ノート:乙女峠マリア聖堂

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転載?[編集]

[1]と似ている。--fromm 2008年11月26日 (水) 09:00 (UTC)[返信]

「日本で唯一、聖母マリアが光臨した地とされている」と記述されていますが、誤りです。バチカンが公認した「秋田の聖母マリア」の事例があります。--利用者:Loadambala 2001 2012年10月5日 (金) 10:27 (UTC)[返信]

これ「地名」ですかね?[編集]

国土地理院の地図で確認した限りでは「津和野駅西側の山」に乙女峠という峠はありませんが・・・

津和野駅の西側にある標高359.7メートルの山は枕流軒(ちんりゅうけん)といういささか変わった名前ですが、この山にある蕪坂峠(かぶさかとうげ)という別の峠については地図にちゃんと記載があります。現在の記事内容も峠のそれではなく、ここに置かれている聖堂に関するものだけなので、いっそ「乙女峠マリア聖堂」に改名した方がいいんじゃないかとすら・・・

なお、枕流軒については同名の曹洞宗寺院が熊本県天草市にあるほか、藪内流11代に関わった僧侶が居たようですがいずれも詳細不明。蕪坂峠は同名異音の峠が熊野古道にあるようです。--KAMUI会話2014年6月3日 (火) 10:45 (UTC)[返信]

津和野町観光協会のホームページによると[2]、「キリシタン殉教の地である乙女峠に建つ聖堂」という表現がされているので、むかしは「乙女峠」と呼ばれていたのだと思われますが、現在の地図には載ってないのですね。だとすれば、おっしゃるとおり本記事はほとんどカトリックの聖堂について書かれているので、「乙女峠マリア聖堂」に改名してもいいのではないかと思います。ただし、この聖堂はカトリック中央協議会発行の『カトリック教会情報ハンドブック2014』には掲載されておらず、津和野カトリック教会やカトリック広島司教区のホームページを見ても、それが正式名称なのかどうかよくわからないのですが、それでもGoogleMapにも「乙女峠マリア聖堂」と表示されていますので、改名提案が出されたら賛成したいと思います。--Lorettibarrend会話2014年6月9日 (月) 14:13 (UTC)[返信]

改名提案[編集]

乙女峠 (島根県)となっている本記事について、乙女峠マリア聖堂に改名する事を提案します。

まず、上でも疑問を呈したように現地に「乙女峠」という峠(地名)は存在しません。久しぶりに検索にかけて見たところ、津和野町のページにおいて重要な言及が行なわれていることに気がつきました。

峠でもないのに乙女峠と云いますのは、長崎の原爆で亡くなられた長井隆博士の書かれた本(切支丹殉教史で永井隆博士の絶筆)の名が乙女峠であったので、この名で呼ばれるようになったのであります。

長崎の鐘』を著した永井隆の著作から取られたこと(永井はこの聖堂が造られたのと同年に没しています)、「乙女峠」という峠が存在しないことを地元でも認識しており、現在の記事名は不適当と考えられます。--KAMUI会話2015年3月30日 (月) 13:44 (UTC)[返信]

  • コメント津和野町のページには所在地「島根県鹿足郡津和野町後田 乙女峠」とありますが、、、また「峠でもないのに乙女峠と云いますのは、」とあるのは峠ではないが、地名が「乙女峠」という名称だということは考えられないのでしょうか?--Xapones会話2015年3月30日 (月) 14:07 (UTC)[返信]
  • コメント石見観光振興協議会事務局による島根県西部公式観光サイトなつかしの国石見というサイト([3])の乙女峠マリア聖堂の住所は島根県鹿足郡津和野町後田乙女峠となっていることから、地元では「乙女峠」という地名と認識されているのではないでしょうか?また津和野町のキリシタン殉教史跡「乙女峠」というのもあります([4][5])史跡の名称ということのようです。--Xapones会話2015年3月30日 (月) 14:34 (UTC)[返信]
    • 「名称」というより、「通称」あるいは「略称」というのが正しいように思われます。カトリック教会でこの種のものを「キリシタン史跡」として基準を定めているのかは不明ですが、津和野カトリック教会のページでは「聖母マリアと36人の殉教者に捧げる聖堂として「乙女峠記念堂」を建立」とあり、カトリック中央協議会のページでも「乙女峠記念聖堂」の記述が見られます。聖母マリアに献堂されたことからマリア聖堂と呼ばれているのでしょう。Xaponesさんが挙げられた「なつかしの国石見」においても表題は「乙女峠マリア聖堂」ですし、「たびねす」も同様ですね。なお、rulez.jpは個人サイトの『世界の「珍名」所大集合』というページの一部ですので参考にはならないかと。
      地元の津和野町観光協会では「乙女峠 マリア聖堂」としています。ちなみに津和野町の史跡などにはなっていない様です。なんにせよ、記事内容の修正は必要になりますね。−−KAMUI会話2015年3月30日 (月) 21:37 (UTC)[返信]
      • コメント最後に2つ挙げたのは「石碑」と木製の「碑」の写真があり、そこに「キリシタン殉教史跡乙女峠」と書かれているということが、一つの事実として意味があるのかと思いましたので、提示した次第です。どちらにしても公式の地名ではないようです。地元で「乙女峠」と呼ばれるようになったところに「礼拝堂」というのでしょうか、それとも「教会堂」、というようなものが建てられて「乙女峠マリア聖堂」と地元で呼ばれているといったところでしょうか。--Xapones会話2015年3月30日 (月) 22:05 (UTC)[返信]
  • ちょっと長くなってきたのでインデント戻します。本件を扱った本として1971年に刊行された『乙女峠とキリシタン』というものがあるようです。で、それを長めに引用しているサイトがありました。

「乙女峠は国鉄山口線津和野駅から直線100メートル(中略)津和野城址の尾根つづきになっている乙女山(360m)の鞍部を虹ガ谷部落へ越すのである。
(中略)
明治29(1896)年当時光琳寺跡は堀魚居の所有地であった。(中略)広島教区はここの地目、田、畑、約3反4畝を買うことが出来た。

津和野駅の西側にある「枕流軒」という山は標高359.7メートルなので、この山がいわゆる「乙女山」であることは間違いないでしょう。で、この山の中で「虹ガ谷部落へ越す鞍部」を使っていた地元住民が「乙女峠」と呼んでいた可能性はありますが、現時点ではそう呼ばれていたとは断言できません。そもそも「乙女山」が地元での通称ですし。ただ、広島教区が買い取ったのが流人たちが収容されていた「その時代には田畑になっていた光琳寺跡」であることは確かな様ですけど。--KAMUI会話2015年4月10日 (金) 21:04 (UTC)[返信]
これ以上の調査は困難であるし、そこまでは求められないであろうと思います。肯定も否定もできないので、あえてどちらとも取れるような記述にして、つまり明らかになった事実のみを記述し、憶測は排除するということでいいと思います。記述の中身についてはお任せしますので、よろしくお願いいたします。普段私が立ち入ることのない領域で、私はネットで調べただけなのですが、いろいろ勉強になりました。ありがとうございました。--Xapones会話2015年4月11日 (土) 05:09 (UTC)[返信]