ノート:一向宗

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「農民を中心とする」を外されたのですが、やはり農民が中心だったと考えます。なぜなら、浄土真宗の門徒の9割までが農民だからです。町民はほとんど法華宗だったはずで、でないと天文法華一揆が起こらないんです。お陰で山科本願寺を焼かれたこちらとしては、このあたりをちゃんと言っておきたいと思うんだけど‥‥
マ、なくても良いか。
booze 22:33 2003年9月2日 (UTC)

上記に賛同。ところで・・・
>正式に「浄土真宗」「真宗」と呼ぶよう指導があり
について、いつどのような形でそれがあったのか知りたいです、っていうか、それで
世間の呼び方が変わるくらいなら、なんで「他力本願」の誤用を正せないのだろう?
と、五劫思惟・・・Adacom 00:38 2003年9月3日 (UTC)

逆に考えれば、「他力本願」という言葉が一般語になっているところに、真宗の強さがあるのでは‥‥
一向宗を「浄土真宗」と呼ぶように指導したのは、またもや蓮如上人でありました。ハハハハ。booze 02:37 2003年9月5日 (UTC)

初版の文章を見ると、
「浄土真宗の門徒たちを中心とする農民による一揆を一向一揆と呼ぶ」
となっており、文章が「一向一揆は農民の一揆」になってます。
「農民を中心とする浄土真宗の門徒達による一揆を一向一揆と呼ぶ」
の方がよろしいのでは?G 00:47 2003年9月3日 (UTC)

確かに一揆は農村を基盤にして起きていたはずですが、そもそも一向一揆の時代は農民と武士が未分化ということもありますので、初版の書き方だと農民が鍬鎌持って立ち上がるような、そういう誤解を招きそうでちょっとまずいかなと思います。変化については手元の日本史辞典には江戸時代を通じて改称を主張したが認められたのは明治であった云々とあります。Safkan 02:46 2003年9月3日 (UTC)

>そもそも一向一揆の時代は農民と武士が未分化
たしかに、戦ともなれば農民が駆り出されて、下っ端として戦っていたわけで。
>農民が鍬鎌持って立ち上がるような
逆にその通りのイメージなんですが。おっしゃりたいことは、戦いに不慣れな
純粋な農民たちでなく、戦国時代に戦慣れしていた農民(つまり農民の手弁当の
一揆のレベルでなく正規戦だった)という意味あいでしょうか?Adacom 03:51 2003年9月3日 (UTC)
農民の歴史には疎いのですが、興味深く拝見。ところで、武士ってそもそも平時には農民をやっていたんではなかったでしょうか? sphl 04
00 2003年9月3日 (UTC)
一向一揆が流行った当時は刀槍・弓鉄砲が腐るほどあったんで、あえて鍬鎌を武器にする必要はあまりないです。鍬鎌持つようなイメージは刀狩が行われて以降(=すなわち一向一揆沈静化後)の事になります。
ちなみに紀州の一向一揆は日本最強レベルの鉄砲部隊を擁してましたKamakura 10:17 2003年9月3日 (UTC)

はい、言いたかったところはsphlさんのおっしゃった通りです。太閤検地以前の多くの武士は農村に住んでいて普段は農民をやっていたので(むしろ「上層農民は武士もやっていた」状態)、百姓一揆的イメージは実体と離れると思います。ちょうど紀州一向一揆の話が出ましたが、紀州ですとちょっとした城館をかまえた立派な土豪(雑賀党)が中心になって一揆をやっていたはずです。Safkan 08:21 2003年9月4日 (UTC)

ええと、当時の本願寺の事情をもう少し斟酌していただくと、逆に感じられるかもしれません。当時の門主、蓮如は郷村の「大人を教化して教えを広めよ」と言っておりますので、農民のトップ層を取り込んでいたと思われます。ところが、郷村制の中で本来指導的立場にあった地頭の力が、室町幕府の弱体化で弱まっており、そこに求心的な働きをした坊主‥‥しばしば農民のトップがそのまま坊主になった‥‥の働きがあって一揆に発展したと考えたほうが良いのではないかと思われます。
もちろん本願寺には、戦闘専門職が入っておりましたので、それらの戦闘指導ということも無視できないと思います。
ただ、七人の侍 にもあるように、農民が武士を雇うという形は、そう珍しいことではなかったようです。雑賀の場合はちょっと特殊でして、農民というより、漁民・猟師という複合的な仕事を持っていたと思いますので、鉄砲をごく普通に使っていたように思われます。
てなことで、やはり農民が中心なのではないかと思います。booze 02:37 2003年9月5日 (UTC)

その農民のトップ層(雑賀衆を含めて)が武士化していたから農民という言葉にこだわると誤解を招く、という主張だったわけですが…。
水掛け論になっても困るので議論はこのくらいにしたいのですが、結局記事にはどう反映させたものでしょうか? 私としては農民=被支配者が武士=支配者に反抗という二分法的イメージを招く表現はまずいなあ、という認識なので「農村を中心におこった浄土真宗の門徒達による一揆を一向一揆と呼ぶ」とすれば悪くないと思うのですが、Gさんの案「農民を中心とする浄土真宗の門徒達による一揆を一向一揆と呼ぶ」でもこの際、構わないです。Safkan 09:28 2003年9月5日 (UTC)

一向衆・一向上人について疑義[編集]

新しい記事の一揆を加筆しましたが、一向宗を一向衆と表わす資料がインターネットに多数存在します。単なるリダイレクトやパイプを用いて同一のものとして宜しいでしょうか。加えて開祖は一向上人の記述もあります。これらについて本文では触れていませんが、詳しい方おいでになりましたら加筆をお願いできませんか?赤鉛筆 2004年6月27日 (日) 12:25 (UTC)[返信]

辻川達夫氏の「蓮如と七人の息子」(1996年誠文堂新光社ISBN 4-416-89620-4)によれば、蓮如が北陸で組織したのは「一向衆」であって「一向宗」ではないと書かれています。

本来「一向宗」とは浄土真宗の事ではなく、浄土宗鎮西派系の一向俊聖(1239-1287年)を祖とする宗派で阿弥陀仏は信じて念仏踊りをするが念仏そのものには否定的な宗派で近江番場の蓮華寺を根拠とした宗派だそうで浄土真宗よりも先に北陸地方に入ったようです。踊り念仏を行うという事で時宗と混同され(現に蓮如も文明5年の御文で時宗と一向宗を混同している)、江戸時代には幕府の政策で強制的に時宗に統合され、昭和になって改めて浄土宗に編入し直されました。蓮如は比較的近い宗教的価値観を有する北陸地方に住む一向宗などの先行する浄土系仏教の僧侶・信者を主とした布教の対象とし、彼らを「一向衆」と呼んだわけです。本願寺の北陸での成功の背景にはこうした一向衆の間に元から育まれた宗教的価値観の影響が大きかったわけですが、それらと浄土真宗は本来違う教えですから蓮如は異宗派の名前である一向宗と自分の浄土真宗を一緒にされる事を嫌ったようです。前述の文明5年の御文では一向宗の名前を使ったものは破門するまで書かれています。--水野白楓 2006年11月20日 (月) 12:22 (UTC)[返信]

一応、2つの一向宗について纏めてみました。浄土真宗の方の「一向宗」の呼称を巡る問題は更に詳しく書ける方がいれば幸いなのですが。(元々一向一揆と戦国大名について書きたかったのにあらぬところに迷走してしまいましたが)--水野白楓 2006年12月12日 (火) 18:24 (UTC)[返信]