ノート:バベルの図書館

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編集合戦の原因となった記述について[編集]

数日前に219.114.217.102氏が指摘したように、バベルの図書館に存在する本は25種類の記号からなる列であり、記号列の長さは410頁×40行×約80文字を超えることはなく、ボルヘスも「それは膨大ではあるが無限ではない」という趣旨のことを書いています(単純に考えても本の総数は高々25の1312000乗)。無限集合の濃度についての手法である対角線論法とは何の関連も起こりえません。

要するに問題の記述は全く的外れなもので、ボルヘスの短編「バベルの図書館」の内容について全く不必要な誤解を生じさせかねない記述でもあると思います。保護解除して、当該部分を削るべきだと思うのですがどうでしょう。 カナリア(赤) 2006年1月20日 (金) 03:28 (UTC)[返信]

数日前にあったという指摘でも、内容の有限性を気にしているようですが、問題はそっちです。本の冊数が有限であるなら尚更、この内容をおさめるのは不可能です。たとえ本が無限冊であっても、この内容を、このような形でそろえることはできません。さらに、問題になっているのはそういった文脈でバベルの図書館が取り上げられることがあるということで、ボルヘスの意図がどうあろうと、そういった方面でも知られているという事実がこの項目では述べられています。--小太刀 2006年1月20日 (金) 11:18 (UTC)[返信]
「文字記号で表現可能なもの全てを所蔵すること」はバベルの図書館の目的ではありません。記事中にある「論理学的(数学的)には、このような図書館は存在し得ない。」という一文。「このような図書館」とはボルヘスが作品に於いて描写した図書館のことでしょうし、そうとしか読めません。であるならこの文章は端的に誤りです。「このような図書館」は非現実的な量の資材さえあればつくることが出来るでしょうし、そこに集合論的な無限が入りこむ余地はありません。もし集合論の分野でバベルの図書館が知られているとしても(数学には不案内なのでわかりませんが)、実際の「バベルの図書館」の記述とはかけ離れたものとして議論されているはずです。そうであるならば、そのように限定的に記述すべきです。カナリア(赤) 2006年1月20日 (金) 14:09 (UTC)[返信]
いえ。バベルの図書館の内容が表現可能なものすべてだとか、あらゆる問題に対する解決である限りは非現実的な量の資材があってもこの図書館は作ることはできません。本の量が有限であるのであればなおさらです。問題としては一冊でも大差ないです。一枚の紙でも変わりません。バベルの紙。その紙には400文字くらい書かれてあり、あらゆる問題に対する解決方法が書かれている。こう考えた場合、やはり解決法の書かれている問題なんてものはあらゆるものというわけではなく、ある限られた特定の問題についての解決方法だろうということは分かるかと思います。しょせん有限とはそんなものです。紙の枚数が増えれば書くことのできる問題は増えるけれども、しょせん有限でしかないので問題の方もあらゆるというわけにはいきません。バベルの図書館が存在できるとすれば、全部の本を合わせても限られた内容しかない大きめの図書館です。ボルヘスの描写は大袈裟過ぎました。--小太刀 2006年1月20日 (金) 14:54 (UTC)[返信]
確かにボルヘスの描写は大袈裟ですが、この小説は「410頁×40行×約80文字を埋め尽くす25種類の記号の列」を前提にしてそれに対する(主人公も含めた)司書たちの解釈の試行錯誤とその歴史を描いているのですから、「あらゆる問題に対する解決方」等という風に、多少比喩的・幻惑的なものに流れてしまうこともあるでしょう。問題は、現在の記事内容だと閲覧者が今述べたこの物語の基本的構造を見誤りかねない、ということです。カナリア(赤) 2006年1月20日 (金) 15:20 (UTC)[返信]
そういった前提を書いたとしても多少どころではないくらい大袈裟すぎたことに対する過ちが解消されるわけではないですし、敢えて「作品そのものとは関係しない」と断った上で、この作品の影響を解説している部分について閲覧者が作品自体の構造を見誤るという判断はどうかと思います。つまるところ、この物語のあらすじなどをしっかり書けば解消されることと思います。そもそも問題の箇所を削除したところで、この短編の内容や構造をこの記事から理解することは無理です。この記事には登場するバベルの図書館について書かれていますが、短編としての内容については全く書かれてませんし、その状態で見誤るもなにもないでしょう。--小太刀 2006年1月20日 (金) 15:47 (UTC)[返信]
あらすじが不十分・不正確にしか書かれていないこととは無関係の問題であるように思います(おっしゃる通り今後の加筆・修正は必要でしょう)。問題の部分は「作品の影響を解説している」というより、バベルの図書館の「論理学的(数学的)」妥当性について述べているのであり、カントルの仕事についても一定の知識を有していたはずのボルヘスが、図書館の基礎的な性質についての描写(せんじ詰めれば無限という概念の取り扱い)において全く初歩的な躓きをしたかの様に読めてしまいます。私の見るところ、このような嫌疑を受けねばならぬ程、ボルヘスの記述は「大袈裟すぎ」もしませんし、曖昧でもありません。カナリア(赤) 2006年1月20日 (金) 21:47 (UTC)[返信]
実際にそのような整然とした構造で、ありとあらゆる内容を含む図書館として書かれているのであれば仕方ないです。そのように書かれているのであれば、初歩的な躓きは嫌疑ではなく事実となります。大袈裟すぎたことは既に上で説明しました。むしろ構造をもっと曖昧にしておけばよかったのかもしれません。バベルの図書館がこのような整然とした構造を持たなければ問題は無かったかもしれません。著者本人がいかなる知識を有していたとしてもそれとは全く関係ありません。作品は一人歩きしてしまうものですから。そして、そういう意味でそういった方面でも知られているという事実を消すこともできません。--小太刀 2006年1月21日 (土) 02:12 (UTC)[返信]

編集合戦の原因となった記述について 2[編集]

長くなりましたので節を改めました。

私は記事中の「「文字記号で表現可能なもの全てを所蔵すること」が『論理的に』不可能なのである。これは対角線論法によって証明される。」という一文が間違っていると考えているのではありません(この文章が主張しているのは「文字記号で表現可能なもの全て」は可算ではない、という程度の意味なのでしょう)。しかし、繰り返し申し上げているように「文字記号で表現可能なもの全てを所蔵すること」は、ボルヘスが描写したバベルの図書館の性質とは、全く相容れないものであり、これを根拠に「論理学的(数学的)には、このような図書館は存在し得ない。」と書くことは(とりわけここで言われている「このような図書館」がボルヘス的バベルの図書館である場合には)、全く不当なことと考えます。バベルの図書館は「ありとあらゆる内容を含む図書館として書かれて」はいないのです。カナリア(赤) 2006年1月21日 (土) 22:00 (UTC)[返信]

話が堂々巡りをはじめているようです(第三者の意見を求めるためWikipedia:コメント依頼に加えることも考えるべきかもしれません)。状況を徒に長引かせないために単刀直入にお聞きします。具体的に(一般論ではなく)ボルヘスのどのような記述が彼の不手際にあたり、その不手際はどのように数学的に(対角線論法を用いて?)証明されているのでしょうか。特に第一の点について、お答えよろしくお願いします。カナリア(赤) 2006年1月21日 (土) 22:36 (UTC)[返信]

あなたの妄想はどんどん大きくなるようですが、私はボルヘスに不手際があるとはいっていません。繰り返しますがボルヘス自身とボルヘスの書いたことは切り分けてください。正確に言えば今この記事に書かれているバベルの図書館の内容は司書等による推論です。それがこの世界の中で公表され、いろいろ騒ぎになるわけですが、その推論の中のあらゆる言語で表現可能なものの全てを含んでいてそれらの変な推論に踊らされた人々は弁明の書を探すわけですが、上で紙として説明したように高々有限に入る問題は高々有限でしかありません。それは司書の推論に関する事であってボルヘスに帰されるものではありません。そういう世界として書かれているだけですから。またこの短編は存在しない図書館についての話であって、論理学的に存在しないものとして知られているからといって即それが作品や著者に対する評価に影響するわけではありませんし著者の不手際となるわけではないでしょう。小説は論理学や数学に反しないように書かれなければならないわけではないですし、登場人物は論理学に則った会話をしなければならないわけではないですから。そしてさらに繰り返しになりますが、問題は一番最後の部分の論理学がどうのこうのという所ではなく、その上で語られるバベルの図書館の内容についての記述が杜撰であることに寄るものであって、それらはあらすじなどをちゃんと書くことによってなんとでもなることだと思います。--小太刀 2006年1月22日 (日) 13:08 (UTC)[返信]

「不手際」というのは、あなたがつかった「妄想」と同じように言葉の綾のようなものとお考え下さい。ともあれ

  • 現在の記事にはあらすじ部分に不備がある。特に、この短編の大半が(主人公を含む)司書たちの図書館についての解釈・推論の記述であることが全く述べられていない。
  • 集合論の問題となるのはあくまで、「バベルの図書館があらゆる言語で表現可能なものの全てを含んでいる」という司書たちの推測についてである。

以上の二点については、ほぼ意見の一致するところだと思うのですがいかがでしょうか。もしこの点で合意が達成されるのなら、この議論も一応の目的を果たしたと言えるはずです。カナリア(赤) 2006年1月22日 (日) 15:25 (UTC)[返信]

それでいいですよ。ただ編集合戦の大元は、あなたと私ではなく数学関連の記事で悪質な悪戯を繰り返しているDYLAN LENNONという方ですから即解決というわけにはいかないと思いますけどね。--小太刀 2006年1月23日 (月) 12:12 (UTC)[返信]

いまさら脇からつっこむのもどうかと思ったのですが、ちょっと気になったので。バベルの図書館本編では「無限」とか「永遠を超えて」という記述があちこちに出現します。また「ある書棚に貴重な本が収められていながらそれらに近づく事の出来ない確実性」なんてのもあります。図書館構成の方法論から判断しても、ボルヘスが対角線論法の事を知っていたのはほぼ確実で、その不可能性に対して幻想で対抗しようとした、つまり論理学では不可能なものでも言葉の幻想の中には作りうる=それを具現化したバベルの図書館という架空建築物&その小説、なる関係を成立させようとしたのではないでしょうか(エッシャーのだまし絵みたいなものといってもいいですが)。なので今のままの記述でいいかは別にしても、対角線論法に触れるのは有意義だと思われるのですが。211.122.250.111 2006年2月10日 (金) 02:16 (UTC)[返信]

小太刀さん、あなたもその悪質な悪戯の尻馬に乗ったようにお見受けできますが。 正直申し上げて、このバベルの図書館がいかなる物語であるか、が主であってそれがろくに記載されずに、蛇足的な議論に終始するのならば対角線論法の記述は削除するべきだと思います。

対角線論法を持ち出すことについて[編集]

まずそもそも、実数体濃度が可算無限集合の濃度よりも大きいことを示す方法は他にもあるのに、対角線論法を持ち出す意義がわかりません。 ここで対角線論法を明示してしまうと、この論法特有の証明手順と当小説の内容とに何らかの関係を期待してしまいます。 例えば記事としては基数へのリンクのみ示せばよいのではないでしょうか。

また、可算有限集合(図書館の本)を利用して実無限集合に対する1対1の写像を持つ集合を作ることは可能です。図書館の本のどれか1冊でも書ききれないものがあったとしても、 その続きに相当する本を探し出せばよいのです(それが存在することは明らか)。思いっきり極端な例を持ち出せば、図書館に25の記号を一つずつ印刷した25枚の紙しかなくても、 それらを適宜並べていくことで「記号列で表現可能なものすべて」を記述することはできるのです(重複を許す場合)。 このあたりの議論は、情報理論でよく扱われます。面白い文献としては、「The recursive universe」(邦題:ライフゲイムの宇宙,日本評論社,ISBN: 4535783837)に、 「完全ビデオライブラリ」というバベルの図書館に似た設定のビデオアーカイブが出てきます。この本に、このライブラリの重要な問題がわかりやすく解説されています。 --222.3.75.103 2006年4月8日 (土) 10:22 (UTC) もっと単純化した突っ込みとしては、ここで問題にされているのは、「可算有限集合から実数体への1対1写像が作れない(故にバベルの図書館は完全ではない)」ということですよね。 となると、対角線論法以前に、有限集合から無限集合への1対1写像がないのは当たり前です。--以上の署名のないコメントは、222.3.75.103会話/Whois)さんが 2006年4月8日 (土) 19:27 (JST) に投稿したものです(Makotoy 2006年8月11日 (金) 08:46 (UTC)による付記)。[返信]


「対角線論法による否定」は本来「可算無限≠非可算無限」という形なのだが、これを「有限≠可算無限」の議論であると勘違いしたのが発端なのだろう。さもなくば、あらゆる言語表現の総数が非可算濃度だとでも勘違いしたのか。 何れにしても、可算濃度と非可算濃度の意味を知らず、従って対角線論法についても十分な知識を持たない状態で無理に言及しようとしたのが間違いの元に思われる。作品としての「バベルの図書館」についての評価にもなって居ないと思われるので、関連記述やリンクは素直に削除した方が無難と考える。--以上の署名のないコメントは、210.231.57.80会話/Whois)さんが 2006年7月24日 (月) 23:50 (JST) に投稿したものです(Makotoy 2006年8月11日 (金) 08:46 (UTC)による付記)。[返信]

そろそろ「対角線論法に関する記述を削除する。」という形で保護解除を申請しましょうか。8月中に反対意見がなければ、という期限でいかがでしょうか。--福地健太郎 2006年8月11日 (金) 06:37 (UTC)[返信]

福地健太郎さんの提案に賛成します。DYLAN LENNONは無期限ブロックを受けていて小太刀さん、カナリアさんもここのところウィキブレイク気味ですね...解除背申請はもう少し早くていもいいかもしれません。申請のときはカントールの対角線論法の方も一緒でいいと思います。--Makotoy 2006年8月11日 (金) 08:46 (UTC)[返信]
何だかほっとかれている様なのでカントールの対角線論法と合わせて今日付けで保護解除依頼を出しておきました。ちなみに僕自身のこの件に関する意見は 222.3.75.103 さんや 210.231.57.80 さんとほぼ同じです。カントールの対角線論法は全単射つまり1対1の対応に関しての議論ですから書籍にそれを当てはめるのは不当です(複数冊で一つの物語を成す本なんていくらでもある)。--U-ichi 2006年10月12日 (木) 08:21 (UTC)[返信]