石」というのはよしとして、その意味は、いわば南京市民への戦争被害、それも戦時国際法違反に係る被害を表現するため、であると考えます? もし、そうであれば、さはさりとてではなくても、日本軍によるもの、中国側によるもの、と記載してもよいのではないでしょうか。そのような位置づけであれば、まとめられますが。如何でしょうか?--Japanese sincerity会話) 2016年1月27日 (水) 13:24 (UTC)

Takabeg会話) さんへ

漢奸狩りも入れて、これで上書きしてよいか、ご意見を聞きます。1週間ぐらいお待ちします。なお、笠原も秦も読みましたが、この時間的な経緯は笠原のほうが詳しいので記載しました。中立でしょうか?それとも。。

--Japanese sincerity会話) 2016年2月11日 (木) 12:19 (UTC)


1.3 被害者(南京の一般市民)

日本軍による南京市民に対する被害は、第二次上海事変の開始直後に起こった8月15日開始の渡洋爆撃と呼ばれる日本海軍機による南京空襲での死傷・戦災が最初であり、中国側の記録では10月までの二か月(その後も続く)の空襲で400人近くの市民が死亡した。 日本軍の空襲によって、多くの南京市民が市街から遠方に避難し始め、100万人を越えるとされた南京城市の人口は大きく減少し、一方で11月に日本陸軍の中支那方面軍が南京周辺の広大な農村地域の近郊六県を含む南京行政区に進入したため、農村地域等から多くの被災者が南京城市に流れ込む現象も起きた。また、日本軍の接近にともなって南京市民が恐慌状態となり、中国人が親日派の中国人、日本留学生などを「漢奸狩り」と称して殺害する事件も相次いでいた。

なお、南京事件における一般市民の被害は、以下のとおりである。

・「陥落戦時の被害(南京城区での12月13日の南京陥落時と、その直前直後に発生)」

日本軍による南京城市陥落(12月13日)の前後に、日本軍の攻撃や掃討や暴力行為に巻き込まれた市民が少なからず存在したとされる(城外を出て長江を渡って逃げる途中の市民(婦女子も含む)が兵士とともに銃撃を受けて殺された証言、日本兵による攻撃や暴力で殺害された証言(新路口事件)がある)。

・「12月14日後の占領期に発生した被害」

陥落後の日本占領期には、南京城内に残ったほとんどの市民は、当時の在留欧米人によって設定された南京安全区(注)に避難した。しかし、安全区国際委員会の関係者の記録、つまり、ジョン・ラーベの日記(日本語訳「南京の真実」)、(日本大使館への抗議交渉を行った)マイナー・シール・ベイツの証言、ジョン・マギーの証言や残したフィルム(マギー・フィルム)、多くの中国人女性を保護したミニー・ヴォートリンの日記(日本語訳「南京事件の日々」)、アメリカ人大学教員ルイス・S・C・スマイスの調査した「南京地区における戦争被害」(スマイス報告)などには、日本軍の市民への暴行・殺傷行為(安全区へ逃亡した中国兵掃討に関する誤認逮捕・処刑も含む)の情報が含まれている。

以上のような、日本側の殺害、暴行、略奪等の内容や規模やその真偽についての論争があり、以下にその議論が詳しく記載されている。 また、南京城区と設置された安全区の人口とその推移について犠牲者の情報と比較するために、以下にその議論が詳しく記載されている。

議論については「南京事件論争#一般市民に関して 」を参照

議論については「南京事件論争#人口推移」を参照

なお、前述したとおり、南京城市とその周辺ではなく、南京行政区(参考:南京国民政府の行政区分)という広大な農村部(日本の東京・神奈川・埼玉を含めた広さ)を中心とした地域において、日本軍はその地域に侵入したときに住民の殺害・強姦・強奪をそれも安全区の住民よりもより非道かつ過酷な例も含めて行ったとされる日中双方の証言に基づく説があるが、これも一部の日本人研究者の意見(例:笠原十九司等)や中国側研究者の意見では、南京事件の被害に含められている。 (注)南京安全区(英語版)とは、南京攻略戦前の11月、アメリカ人宣教師(ジョン・マギー、マイナー・シール・ベイツや女性宣教師ミニー・ヴォートリンなど)を中心とする15名ほどによって、戦災に巻き込まれて南京城市から避難できない市民などを救済するために組織された南京安全区国際委員会(別称:南京難民区国際委員会)が、南京城市内にアメリカ大使館に協力を依頼して、設定した地域である。南京城市内の北西部にあり、面積は約4平行キロで城市内全域の1割程度であり、外国人施設・邸宅が多くある。ドイツのジーメンス南京支社の支配人であるジョン・ラーベが委員会の委員長となり、南京陥落前に安全区への市民の避難を呼びかけた。安全区は被災民によって南京陥落直後は約20万人(諸説あり)とされ、南京城市内の安全区外には住民が少ない状況となった。日本側は、安全区には砲撃もせず(いわゆるラーベ感謝状に記載)、組織的な殺戮も起こしていないが、前述したような日本軍の市民や脱走兵(便衣隊以外)への暴行・殺傷行為を起こしている。」


Takabeg会話) さんへ 先ほど以上について編集しました。なお、南京事件の被害を一般と軍人にわけたことと、ここれの被害が南京事件の被害とも記載しました。 コメントあれば本文でも遠慮なく。 また、以下のことを考えています。「日本メディアによる報道」あとの「日本政府。。」と合併させますし、「外国メディアによる報道」も東中野さん、渡部さんのコメントは論争に移すことを前提に削除したいとも思います。 --Japanese sincerity会話) 2016年2月20日 (土) 14:06 (UTC)


章立て変更と「南京事件の被害者(中国兵)」などの項目記述の変更[編集]

・私は、以下のように修正提案します。みなさん1週間ぐらいで、ご意見を! 本文掲載時には注釈や引用も入れます。

批判は歓迎します!

--Japanese sincerity会話) 2016年2月22日 (月) 13:48 (UTC)

1.南京事件の定義

重要な提案ですが、南京事件の冒頭の定義を 「南京事件(なんきんじけん)は、日中戦争支那事変)初期の1937年(昭和12年)に日本軍中華民国の首都南京市を占領した際(南京攻略戦)の12月13日の直前直後から約6週間もしくは最大で2ヶ月以内にわたって、当時の日本軍が、中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵、そして「南京城内の一般市民などに対して、戦時国際法に違反した殺傷等の行為を行ったとされる事件。」としたいと思いますが、如何ですか? また、欧米に当時から広く知られていたことも冒頭に記載。

2.構成・表題などの変更

「南京事件の被害者」

南京事件は、前述したとおり、(いつ)1937年12月13日の直前直後から約6週間もしくは最大で2ヶ月以内にわたって、(どこで)中華民国の首都南京市において、(誰が)当時の日本軍が、(誰に)中国側の一般市民および中国兵に対して、(何を)戦時国際法に違反した暴力行為でもって、(どうした)殺害や身体・性的な暴力被害や財物の損害を行ったことである。中国兵の被害者は主に殺害された者であるが、一般人には殺害のみならず身体・性的な暴力被害や財物の損害も少なからず存在した。

・「南京事件の被害者(南京の一般市民)」

・・・・(既載のとおり)・・

・「南京事件の被害者(中国兵)」

「南京事件」の中国軍(南京防衛軍)の兵士の被害者とは、南京攻略戦以降に、日本軍に投降した(捕獲された)中国軍の捕虜、および摘出逮捕した同敗残兵や便衣兵の中で、戦時国際法違反で日本軍に殺害された者を指す。 旧日本軍の親睦組織偕行社のまとめた『南京戦史』によると、公式文書等に記載された捕虜・摘出逮捕した敗残兵・便衣兵への対応は以下の「公式文書による捕虜・摘出逮捕した敗残兵・便衣兵への対応」の部隊別の一覧表のとおりである。この表の殺害数の中に日本軍の戦時国際法違反による殺害が含まれるとされている。当時の中国軍兵殺害については、2015年に日本テレビが製作した番組であるNNNドキュメント'15『南京事件/兵士たちの遺言』においても証言が残されている。

(注)中国側の南京防衛軍の当時の全体総数は、5万(板倉説)、6-7万(「南京戦史」偕行社)、10万(秦説(台湾公式戦史から)・孫宅巍説)、15万(笠原説)と諸説あり、その中での捕虜等になる前に戦死した人数や逃亡し終えた人数も諸説がある。

3.「日本メディアによる報道」「外国メディアによる報道」

・「日本メディアによる報道」は削除し、「日本政府の反応・当時の陸軍高級軍人の証言・日本メディアによる報道と一般国民への情報」というふうに表題変更するなかで統合。「外国メディアによる報道」は、東中野や渡部氏の部分は、本来論争に書くべきなので、論争に移します。ダーディンの証言は論争に記載あるので削除します。

「外国メディアによる報道」の記述は以下に変更

「南京事件は、広く欧米社会のマスコミに、以下のとおりに、事件発生直後の12月15日以降に報道された。アメリカの『シカゴ・デイリーニューズ(英語版)』(12月15日付)や『ニューヨーク・タイムズ』(12月18日、19日付)、イギリスの『タイムズ(ロンドン・タイムズ)』(12月20日)のような有力紙の記事、ロイター通信社による新聞記事によって、事件初期の殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為が日本軍によって行われたとして伝えられて報道された。これ等の報道は、南京に在留していたジャーナリストが、日本軍の南京占領後しばらくして脱出し、船舶無線を使って報道をおこなった(戦時中のために無線が日本軍によって管理されていたため)。その後、1938年以降も新聞記事や雑誌(ライフ誌の特集(1月、5月)で報道される。」

4.「事件の背景について」の日本側兵士の資料への疑問は、論争に移す。

5.「戦後の軍事裁判の扱い」の欄に、広田外相が有罪となったことは記載。

項目記述の変更「(事件の背景)など」[編集]

すでに修正しましたが、「南京事件の被害者(中国兵)」などの情報ですが、もし、疑義あれば、本文でも修正提案願います。

以下、追加提案です。資料・引用は記載します。

「事件の背景について 写真

南京事件は、その事実関係や戦時国際法との関係などについては、殺害の規模やその妥当性について論争がある(リンク)。

しかし、日露戦争・第一次大戦のときに、戦時国際法の優等生であり、ロシア人やドイツ人の捕虜への待遇も人道的であったことで知られる日本軍が、はたして、中国兵や中国人に対して国際社会から批判される所業を行ったのか?という疑問が残る。

中国側の問題として、日中戦争のとき、中国軍が民間人を巻き込むため国際法で禁止されている便衣戦術(ゲリラ戦術)を上海事変のときに行っていたことが、南京において、日本軍が戦闘後に便衣兵狩りに駆り立てたことや、中国民間人に対しても過剰な敵対行為をする原因になったとされる。 そのうえで、当時の中国兵による日本兵捕虜などへの残虐行為も実際にあったことが、日本兵による中国兵への報復的な残虐行為につながったともされる。 一方で、当時の中支那方面軍の状況として、日本側の兵卒の風紀や中国人への態度にも問題があったこと、非行を取り締まる憲兵の少なかったことに問題があった。捕虜となることを恥とする習慣から相手国の捕虜への軽侮につながったとされている。」

なお、「中支那方面軍の編成」は、南京攻略戦に移します。 --Japanese sincerity会話) 2016年2月29日 (月) 13:12 (UTC)

南京事件の発生 を追加しました [編集]

今まで、実はこの部分がぬけていました。 ただ、私の記載内容がやや強引なので、みなの話を聞きます。

まず、戦時国際法違反は本来なかったはずという、規律命令と、それに反した欧米人の意見、しかもそのひとたちが、必ずしも反日でなかったが、記述したこと、それらを果たして誇張と見るか、事実に近いとみるか?そこがポイントです。

意見をどんどんいただきたく願います。


「南京事件は、前述したとおり、(いつ)前述した南京陥落の1937年12月13日の直前直後から約6週間もしくは最大で2ヶ月以内にわたって、(どこで)中華民国の首都南京市において、(誰が)当時の日本軍が、(誰に)中国側の一般市民および中国兵に対して、(何を)戦時国際法に違反した暴力行為でもって、(どうした)殺害や身体・性的な暴力被害や財物の損害を行ったことである。中国兵の被害者は主に殺害された者であるが、一般人には殺害のみならず身体・性的な暴力被害や財物の損害も存在した。

ただし、その規模や内容については諸説あって、このページの「南京事件の被害者」や「外国メディアによる報道」や「日本政府の反応・当時の陸軍高級軍人の証言・一般国民への情報」、「国際社会や中国政府の対応」や「事件の背景について」をそして、規模や虐殺の存否を含めた論争は南京事件論争をご覧いただきたい。

ただし、日本軍の南京攻略戦前の12月7日には、日本の中支那方面軍の司令官松井石根は、「南京城攻略要領」(略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む)を自軍に示していたのであり、そうであれば、戦闘終了後の戦時国際法違反は発生しなかったか、ごく少数にとどまったはずである。しかし、当時、南京に在住した欧米ジャーナリストや教育文化・医療・ビジネスの目的で勤務していた欧米人は、この事件の前に日本人の外交官などから得た好印象を日本に対して持つものもいたし、「日本軍の入城後の秩序の 安定」への期待が、南京攻略時に在住した記者の書いた『ニューヨーク・タイムズ』(12月18日)の記事やドイツ人ビジネスマンのジョン・ラーベの記録[1]にも見られるように存在していた。その、彼ら彼女らが、全世界や後世に残した記録では、この戦争が普通の戦争とは異なり、日本軍入城前後より、戦闘終了後に日本軍が戦時国際法違反の人道上、問題ある行為を看破できないほど、行ったということであったと記述[2]しているという事実である。

その結果、日中戦争の他の地域(上海のように外国人の多く住む地域もあれば、欧米報道機関が全く取材していない地域もある)とは、全く違った問題や論争がその後、長きに渡り今日まで引きずることとなった。南京事件の内容の信頼性・戦時国際法違反の解釈は、他の資料の内容・解釈も含めて以下の項目や南京事件論争の記述をご覧していただきたい。」

  1. ^ ラーベ著「南京の真実(ラーベ日記)」312頁 帰国後の講演の部分で、中国人に日本軍が来たら治安が落ち着くと言っていたこと 80頁 駐日ドイツ大使館からのドイツ駐華大使宛の電報「日本は都市をはじめ、国民政府、生命、財産、外国人及び無抵抗の中国人民をできる限り寛大に扱う」
  2. ^ 掲載されている記録 南京安全区国際委員会の関係者の記録:ジョン・ラーベの日記(日本語訳「南京の真実」)、(日本大使館への抗議交渉を行った)マイナー・シール・ベイツの証言、ジョン・マギーの証言や残したフィルム(マギー・フィルム)、多くの中国人女性を保護したミニー・ヴォートリンの日記(日本語訳「南京事件の日々」)などである。:「南京の真実」ジョン・ラーベ 講談社文庫2000年、「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」 ミニー・ヴォートリン 大月書店 1999年、「ドイツ外交官の見た南京事件」 大月書店 2001年、「南京難民区の百日 虐殺を見た外国人」 笠原十九司 岩波現代文庫 岩波書店
  • wikipedia編集者による論考は必要ありません。とくに記述の体裁がwikipedia編集者が読者に語りかけ議論の整理を誘導する体裁となっており不適切です(wikipediaは初学者むけの教科書ではありません)。この一章はまったく無くても記事全体の品質になんら影響を与えることはないでしょう。外部の信頼できる情報源においてもこのような章立てにより「百科辞典」として要約できるような共通認識があるとも見ておりません。章立ては後々の編集方針に重大な影響を与えますのでこのような章立てには反対いたします。wikipediaの編集により何事か偉大なことができるのではないかという野心は捨てましょう。--大和屋敷会話) 2016年6月10日 (金) 03:09 (UTC)

一部削除[編集]

名称の種類での1984-85年偕行社「証言による『南京戦史」から加登川発言までは、名称の問題と関係がほとんどないので削除を提案します。--さんぽーる会話) 2016年6月18日 (土) 09:35 (UTC)

南京事件論争記事との明瞭な区別はあるのか[編集]

報告 ノート:南京事件論争#統合提案にて、ここのページと南京事件論争記事との明瞭な区別はあるのか、統合提案も含めて議論しています。--さんぽーる会話) 2016年6月20日 (月) 16:25 (UTC)

転記および整理の提案[編集]

南京事件論争との統合提案と並行し、以下を提案します。

  • 「南京事件の被害者(中国兵)」のうち「公式文書・公式文書以外による捕虜・摘出逮捕した敗残兵・便衣兵への対応」表を南京戦へ転記。これらは、いわゆる南京大虐殺、南京事件に含まれるかどうかについては論争の争点であるが、日本側の戦闘詳報や南京戦史でも記載されたもので、南京戦中の「掃蕩戦」(残敵掃蕩戦)についての記載であり、各隊の侵攻経路や殺害場所なども同時に説明する必要があるため、詳細は南京戦のページで説明すべきである。ここのページでは集計にとどめる。なお、転記の議論の結果に関わらず、南京戦への記載は必要であるため転載します。また、中支那方面軍の編成にも、中国軍の戦闘序列と同時に説明する必要があるが、これは南京戦または南京攻略戦の戦闘序列へのリンクにとどめ、こちらでは削除するべきです。
  • 「国際社会や中国政府の対応」のうち「背景」を上海戦へ転記。これは国際連盟やアメリカの動きについての記載だが、1937年9月から10月にかけての動向であり、時期からいえば上海戦(1937年8月13日 - 10月26日)の際の動向で、南京戦(12月4日 - 12月13日)以前のものであるため。南京事件と直接の関係はない。

転記提案以外にも整理が必要で、特にJapanese sincerityさんの近年の加筆については、南京事件論争での加筆と同じ傾向と内容のもので、中立性や、構成上の問題があるので、整理します。なお、Japanese sincerityさんとはノート:南京事件論争#編集不備以下で議論を行い、整理しました。出典の明記されていないものは除去します。また「南京事件の発生」における日露戦争などの戦争捕虜に対する人道的扱いの説明、「南京事件の被害者(中国兵)」における戦時国際法についての説明は「論争」へまとめる。なお、現在、南京事件論争との統合が議論されているが、統合された場合は再度「国際法」の節としてまとめる。--さんぽーる会話) 2016年6月21日 (火) 16:31 (UTC)一部訂正--さんぽーる会話) 2016年6月22日 (水) 16:19 (UTC)

さんぽーる会話)さんへ 貴殿の「「公式文書・公式文書以外による捕虜・摘出逮捕した敗残兵・便衣兵への対応」表を南京戦へ転記。これらは、いわゆる南京大虐殺、南京事件に含まれるかどうかについては論争の争点であるが、日本側の戦闘詳報や南京戦史でも記載されたもので、南京戦中の「掃蕩戦」(残敵掃蕩戦)についての記載であり、各隊の侵攻経路や殺害場所なども同時に説明する必要があるため、詳細は南京戦のページで説明すべきである」という意見はどうでしょうか?戦闘の終結後であり、捕虜の確保・収容だけなら戦闘の延長でいいですが、投降者や捕虜や脱走兵へのその後の戦時国際法違反の疑い・可能性を考えると「戦闘の延長」はそもそも無理があります。つまり、捕虜捕獲のそのときから、降伏者の殺害はさかのぼると南京事件ですよね。また、日本が南京事件を起こした可能性がある、名誉ある日本が?なぜ?「南京事件の発生」における日露戦争などの戦争捕虜に対する人道的扱いの説明は、そのような国際社会の認識へのことであり、その事件の認識後。それでじゃあ実際はというのが論争です。如何でしょうか?--Japanese sincerity会話) 2016年6月28日 (火) 13:58 (UTC)

いずれにしろ、このページは、みんながからんでいるので、統合に実質なるような整理は慎重にしてほしいです。--Japanese sincerity会話) 2016年6月28日 (火) 23:13 (UTC)

「掃蕩戦」(残敵掃蕩戦)という認識は「南京戦史」でも使用されているので、「無理がある」といいたいのであれば「偕行社の南京戦史は掃蕩戦(残敵掃蕩戦)と表現するが、無理がある」と主張している論者の評価を記載すればいいのではないでしょうか。その出典がなければ独自研究です。また、当時日中戦争(支那事変)が終結していないのですから、戦時中の事件であるのは間違いないことです。
日露戦争時の扱いについて南京事件と関連させて明確に論じたものはありますか?出典を持ち寄って記載してください。関連性を示す出典がない以上、独自研究です。
「統合に実質なるような整理」などしていませんので、発言は慎重にしてください。--さんぽーる会話) 2016年6月29日 (水) 05:50 (UTC)

すみません、「公式文書・公式文書以外による捕虜・摘出逮捕した敗残兵・便衣兵への対応表」の詳細を南京戦へ移動することには反対なのですか?それと「戦闘の延長」の話題と関係はありますか?話題は編集に関することに限定していただけませんか。「敗残兵・便衣兵への対応」の詳細は、日時、場所、部隊名、作戦名、当時の状況について説明する必要もあるので南京戦へ書き、こちらは概要にとどめる、という提案です。--さんぽーる会話) 2016年6月29日 (水) 06:07 (UTC)

「松山収容所―捕虜と日本人」中公新書 1969、北清事変の「日本外交史人物叢書 第24巻 破滅への道:私の昭和史」上村伸一著 81頁に、南京事件に関する記載がありません。
またラーベ、マギー、ベイツ、ヴォートリンの記録のどこに「日本軍入城前後より、戦闘終了後に日本軍が戦時国際法違反を行い、それも人道上、非常に問題ある行為を看破できないほど行った」とありますか?この文章はないので括弧を外します。
しかしながら、日本軍の暴行のことばかり加筆されていますが、中国軍による暴行、同士討ち、日本軍に変装して暴行したことなども数々の資料で裏付けされています(ラーベ、ベイツ、ヴォートリンも記録しています)ので、中立性の観点より加筆しましょうか。--さんぽーる会話) 2016年6月29日 (水) 08:33 (UTC)

「南京事件の被害者(中国兵)」の対応表ですが、「公式文書では収容 7450、釈放 7850、不明 172、処断 約12,000とあり、非公式文書では〜」と概要にとどめるべきです。あるいは、中途半端に詳細を書くのではなく、各部隊の動向についても説明すべきだし、そもそもこれは「日本軍の対応」であって、収容や釈放も書いてあり、これらの捕虜がどこにいつ収容釈放されたのかも書くべきです。また、収容と釈放なのであり、殺害されていませんので「被害者」ではない。また処断についても場所、そして当日の事件の詳細、たとえば捕虜がパニックになって暴れたり、日本軍将兵も殺害されていることも書かれるべきです。以上は、「詳細を書くのであれば」ということで、概要のみにすることが私の提案です。--さんぽーる会話) 2016年6月29日 (水) 10:00 (UTC)

 私は不満もないわけではないですが、いろいろな意見を残している姿勢には感服します。自分もひとりで作成する危険さを感じていました。よろしく議論しましょう。--Japanese sincerity会話) 2016年6月30日 (木) 13:05 (UTC)

外部リンク[編集]

以下のリンクはいずれも匿名の方のHPです。内容とは関係なく、匿名ではWP:ELでの条件に会いませんので、削除。肯定派の他のサイト(個人、団体)と差し替えてください。

--さんぽーる会話) 2016年6月29日 (水) 06:19 (UTC) もし、そう考えるなら、位置づけに疑問ある否定派のサイトもカットしたらどうでしょうか?--Japanese sincerity会話) 2016年6月29日 (水) 13:51 (UTC)

誤解しないでください。中立性からも肯定派のリンクは貼ることを私は推奨しています。これらのサイトは匿名なので残念ながら出典として無効です。ただ、これらのサイトで紹介されているコンテンツがそうであるわけではないです。Wikipedia:信頼できる情報源には「信頼できる情報源は、情報源が誰かをはっきりと表明する傾向にあります。なので、作者名の付いた引用は「匿名の情報源」よりも信頼できます。」とあり、「誰が」書いているのかが分からないサイトは掲載不可でしょう。否定派の方々は実名ないしペンネームで著述活動を公表されている方なので条件に合致しております。上のサイトの運営主がその名前で雑誌や著書を刊行しているのであれば、出典を提示してください。--さんぽーる会話) 2016年6月29日 (水) 14:37 (UTC)

南京入城までの両軍の動向[編集]

「南京入城までの両軍の動向」の<12月29日、上海派遣軍は「南京本防御線攻撃より南京城完全攻略にいたる間、我が方戦死八百、戦傷四千、敵方遺棄死体八万四千、捕虜一万五百、鹵獲品・小銃十二万九百・・・である」と発表した[12][13]。しかし、翌年1月、敵の損害は約八万、うち遺棄死体は約五万三、八七四」と算定した[14]。これにつき、防衛庁防衛研修所戦史室の『戦史叢書』は「日本軍の戦果発表が過大であるのは常例であったことを思えば、この数字も疑わしい」[14]とし、偕行社の『南京戦史』は「上海派遣軍発表の遺棄死体数は、中国防衛軍の総兵力判断6〜7万と比べ著しく過大である」[15]としている。>の記載の必要がありますか?南京戦にも同記載ありますが、両軍の損害について総数を書いたので、この記載は無意味なので削除します。--さんぽーる会話) 2016年6月29日 (水) 07:56 (UTC)

戦犯裁判と章立て[編集]

南京裁判と東京裁判の加筆が必要です。判決文は現在の中国政府の主張の根拠となっており、この戦犯裁判で事件は告訴され、「南京大虐殺」が事実認定され、戦後の論争のはじまりとなりました。章立てですが、まず「南京事件(大虐殺)」として「事実認定」された戦犯裁判の判決の内容を書く。そしてその後の「論争と研究」で個々の論点や当時の経緯の概要を書く、と提案します。--さんぽーる会話) 2016年6月29日 (水) 09:53 (UTC)

背景と経緯[編集]

「背景と経緯」へ「事件の背景について」をまとめます。論争については南京事件論争へ。--さんぽーる会話) 2016年6月29日 (水) 14:52 (UTC)

肝心の「事件」の説明がされていない[編集]

整理してみると、やはり肝心の「事件」の説明がされていません。「事件の概要」が必要です。どの事件が、どの「虐殺」が「南京事件」「大虐殺」なのか、が説明されていません。#転記および整理の提案と重複する指摘となりますが、「事件の被害者」の「敗残兵・便衣兵への対応」のうち、どれが「南京事件」なのですか。「処断」は「事件」の一部といえますが(ただし日本軍側からは掃討戦で、実際、日本軍も捕虜の暴動で戦死者が出ている。「南京戦史」)、第6師団歩兵第45連隊第2大隊などは「収容」「釈放」ですし、「不明」をここで書く必要はありません。やはり南京戦での詳細記載へのリンクにとどめるべきです。

「事件の概要」は、戦犯裁判の判決、中国側の主張、そこで引用される外国人の記録などを出典にして書かれるべきでしょう。判決については書きます。--さんぽーる会話) 2016年6月29日 (水) 15:33 (UTC)

  • 事件の範囲や性質について外部で深刻な論争がある対象について、「名無しの」wikipedia編集者としてそのような野心は捨てるべきでしょう。適切な文献があれば提示してみてください。さんぽーる氏の視点はwikipedia向きではない編集予感がします。--大和屋敷会話) 2016年6月30日 (木) 01:42 (UTC)
判決を書くことに「野心」などありません。判決があっての論争です。中国政府の主張はこの判決を繰り返しているだけです。出典は提示します。--さんぽーる会話) 2016年6月30日 (木) 12:51 (UTC)
  • いずれにせよ「信頼できる情報源からの起筆箇所」を削除して置き換えるのではなく、新たに信頼できる情報源から「加筆」して頂ける分については大歓迎であります。--大和屋敷会話) 2016年6月30日 (木) 23:56 (UTC)

名称の種類と変遷[編集]

「名称の種類と変遷」は、内容が「論争史」と「歴史教科書問題」とがまざっており、事件名称自体が争点でもあります。論争についての記述なので南京事件論争への移動を提案します。こちらでは、冒頭などで「〜などの名称がある」程度の概要でいいでしょう。--さんぽーる会話) 2016年6月29日 (水) 15:37 (UTC)

  • 反対 外部には「事件の呼称」に関する(明らかな)論争は存在していないはずです。あくまでこの「事件」の呼称についての情報を「紹介」している記述ですので当記事に配置しておくことが適切です。--大和屋敷会話) 2016年6月30日 (木) 01:33 (UTC)対華21カ条要求#名称についても参照してみてください。本「事件」においても正式な名称は存在していなかったはずですので。--大和屋敷会話) 2016年6月30日 (木) 01:53 (UTC)
「事件」とするのは矮小化という批判は日中だけでなくアメリカでもいわれていますし、争点です。争点である以上、長々とこの記事で諸派のやりとりを記載するよりも、論争記事で書くべきではないでしょうか。これは論争と事件を分けるべきとする見解に対して首尾一貫を求めるものです。争点かどうかの明瞭な区分ができないから私は統合を提案したのです。--さんぽーる会話) 2016年6月30日 (木) 12:59 (UTC)
  • 現在確認できているのはアメリカの例の記者のエッセイだけのはずです。無名の活動家がさわいでいるのはwikipedia的には「論争」とはいえませんよ。--大和屋敷会話) 2016年6月30日 (木) 23:54 (UTC)

無名の活動家でなく、日中の教科書記載の違いなどもあり、中国側の研究者は「南京大屠殺」だと主張し、「南京事件」は矮小化だといっています。中国側はどうでもいいとするのは中立性に問題があります。しかし、出典を追加しないとわかってもらえそうもないので後日書きます。--さんぽーる会話) 2016年7月1日 (金) 13:48 (UTC)

「事件」と「虐殺」の件は他にもあったので、南京事件論争史#英語圏の研究や論説で詳細を書きました。よって、こちらでは要約にとどめ、詳細は南京事件論争史#英語圏の研究や論説へのリンクとします。--さんぽーる会話) 2016年10月9日 (日) 01:03 (UTC)

Wikipedia:中立的な観点をもって、デビッド・M・ケネディさんのエッセーをソースにした編集内容の検証[編集]

既存編集内容:

この事件については、事件の規模、虐殺の存否、戦時国際法違反か、犠牲者数などさまざまな論争が存在している(南京事件論争)。故に事件の真相はいまだ不明である[1][2][3]

利用者‐会話:废科举による内容拡充の編集:

行為者の日本に限り南京大虐殺の存否をめぐって論争が後を絶たないが(南京事件論争参照)、諸外国では南京大虐殺事件を史実として共有している。例えば、中国系アメリカ人作家アイリス・チャンの著作ザ・レイプ・オブ・南京についてのエッセーでは、ピューリッツァー賞受賞者の米国人歴史学者デビッド・M・ケネディは、ナチスドイツが行ったホロコースト事件の原因に関する分析に見られるような国策、文化及び国民性との関連性までの指摘が、アイリス・チャンの研究には足りないのではないかと主張した一方、西洋諸国では南京大虐殺事件自体の存在を事実として当時から一貫して共有してきたと明示している[4]

利用者‐会話:废科举による編集内容を支えると思われる原文の箇所内容の一部:

①デビッド・M・ケネディ氏の『ザ・レイプ・オブ・南京』に対する指摘: BUT if this improbable tale reminds us of the enigmas of good and evil and the infinite mysteries of the human personality, Chang does not bring an analogous sense of complexity to her effort to explain why the Rape of Nanking happened at all.

How did military discipline first degenerate into disorder and then slide into such stupefying depravity?

Were Japanese actions the result of deliberate high-level policy decisions to terrorize the Chinese?

Did the Imperial Japanese Army's atrocities flow from some moral defect in the Japanese national character? 

From willful military indoctrination that cultivated race hatred toward the Chinese?

From the bent minds of crazed local commanders?

From wholesale insubordination by an ill-educated and hard-used soldiery?

Or did the whole history and atmosphere of the Yangtze—especially the bloody 1937 campaign from Shanghai up the valley, which culminated in the nightmarish condition of Nanjing on December 13—somehow unbridle the demons in men's souls?

……this book does a much better job of describing the horrors of Nanjing than of explaining them. Part of that deficiency is owing to Chang's sources. With but a handful of exceptions, Chang tells her tale from the point of view of the Chinese victims in Nanjing or the Caucasian witnesses in the Safety Zone. Her evidence offers little basis for any insight into the mentality of the perpetrators.

She offers little that is comparable to the carefully nuanced analysis of the motives behind Nazi brutality that one finds in works……

以上のデビッド・M・ケネディ氏の指摘には行為主体は日本だけしか提示していないから、南京大虐殺の具体的な原因(日本の国策か、日本の国民性か、日本軍の軍国的教育に由来する中国に対す増悪感か、日本軍人のむき出しにした男の悪魔意識か)は解明していないとしても、原因のすべては「From Japanese」こと自体は明示してくれたのでしょう。

②デビッド・M・ケネディ氏自身が南京大虐殺の存在を認めている根拠:

……the city's Chinese inhabitants were so traumatized that many of them welcomed the Japanese army as a disciplined military force that might at least impose a semblance of order on the chaotic hell of bleeding, burning Nanjing. That expectation the Japanese abruptly and cruelly demolished.

……The procedure was certainly allowable under recognized rules of war, but Matsui's troops carried it out with wanton ferocity. They rounded up all young men of military age and proceeded to kill them in wholesale machine-gunnings and serial decapitations, sometimes in full view of horrified onlookers. Worse soon followed. Roaming bands of Japanese troops began murdering civilians at random, indiscriminately assailing the young and the old, men, women, children, and unborn fetuses alike, with bludgeon, bayonet, rifle, torch, and sword. Matsui's soldiers used both living and dead Chinese for bayonet practice. They mutilated, tortured, and maimed countless victims. According to Chang's account, they hanged people by their tongues and marinated them in acid, dismembered them, grenaded them, impaled them and burned them and flayed them and froze them and buried them alive. They also raped countless women, bestowing upon this unholy episode the name by which it has forever after been known and which furnishes Chang's title: the Rape of Nanking.

But if a penchant for the sensational, along with a certain credulousness, occasionally colors Chang's recounting of some of those incidents, there can be no doubt that the evidence amounts to a crushing indictment of the Japanese army's behavior. The Rape of Nanking stands out in the long and sorry annals of warfare and its crimes as an exceptionally heinous monstrosity. Even the Japanese Foreign Minister, Hirota Koki, reported after an inspection trip in January of 1938 that the "Japanese Army behaved . . . in [a] fashion reminiscent [of] Attila [and] his Huns. [Not] less than three hundred thousand Chinese civilians slaughtered, many cases [in] cold blood."

In the final accounting, this book does a much better job of describing the horrors of Nanjing than of explaining them.

……"Why the devil did you stay?" a puzzled Japanese officer asked him in the midst of the pandemonium engulfing Nanjing.……

BUT if this improbable tale reminds us of the enigmas of good and evil and the infinite mysteries of the human personality……

The Western world in fact neither then nor later ignored the Rape of Nanking. 訂正版 废科举会話) 2017年8月16日 (水) 11:18 (UTC)

提案[編集]

今回のようなバトルはどう見ても不毛です。よって、废科举が書いた内容で私が修正したもので、废科举本人が納得した内容は生かしてもいいと思います。恐縮ですが大和屋敷も納得してほしいです。日本では南京事件はその存否の論争がありますが、その規模や事実認識は別として多くの国では南京虐殺という言葉はとりあえず広まっていますので、それも事実としては書いてもいいと思います。つまり、解釈に多くの見解があるのも事実です。確かに歴史上に起こったことは1回のみで、それが真実です。しかし、事実認定や事実そのものさえも、その解釈(犯罪に当たるかなど)には幅があります。私は、今まで資料で可能な限り事実を追ってきて、同時に見解の幅がある場合は。その根拠の精度や事実性の濃淡を示しつつ、可能な限り、様々な意見の違いの存在は記載すべきとしました。少し話題はそれますが、英語版の「南京事件」関連で、昭和天皇が昭和12年8月に戦時国際法違反の捕虜殺害の容認を個人的に通知したと書いてありましたので、おかしい?と思い、調べたら、どうも陸軍次官の8月5日のハーグ陸戦条約無視の通知のこと(秦氏の本にもあり。私も南京事件と論争で何度か記載)であると突き止め、「陸軍省」が、とその主語を修正しました。ついでに最近は仏語版も同様になおしています。昭和天皇の濡れ衣をはらしたい、という個人的意思もありましたが、何よりも事実に固執した結果の例です。この場合は事実にこだわりました。しかし、そもそも事件全体のとらえ方は幅があるのは妨げられません。如何でしょうか。何よりバトルは不毛なので、意見あれば、こちらに書いてほしいです。--Japanese sincerity会話) 2017年8月18日 (金) 15:57 (UTC)

  1. ^ 長谷川啓之「南京」「現代アジア事典」文眞堂, 2009
  2. ^ David・M・Kennedy,The Horror,The Atlantic Monthly 281 (4): pages 110–116,April 1998.塩谷紘訳 デビッド・M・ケネディ「南京虐殺はホロコーストではない」『諸君!』平成10(1998)年8月号
  3. ^ Kennedy(1998)は「南京虐殺事件の背景について万人が納得するような説明はいまだなされていない」とする。
  4. ^ David・M・Kennedy, The Horror :Should the Japanese atrocities in Nanking be equated with the Nazi Holocaust?(ザ ・ホラー:南京で行った日本人の残虐行為はナチスのホロコーストと同一視されるべきか?)”. The Atlantic.com. 20170808閲覧。
  • 主張と事実を混同している典型的な編集です。また「同盟軍」という独自の定義を史実の裏付けなく導入してはいけません。いずれにせよずさんな加筆でありWikipediaの品質水準に満たないものとして差し戻しました。--大和屋敷会話) 2017年8月19日 (土) 03:28 (UTC)

やや不満はあるが、了解します。他の方も意見あれば。--Japanese sincerity会話) 2017年8月19日 (土) 07:55 (UTC)