ノート:ルイ・ケルヴラン

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203.168.74.194さんによる編集について[編集]

2008年5月11日の203.168.74.194さんによる編集で、記述がかなりの分量追加されました。この編集について、以下のような問題点を指摘したいと思います。

  • 出典が明記されていない
  • 断定的に書かれているが、それが断定的に書けるほど正確な内容なのか不明である。
  • 誰か(例えば、ケルブラン自身)がそう主張しているだけなら「xは、Aであると主張している。」などと書かないと、単なる個人の主張なのか、それ以上の裏付けがあることなのか分からない。そういう記述がいくつも見られる。

以上のことが解決されることを望みますが、しばらく待っても改善の見込みがない場合はとりあえずコメントアウトして問題が解決された部分から復活されていくという形でいかがでしょうか。--Luna plena 2008年5月12日 (月) 10:45 (UTC)[返信]

トンデモ理論と嘲笑して社会的に排除する問題行動について[編集]

再び致命的なトラブルの発生が予見されるので、深刻化する前に釘をさしておきます。

多くの人が注目している常温核融合とケルヴランの元素転換の話ですから、ちょっと探せばいくらでも資料は出てくる状況です。インドなども、常温核融合はトンデモ科学だという認識に囚われて、つい最近まで、長期間この方面の研究予算を凍結していました。今になって、研究に15年間の空白と遅れが生じたことを悔恨する言葉を添えて、予算を付けることにしたようです。ケルヴランの研究を再評価し、引き継ぐ人々が大勢現れて、新しい潮流が生まれはじめているのは、常温核融合の再評価、核変換(元素転換)が日常的に起こっているという認識の広まりと、無関係ではないようです。今は非常に不安定な時期なので、誰もが納得できる視点から書かれた出典は存在しないと思います。どの程度確からしいと言えるのか、誰も判っていないかもしれません。出典を明記して欲しいと感じた方が、世の中の流れをよく観察したうえで書き足せばよいでしょう。残念ながら、私は部分的にしか動きを把握しきれないので、客観的な記述はできません。最も重要な研究が、兵器開発や産業機密の名目で秘匿されて、公開されていない可能性があるので、今この分野の全体がどうなっているのか、私からはよく見えないし、さっぱり分からないのです。

『代表的な生物学的(生体内)元素転換の例』と『代表的な元素転換(非生物学的な核変換)の例』ですが、これを日常的に当たり前のように起こっている核変換現象だと思っている人の視点から記事が書かれています。常温核融合はまだどう転ぶか分からない危ういものだと感じている人の目からは、社会認知された定説を書くような文章を並べるべきではないという意見が出ても当然でしょう。ならば率直に、ケルヴランを支持し、彼の研究を引き継いだ研究者達はこう考えているが、いまだに疑問視する向きもあるという文言を、疑問符を付けたい人物が、記事に付け加えていけば良いと思います。

科学知識の正誤、つまり似非科学かそうでないかを考えるうえで、最も重要な事柄について触れておきます。「西洋型の形式論理が生み出した生存の様式は、必ず適用限界を持つ」ことは、不完全性定理を一般の学問へと拡張して考える作業からも明らかです。100%正しいと自己主張できる見地など、人類の脳では一つも生成することが出来ません。また、人類が唱える全ての生存の様式は、ただ一つの例外を除いて、全て間違っていて、科学的な探索の手法を用いている限り、近似的解決しかできないことが、最初から確定しています。したがって、ウィキペディアはもちろんのこと、あらゆる事典類に書かれている記事は、全て最初から間違っていて、100%正しいと自己主張できるものは、厳密に真か偽かを問い詰めていけば一つもないことになります。つまり、事典に記された科学知識が100%誤情報であることは、最初から確定しています。真理を語れる人物は別にして、科学的に物事を考える人々は、誤情報でない情報を書き記す能力を、最初から持っていないのです。

ケルヴランの研究も例外ではなく、その正当性を主張できる有効な範囲と適用限界を持ちます。その枠の外に一歩踏み出せば、間違っていることは、確定しています。これはアインシュタインの相対性理論を前にして、ニュートン力学が有効に使用できる範囲が限られていることが明らかにされた点を思い浮かべれれば、分かりやすいでしょう。さらに、アインシュタインの学校での成績を見ればはっきり分かると思いますが、その名声とは裏腹に、現実には天才と呼ぶには程遠かったようです。数学などがあまり良く分かっていない人物だったらしく、根本的に間違っている(論理的に内部矛盾している)致命的な部分が幾つも目に付きます。今日では相対性理論を否定する現象が数多く見つかっているので、不備の目立つ粗末な似非科学であることは、確定しています。しかし、相対性理論の記事が誤情報を流布していると問題視されて削除対象にならないのは、科学知識は近似的な解決の手段にすぎないという前提を、多くの科学者達がよく心得ているからです。私も、あらゆる科学知識は、有限のものであり、近似的解決にすぎないとしか見ていません。ケルヴランの研究にしても、厳密には間違ったものだと確定しています。それでも、元素転換の例を提示しておくことは、彼の研究内容が具体的にどのようなものだったかを、短時間で的確に把握するうえで、非常に役に立つと思います。どこまでが彼の研究で、どこからがそうでないか分からない書き方になっているといった、奇妙な指摘が出ていますが、ケルヴランの研究を引き継いだ人々の研究成果には、きちんと一つ一つ名前が入って紹介されているので、見分けが付かないというクレームは不自然すぎます。似非科学を排除したいというバイアスでもかかっていない限り、このような言いがかりめいた指摘は出て来ないように感じます。また、コメントアウトという手段を用いて、研究内容を端的に紹介する文章そのものを、読者から見えないようにして封殺するのは、筋違いです。トンデモ科学を排斥したいと考える、加害発想の現れと受け取られることになりかねません。十数年前に、マスコミと一部の知能が低すぎる研究者達が、出鱈目な実験をやって騒ぎたてて、害意を顕わに常温核融合の研究を叩き潰しました。代替エネルギーの登場を切望している人々を惑わし、科学技術の発展を著しく妨げて、人類の文明の発展を遅らせただけでなく、化石燃料の枯渇によって文明が将来存続の危機にさらされるリスクを高めたように見えます。このような動きに惑わされたことを後悔する言葉が、インドの政府などから発せられているこの時期に、同じような愚かなことを、反省もなく今度はウィキペディアが繰り返そうとしているという、社会的評価を下げる話の展開になることは、避ける必要があります。人類の文明が滅亡するかどうかの鍵を握る、重要な科学的発見に関する情報を、不用意に捻じ曲げてしまった歴史を、再評価の兆しが見えている今、再び繰り返すのは、あまりにもタイミングが悪すぎると思います。

水を地中深くまで送り込むと地震が発生することは、井戸を掘って圧力を加えて産業排水を地中深く廃棄したり、貯水目的で建設されたダムに水を貯めていって、一定の水位を超えると急に地震が頻発するようになることから、1960年代から経験的によく知られています。雨量、つまりダムの水位の変動と地震の発生頻度や規模に相関関係があることも、データを見れば明らかなので、ほとんど世界中のダムの設計者が認めていると言って良いでしょう。しかし、たいしたエネルギーを持っているとは思えないただの水を、圧力をかけて地中に染み込ませるだけで、なぜ地震を引き起すような莫大なエネルギーが発生するのか、いまだに説明がつかないと感じている人が大部分のようです。可能性があるとすれば、水が地中の鉄分などに触れることで、水素と酸素が発生して、地中深くの高圧条件下で、常温核融合爆発といった、とんでもない常識を覆す現象が起こって、大々的にドッカーン!、チュドーン!となっているといった、ぶっ飛んだSF映画並みの珍理論を振り回す以外に、有効な選択肢がないように思われます。火山から噴出するガスに含まれるヘリウムの量が変動することに着目して、火山の地下で高圧下常温核融合が起こっている可能性を示唆する論文を書いた、著名な科学者もいます。これは、純粋水爆や地震兵器など、新しいタイプのトンデモ兵器の開発に転用できる可能性が高いため、ある段階から先の研究は秘匿されて、一般に公開されていない可能性が高いと感じます。活断層が動いて地震が起こっているという従来からの仮説では、地震発生時の岩盤の、方向性が定まらない不規則な動きが説明できません。複数の巨大爆発が地下で起こって、地表面に破壊の痕跡が露出していると仮定すればうまく説明できるシミュレーション結果も出ています。なので、スーパーマッドサイエンティストが登場するSF映画の中で並べ立てられる、架空の面白おかしい似非科学の兵器理論とは、まったく違う様相を見せ始めていると感じます。阪神淡路大震災の原因は、明石海峡大橋の橋脚を設置するために海底に開けた穴から、大量の海水が地中に流れ込んで、核融合爆発が起こったことが主原因で、人災の可能性があると、一部の研究者の間で指摘されはじめています。ある種の外国人のグループは、地震災害の発生を事前に知っていた可能性も指摘されています。ケルヴランの元素転換や、常温核融合(核変換)の研究が、加害発想を持った情報の流通を妨げたい人々の手で、何度も繰り返し阻まれた結果、大幅に立ち遅れたことが原因で、震災の発生が食い止められずに、多くの人々の命が失われたと、後世言われるようなことになれば、当事者は大きな罪を背負うことにもなりかねません。

本来、このような人類の現在の文明の命運そのものを左右しかねない重要な研究は、たとえ一見するとトンデモ仮説やトンデモ理論に見えるとしても、害意を向けて排斥して、心理的なストレスを発散する攻撃対象にすべきではありません。しかし、個人的な科学知識に対するコンプレックスを解消するといったつまらない目的で、歪んだ心理的衝動から非行に走る人が多く、一度マスコミなどによって排斥行為を助長する宣伝が行なわれると、集団心理によって研究に対する評価が著しく捻じ曲げられて、収拾が付かなくなる現象が起こることは、すでに明白な歴史的事実のようです。ネット社会に流通する情報の命運を左右できる、大きな力を持った立場にあるウィキペディアの編集者も、トンデモ系に見える理論を不用意に封殺しない注意が必要と思います。新しい重要な意味を持った理論は、従来の学説をひっくり返す形で登場するのが世の常なので、前代未聞の珍理論に見えるのが、むしろ当たり前かもしれません。しかし、ケルヴランの元素転換も、常温核融合も、再評価が始まっていることは確かなようです。〔Na+O=K〕〔Ca-H=K〕〔Si+C=Ca〕などの元素転換がまず間違いなく起こっているだろうことを示唆するデータが、彼の研究を引き継いだ人々の間で出揃ってきているにもかかわらず、ケルヴランの説が正しいと考えている人がまだ少ない現状では、従来の常識からあまりにもかけ離れた、怪しすぎるとんでもない似非科学と見る人々の視点を代表する加筆が、ウィキペディアの記事に対して行なわれても当然だと思います。そうなるのは、ウィキペディアの仕様上しかたないようなので、あきらめるしかないと思いますが、安易な気持ちでコメントアウトにして、情報の流通そのものを封殺する形だけは、採らないほうが良いと思います。今後もしも地震が起こったときに、似非科学というレッテル貼りによる排斥行動がウィキペディア上でも繰り返されて、結果的に災害対策が立ち遅れてしまい、多くの人々が震災にあって死んでいく結果を招いたといった形で、罪を咎める視線がウィキペディアの編集者側に向く話の展開が生まれるのは、望ましいことではないと思います。数千人の遺族から恨みを買い、社会問題視されるのも、ぞっとする話です。先の新潟で起こった地震は、地中深くの油田に水その他の物を注入して地層を破壊した結果生じた人災ではないのかと、国会で質問が出されて議論が始まっているので、荒唐無稽なSFに登場する似非科学では済まない話になってきているようです。多くの人命を守るために行なわれる、今後の国の災害対策事業をも左右する判断材料となる重要な情報と関連しているのです。今ここで似非科学のレッテルを貼ったまま封殺するバッシング行動を選ぶことは、ウィキペディア自身にとって、得策ではないと考えます。ケルヴランの記事に触れる方々が、このような背景をよく理解しておられれば良いのですが、どうも判らないまま不用意に扱っている気がします。

元素転換は、まだ本当に起こっているかどうか怪しいのに、この書き方では不味いと感じた人々が、文面の表現を変えていくことは別にかまわないと思います。個人的には、的を得た仮説をあやふやな表現に書き換えて、無闇に人を惑わすべきではないと思っていますが、現在の一般人の感覚では、従来の科学の常識に著しく反する、怪しすぎる仮説という認識に向って、バイアスが掛かったままどこまでも振れていって、歯止めが効かなくなるほうが、むしろ当然かもしれないと感じています。ケルヴラン博士が唱えていた、一見非常識に見えるトンデモ理論を信奉している信者達に、冷やかしめいた言葉を浴びせて、その愚かさを嘲笑して排斥したいという衝動を、どう押し殺せばいいのかといった、理屈ではなくて、心理的な感覚や納得性の問題に、いつのまにか摩り替わって、ウィキペディアが非行グループの玩具にされてしまいかねない点を、十分警戒する必要があります。遺伝子情報系が生命誕生から数十億年かけて集積してきた生得的真理と違って、どう転んでも、科学知識はしょせんは近似的解決にすぎないので、元素転換という考え方も、一定の範囲でのみ仮に正しいとみなしているだけで、本当は最初から誤情報、似非科学に決まりきっています。科学知識を生み出している多くの人々が抱いているこのような見方は、現時点では変えようがないと思います。もちろん、生得的真理と科学知識の折り合いがうまく付けられないこのような不完全な世界観は、20世紀の遺物です。そこから脱却した、統合的な21世紀の世界観を持つに至った人々からは、まったく相手にされていない稚拙な混乱にすぎません。--203.168.68.26 2008年5月14日 (水) 07:59 (UTC)[返信]

私はケルブランの研究がトンデモだなんて一言も書いていません。
一時的にコメントアウトすべきだと考えるのは、トンデモであるかどうかとは別問題です。トンデモであろうとなかろうと、出典を明記するのはwikipediaのガイドラインです。その要件を満たせるように出典が明記されるまでは、コメントアウトしようという提案をしたに過ぎません。--Luna plena 2008年5月14日 (水) 12:19 (UTC)[返信]
それから、WP:TPG#簡潔であることの考慮もお願いします。--Luna plena 2008年5月14日 (水) 12:21 (UTC)[返信]
自分で出典も添えられない記述を書くことが適切な行為とは思えません。ここは個々人の意見表明の場ではないはずです。Wikipediaのガイドラインに則って扱おうというLuna plena氏の意見を支持します。--mobanama 2008年5月15日 (木) 10:27 (UTC)[返信]

形式的に中立を厳守しましょう[編集]

 徹底してルイ・ケルブランの著書の内容の紹介、という形にすれば良いのでは?  ようするに「この本には、こういう説が書いてある」とすれば良いのです。ルイ・ケルブランという人物の項目ですから、「著書に書いてあること」を紹介するのは何ら問題ない。形式的に中立を厳守すれば、形式的な批判の入り込む余地などないはず。その批判がいかなる意図でされたものかなど、いちいち考えるのはやめしょう。"203.168.68.26"氏、ここは冷静に行動したほうが得策です。

「形式的に」というのが何を意味するのか分かりません。しかし、現状では「この記事の地の文における断定表現」と「ケルブランの著作の内容の紹介」とが区別しずらい状態になっていることを考えると、紹介に徹するべきという意見には賛成です。--Luna plena 2008年6月13日 (金) 15:42 (UTC)[返信]