ノート:人生の意義

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記事差し戻しに関して[編集]

2006年10月27日にIronthroneさんが大胆な編集をされ、記事のほとんどを白紙化ないしおきかえておられますが、一種ニヒリズム的視点に基く偏った言説に立脚していると思われたため、これを差し戻しました。視点としては個人的に愉快だとすら感じたのではありますが、如何せん誰もがそれを面白がってくれる訳でもなければ、また百科辞典における情報の網羅という面から難があると考えての差し戻しです。--夜飛 2006年10月27日 (金) 03:39 (UTC)[返信]

一部削除[編集]

「概要」の節の要出典範囲になっている「この問いは、数ある哲学的な問いの中でも、おそらく最も古くから存在し、普遍的に存在する問いであり、多くの人間が想い抱く問いであるといえよう。」を削除しました。「数ある哲学的な問いの中でも、おそらく最も古くから存在し」は明らかに間違いであるし、「普遍的に存在する」というのも意味不明(時間的という意味なのか空間的という意味なのかそれともあらゆる民族に共通という意味なのかそれとも他の意味なのか)。哲学の問いのうちで最も古くから存在するというのならタレスアナクシマンドロスといった最初期の哲学者たちが論じているはずだが、あいにくそのような形跡はない。ゆえに削除。そんなわけで「人生の意義」というテーマの出自が分からないので哲学史ないし学説史的に「人生の意義」が問題にされだした背景、過程、道筋なんかを誰か詳しい方に加筆してほしいところ。--Tantalos 2009年9月13日 (日) 05:56 (UTC)[返信]

全体的に怪しい自己啓発セミナーみたいな記述に偏っていたし、誰も書かないので哲学における扱いを(英語版からの翻案ですが)随時追加していこうと思います。あと、これまではヴィクトール・フランクルと神谷美恵子の意見の記述が中心だったけど、現在の通説だったり、史上大きな影響を与えたといった理由でもない限り彼らの意見にそれほどの特筆性はあるのだろうか。--Tantalos 2010年3月11日 (木) 12:45 (UTC)[返信]


今後の加筆の方向性について[編集]

はじめまして。

あまり英語版からの翻訳で記事を組み立てないほうがよいでしょう。英語版Wikipediaの投稿は、一部の変質的な投稿者が感情的に編集して、正しく構成されていない場合が多々ありますから。記事にもよりますが、:en:meaning of lifeに関してはちょっと首をかしげたくなるような構成、記述が多々含まれています。

それと、英語版から翻訳すると、元が出典不足なので、日本語版ではなおさら検証可能性を満たさなくなるケースも出てきます。今回の投稿していただいた部分を見ても、出典が不明な箇所が多々ありますね。

英語版を訳すよりも、英語版はあくまでヒントとして用いるとどめて、自分で実際に著作を読んで(例えば、今回なら、ジェレミー・ベンサムの翻訳あるいは原著)、それをもとに書いたらどうでしょう? そのほうが検証可能性を満たします。考え方を端的に表現している部分は、注意深く抽出して、できるだけ正確に記述する必要があります。核心部となるフレーズは、そのまま引用したほうがよい場合もあります。

さらに言えば、哲学者の考え方を紹介する場合でも、今回訳していただいたところではなくて、むしろまずはソクラテス、プラトン、アリストテレスあたりをしっかり押さえるのが先ではないでしょうか?

論理実証主義の意見は、このテーマに関しては門外漢が発言しているようなもので、本来、特筆性がありません。(英語版に掲載した人の神経が知れません)日本語版では掲載は、止めておいたほうがよいのでは? ジェレミー・ベンサムは、まあ掲載してもよいとは思います。

ヴィクトール・フランクルの説は読者数が世界的に見ても多く、哲学者の見解よりもむしろ普及している説だと思われます。(それを紹介していない点でも、Wikipedia英語版は、なにやら少し異様な状態です)。神谷美恵子の生きがい論は日本では知名度が非常に高く、読者数が膨大な数にのぼります。ただし海外での知名度は低いです。日本では欠かせない存在なので、日本語版のWikipediaでは紹介しておくのが順当でしょう。(英語版には書かないほうが自然です)。

「全体的に怪しい自己啓発セミナーみたいな記述」などと表現するということは、もしかして、人生の意味というテーマを、科学主義科学崇拝の視点で見ようとしていませんか?このテーマを扱う時は、科学の方法論を振り回そうとする態度のほうがむしろ間違っていて、いかがわしいものになってしまうので要注意です。テーマごとに適切な方法論は異なっている、ということにまず気づくことが大切です。科学というのは、意味や価値を扱うことができない体系です。というより科学というのは、意味や価値とは無関係に記述を組み立ててゆく方法論ですので、それをどれだけ振りかざしても「意味がつかめない」→「無意味だ」となることは、実は最初から決まっているわけです。科学風の方法を用いたところ人生に意味が見出せないとしても、それは人生に意味がないということではなく、科学という方法論を用いれば用いるほど、どんな対象を考察しても「意味が見出せない」→「無意味だ」という方向になってしまうわけです。たとえば「月に意味はありますか?」という問いを科学風の方法論(記述)で考察すればするほど「意味???」→「月に意味はない。」という展開になるわけです。科学風の言説を展開するかぎり、宇宙中のどのようなものごとを持ち出してきても、科学風の言説では「意味」は記述できないので、「無意味」という印象になってしまいます。結局、意味を論じる時に科学に近い方法論を持ち出してくること自体が場違いで、それこそ無意味で、くだらないことです。考察対象に意味が無いのではなくて、意味を生み出さない科学という方法論のほうにある意味で欠陥がある、もしくはそういう方法論では意味が生み出せない、ということに気づいていない人がいる(無自覚な科学崇拝者がいる)ということが問題なわけです。

哲学者の見解というのも、近・現代になればなるほど、おおむね憂鬱な結論や、けっこう病的な結論になるものが多いです。簡単に言ってしまえば、シニスム、虚無主義の一言で片付けられるようなものです。まあ、百科事典ですので、若干は紹介してもよいだろうと思いますが、紹介するとしてもくれぐれも行数は控えめにしてください。読み手がうんざりさせられるものになることは最初から決まってますので。基本的に、後回し、ポジティブな記述を山ほど書いた後でもよいのでは。

ところで、哲学者の見解よりも、むしろ各宗教で、人生の意味に関してどのような見解をしめしているのか、ということを記述したほうが、よほど建設的で有意義な記述が増えると思われます。メジャーな宗教(例えばキリスト教イスラム教仏教など)では、人生の意味はどのようなものだとしているのか?。これは非常に大きなテーマです。何しろ、実際にその思考様式を採用している人の数が非常に多いのですから。(例えば、キリスト教の考え方をしている人だけでも20億人を超えています。仏教徒も数億人います。(現代の小難しい哲学者の思考をなぞる人々は、きわめて少ないですが、)宗教のほうは人数的に見て非常に影響力が大きいので、特筆に値します。それに、どのような用語の体系、世界観で「価値」を組み立てているのか?ということは奥深くて、読み手も楽しめる、面白いテーマです。--Windfinder 2010年3月11日 (木) 17:22 (UTC)[返信]

英語版からの翻訳を載せた者です。Windfinderさんの言うように当該部分は不完全な出来であり、加筆修正が必要なものであるということは認めます。とはいえ、「哲学の主題」というカテゴリーに入っているにもかかわらず、全くといっていいほど哲学者の意見がないのはどうかと思い、叩き台として書いた次第です。暇を見つけてより良い記述にしようとは思っています。あと、すでに書いていますように別に功利主義とプラグマティズム、論理実証主義だけで終わらせるつもりはありません。
また、「論理実証主義の意見は、このテーマに関しては門外漢が発言しているようなもので、本来、特筆性がありません」という意見に関して賛同はしかねます。というのも、論理実証主義も立派な哲学の一学派であり、「門外漢」ではなく、ゆえに哲学の主題において彼らの意見も書くのは不当ではありません。ただ、彼らの主戦場が科学哲学であり、また彼らのスタイルは科学的に哲学をすることであるから、自己の実存の闇みたいなのと向き合って懊悩しながら思索を深めている、というような哲学者についての素人臭いイメージとはかけ離れていることは確かかもしれません。
またヴィクトール・フランクルや神谷美恵子についてですが、ただ単に「有名だ、読者が多い」というのであればJ・K・ローリングだろうと鳥山明だろうとOKということになります。ある程度の知名度も特筆性の基準としては重要かと思いますが、学者の場合はアカデミックな専門家からのある程度の評価や彼らの間でのある程度の知名度もこのような場合は顧慮されてしかるべきではないでしょうか(蛇足ながらヴィクトール・フランクル神谷美恵子についての記事を見る限りでは彼らの波乱万丈の人生については書いてあっても学者としての業績については不思議なほど書かれていません)。
次は方法論について。科学的探求方法を価値や意味に適用することは間違っており、価値や意味はそれでは捉えきれない部分があるとおっしゃいますが、二点ほど指摘したいと思います。(1)価値や意味を扱う方法論は単なる個人の意見表明や個人的信念ではなく、(科学的方法と拮抗するほどの)正確性と客観性を持ち、信頼の置けるものなのか?(2)「このテーマは科学的には検証できない」→「だからこのテーマには科学的方法は不適切だ」というWindfinderさんの推論には飛躍があるのではないでしょうか。例えば、「私の血液型はA型である」という命題を採血によって検証し、彼が本当はB型だったと結果が出たとして、そこで彼が「だから科学はダメなんだ。科学では私がはA型であることを捉えきれていない!」と言うかのようなものです。また、問いを立てるにあたってはその表現が誤用である可能性もあります(論理実証主義で人生の意味についての答えはそうなります)。「赤は早いか遅いか?」という問いは明らかに言葉の誤用ですが(けだし「月に意味はありますか?」も)、これに答えられなかったからといって科学的方法が間違っているということにはなりません。
下の「筆の進め方についての補足」についても言える事ですが、Windfinderさんはシニスム、虚無主義的、ネガティブな記述については控えろ、とおっしゃいます。しかし、人の耳に心地よく響くポジティブな記述を長く、読み手の耳に心地悪いネガティブな記述を押さえるという執筆方針には疑問を感じざるを得ません。それはWikipedia:中立的な観点に反するものではないでしょうか。そしてまた、デイヴィッド・ヒュームの言葉を借りるならば「哲学の議論において宗教や道徳への危険な帰結を口実として何かしらの仮説を論駁しようとすることより以上に普通であり、かくも非難されるべき推論の方法はない。何かしらの意見が不合理へと我々を導く時、それは確実に間違っている。しかし危険な帰結のために、その意見が間違っているということは確実ではない」。また、悩んでいる人を元気付けるエッセイや生きるアドバイス、自分の大切な人への私信を書きたいのならば、それは百科事典よりも個人のブログや便箋に書くべきことではないでしょうか。
長々と失礼しました。--Tantalos 2010年3月13日 (土) 03:38 (UTC)[返信]

筆の進め方についての補足[編集]

それと、気づいていただきたいのですが、この記事は、生きるか死ぬか悩んでいる若者なども多数読みに来ている記事です。純粋に学問的興味で読む人よりも、むしろ「どうしたら自分の人生に意味が見出せるのだろう?」「ああ、人生がつらい。どのように考えれば、人生に意味があると思えるのか?どう思えば生きてゆくことができるのか?」などとと悩みつつ読んでいる人たちも多いであろう記事なのです。ここでの投稿者の筆の進め方によって、うっかり暗い暗示などかけてしまうと、現実の世界で、毎年何人、何十人もの人の命に影響が出る可能性もある、さらにはその数倍の数の友人や家族の人生にも影響が出かねない、ということも、よくよく慎重に考慮していただきたいものです。 たしかにWikipediaは百科事典ですので、百科事典という形式を守らざるを得ないとしても、せめて制約の中で、人間に良い影響を与える記事にすべきです。先達たちが見出した、「生きてゆく意味」を構築するヒント、「人生の苦痛が減るような考え方」のヒント、についての情報を提供し、この記事を読んだ読者各人が各人なりに元気に生きていってもらえるきっかけとなるような記述を、メインにする、というのが良識というものです。ご自分にとって一番大切な人の顔など思い浮かべ、その人が、落ち込んだ気分になった日にこの記事を読んでいる状況など想像しながら、配慮いただければ幸いです。--Windfinder 2010年3月11日 (木) 18:17 (UTC)[返信]

GLA[編集]

改善提案 意義のある人生とは何か、という問いに応える方向で、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの人生の軌跡をたどることから始めてみてはいかがかと思います。一人に何ができるのか、という問いでもあるような気がします。・・・以下略 tokinokawaTokinokawa会話2018年12月15日 (土) 03:39 (UTC)[返信]

ご意見ありがとうございます。削除します。tokinokawaTokinokawa会話2018年12月18日 (火) 13:07 (UTC)[返信]

宗教[編集]

ガイドラインに


> 反体制勢力、宗教集団、過激派のウェブサイト

> 政党や宗教団体のウェブサイトや出版物は、政治的主張や宗教的信条が含まれていなくても注意して扱うべきであり、情報源として使わない理由になります。

Wikipedia:信頼できる情報源#反体制勢力、宗教集団、過激派のウェブサイト


とありますように、宗教団体の公表物を出典として使うのはちょっとどうかと思います。それに加えて宗教の節には、「信頼できる情報源」に該当する出典も見当たりません。この節自体を削除すべきかと思いましたが、一応コメントアウトという形にしました。--118.240.240.21 2019年8月19日 (月) 12:29 (UTC)[返信]

「自己公表された情報源」なのですが、「ゲーテ」や「五木寛之」の見解についても同じく自己公表されたものではあります。釈迦やナザレのイエスの、いち個人としての見解として捉えてはどうでしょうか。宗教における人生の意義に分割するのもよいかもしれません。なお冒頭に「これらの問いかけに対し、科学理論、哲学、神学、心理学といった側面から、さまざまな答えと議論がなされている。」と記載があるので、神学からのアプローチについても記載は必要かと思います。Wikipedia:中立的な観点#判断を下さない表現が好まれるもありますし、その中からどれを選択するかは、読者に任せてはと。--Yuasan会話2019年8月20日 (火) 13:23 (UTC)[返信]
コメント コメント (118.240.240.21様および116.91.20.140様宛) IPユーザである方はアカウントを登録し、登録名で活動してください。「アカウントの登録は必須ではありませんが、強く推奨されています」(Wikipedia:チュートリアル_アカウント登録)。
コメント コメント (118.240.240.21様およびYuasan様) WP:NPOVでは中立的文章表現も重要ですが、その中立性は「良質な研究」によって保障されます。これらの方針・ガイドラインを要約すれば、ウィキペディアで掲載すべきは専門的学術情報です。
中立性を達成するために
良質な研究

良質で偏りのない研究に基づく、信用され権威のある情報源が存在するのであれば、それは中立的な観点についての論争解決の助けとなります。図書館で評判の良い書籍・論文を探したり、オンラインで最も信用されている情報源を探してください。
参考:「Wikipedia:中立的な観点
掲載すべきは専門家たちの共通見解です
参考:「Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか

【専門家】
ある特定の学問・事柄を専門に研究・担当して、それに精通している人。
参考:『デジタル大辞泉
出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述除去されても文句は言えません)。
信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。

一般的に良い情報源とされるのは、事実・法的解釈・証拠・主張などの点が専門家によって検証・分析されているものです。その話題について調査が精密であればあるほど、たいていその情報源は信頼できます
参考:「Wikipedia:検証可能性
専門知識を有することが検証可能な人物によるものを情報源としてください。より信頼できるのは、学術団体が関与しているものです。もっとも信頼できるのは、その分野の書き下ろし教科書です。こうした教科書の著者には、その科目について幅広く権威のある知識を持っていることが期待されるからです。一般的に、大学で使われる教科書は頻繁に改訂が行われ、権威を保ち続けようと努めます。
一般的には査読された公表物はもっとも信頼できると考えられ、権威づけられた専門家による公表物がそれに次ぎます。

参考:「Wikipedia:信頼できる情報源

【査読】
学術誌に投稿された学術論文を専門家が読み、その内容を査定すること。

参考:『デジタル大辞泉
118.240.240.21様の引用したリンク先にあるように、政党、宗教集団・団体、反体制勢力、過激派、テロリスト等による資料は「信頼できる情報源」ではなく、情報源として使うべきでないと決められています(WP:BIASED)。この記事でWP:BIASEDに該当するのは、ヒンドゥー教の資料や、仏教系団体・キリスト教系団体による各資料です(Access to Insightの「www.accesstoinsight.org」や新日本聖書刊行会の聖書等)。また、当事者や一個人による資料は一次資料です(公的報告書、原本、ジャーナリストの報道、自伝、権威ある機関の統計等)。「一般に、ウィキペディアの記事は一次資料に基づくべきではなく」、信頼できる学術的二次資料・三次資料に頼るべきとされています(WP:RS)。上記で引用した方針にある通り、「信頼できる情報源」の無い記述を削除することはどなたでも可能です。宗教以外の節や記事でも同様です。--構筐会話2020年6月19日 (金) 08:21 (UTC)[返信]
そのWP:RSには、「ウィキペディアの記事で一次資料を使ってよいのは、信頼できる出版元から公刊されている場合だけです」という記載がありますよ。 accesstoinsightは、オープンテキストのパーリ仏典 http://www.metta.lk/sltp/ をミラーしているサイトです。 新日本聖書刊行会の聖書が問題となるなら、カトリック教会とプロテスタント諸教会の共同によって制作された聖書協会共同訳聖書を使うことになりますね。---Yuasan会話2021年6月26日 (土) 15:05 (UTC)[返信]
返信 (Yuasan様宛) 「ウィキペディアの記事で一次 … 」には続きがあり、「例えば書記官によって公刊された公判記録、編纂された全集の中に登場する歴史文書といったものがこれにあたります」とされています。accesstoinsightがそのような出版元に該当するのか疑問です。該当するとしても一次資料であり、上記引用のように「ウィキペディアの記事は一次資料に基づくべきではなく」、学術的二次資料・三次資料に基づくべきです(WP:RS#情報源)。なお、聖書(聖書協会共同訳聖書)も宗教的一次資料であり、それを出版しているのは宗教的団体(教会)です。宗教的資料は上記WP:RSの通り、「宗教的信条が含まれていなくても注意して扱うべきであり、情報源として使わない理由になります」。特定の宗教的団体(新日本聖書刊行会)や、特定の宗教的資料(パーリ仏典や新日本聖書刊行会の聖書)だけが問題だと申し上げているわけではありません。
これも既に引用済みですが、ウィキペディアでの中立的観点達成に必要な要素は、良質な一次資料等ではありません。「良質な研究」であり、「評判のよい書籍や学術論文」です。「もっとも信頼できる」とされているのは、学術論文(「査読された公表物」)や大学教科書(「学術団体が関与している」教科書)です。--構筐会話2021年6月27日 (日) 09:00 (UTC)[返信]
一次資料についてのオリジナルの記載は[1] になるのですが、こちらでは書記官に関する記載はなくて、それは純粋に「ただの例」なのですね。要点は「信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっている」ことになります。誰かが accesstoinsight に張り替えてしまったのですが、リンクは http://www.metta.lk/sltp/ に直したほうがよいかもしれません。これは「 published under the patronage of the government of Sri Lanka (Ceylon) during the 1960s and 1970s. 」と、スリランカ政府の後援を受けて実施されたプロジェクトになります。
また、WP:RSのオリジナルは [2]に記載があるのですけれど、これは「バイアスがかかっている」という意味で、「注意して扱うべきであり」という意味はWP:YESPOVのように「意見を事実として記さない」ように記載するという話です。すなわち宗教的資料を使うときは、Wikipedia:中立的な観点#偏った記述は帰属化・明確化するの通り、そういうソースを使う場合は、「人生の意義は‥‥‥‥である」と書くのではなく、「仏教では、人生の意義は‥‥‥‥としている」と書くべし、というルールになります。
そもそも、宗教の主な役割とは、人生の生き方、意味について言及するものですから、(日本大百科全書:「この信念は・・・人間に生きがい、幸福を与える役割を果たすものとして期待されている」)この記事を執筆するにあたり、宗教サイドからの見解を排除しようとするところが変なのかなあと思います。--Yuasan会話2021年6月27日 (日) 12:53 (UTC)[返信]

すみません、宗教関係の節で仏典や聖書を出典にすることはいけないのでしょうか?--125.0.121.17 2021年7月2日 (金) 14:42 (UTC)[返信]

どなたかがWikipedia:中立的な観点を拡大解釈しているのです。上で引用されているガイドラインは、たとえば宗教書を出典に「地球は平らである」といった記載をしていはいけないという、もっともな話をしているのであって、「キリスト教においては…」というWP:SUBSTANTIATEな記載を妨げるものではありません。地球平面説#古典世界なども、そのような記載で執筆されています。--Yuasan会話2021年7月3日 (土) 04:02 (UTC)[返信]
返信 (125.0.121.17様宛) ウィキペディア日本語版の方針とガイドラインを熟読してください。このページにも各ルールの一部が引用されています。
返信 (Yuasan様宛) まず参考情報として、「Wikipedia:井戸端/subj/なぜ学術的資料の信頼性は高いことにされているのか?」があります。ここには
まさに「政治的記事や宗教的記事であっても学術資料で記事を作ることを推奨」しているんです。むしろ、政治的記事で官公庁の資料や、宗教的記事で宗教的資料は、一次資料(当事者)になるのだから、避ける理由が増えると思います。
例えば学術論文は「教授と生徒が署名し」「概論から結論まで首尾一貫していることが求められ」「第三者検証が可能であり」「査読を受けている」等、複数の要因によって信頼性が担保されております。
等とコメントされています。
次に概括して申し上げれば、ウィキペディアのルールは各言語版ごとに異なります。また宗教について言えば、ルール上「信頼できる」とされているのは<宗教や宗教家による情報源>ではなく、<宗教学や宗教学者による情報源>です。宗教学は
  • 「宗教現象を客観的、批判的に研究し、特定の宗教でなく、宗教一般の本質を明らかにすることを究極の目的とする学問の総称」[3]
  • 「人類に一般的な宗教現象を客観的,科学的,歴史的立場と方法によって帰納的に考究する学問」[4]
等と定義されています。
以下は具体的に申します。そちらの英語版のガイドライン[5][6]には、「このページは英語版ウィキペディアの内容ガイドラインを文書化しています」("This page documents an English Wikipedia content guideline")とあります。日本語版には「ウィキペディア日本語版のガイドライン」があり、「従うことが推奨されます」。日本語版ガイドラインで、宗教や政治から由来する資料は信頼できる情報源と見なされていません。上記引用の通り、それらは「政治的主張や宗教的信条が含まれていなくても注意して扱うべきであり、情報源として使わない理由になります」。もし「政府の後援を受けて実施されたプロジェクト」があれば、それは情報源として信頼性が高くないのです。以下もご確認ください。
政府の公表物は信頼できることも多くあります。しかし、政府の信頼性のレベルには大きな幅があり、しばしば、あからさまに情報の隠蔽を許容したり、全くのごまかしを発表したりする様な事を行って、自らの権益を保持することがあります。

参考:「Wikipedia:信頼できる情報源#信頼性の評価
方針における、記述の帰属化・明確化には検証可能性および出典のルールが含まれています。
偏った記述は帰属化・明確化する
偏った意見の陳述は、本文内で帰属化する方法でのみ提示することができます。 … それでもなお、意見は検証可能な情報として適切に出典を提示した上で記載されなければなりません。

参考:「Wikipedia:中立的な観点#偏った記述は帰属化・明確化する
検証可能な「良い情報源」とは「専門家によって検証・分析されているもの」であるという方針、および、観点の中立化に役立つのは「評判のよい書籍や学術論文」であるという方針については既に引用した通りです。情報源については以下も確認してください。
学者によって書かれ、学術的な出版社によって出版された二次資料は、品質管理のために注意深く精査されており、信頼できると考えられます。

参考:「Wikipedia:信頼できる情報源#情報源
宗教的・政治的出典の問題は上記に引用済みです。ただし、ルールに従いつつ事典(『日本大百科全書』)に基づいて記述することは一切問題無いと考えられます。事典は三次資料であり、「ウィキペディアの目的には信頼できる情報源とみなされます」。特に『日本大百科全書』の一節である「宗教」には、執筆者として宗教学者の柳川啓一が記載されています[7]。学者による事典は、宗教的・政治的資料よりも遥かに信頼性が高い情報源であると考えられます。それは「学者によって書かれ」た資料であり、「専門家によって検証・分析されているもの」だからです。なお学術論文や大学教科書がルール上「もっとも信頼できる」とされていることは引用済みですが、そのような学術資料は宗教学界からも公刊されています。宗教に関する記事・節に限って言えば、<宗教学の論文・大学教科書に基づく記述>を記事に掲載することは、ウィキペディアで推奨されていると言えるでしょう。
また中立化に必要とされる「良質な研究」として、宗教学以外の学者から「名著」と評されている学術書等も適切であると考えます。進化生物学ミーム学による情報源(『利己的な遺伝子』)は、人生の意義(「私たちは何のためにいるのか? 人間とは何か?」)について、宗教学とはかなり異なる観点を記述しています。
  • 「私たちは、遺伝子という名の利己的な分子をやみくもに保存するべくプログラムされたロボットの乗り物 ―― 生存機械なのだ」(『利己的な遺伝子』33頁)
  • 「あらゆる生命の根本的な単位であり原動力であるものは、自己複製子だ。自己複製子とは、宇宙にあるどんなものであれ、それからその複製(コピー)が作られるもののことだ。最初に、偶然に生じた小さな粒子のランダムなひしめき合いによって、自己複製子が出現する。一度、自己複製子が存在するようになれば、それは自らの複製を果てしなく作り出していける」(前掲書446頁)
同書は<信仰や宗教>と<生命や健康>等についても述べています。
  • 「私には、信仰は精神疾患の一つとしての基準を満たしているように見える。 … 『ミームに取り憑かれて自分の生存も危うくするに至った犠牲者』を呼ぶのにキース・ヘンソンは『ミーメオイド』という新語を作った。『ベルファストベイルート発の夕方のニュースにはそのような人々がたくさん登場する』。信仰はきわめて強力で … 市長を殺せばすぐに天国へ行けると信じ込んでしまえば、恐怖に対しても動じなくなる。なんという武器だろうか。軍事技術年鑑には、大弓や軍馬や戦車や水爆と同格で、宗教的な信仰についても一章が割かれて然るべきだ」(前掲書536-537頁)
  • 「ひたむきな信仰心というミームは、身に備わった残忍な方法で繁殖していく。愛国的、政治的だろうが宗教的だろうが、この性質はまったく同じだ」(前掲書341頁)
  • 「信仰はそれ自身に都合の良い見事な洗脳者だ。 … 結局のところ信仰とは何なのか。それは、証拠がまったくない状況のもとで、人々に何か(それが何かは問題ではない)を信じさせてしまう心の状態だ。十分な証拠がある場合は、信仰は余分である。 … 実際、本当の信仰が証拠を必要としないという事実は、信仰の最大のとされている。だからこそ私は、十二使徒のなかで唯一賞賛に値する人物として、不信のトマスの物語を引用したのだ」(前掲書536頁)
より端的には『神は妄想である ― 宗教との決別』という学術書があります[8]。これの原著『The God Delusion』は、他の7147件の学術的資料によって引き合いに出されています(Googleスカラーで「引用元 7147」)[9]
問題点(「変なのかなあ」らしき点や「拡大解釈している」点等)が私の編集態度にあるとお考えなら、私に対するコメント依頼をご提出ください。問題点が方針・ガイドラインにあるとお考えなら、「先にノートページで提案してください」。--構筐会話2021年7月3日 (土) 14:08 (UTC)[返信]
はい、ですので、WP:SUBSTANTIATEを挙げて指摘しています。WP:BIASEDというのは、「bias = 偏っている」という意味ですから、これら2つのガイドラインを合わせて解釈するのであれば、「偏った意見(政党や宗教団体のウェブサイトや出版物は)の陳述は、本文内で帰属化する方法でのみ提示することができます。」という意味になります。
さらに話の中で、Template:一次資料Template:信頼性要検証を、ごっちゃにしているのではないかなと思います。たとえば法律関連の記事を執筆する場合、各種「法律の原文」を引用することになります。これは政府による一次資料に該当しますからTemplate:一次資料の指摘は理解できますが、Template:信頼性要検証を付けると「公布された法律というのは信頼できる情報源ではない」と主張していることになってしまいます。聖書協会共同訳聖書も同じ話です。もう少し、他者に分かりやすい主張になりませんか。
さらに「政府の後援を受けて実施されたプロジェクト」の部分は、あなたは「政府の公表物」と「政府が資金提供したプロジェクト」を混同しているのではないかと思います。後者は政府の助成金事業は多数ありますし、たとえば科学研究費助成事業などもありますから、そういった支援を受けた研究をWikipediaから除外という話になってしまいませんか。--Yuasan会話2021年7月4日 (日) 13:45 (UTC)[返信]
なお「宗教的出典のみに基づく部分を除去[10]」としていますが、そちらの出典である The Journal of Religious Ethicsなどはご確認いただけましたでしょうか。どうも発言と行動がかみ合っていないので、こちらも混乱しています。--Yuasan会話2021年7月4日 (日) 14:19 (UTC)[返信]
さらにですね、「政党や宗教団体のウェブサイトは………情報源として使わない理由になります。」の部分については、Wikipedia‐ノート:信頼できる情報源/過去ログ3#政治・宗教]で言及されておりますが、「使ってはいけません」を意味しませんし、全面的な禁止と言うわけでもありません。宗教系のトピックのように必然性が求められるケースでは可能です。Wikipediaは、「出典が学術論文でなければ除去していい」という方針ではないです。 しかしながら、The Journal of Religious Ethicsであっても除去されているので、困惑は深まるばかりです。そちらのノートを踏まえていなかったのであれば、本件は一度取り下げたうえで、主張を練り直して後に再度トピックを作成されたほうがよろしいかと思うのですが。--Yuasan会話2021年7月6日 (火) 10:11 (UTC)[返信]

人生の意味に直接言及した近年の精神医学・医療や心理学・調査[編集]

以下、記事加筆の草案(提案)です。精神科医・益田裕介「先延ばしにしてしまうのはなぜか?[11]」2021年5月25日。「先延ばししやすいものランキング」がピアーズ・スティールの本「ヒトはなぜ先延ばしをしてしまうのか」にあり、1位は「健康」、最下位12位は「子育て」、11位は「精神分野、宗教・哲学、人生の意味」。

「精神分野に関することはすぐ取り掛かってしまうのですね。 「人生の意味ってなんだろう?」というのはついつい考えがちのようです。本来ならば人生の意味を考える前に転職したり勉強した方が解決まで早いことはたくさんあるのですが、ついつい足を踏み入れやすいとのことです。 確かに、メンタル系のコンテンツは伸びますからそうなのかなと思います。」--121.110.214.157 2022年12月23日 (金) 13:32 (UTC)[返信]

ご草案(提案)を元に記事へ書き加えました。精神医学に関しては、他の精神科医の発言と同じようにTemplate:Quotationで囲んで引用しました。なおその益田裕介氏の種本というか出典は心理学書だったので、その本の中で精神医学とも関連深く、特に重要と思われる部分について、心理学の節へ書き加えました。--Tilestat会話2022年12月29日 (木) 08:25 (UTC)[返信]