ノート:ロシア正教会

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ハリストス大聖堂[編集]

1931年にはスターリンの命令によって救世主ハリストス大聖堂がダイナマイト爆破された。と書いておりますが、命令を出したのはスタリンではなくラーザリ・カガノーヴィチでした。-- Alex K 2007年11月10日 (土) 19:41 (UTC)[返信]

ラーザリ・カガノーヴィチにはそのように書かれています。
ただ、日本では「スターリンが壊した」と(抽象的に)書かれることが多いので、修正するのでしたらできれば出典を付けていただけるとありがたい。多分、スターリンの意によりカガノーヴィチが命令を出したのかもしれません。--ПРУСАКИН 2007年11月11日 (日) 06:01 (UTC)[返信]
>スターリンの意によりカガノーヴィチが命令を出したのかもしれません。
ПРУСАКИНさんのこの文面が無理の無い解釈だと思います。あの時代、スターリンの意向に沿わない決定(しかも小さく無い決定)が行われるとは常識的に考えにくい。
ガガーノヴィチの項では「監督した」とありますね。監督者や実施者の名前に同様に適用するとなると、「粛清はスターリンではなくベリヤが行った」などと書かなければならないかもしれません(極端な例ではありますが)。
但し、「スターリン政権のもと、ガガノーヴィチが作業監督を行い、救世主ハリストス大聖堂は爆破された」等と修正される事に、あまり私は反対するものでもありません。どれほどの意味があるかはちょっと疑問ですが。
--Kliment A.K. 2007年11月11日 (日) 12:45 (UTC)[返信]

ウラジーミル1世と正教[編集]

また954年にはキエフ大公ウラジーミル1世の祖母であるオリガが正教の洗礼を受け、ルーシにおける正教のさきがけとなった。とかいておりますが、954年の時点で正教・カトリックという東西キリスト教分裂がなかったので、ウラジーミル1世(もっとせいかくにいうとヴォロディメル)は正教ではなく、単なるキリスト教をひろめたのである。-- Alex K 2007年11月10日 (土) 19:48 (UTC)[返信]

その頃は東西対立が深化していくちょうど最中にあった時期でしょうから、「公式には」キリスト教、実際問題としては「(のちの)正教」と言えるのではないでしょうか。また954年にはキエフ大公ウラジーミル1世の祖母であるオリガがキリスト教の洗礼を受け、ルーシにおける正教のさきがけとなった。でどうでしょうか。--ПРУСАКИН 2007年11月11日 (日) 06:05 (UTC)[返信]
一つずつ御返事させて頂きますね。
--Kliment A.K. 2007年11月11日 (日) 12:25 (UTC)[返信]
東西教会分裂の年は一般には1054年と謂われておりますが、実際問題、いつ分裂したのかは定かではありません。もし1054年の「相互破門」だけが「分裂」の主要原因だったのだとしたら、その相互破門が互いに解かれた1960年代に東西教会は合同していなければおかしいのですが、破門解消に動いたコンスタンティノポリス総主教ですらそのような措置は取っておりません。
正教会側で最も古く分裂の年代を謂う人は800年のカールの戴冠にその始まりを求め、カトリック側で最も古く分裂の年代を謂う人は8世紀のイコン禁止令にその始まりを求めています。
分裂がほぼ確定したのは1204年の第四回十字軍でしょうか。
いずれにせよ、Alex Kさんの仰る事はある程度(8割以上)正しいです。ですが100%正しいとも謂えません。この時既に、東西教会の距離は現れ始めていたからです。
以上の事を勘案しますと、文面ではПРУСАКИНさんの記述が一番バランスが取れていると思います。--Kliment A.K. 2007年11月11日 (日) 12:25 (UTC)[返信]

十字軍[編集]

13世紀にはルーシの動揺は決定的となる。東からはポロヴェツ人を打ち破ったモンゴルが襲来し、西からはローマ教皇の意を受けた「北の十字軍」[6]の侵略を受けた。。。というふうに書いておりますが、それは間違いだと思います。13世紀にのルーシの多くの諸公たちはクマン人の指導者たちと姻戚関係にあったし、また、十字軍の騎士たちと同盟をむすんでして「野蛮な」バルト地方へ出兵したりしていました。13世紀にのルーシの動揺は外部からではなく内部からきたのです。ルーシの諸公たちの相互領土争いからきたのです。北の十字軍を恐れていたのはルーシではなく、ギリシア人とかかわりが深いルシーシの正教会の聖職者のみでした。ですから、当記事で主張されていることは、いささか反クマン人・反十字軍の傾向があると思います。-- Alex K 2007年11月10日 (土) 20:09 (UTC)[返信]

解釈としてはその解釈でよろしいと思いますよ。日本でもアジアでもヨーロッパでも大概そんなものですから。ある強力な勢力があった場合、別の勢力がそれを利用しようとするものです。
ルーシの崩壊が内部崩壊であったことは日本でもそのように学生に教えているので、すでに本文もそのように書き換えて構わないと思いますよ。ただ、現在の記述も「足りない」だけで「間違い」ではないかと。
ルーシが外国から干渉(一義的な「侵略」とは言えないかもしれませんが)を受けていたことは事実ですし、姻戚関係にあったクマン人が外国勢力の攻撃によって衰退したことはルーシの諸公の勢力をそぐ要因になったでしょう。十字軍の遠征も、ルーシの諸公間の戦争を激化させる場合もありそれは諸公の力を結果としてそぐことになったでしょう。何より、十字軍やモンゴル軍という外国の軍隊がルーシ内に滞在することで、ルーシの経済は打撃を被ったはずです(当時の軍隊は必要物資を現地調達したはずです。ルーシの国庫に入るべきだった穀物や商品が外国の軍隊のために消費されたとすれば、ルーシの諸公が「貧しく」なったことは明白です)。
重要なことは、それまでの有力諸公の力が外国勢力との関係での中で徐々に変わっていき(ある公は衰退したでしょう。ある公は強くなったでしょう)、最終的にルーシの旧来の秩序が崩壊したルーシの同様は決定的となった、ということでしょう。そういう意味では13世紀にはルーシの動揺は決定的となる。東からはポロヴェツ人を打ち破ったモンゴルが襲来し、西からはローマ教皇の意を受けた「北の十字軍」[6]の侵略を受けた。。。はそれほどおかしい記述ではありません(多分「侵略」の単語を「干渉」に変えれば問題は解決するでしょう)。
いずれにせよ、より詳しい情報の追加は歓迎されるでしょう。「干渉された」だけ書くよりは詳しい説明があった方が親切ですから。--ПРУСАКИН 2007年11月11日 (日) 05:54 (UTC)[返信]
だから、おかいしいだっといっているのです!13世紀のモンゴル来襲は命中的であったが、クマン人・十字軍はルーシの崩壊に関係がないです。13世紀前半の歴史を見ると、後者はルーシの公たちと友好的な関係を維持していたのです。友好的な関係にあった勢力はなぜ「ルーシの動揺を決定」できるのでしょうか?--202.249.213.193 2007年11月11日 (日) 06:33 (UTC)[返信]
クマン人によってルーシが崩壊したとは本文には書かれていません。(友好関係にあった)クマン人がモンゴル軍によって撃破されたからルーシも衰退した、と書かれています。
十字軍の方ですが、外国の軍隊が国内に駐留することは少なからずルーシの財政に影響を及ぼしたはずです(食料や資金は誰が供給したのですか?)。彼らはインフラ整備のためにルーシに派遣されたのではありません。国内で戦争が激化すれば国力が衰えるのは自明のことです。軍事的勝利が必ずしも政治的・経済的勝利には結びつかないということはご存知でしょう。特に国内紛争においては勝者とて敗者と同じくらい痛手を負うものです。
従って、外国勢力の干渉がルーシの衰退に寄与したという本文の主旨は間違いではありません。ルーシ諸公が勝手に自分たちだけで内部紛争をやって勝手に滅んだのではありません。外国勢力も関係しています。国内の事情に(よかれ悪しかれ)外国が関係することを、日本語では「干渉」と呼んでいます。
なお、本文に書かれている「十字軍の侵略を受けた」という表現は不適切でしょう。その点については同意した上での話です。--ПРУСАКИН 2007年11月11日 (日) 06:53 (UTC)[返信]
ちょっと、Alex Kさん、落ち着いて頂けませんか?なぜそれほどまでにAlex Kさんは「ウクライナの特定勢力に偏った」ように見える見解を一方的に述べられるのか理解し難いものがあります。ウクライナ史学が世界史のスタンダードではありません(ロシア史学がスタンダードではないのと全く同様です)。
本文中に書きました意図につきましては、基本的にПРУСАКИНさんの仰る通りで、私から付加える事はありません。
…ところで浅学の小生にどなたか教えて頂きたいのですが、ノヴゴロドとプスコフに侵略していたスウェーデン軍やドイツ騎士修道会については「北方十字軍」に数えられると思っていたのですが、それは数えられないものなのでしょうか?そして、ノヴゴロドとプスコフは、ルーシには数えられないのでしょうか?アレクサンドル・ネフスキーによる戦いは、どのように評価されるのでしょうか?(別に反語などではありません、純粋な質問です)--Kliment A.K. 2007年11月11日 (日) 12:33 (UTC)[返信]

ウクライナ史学の通説ではなく、ルーシの歴史の常識となっているものを述べたまでです。ノヴゴロドとプスコフに侵略があったことは否定しておりません。私は否定しているのは、「13世紀にはルーシの動揺は決定的となる。東からはポロヴェツ人を打ち破ったモンゴルが襲来し、西からはローマ教皇の意を受けた「北の十字軍」[6]の侵略を受けた。」という書き方のことです。「”北の十字軍”の侵略」というものは「動揺の決定」ではなかったと言いたいだけです。ルーシ=東北ルーシだけではないんです。西部にも十字軍とローマと仲よししていたハールィチ・ヴォルィー二大公国というルーシ国家があったことを忘れないでほしいのです。ルーシを全体的に見ると、モンゴルの襲来は「決定的」であったが、騎士団の東方への進出は「決定的」ではなかったということになります。--133.41.84.206 2007年11月12日 (月) 01:43 (UTC)[返信]

追伸:。「ロシア史学がスタンダードではない」といいながら、「ルーシの中心地は北東のノヴゴロド、ウラジーミルなどに移動していった」というロシア史学のスタンダードに基づいて書いておられるようです。それはどのように理解したらいいでしょうか?--133.41.84.206 2007年11月12日 (月) 01:43 (UTC)[返信]

13世紀にはルーシの動揺は決定的となる。東からはポロヴェツ人を打ち破ったモンゴルが襲来し、西からはローマ教皇の意を受けた「北の十字軍」[6]の侵略を受けた。をどのように修正したいのか、実例を示していただけますか? 修正しろと言われましても、あなた以外の人にはあなたがどのような形を望んでいるのかわかりませんし、そこはもうご自分で実例を示されるのが手っ取り早いかと。たんに文章表現の問題ですから、実例を示されれば多分それほど問題は起きないことだと思いますよ。--ПРУСАКИН 2007年11月12日 (月) 05:26 (UTC)[返信]

当記事の作者はKliment.A.K.さんであるので、不適切な点を注意させることで彼に考えていただき、修正していただきたかったのです。私はなるべく他人が書いた記事を勝手に修正しておりません。でも、私が書くであれば、まず、13世紀半ばにキエフ・ルーシという国家はモンゴルが襲来によって滅亡したと書くでしょう。(「動揺」ではなく「滅亡」です。十字軍は無関係。)さらにルーシの後継者となった諸公国について書いた上で(東北のルーシの諸公国のみでなく)、それらの諸国の宗教政策を紹介するでしょう(そうすることによって、ノヴゴロドだけではなく、全ルーシの地域に対する十字軍・カトリックの騎士団の政策は明らかになるはずです。)。そして、ルーシの諸公国の宗教政策を紹介したあと、東北のルーシにおける正教について述べ、ロシア正教に結びついて行くでしょう。キエフ・ルーシ滅亡後からすぐに東北ルーシに飛んでしまうと、まさに、「ルーシの中心地は北東のノヴゴロド、ウラジーミルなどに移動していった」というロシア・ソ連の研究史の常套句に従うことになるのです。その句はいかに東ヨーロッパの歴史を歪曲していかを、皆さんは御存知のはずだと思います。Alex K --133.41.84.206 2007年11月12日 (月) 09:00 (UTC)[返信]
>ルーシの諸公国の宗教政策
これについては、本項はロシア正教会についてのページですので、特に必要無いと考えます(「ルーシの宗教史」ではありませんので)。しかし、確かに南西ルーシについては私は門外漢であり、無神経な記述をしていたかもしれません。
帰宅後、若干の修正を試みます。なお、「北東ルーシに中心地が移った」というのは、「ドニエプル川の交易の衰退」「府主教座が移転(わざわざ田舎に主教座を移す指導者はいません)」によってある程度説明出来ると思ったのですが…。もし「そうではない、南西ルーシにも経済面で活発な都市があった」と仰るのならば、是非教えて頂きたく思います(皮肉ではありません)。だとすれば、府主教座の移転は経済的・政治的理由のみならず、コンスタンティノポリスの意向に沿った面が相対的に大きかった事になります。--Kliment A.K. 2007年11月12日 (月) 09:37 (UTC)[返信]
IP氏(Alex Kさん?)のご意図(私はなるべく他人が書いた記事を勝手に修正しておりません。)については理解しました。その点についてはこちらの批判は早計に過ぎたかもしれません。また、例を示していただいたことには感謝致します。
本文についてですが、13世紀にはルーシの動揺は決定的となる。東からはポロヴェツ人を打ち破ったモンゴルが襲来し、西からはローマ教皇の意を受けた「北の十字軍」[6]の侵略を受けた。という記述を(予備知識による憶測抜きで)文字通り読んだとすると、「13世紀にルーシが動揺し、そのためモンゴルと「北の十字軍」の侵略を受けた。」と読めます(「モンゴルと「北の十字軍」の侵略を受けたから動揺が決定的となった」とは書かれていません。日本語は後置修飾をしません)。予備知識のない読者を想定した場合、どの方向にせよ記述の明確化は試みた方がよいかもしれません。多分、「崩壊しつつあったルーシがモンゴルの侵略によって完全に国家滅亡した」ということと「十字軍」は切り離した表現を用いた方がよいでしょう。
ルーシの諸公国の宗教政策についてはご指摘があった以上さわりくらいは触れておいた方が無難かもしれません。ただ、その詳細については、多分IP氏(もしくはAlex Kさん?)がしかるべき別ページに記述された方がよいでしょう。というのは、このページはやはりKliment A.K.さんの仰るとおり「ルーシの正教」のページではなく「ロシア正教」のページだからです。このページでは、ロシア正教と絡めて書くことのできる範囲に限定すべきでしょう。
主教座の移転は経済的・政治的理由のみならず、コンスタンティノポリスの意向に沿った面が相対的に大きかった事になりますという点が明らかにされれば、最も望ましいと思います(主教座問題については私から詳しくコメントできません。勉強不足のため)。--ПРУСАКИН 2007年11月15日 (木) 13:50 (UTC) 一言付け加えると、何となく私が余計なことにくちばしを突っ込んで話を引っ掻き回したという感じがします。すみませんでした。--ПРУСАКИН 2007年11月15日 (木) 13:51 (UTC)[返信]

ドイツ騎士修道会[編集]

ドイツ騎士修道会はプスコフを占領した。 それはドイツ騎士団ではなく、リヴォニア帯剣騎士団でした。これは、ロシア側が描くような宗教対立ではなく、領土争いにすぎない問題でした。ドイツ騎士団は、長年、ルーシの諸国にとって頼ることが出来る同盟者でした。-- Alex K 2007年11月10日 (土) 20:14 (UTC)[返信]

そのような解釈でよいと思いますよ(宗教問題が100 %関係なかったかについては断言しかねますが、少なくともこの場合領土問題の方が重要であったことは、同時代の他の事例を見るに確かでしょう)。適切な形に修正していただけますか?--ПРУСАКИН 2007年11月11日 (日) 05:55 (UTC)[返信]
(補足)解釈にばかり目が行き見落としていましたが、ドイツ騎士団かリヴォニアかということですが、リヴォニア帯剣騎士団には1237年にドイツ騎士団に吸収されたとあります。プスコフの占領は何年のことなのでしょうか?--ПРУСАКИН 2007年11月11日 (日) 05:58 (UTC)[返信]
自治組織として「吸収」されたのです。リヴォニア帯剣騎士団はなくなったわけでないのです。--202.249.213.193 2007年11月11日 (日) 06:06 (UTC)[返信]
では、「ドイツ騎士団の中のリヴォニア帯剣騎士団がプスコフを占領した」ということになるのでしょうか。--ПРУСАКИН 2007年11月11日 (日) 06:07 (UTC)[返信]
自治組織としてでも「吸収」されたのであれば、ドイツ騎士修道会はプスコフを占領した。でも間違えではありませんね。「ウクライナの都市シンフェローポリ」でも「クリミア自治共和国の都市シンフェローポリ」でも間違えではありません。同じでしょう。--ПРУСАКИН 2007年11月11日 (日) 06:12 (UTC)[返信]

ドイツ騎士団の中のリヴォニア帯剣騎士団がプスコフを占領した

そんなふうにかくと、「ジョチ・ウルスの中のノヴゴロド公国のプスコフ」と書かなきゃいけなくなります。しかし、それは変んな書き方だと思います。ドイツ騎士団あるいはジョチ・ウルスはプスコフ占領にかわらなかったんです。
ウクライナのクリミアの一例は不適切だと思います。中世と現代の比較は妥当ではありません。社会と政治のありかたが違いますから。--202.249.213.193 2007年11月11日 (日) 06:13 (UTC)[返信]
確かに「ジョチ・ウルスの中のノヴゴロド公国のプスコフ」と書かなきゃいけなくなりますね。長ったらしいのでこれはやめときましょう。
しかしながら、リヴォニア帯剣騎士団の方に1237年にドイツ騎士団に吸収されたと明記されてしまっているので、その辺の整合性に留意しないと閲覧者をいたずらに混乱させることになりかねません。脚注でも付けますか?--ПРУСАКИН 2007年11月11日 (日) 06:41 (UTC)[返信]
リヴォニア帯剣騎士団はドイツ騎士団に吸収されていた」という注を付けるのであれば、「ノヴゴロド公国はジョチ・ウルスに従属していた」と書かなきゃいけないと思います。当時の東ヨーロッパにおける政治的状況をはっきりさせないと、読者はフスコフ占領問題を「正教のルーシとカトリックのドイツ騎士団の紛争」として誤解してしまうと思います。それはロシア帝国やソ連の研究史によってつくられたトリックです。注を付けずに簡単に書くと、リヴォニア帯剣騎士団はプスコフを占領した。(「ノヴゴロド対リヴォニア帯剣騎士団の紛争」)になるはずだ思います。-- Alex K 2007年11月11日 (日) 08:35 (UTC)[返信]
ノヴゴロド公国はジョチ・ウルスに従属していた」と書いても構わないと思いますよ。必要であれば。読者の理解度を考えた場合、必要であれば必要なだけ補足説明は加えるべきです。
私個人の感覚ですが、この時期にリヴォニア帯剣騎士団がドイツ騎士団に吸収されていたか否かは「常識」の範囲では判断が難しいと思います。ちょうど吸収されたばかりの時期のようですし。一方、この時期ノヴゴロドがジョチ・ウルスに従属していたということは、ある程度の教育を受けた読者であれば(つまり義務教育しか受けていない場合はこの辺の話は出てこないので無理でしょう)、常識的に判断はできると思います。
とはいえ、よく考えたら文脈上別にリヴォニア帯剣騎士団がドイツ騎士団に吸収されていたことが読者にわからなくてもあまり影響ないかもしれません。むしろリヴォニア帯剣騎士団のページの記述の方を調整すべきかもしれません(つまり、吸収されたあともある程度の独立性を持っていた、ということを書き加えるべきでしょう)。
ところで、この文脈で「正教のルーシとカトリックのドイツ騎士団の紛争」という解釈が生じるのかは私には判断しかねます。その辺は読者の読み方次第であり、書き手側でどうこうする問題ではないのはないでしょうか?(もし書き手側でそのように読ませたくないと強く意図するのであれば、きちんとそう読まれないような配慮が必要です。つまり、「正教のルーシとカトリックのドイツ騎士団の紛争」といった宗教的争いではなくむしろ政治的・領土的問題であった、云々と明記しない限り、リヴォニア帯剣騎士団と書こうがドイツ騎士団と書こうが、読者がこれを宗教的争いと解釈する可能性は排除できませんよ。)--ПРУСАКИН 2007年11月11日 (日) 10:36 (UTC)[返信]
「宗教対立」だったのか「政治・領土対立でしかなかった」のかは、解釈の分かれる問題であって、当時の宗教と世俗政治の分離がどの程度のものであったのかをどう捉えるかによって如何様にもとれるでしょう。しかも両極端な見解だけではなく、「A%宗教対立、B%政治対立」というように考える人もいるでしょう。
これは別に「ロシア帝国史観」「ソ連史観」に歪められた見方でも何でもありません。で、私は本文を「純粋な宗教対立」などという意図で書いた訳では毛頭御座いません。元々この時代、それほど政教が分かれていなかったのではないか、という私の判断が本文に投影されている事は認めますが、ПРУСАКИНさん仰るように、読者に「純粋な宗教対立」としての見方を強制するつもりはありませんし、そのような文面でも無いと考えております。
それと、この本文前半部分の主要参考文献は三浦清美氏によるものですが、氏もこの時代の政治動向を「純粋な宗教対立」などとは捉えていませんし、私もそう捉えてはおりません。但し「純粋な政治・領土対立」とも捉えていません。それほど極端な見解では無いと思うのですが…--Kliment A.K. 2007年11月11日 (日) 12:41 (UTC)[返信]
私も上記の通りこの文脈で「正教のルーシとカトリックのドイツ騎士団の紛争」という解釈が生じるのかは疑問があるのですが、そう解釈する人がいるということを心配されるのであれば、そういう見方を助長したくないと思う人がしかるべく文章を工夫して下さい、という趣旨のことを申し上げたつもりです(少なくとも私はそうは読みませんでしたし、抜本的修正が必要とは思っていません)。もしくは、どのような文面であれ、それを読み手がどのように読む(理解する)のかは読み手側の問題であり読み手の責任ですから、書き手の側でどうこうする問題でもないという領域もありますよ、と指摘したつもりだったのですが、あまりうまく伝わっていないかもしれません。
「ロシア帝国史観」「ソ連史観」に歪められた見方であるかについては、その辺の事情は私はよく存知ませんので残念ながらコメントは致しかねます。--ПРУСАКИН 2007年11月11日 (日) 12:54 (UTC)[返信]
ПРУСАКИНさんの仰る事は上に述べられたように理解して御返事しております。ご安心下さい。寧ろ私の文意の方が不明瞭だったかもしれません。
私は「正教のルーシとカトリックのドイツ騎士団の紛争」という見方は全肯定しませんが、全否定もしません。ですのでその解釈は読者に委ねるような書き方にしたつもりです。当時の政教を一致に近いように捉えている方は宗教対立面を肯定的に捉えるでしょうし、当時の政教を分けて捉えている方は宗教対立面を否定的に捉えるでしょう。
小生としましては、かなり中立性を意識したつもりです。「あれは宗教対立ではなく、100%世俗的な領土紛争でしか無い」という見解がここで通りますと、前近代の紛争の全てが宗教対立ではなくなりかねません。いずれの極端な見解も、百科事典に載せるには相応しく無いと考えます。
>(少なくとも私はそうは読みませんでしたし、抜本的修正が必要とは思っていません)。
ПРУСАКИНさんの仰るように、様々な捉え方が可能な文面だと思います。修正はこの点では必要だとは思えません。--Kliment A.K. 2007年11月11日 (日) 13:10 (UTC)[返信]
書こうと思えば「この問題については宗教的対立と捉える考え方と領土的対立と捉える考え方がある」と明記しておくことは可能だと思いますが、何となく無意味な気が。そんなことは言われんでもわかっとると……。
問題となるとすれば、こうした文章表現よりはむしろ「リヴォニア」と記載すべきか「ドイツ」と記載すべきかという事実関係の確認でしょう。--ПРУСАКИН 2007年11月11日 (日) 13:32 (UTC)[返信]
長い話し御好きのようですね・・・兎に角、原点にもどっていただくと、プスコフを占領したのはドイツ騎士団ではなく、リヴォニア帯剣騎士団でした。この部分を修正していただきたいです。--133.41.84.206 2007年11月12日 (月) 01:01 (UTC)[返信]
原点に戻りますと、上記の通り「リヴォニア」と記載すべきか「ドイツ」と記載すべきかという事実関係の確認でしょう。ですよ。それと、前述の通りリヴォニア帯剣騎士団のページにあたかもこれがドイツ騎士団に吸収されてなくなってしまったかのように書かれている部分との兼ね合いをどうにかしましょう、多分リヴォニア帯剣騎士団の方を修正することになりますかね、と提案しているのですが。そういう部分を無視して突然話を最初に戻されてもねえ……。本当にプスコフを占領したのはドイツ騎士団ではなく、リヴォニア帯剣騎士団であると記述するべきなら、修正していただきたいなどと他人に指図せずともご自分で出典を付けて修正なさったらいかがですか? IPでもルールに則ってページを編集する権利はあることはご存知でしょう。
そもそも、この程度の問題、別にノートで提案するほどのことでもなかったんじゃないですか? ノートで提起された問題は複数の人間によって厳密に審査されることになりますから、得てしてこのように議論は肥大化するものです。やたらノートにコメントするのも、議論が長くなる可能性を望まないのでしたらやめにした方が無難ですね。「AはBじゃないですか?」「はいそうですね」で話が済むことを期待しているのなら、あのですね、その程度の問題なら殊更ノートに書きあげたりなどせず最初からご自分で本文を適切な形に修正なさったらよいではありませんか。議論の継続を望まないのでしたら、ノートで問題提起することに何の効果を期待なさっているのですか?
残念ながら今回の問題はもう大きくなってしまいましたから、そのようには行かなくなってしまったかもしれませんが。--ПРУСАКИН 2007年11月12日 (月) 05:41 (UTC)[返信]
Kliment A.K.さんはこの記事を書いていただいたので、私の方から勝手に修正したくなかったのです。他のwikiでは勝手な修正は「修正戦争」を起こす場合がありますから。。。とりあえず、リヴォニア帯剣騎士団にかんする修正をKliment A.K.さんに修正していただければ、幸いです。Alex K--133.41.84.206 2007年11月12日 (月) 08:25 (UTC)[返信]
Alex Kさん
ПРУСАКИНさんは「『リヴォニア帯剣騎士団がドイツ騎士団に吸収された』となっている別項目の記事内容との整合性をどう調整するべきか」と仰っているのであって、何ら「長い内容」など仰っていません。日本語を外国語とされている方に申し上げるのは酷かもしれませんが。
私も現時点では、「ドイツ騎士団」を「リヴォニア帯剣騎士団」に変える必要を認めません。歴史的にも基本的には氷上の戦いの当事者は「ドイツ騎士団VSアレクサンドル・ネフスキー」となっています。
ちなみにウクライナの民族主義史観に好意的な著書(中公文庫「物語 ウクライナの歴史」52頁)でも、氷上の戦いの当事者を「ドイツ騎士団」とし、「リヴォニア帯剣騎士団」とは書いていません。
>ドイツ騎士団は、長年、ルーシの諸国にとって頼ることが出来る同盟者でした。
聊か誇張していると思います。ハーリチ・ヴォルイニ大公国にとってはその通りでしたが、少なくとも北東ルーシにとってはそうではありません。北東ルーシだけがルーシで無いのと同様、南西ルーシだけがルーシでもありません。--Kliment A.K. 2007年11月12日 (月) 15:51 (UTC)[返信]

Kliment A.K.さん、 東ヨーロッパの歴史をもっと勉強しなさい。著書ではなく(「物語 ウクライナの歴史」と本は日本で研究書とされているのか??)、史料から。素人が歴史をやる今の「ロシア正教会」のような偏った記事が出来上がるばかりです。日本のインターネットではそのような作品は山ほどあります。あなたは注意されても聞かないから、仕方がない。日本語ではそんなとき「馬の耳に念仏」と言われております。私は正教には興味ないので、このテーマを好きにやってください。あなたを説得するには時間がおしいのです。神のご加護を!-- Alex K 2007年11月14日 (水) 07:51 (UTC)[返信]

Alex Kさん
とりあえず、日本語を間違えまくりながら説教をするという、ウクライナ民族主義者の偉そうな人格だけは良く分かりました。ロシア至上主義者には今まで会った事が何度も御座いますが、ウクライナ民族主義者も大したものだというのが今の感想です。貴方の言い分が正しいのだとすると、今の日本の歴史学者の大半が「歴史の素人」です。それから「東西教会分裂」の年代についてもっとよく勉強してください。1054年に分裂したのだなどというお話は今ではもう完全に時代遅れの通俗的見解でしかありませんよ。

--Kliment A.K. 2007年11月14日 (水) 09:46 (UTC)[返信]

追伸
ドイツ騎士修道会について、リヴォニア帯剣騎士修道会とこの時代に一体のものと看做すのは、私の個人的見解でありません。貴方は全くПРУСАКИНさんのお言葉に答えていません。スルーですか?私に答えなくてもいいですから、ПРУСАКИНさんには答えて差し上げて下さい。--Kliment A.K. 2007年11月14日 (水) 09:49 (UTC)[返信]
それから、一次史料だけを使って云々と謂いますと、今の日本語ウィキペディアでそこまで出来ている人間はおそらく1%も居ないでしょうね。
確かに私は素人です。ですからところどころでは貴方にも教えを乞うた筈です。私は別にウクライナ史観を全否定などしていませんし、それは今も変わりません。ですが貴方は素人素人と連呼されますが、貴方程度の日本語能力で日本語ウィキペディアに介入されるのも如何なものかと思います。謂いたく無かったのですが。別に私には許容範囲ですが、そこまで偉そうに説教出来る程、褒められたものでは無い事は自覚して頂きたい。--Kliment A.K. 2007年11月14日 (水) 09:52 (UTC)[返信]


Kliment.A.K.さん、なぜ私をウクライナ民族主義者と決め付けたかまったく分からないが、それはあたなの心の問題として、あるいは人格の問題としてほっといておきましょう。根拠がないとき、「あいつはOO主義者だ」というやりかたはあまり賢いやり方ではないんです。最後に、私はあなたに歴史事実についての間違いを教えてあげたように、あなたは私に日本語の間違いを教えていただければよかったです。しかし、あなたは自らの間違いを認めないまま、他人の間違いも直さんうちに他人を責めているのです。それはどうかなと思いますけど。。。-- Alex K 2007年11月14日 (水) 11:11 (UTC)[返信]

追加史料:Ледовое побоище 1242 г. Труды комплексной экспедиции по уточнению места Ледового побоища./Отв. ред. Г.Н. Караев. Москва - Ленинград, "Наука", 1966. 241 стр.。また、ウクライナ民族主義と無関係なロシア語のwikiでさえ、「ドイツの騎士団」ではなく「リヴォニア帯剣騎士修道会」と書いております。でも、Kliment.A.K.さんにとって、「ドイツの騎士団」のかわりに「リヴォニア帯剣騎士修道会」と書く編集者は、みんなウクライナ民族主義者であるから、私のリンクを無視していただき、ありのままの「ロシア正教会」の記事を維持していただきたい。-- Alex K 2007年11月14日 (水) 12:00 (UTC)[返信]
氷上の戦いについて。戦いの神話は、どのようにして作成されたのかを、紹介されています。たぶん、ウクライナ民族主義者が書いたでしょうな(笑)。それを読んでいただくと、「貴方の言い分が正しいのだとすると、今の日本の歴史学者の大半が「歴史の素人」です」というKliment.A.K.さんが疑問におもったことは解決するでしょう。-- Alex K 2007年11月14日 (水) 12:30 (UTC)[返信]
>あなたは自らの間違いを認めないまま、他人の間違いも直さんうちに他人を責めているのです。
えーとですね…皮肉っぽい日本語だけはお上手ですね…まあ、ウクライナ民族主義者じゃなくてもカトリック至上主義者でも何でも別にいいのですが、正直言って何らかの偏りがある人だという私の印象は変わりません。別に私の主観に過ぎないと仰るならそれはそれでいいでしょう。ちなみに私は「自分は偏っていない」という人は信用できません。何も偏りが無い人など有り得ないのですから。
ですがもう一度申し上げますが、「本当に間違いなのかどうか?」と問いかけているПРУСАКИНさんのお言葉と文章は無視するんですか?誠意が感じられません。素人の私にかまけていないで、ПРУСАКИНさんの問いかけに応えて下さいよ。私も同じ事を言っているだけです。「本当に間違いとまで言える程の間違いなのかどうか。」と。
それから、リンクが切れていますが…。
もう一つ申しますが、私は貴方からすれば外国人なんですよ。ウクライナ語もロシア語も分かりません。どこのウクライナ人か分からない人間がネット上で皮肉っぽく「お前は素人だ」と説教してきても、わからない外国語で教えようとしても、日本人大学教授たちが日本語で書いた本に「ドイツ騎士団」と書いてあれば、「とりあえずは」そちらを信用するのが(残念ながら)当たり前じゃないですか。それで「お前は一次史料も読めない素人だ」では、誰が教えに耳を傾けると思いますか?そんな事ではどこにも知識は広めることは出来ません。
勿論、今まで申した事は貴方が間違っているという意味ではありません。貴方は気付いていないようですが、ちゃんと私は聞いていますし、貴方の知識には敬意を払っていますよ。だからこそウクライナ正教会のページ作りの時には、貴方のページに質問に行ったではないですか。
ただ繰り返しになりますが、通説と、ネット上の人間の、どちらの言い分を「とりあえず」正しいと思うかは、一般には明らかでしょうと言っているのです。だからこそウィキペディアでは「独自研究は控えろ」と言われているのです。日本人に検証可能な範囲で説得をお願いしますよ。別に貴方の知識量については疑っていないのですから。
他記事との間の整合性について納得行く文案にするならば、当方が修正するのも吝かではありません。「はいそうですか、分かりました」以外の答えだったら皮肉や怒りでしか応じられないのでは、あまりに狭量すぎやしませんか。ちなみにワザと使っておいでだったのか判りませんでしたので申しますが、日本語で「彼は」「彼女は」と言うのは見下した言い方と受け取られますのでお気をつけ下さい。
今のところ、ПРУСАКИНさんと他記事・参考文献とAlex Kさんのお説との整合性を考えれば、修正文案は以下のようになります。ちなみに宗教争いだったか否かは既に「読者の受け取り方による」で解決済みとします。
(現行)ドイツ騎士修道会はプスコフを占領した。
(修正案)ドイツ騎士団の下にあったリヴォニア騎士団はプスコフを占領した。--Kliment A.K. 2007年11月14日 (水) 15:32 (UTC)[返信]
すみません。私が初めからもっと親切な書き方をすべきでした。問題点を整理しますと、まず①ドイツ騎士団の下でリヴォニア帯剣騎士団はある程度の自治権があったという事実関係の確認(嘘だとは思っていません。たんに「確認」のため、念のためです)、その上で、②その「事実関係」についてリヴォニア帯剣騎士団に記載する(これはその記事にとってたいへん有益な追加情報となるでしょう。ぜひお願いしたいところです)です。その上で、こちらのページの内容について修正すべきで、③プスコフを占領したのがリヴォニア帯剣騎士修道会であるという出典(念のための出典です。「ドイツ騎士団」と書かれることは少ないので。多分、ドイツ騎士団と書いている研究者はリヴォニア帯剣騎士団が当時ドイツ騎士団に併合されていたからそう書いているだけであって、プスコフを占領したドイツ騎士団の「部隊」がリヴォニア帯剣騎士修道会であったことを否定しているのではないと思います。その点出典があれば言うことないのです)が確認できれば、④このページにリヴォニア帯剣騎士団と書くことは何ら問題のないことだと言えます。面倒な作業ですが、多分Alex Kさんはこの辺の出典をご提示することができると思います。むしろ、Alex Kさんしか出典を示せないかもしれません。
で、出典ですが、外国語しか出典のない記事はたくさんあり、これはなかなか頭の痛い問題です。取敢えず、今回は当該箇所を限定していただければ私が読んで確認しますので、ウクライナ語でも構いということでどうでしょうか。ただ、上記で示されているような大量の文章だと、私は読んでいる間にすごくウクライナ語が達者になってしまうので(苦笑、つまりそんなにいきなりたくさん読めません。私の外国語能力はその程度のものです)、できれば最低限の当該箇所を限定していただけるとありがたい。もしくは、GDFLに反しなければAlex Kさんの方で該当箇所を日本語訳していただいても構いません。多分そちらの方が早いでしょう。私のウクライナ語読解力よりAlex Kさんの日本語力の方がずっと高いので。こう言っては却って失礼になるかもしれませんが、最初の頃のページと最近のページを比べた場合、Alex Kさんの日本語力の向上は目覚しいものがあると思います。多分今はまだ日本語の微妙な言い回しでお互い予期せぬ誤解や衝突もあるかと思いますが、その程度の問題は私がいつもウクライナ人と話していて対面している小さな問題です。何とか仲良くやりましょう……。(私はいつもウクライナ人とけんかするのでそんなこと言えた立場じゃないんですが。)
「物語 ウクライナの歴史」はもちろん史料研究書(専門書)ではありません。ていうか、題名に「物語」と付いた専門書など見たことはありません。あれはシリーズ物で「物語 ラテン・アメリカの歴史」とかもあるんです。これらは一般読者向けの「教養書・入門書」です。ただ、日本語ではこういう場合も言葉のあやで「資料」という呼び方をしたりするものなんですよ(参考図書、という程度の意味です。なお、史料資料はともに「しりょう」ですが意味は違いますので念のため)。あまりその辺の細かいところに突っ込まないで下さいよ。多分、日本語母語話者はそういう言葉の細かい点を指摘されるととても困ると思います。あまり深い意味はないんです。言語というのはそう効率的にできているものでもないんです。ウクライナ語でもそういうことはあると思います(ロシア語ではあるようなので)。--ПРУСАКИН 2007年11月15日 (木) 14:29 (UTC)[返信]

分割提案[編集]

  • 「歴史」節をロシア正教会の歴史に分割する事を提案します。WP:MMにある「分割すべき場合」3件のうち「ページの分量が肥大化したため、読者にとって全体の見通しが悪く不便な場合」「ページ中で特定の説明だけの分量が多く、明らかにバランスを失している場合」の2件に該当します。
  • なお反対が無ければ「歴史」節を分割する際に、「現況」節のコピーも行う予定です。つまり「現況」節は、分割直後には「ロシア正教会」にも「ロシア正教会の歴史」にも同じものが生成される事になります。分割後に両記事の体裁を整えてコピー状態を解消しますが、記述整理の前に履歴継承の問題から、要約欄に事情を記載しつつ、まとめてコピーする予定です。--Kinno Angel 2010年10月25日 (月) 04:54 (UTC)微修正--Kinno Angel 2010年10月25日 (月) 08:44 (UTC)[返信]

冒頭文修正につき[編集]

この2回分の編集につき説明申し上げます。

  • わざわざ日本語で殆ど流通していない(一般人は勿論、専門家の間でもそれほど頻繁に用いられているわけでは無く…グーグルで「”ニーコン派” ロシア」で検索をかけて、ヒットは現時点で僅か11件です)、しかも蔑称を、冒頭文で述べる必要があるとはちょっと考えにくいです。「ニーコン派」なる用語で検索をかけたりリダイレクトで飛ばされて来る人は、「(主流派)ロシア正教会」を意味するというくらいの前提知識も当然あるのであって、利便性が損なわれる心配もありません。削除しました。
  • 「典礼」から「奉神礼」にしました。教派用語の尊重です。
  • そもそも長司祭アヴァクームが火刑に処されたのは1682年(当時の総主教はニーコンではなくイオアキム)であり、ニーコン永眠ニーコンが総主教職から追われてから(1666年)(訂正2011年10月25日 (火) 04:09 (UTC))16年も後のことです。17世紀の奉神礼改革のメインは必ずしもニーコンだったとは言い難いこと、ニーコン永眠後も改革が継続(むしろ手段は硬化)していたことを指摘して、皇帝と対等の立場を目指したニーコン総主教(ここでニーコンが皇帝を越えようとしていた…という古い歴史観が未だに日本で流布しているのは残念なことです)を悪玉にしたがった帝権側が、奉神礼改革による諸混乱の責任をニーコン独りに背負わせたのではないか、その歴史観が流布されている現状への疑問が、最近の研究では出されるようになりました。この辺のロシアにおける研究成果が日本に還元されるのには、まだまだ当分時間がかかりそうですが…
  • で、記事「ロシア正教会の歴史」の17世紀の奉神礼改革の部分につきましても、かなり古い歴史観(「ニーコン悪玉論」的なもの)に基づいて記述されていますので、独自研究にならない程度の範囲で、ロシア語文献・英語文献等に基づきつつ、最新の研究成果も踏まえて加筆修正する予定です。--Kinno Angel 2011年10月24日 (月) 23:46 (UTC)[返信]

勉強になります。ありがとうございます。 「ニコン派」も含めるとかなりの件数になりますし(キャノン派の反対語としての件数が多くてカウントできませんが)、ロシア正教会の正統を自認する集団が多数あることを伝えるためにも必要かと思いますが、いかがでしょうか。--利用者:3fa6yf3m345236 2011年10月26日 (水) 09:18 (UTC)[返信]

私が「ニーコン派」「ニコン派」のいずれにも記載・記述に慎重な理由を四点書きます。まず
1 当事者が認めない蔑称である
たとえば(微妙でホットな論点を日本では含んでしまう領域ですが)、相当に日本では「定着」している「チョン」ですが、これは朝鮮民族に書かれているでしょうか?「チョン」の三文字はノートページにすら書かれていないわけです。
2 不正確である
これがメインの理由です。このノートページにも書きましたが、主流派ロシア正教会の特徴を形成し奉神礼の世界標準化を進めたのはニーコン独りでは無いため、実態とも整合性がありません。
3 定着していない
1、2の私の主張から、では「分離派」は「古儀式派」に書かなくても良いのでは?とも思われるかもしれませんが、実はそういうことになります(心情的には「書かなくて良い」と思っています)。しかし「本来の名称・自称よりも広く、もしくは同等に広く定着している」場合、残念ながら説明が必要である、ということになります。
4 必要ない
ロシア正教会の正統を自認する集団が多数あることを伝える」のは、現時点の冒頭文で事足ります。--Kinno Angel 2011年10月31日 (月) 00:47 (UTC)[返信]