ノート:中央大学硬式野球部

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東洋大学が六大学に誘われたという記述を入れる方がいらっしゃいますが、検証可能な文献の提示をお願いいたします。--秋の虹 2008年9月8日 (月) 09:01 (UTC)[返信]

中央大学は本当に六大学野球に誘われたのか?[編集]

『中央大学百年史』を読んでみましたが、

  • 民法典論争で東京帝大と激しく争った
  • 東京六大学野球連盟への加盟を打診されたが断った

といった記述は見当たりませんでした。そもそも大正末期の中央大学は、

  • 1923年(大正12年)9月 - 関東大震災で錦町の校舎焼失。
  • 1924年(大正13年)6月 - 駿河台の戸田氏共伯爵邸地を大学移転用地として購入。
  • 1926年(大正15年)8月 - 駿河台校舎完成、錦町より移転。

なので、東大とけんかしたり、野球のことを考えたりするような余裕はないはずです。-ブルーメンタール会話2018年4月6日 (金) 02:09 (UTC)[返信]

限りなく俗説に近いと思われます。文献上、事実として中央大学が六大学に誘われたことを確認できた資料はありません。元々、この時期に中央大学には野球部はなかったはずですので、逆にそれなりに強い野球部を持った日本大学や國學院大學は何度も六大学リーグ入りを熱望しながら拒否されています。このような六大学連盟の態度からみて、敢えて野球の実力がなかったと思われる中央大学に声をかけるのは不自然すぎます。 学問の分野で法典論争があったことは事実かもしれませんが、ここに野球を絡めたのは、六大学リーグ入りを目指さなかったことを後になって悔やんだ中央大学関係者によって後世に武勇伝的に脚色された可能性が高いとみています。ここの記事については、このようないい加減な記事が掲載され続けていることを情けなく思い、何度も削除していますが、すぐに復活してしまう状況です。--平成no牛若丸会話2018年8月27日 (月) 01:16 (UTC)[返信]

なお1920年代の新聞記事を東京朝日新聞だけですが、過去に漁って読んだことがあります。大学野球は当時は大変な人気で、スポーツ欄には東京五大学→六大学リーグ戦だけでなく、各大学のオープン戦や練習試合の類までスコアテーブルが出ています。そうした中に、六大学や日大、専修、国学院や商大(一橋)の試合結果は出てきますが、中央の試合結果は殆ど見つけることができませんでした。1930年に差し掛かるあたりでちらほらでてきた感じです。日大や國學院の六大学加盟問題の記事は散見されますが、中央の加盟問題の記事は一つもありません。 ですので、日大、国学院あたりがやはり1920年代から力を入れていて、東都リーグ(新五大学)結成もこの2校が中心になって動いたというのが真相ではないかと思います。その流れの中で、中央や農大にも声がかかり、スポーツに力を入れることを意図し始めていた当時の中央大学当局もやってやろうかと硬式野球部の公認と強化に梶を切ったのではないかと思います。中大野球部は資料によっては1930年設立ではなく1915年設立としている資料もありますし、当時は野球は人気スポーツですから、母体となった野球の愛好サークルが前身として存在している可能性は大いにあるでしょうが、非公認の組織に対して、六大学リーグから声がかかるほどの実力があったかと言えば甚だ疑問です。--平成no牛若丸会話2018年8月27日 (月) 01:53 (UTC)[返信]

『東京大学野球部 Since1919 「赤門軍団」の軌跡』(ベースボール・マガジン社、2014年)も読んでみましたが、「中央大学加盟問題」みたいな話はないです。やはり東大の六大学加盟は規定路線だったんじゃないですか?

  • 東大監督の芦田公平と明大野球部長の内海弘蔵は国文学者同士で親しかった。
  • 早大監督の飛田穂洲一高の野球精神を高く評価しており、一高の流れをくむ東大のリーグ参加をむしろ歓迎していた。
  • 東大は早稲田との練習試合で善戦し、当時の球界関係者たちにも好印象を与えた。
  • 投打にすぐれた二刀流選手・東武雄の存在も東大のリーグ参加にとっては追い風となった。

なので、東大を差し置いて中大を六大学に入れるというのはストーリー的に無理があります。--ブルーメンタール会話2019年1月24日 (木) 01:51 (UTC)[返信]