ノート:ゼノンのパラドックス

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思考を「何回でも繰り返せる」ことがいつのまにか「時間的にいつまでも続く」こととすりかわるところに、このパラドクスの核心があるのだと思うので、そのように書き直しました。 ゼノンが書き残した原典があって、それが翻訳できるのならその方が良いのですが。

ところで、「(反駁するのは簡単でなく、)多くの哲学者達がこの問題に挑むこととなった」かどうか私は知りません。 「多くの哲学者達は、ちょっと面白い話題なので弟子たちに話して聞かせた」程度のことではないかな?と勝手に想像していますが、ウィキペディアは自説を披露するところではなかったですね(^^)。

で、ウィキペディア英語版によると、

most of them were regarded, even in ancient times, as very easy to refute. (them とは、ゼノンの考案した一連のパラドクス群を指します ― Kk註)

でした。やっぱり。Kk 01:34 2003年9月26日 (UTC)

競技場のパラドックスや二分法についても書いたほうがよいと思いますが、どうでしょうか。。。--220.254.0.4 2005年2月5日 (土) 10:00 (UTC)
>思考を「何回でも繰り返せる」ことがいつのまにか「時間的にいつまでも続く」こととすりかわるところ
チューリングマシンの停止問題ゲーデルの不完全性定理。--222.5.249.199 2006年7月27日 (木) 09:09 (UTC)
大変遅まきの話ですが、歴史的にもアリストテレスが書き残した線で論じられてきたのだから、『自然学』の記述を引用すればよいのではないか。「パラドクスの核心」をどう観るかは他の項に譲る方がよいのではないか。Kkさんは最初期の書込で、少し話がずれますが、「アキレス」以外についても『自然学』の記述を引用すればよいのではないか。--石井彰文会話) 2012年7月31日 (火) 12:37 (UTC)

無限に切り分けられると言うのは粒子論、無限に足し合わせられたもの(連続体)であると言うのは波動論に繋がりそうですね。(電磁波の粒子論、波動論)--222.5.249.199 2006年7月27日 (木) 08:33 (UTC)

検索用のリダイレクト作っておきました。怖いので本文に手は触れません(笑)--219.99.97.34 2008年4月10日 (木) 11:24 (UTC)

○「数学的な解釈」の節に関する疑問です。 0.名前「アキレス」と「アキレウス」の統一。 1.アキレスと亀の問題にしか関説していないのだから、表題は、「アキレスと亀の数学的な解釈」とするべきではないか。 2.説明文にある「つまりこの加算が無限に続くならば、すなわち時間は無限に存在し」という表現は疑問です。 3.この説明は、両者が等速運動をすると決めつけています。それで良いのでしょうか。 「アキレスと亀の問題は「『考えをいくらでも続けられる』ことから『いつまでたっても追いつけない』という結論を導いている箇所に飛躍がある」と考えられる。」 という結論はその通りなのですが、その意味は、「証明をしていない」ということではないでしょうか。すなわち、『考えをいくらでも続けられる』ことからは、追いつくか追いつかないかは結論付けることは出来ない。どちらになるかは別途証明が必要である。ということではないか。 例えば、亀とアキレスが同じ速度であれば、追いつけないのは正しい。話の前提にはアキレスのほうが速いとあるので、無視されがちですが、正確な検討をするためには必要な確認です。なぜなら、「亀はさらにその先にいる」云々の捉え方には、亀とアキレスがどっちが速いかは含まれていないのです。その表現は亀の方が速い場合にも、同じ速度である場合にも当てはまるでしょう。「さらにその先」がどうなって行くのかということが、「追いつくか追いつかないか」を決めるのです。 具体例を挙げますと、最初距離1、その先に1/2、その先に1/3....であったとしましょう。これはだんだん追いついています。すなわち亀の方が遅い。しかし、1+1/2+1/3+.......は、無限大に発散します。すなわち追いつけない! この例が示すことは、亀とアキレスがどちらが速い、という言葉によってだけでは、「追いつくか追いつかないか」は決まらないということです。両者が等速運動をすると決めつければ等比数列の和で簡単ですが、単にアキレスが速いというだけでは、等速運動である必要はなく、追いつくかどうかは決まらないのです。--114.155.185.235 2012年6月20日 (水) 02:39 (UTC)

さらに、数学的解釈という節なら、数学的に決着済みの事柄を未決であるかのごとく観る者たちへ、いかなる意味で決着済みかを示す文言が必要ではないか。2012.6.19以前の記述でも、級数を持ち出す事を、ゼノンが言っていない別の主張を持ち出す、と言っている。植村恒一郎氏は、公開されている論文において、級数を持ち出すことがフェアでないかの如き見解を述べています。数学の見地からすれば、それは逆ではないか。ゼノンの立てた論理が級数を必要とするモノなのではないか。ゼノンの論理では、級数が発散する事を示さなければ、追いつかないと結論し得ないのではないか。正確には、ゼノンの論理というよりも、それの解釈者たちと言う方が適当だろうけれども。数学的に見るなら、追いつくか否かということは、追いつくまでの時間の積算が無限大に発散するのか、有限値になるのか、ということである。また、現在の記述のような数式は不要ではないか。論理的には、追いつく一例を示せば十分でしょう。一種こけおどしのような数式は別の誤解を生むのではないか。アキレスが速ければ、必ず追いつくという誤解を生む。追いつくか否かという問題をゼノンの方式で解析したなら、級数の問題となり、その収束・発散はいろいろなケースがある、ということを示せば十分ではないか。別件ですが、「アキレスと亀」に関するアリストテレスの『自然学』における正確な記述が記載されていない。解釈を加えたモノしか書かれていないのは問題だろう。--石井彰文会話) 2012年7月14日 (土) 10:59 (UTC)
ついでにもう一件、「ゼノンの誤りは..無条件で解釈した事にある」という文とそれへの注ですが、不要でしょう。それはゼノンの言の解釈の更なる解釈であって、ゼノンの言の中には時間を計算するという発想は含まれていない。それは数学的解釈を加えた時にはじめて出てくるものだろう。--石井彰文会話) 2012年7月14日 (土) 12:33 (UTC)
「数学的解釈」を書き換えました。追付くケースまで式を入れると「独自」解釈を加えたのかのごとく見られて、文句を言われそうで止めておきます。後半部に残っていた、意見、近世数学がどうのという文を削除しました。--石井彰文会話) 2012年9月22日 (土) 11:35 (UTC)

○「飛んでいる矢は止まっている」の解説への疑問です。Idealさんが英語版から写した内容ですが、納得出来ません。「この時間をどんどん短くすれば、矢は動くだけの時間がないから」となっていますが、そんな筈はないし、英語の訳としては意味を取れていないのではないか。「どんどん短く」というのは訳者としての補いだろうが、英文での動く時間がないといっているのは、そういう意味ではないだろう。瞬間に於いては静止してる、時間が瞬間からなる、と仮定するならば、そこへ動いて行く「瞬間」はない、という話だろう。明快な日本語にするのは難しい気がするので少し考えて見ますが。--石井彰文会話) 2012年9月27日 (木) 07:12 (UTC)

新たな二観点「哲学的な観点から・ベルクソン云々」&「計算機科学的な観点」に関して[編集]

新しい観点を追加された訳ですが、疑問です。まず、ベルクソン云々は、以前からの「哲学的な観点から」という項目とのダブり、両者の関係という以前に、その文章は、某サイトのコピーです。コピーだからいけないとは言えませんが、その作者との関係は明らかにされるべきです。それでなければ削除対象でしょう。内容に関しても大いに疑問がありますが、その指摘は関係が明らかとなってからということで。次に、「計算機科学的な観点」ということで書かれているプログラムですが、単位時間当りアキレスの動く半歩前を亀が行くということで、追付かれない場合の一つの例になるはずのものですね。「これはゼノンのパラドックスをプログラムに置き換えたもの」という一般的なものとは云い得ないでしょう。また、実行すると追付くとされて居られます。計算機の表現する「数字の最小ビット」の故とされていますが、そのようなものは人為的な設定に過ぎない筈です。計測をdouble精度で済ませるという事はコンパイラー任せ、計算機任せにするという事ですね。そのように計算機任せにした結果など、「亀を実際に追いかける実験をし、追付いた」という物言いと、五十歩百歩ではありませんか。「計算機科学的な観点」と称し得ないと考えますが、いかが。--石井彰文会話) 2013年1月30日 (水) 05:42 (UTC)

上記書き込みから半年ほどたちました。何の意見も登場しませんが、上記の理由(他サイトのコピーである)から削除しました。計算機科学云々も削除するべきと考えますが、幾人かが手を入れておられますので、もう少し様子を見ます。手を入れていると言ってもプログラムの形式的なことだけで、内容に関してのものではなく、ここでの反問はまったく見ておられないようです。--石井彰文会話) 2013年7月21日 (日) 23:43 (UTC)

○2015.6.8〜8.3の書き込みに対する疑問。「数学的な解釈」の項に「ただし、...という論議もある」と挿入されましたが、それは数学の論議なのか。だとしたらどういう論議なのか聞きたい。循環論法などに対して参照とあるが、その参照先にあるとは見えない。つぎに、「閉集合、開集合」などは、「現代数学」に通じていない人に対するこけおどし以上の意味がある話なのか。「哲学的な観点から」の項への追加ですが、超準解析の話が要るのかどうか疑問ですが、他の記述も趣味の様な類いなのでさておいて、「つまり、...矛盾は克服できる。」というときの「矛盾」とは何を指すのか。「無限小」云々は、ゼノンが言っているというよりもそれを解釈する側がたてている論理ではないか。だとするなら、解釈者たちが「無限小」云々で勝手に踊っているだけではありませんか。--石井彰文会話) 2015年9月1日 (火) 01:28 (UTC)

そう思われるのでしたら、とりあえず編集してみてはいかがでしょうか。それに対してもし文句を言う方がいらっしゃれば、それに関しここで議論すればよいだけの話かと。--110.66.43.196 2015年9月1日 (火) 09:17 (UTC)
石井彰文さん、「ただし、無限和の値(ここでは、追い付いた時点)は、部分和の極限(限りなく近づいていくが、決して到達しない点)によって定義されているので、この方法では、追い付く理由を示した事にはならない、という論議もある(総和、循環小数、循環論法を参照)。」を書いた者です。0.9、0.09、0.009、…を全部足し合わせた時、どんな値になるか。これが無限和ですが、全ての0.9…9は1未満なので1にはならないはずです。しかし1未満の値にもなりません。数学で定義する無限和は、これを1と定義したもので、単純に全てを足したものではありません。アキレスと亀のパラドックスをこの文脈で言うと、0.0…09を全て足し合わせても1にならないはずなのに、何故アキレスは亀に追いつくのか?と言えるかと。追いつけば、全ての0.99…9を通過した事は明らかですが、全ての0.9…9を通過しても、その中に1はないので、何故1に到達するかの理由は分からないままです。大雑把に言って、数学で総和を極限値である1と定義するのは、アキレスが亀に追いつくから、と言っても過言ではないと思います。他の部分はご自由に編集なさって下さい。開集合云々は確かに不要だったかも知れません。--106.132.215.58 2015年9月7日 (月) 03:46 (UTC)
編集の自由は互いにあると言うことで、それはさておき、0.9…9…を数学では1と定義しているとお認めになるなら、数学では追いつくことになる、で良いではありませんか。0.9…9…が1にならない、あるいはその間に「超実数」が存在するのだという構造を考えたとしても、そのことと、「追いつく・追いつかない」は無関係だ、と私は捉えています。簡単に言えば、0.9…9…は1より大きくはないから追いつくのです。0.9…9…=1としない数系を構成したとしても、0.9…9…において「追いついた」筈です。1においても「追いついている」、それ以外に構成のしようがない。「数学では1と定義した」という言い方はちょっと違いますね。…1と定義するのは「実数の定義」としてされることです。そうしないと他の実数の定義と整合しない。そしてそれはつまりは、時空間を実数濃度だと見ているということでしょう。その実数によって追いつくポイントを記述できるし=極限を定めうるし、その整合性に問題がない、と見るわけです。ですから「数学的な解釈」のなかに「追い付く理由を示した事にはならない、という論議もある」とされることに納得がいかないのです(数学は理由を示すものではないという論議ではなく)。言わずもがなのことですが、本文では等速であればという仮定から式を立てています。時空間に定位した論議です。0.9…9…が1に置けるかどうかという論議をかませるなら、その中に時空間をどう捉えるかも論じないと「追いつく・追いつかない」の話には行かないはずでしょう?そこまで論ぜよと言っているのではなく、数学の論議としての問題点はそれでは示されていない、と見えるということです。--石井彰文会話) 2015年9月7日 (月) 12:13 (UTC)

106.132.215.58です。もちろん編集は自由です。端的に言って、0.999…を1と定義するということは、アキレスは亀に追いつく、と定義するということで、追いつく事を証明した訳ではないと思うのです。定義は、公理と同じで証明なく定義できます。そこから必然的に導かれる定理には証明が必要です。他に構成のしようがないとは言えるのでしょうけど。ただ言える事は、無限回繰り返し終えた地点は存在せず、1の地点では、過去に無限回繰り返し終えている。1に着くまで繰り返し終える事はなく、1に着いたら既に繰り返し終えている。この不思議さは一種のパラドックスとして残っていると思います。つまり無限回繰り返す手続きを経て1に着く事は出来ず、無限回を終えるには先に1に着くしかない訳です。1に着いたら既に無限回が終わっている。パラドックスが解決したと言えるでしょうか?つまり数学では追いつく事実を前提にしているので(不思議さに関わらず)追いつくのです。これはアキレスはより遅い亀に追いつく筈だから追いつくに決まっている、と言うごく普通の判断と同等ではないでしょうか。ちょっとゴチャゴチャしてしまいましたが伝わったでしょうか?仰る事と噛み合っているでしょうか?噛み合っていなければ、ご指摘ください。--Suzuki 999会話) 2015年9月7日 (月) 13:00 (UTC)

石井彰文さん、何度も貴方の文章と自分の文章を読み返している内に、ちょっと自信が無くなって来てしまいました。私の提示した不思議さは、また別の物だと思えて来ました。数学においては確かに議論の余地はないですね。私の書いた部分は削除して置きます。哲学的観点の部分は、誰か他の方の書いたものを乱暴に独自研究と裁断して削除してあったので、差し戻しました。これも不適切であれば削除します。ご指摘ありがとうございます。--Suzuki 999会話) 2015年9月7日 (月) 15:02 (UTC)

了解に達したということで何よりです。私の趣旨も、無限ということの不思議と数学的に処理が出来ているということは別だということです。哲学的観点の方は、議論になると相互了解に達することは無理でしょうから、手を加える気になりそうにありませんが。事のついでに言えば、本文の等速の例はもっとシンプルな具体例でよかったでしょう。極限値などは求めずに、単に収束するあるいは有限に収まる事を示すだけに留めた方が良かったろうと思います。しかし、今の形でも良いでしょう、高校数学の復習になって、高校生が見たときに、勉強になるでしょうから。--石井彰文会話) 2015年9月9日 (水) 02:16 (UTC)

お返事ありがとうございます。蛇足になりますが、一言。数学でも無限が実在するのかどうかに定説はなく、実在すると仮定する立場を実無限、実在は怪しいので、無限に操作を続けて行ける事実だけを扱うとする立場を可能無限と言うと理解しています。後者だと厳密だが大幅に不便になる。怪しいものを証明なしで扱うには公理で仮定すれば良いので、実無限の立場に立つ現代数学では無限個の要素を足した時に極限値になる、と定義しているのです。その事とアキレスと亀は関連があるとは思うのですが、どう位置付けるべきか私には良く分かりません。釈迦に説法だと思いますがROMる方々の参考にもなるかと思い、申し添えて置きます。--Suzuki 999会話) 2015年9月9日 (水) 07:21 (UTC)

「哲学的観点から」に超準解析など、数学や物理の情報を交えて書いた者です。私としては本質を突いて、かつ簡潔・明晰にまとめたつもりだったのですが、独自研究扱いされてすぐに削除されてしまいました。なるべく平易にと心がけたので、ある程度しっかり読んでいただければトンデモ理論じゃないとご理解いただけることを期待していたのです。ですが、出典主義のウィキペディアではそれもやむなしかと黙っていました。

かなり久しぶりにこのページに来たら、私の記述が丸々復活していて驚きました。かつ、そんなに的外れじゃないことをご理解してくださる方がいたということを嬉しく思っています。

「アキレスと亀 超準解析」でグーグル検索すると出てくる情報ですが:

>「ゼノンのパラドックスが解けた!?

>1994年アメリカの雑誌 Scentific American 11月号にResolving Zeno's Paradoxes(ゼノンのパラドックスを解く)という論文が発表された(『日経サイエンス』1995年1月号に翻訳が出ている)。これは超準解析の手法でゼノンのパラドックスが解けたと称するものである。(これに関して『現代思想』1999年8月号で山川・野家両氏による対談が出た。)無限小量の導入による一般向けの説明であるが、実は日本でも1987年6月号『数学セミナー』に和田秀男氏による「飛んでる矢は動いている」という論文(というより雑談の形で副題が「超準解析への招待」となっている。)が掲載されており内容はやはり超準解析によってゼノンのパラドックスを解くというものであった。超準解析そのものは難しくて私もわからないが無限小の考え方はむしろ直観的にはわかりやすいものである。

私はこの雑誌を見たわけではなく、独立に超準解析云々の考えにたどり着きました。超準解析そのものは確かに難しいのですが、ここで言いたいポイントは点の大きさは本当にゼロかということです。これだけだといかにも思いつきで根拠薄弱・独自研究っぽいので、超準解析を持ち出して「それなりに根拠はあるんですよ」と言っているわけです。

で、点の大きさがゼロではないなら、そしてゼロでない大きさの点を集めれば有限の長さは作れるでしょ?ということです。ゼロはいくら足してもゼロだが、無限小は無限に足せば有限値になり得ます。この発想こそ積分の根拠ですよね。(数学的にもう少しきちんと言えば、超準解析に基づけば)

石井彰文さんの指摘にお答えします。

>「つまり、...矛盾は克服できる。」というときの「矛盾」とは何を指すのか

「哲学的観点から」節前半の「連続は『一』が基底的な属性であって、より基底的な『多』から「一」が構成されているとはいえない」。これがゼノンが提起したかった問題だとされていますが、これを前提に論理を進めると「アキレスが亀に追いつけない」というおかしな結論が導かれる。この「おかしな」箇所です。

>「無限小」云々は、ゼノンが言っているというよりもそれを解釈する側がたてている論理ではないか。だとするなら、解釈者たちが「無限小」云々で勝手に踊っているだけではありませんか。

さあ、どうでしょうか。フェルマーの最終定理にしても、フェルマーが最初に予想した時点ではフェルマーは証明できたと思っていたようですが、現時点の数学で見れば証明できていたはずがないというのが数学界の共通認識です。理想数・イデアル・モジュラー形式といった概念が整備されたことで証明できたわけで。

ゼノンの時代の数学知識ではパラドックスを明快に解決する概念が整備されていなかったということではないでしょうか。後世の人々が勝手に踊っているだけというのは違うと思います。

なお、グーグル検索すると、量子力学がどうの時空が離散的だどうのと議論している人もたくさんいるので、それについても書いておいた次第です。--Circodelsol会話) 2016年3月14日 (月) 07:51 (UTC)

Circodelsolさん、ご返答をいただきましたが、疑念の繰り返しです。「矛盾」に関して。それは、「おかしな」箇所を指すということですが、それは、ある解釈によっては、「アキレスが亀に追いつけない」という結論が導かれるように見なされる、ということに過ぎないでしょう。そのゼノンの提起なるものが、歴史上の人物に対する研究成果としてどうであるかを問う気はありませんが、「アキレスが亀に追いつけない」という結論が論理必然的なものであるとする安直な「解釈」は、いかがなものか。すなわち「矛盾」と言って良いのか。色々触れられている中で切り分けはやっかいですが、Circodelsolさんの表現は総じて、あいまいな点を持つ「哲学的な解釈」と、厳密に論じられ得る数学の見解とを無造作に交差させている、と私には見えます。悪くとれば、虎の威を借りたなんとかと変わらない。「矛盾は克服できる」などではなく、アキレスと亀のおもしろ話をおもしろみなく厳密に数学的に記述できる、ということに過ぎないのではないでしょうか。もう一つの件は、Circodelsolさんは「non-standard analysis」によって初めて「解決」したとの認識のようですが、このノートで論議することではないみたいですね。私のコメントは、non-standard analysisがどうだと言うことではなく、また一々出典を示せと言うことでもなく、Circodelsolさんのは素人向けに分かりやすく解説を加えようとされる好意だとしても、ミスリードな解説になってはいないか、ということです。--石井彰文会話) 2016年4月14日 (木) 01:41 (UTC)
>ミスリードな解説になってはいないか
それはあるかもしれません。厳密さとわかりやすさのどちらを取るかという問題です。厳密さを追求すれば一般の人には理解しにくくなってトンデモ理論と区別できなくなり、独自研究扱いされて、削除されるか出典を求められます。「検証可能性」だけでいえば、数学ほど厳密で客観性の高い学問はないはずですが。
>虎の威を借りたなんとか
超準解析そのものを厳密に論じることは私もできません。ただ、直感的にはわかりやすいです。「直感的」なんて書くとすぐに「数学では厳密さが大事なのだ」みたいな反論が来そうですが、「数のコスモロジー」で齋藤正彦は微分の記法について以下のように述べています。石井さんは少なくとも高校数学まではご存じのようですし。主旨だけ書きます。
ライプニッツの記法は分数みたいでわかりやすい。実際、割り算と見なせる。物理では当たり前のようにdtとかdxとかを1つの数のように扱って推論を進める。それで成果が得られるのだから、直感的なわかりやすさも馬鹿にしたものではない。逆にラグランジュの記法ニュートンの記法では直感的にわかりにくい。ライプニッツ記法を利用した国で微分(積分)の研究が進んだのは、記法のわかりやすさのおかげだ。
たとえば、ベクトル解析で出てくるrot。電磁気の根本の方程式・マクスウェル方程式にも出てくるから物理屋でも知らなきゃいけない概念ですが、これがなぜ「回転」なのか。rotの数学的な定義だけ覚えて事足れりとしている人が大半な中、「物理数学の直的方法」を読んで、目から鱗、本当に感激したことを覚えています。確かに「回転」の度合いなのです。ただ、その説明もライプニッツの記法でなければほとんど説明不能です。
で、イプシロン-デルタ論法も、本当にわかりにくい。教える先生も教わる学生も悩みます。ですが、dtとかdxならわかりやすくて推論しやすいですよね。元々は物理屋が数学的には怪しげなまま利用していたのが実態でしょうが、それが超準解析によって数学的に厳密な根拠も得られたというわけで。このdtとかdxなどが「無限小」のことです。だから、高校数学までご存じなら皆さんも一応は見たことがあるはずだし、それを元に推論したこともあるはずです。だから、虎の威を借るなんとかの批判は当たらないでしょう。何やら難解なことを言って煙に巻いたつもりはありません。
ちなみに、「ローマ数字は計算がしにくくわかりにくい。だからローマでは数学があまり発達しなかったのだ」という主張も読んだことがあります。何の本だったか忘れましたが。確かに、アラビア数字のほうがローマ数字より計算しやすく桁を増やすのも容易。直感的なわかりやすさの大切さを感じます。--Circodelsol会話) 2016年4月14日 (木) 05:45 (UTC)
書き忘れました。「non-standard analysis」ですが、直訳すれば「非標準解析」とでもなりそうなところ。でもこれだといかにも「異端の」「怪しげな」解析学の印象を与えかねません。「超準解析」と訳したのは上記の齋藤正彦だそうですが、適切な判断だと思います。--Circodelsol会話) 2016年4月14日 (木) 05:52 (UTC)
ゼノンのパラドックスで本質的に訴えたかったこととして本文冒頭に書いてある「一があるのであって多があるのではない、多があるとすれば運動は不可能である」に対し、「そうでもないだろう」と超準解析・無限小を根拠として書いてみました。もう1つ、複素関数論解析接続という概念が参考になるでしょう。
解析接続そのものの詳細・厳密な説明はしませんが、解析接続でわかる特徴的なことは、微分可能の条件を課せば、関数が一部領域でしか定義されていなくても、複素数領域全体に一意的に拡張可能ということです。ゼータ関数も本来は変数(s=x+iy)の実数部分xが1より大きくないと定義されないのですが、解析接続によって、s=1以外の全ての複素数が定義域になります。
ゼータ関数では難しすぎるかもしれないので、f(x)=x^2(1<x<2)でもいいです。変数をx→z=x+iyに置き換え、f(z)=z^2(1<x(zの実数部分)<2)と定義し、かつ、この領域でf(z)が微分可能なら、1<x<2の制限をなくしても微分可能な関数はただ1つ、f(z)=z^2しかありません。
つまり、一部の領域でしか定義されていない関数から複素数領域全体の関数が一意的に定まるということです。「多から一が構成される」具体例になると思います。--Circodelsol会話) 2016年4月21日 (木) 00:18 (UTC)
Circodelsolさん、ご教授をいただきましたが、かみ合わない感があります。ご返答で明らかになったのは、私の「ミスリード云々」が拙かったと言うことでしょうか。ご本人が方向をミスしていると考えている筈はないのですから、リードする先への明かりが不足と見られたというところでしょうか。「虎の威云々」もご本人がそのつもりの筈はないですからね。なかなかかみ合う筈もない。私のコメントが事典項目の記述者側から見たものではなく、読者の感想であると見ていただけたらどうでしょうか。読者が、項目の解説を順に目を通していって、「矛盾は克服できる」という文句を見て、ではここまでの解説は何だったのか、「矛盾」と呼ぶ対象でないと解説しているのではないのか!と見ないか。あるいは、訳の分からん「超準解析」とか「無限小」が登場して、済んだはずの話である「アキレスと亀」に対し、「数学的根拠のある無限小の概念によって、矛盾は克服できる。」と言われたら、一体何を「克服」というのか、と。;「アキレスと亀」に限定して論争的に言いますと、Circodelsolさんの「数学的根拠のある無限小の概念によって」という言葉が、直接に繋がるのは、「無をいくら足しても有にはならない」「ゼロをいくら加算しても一にはならない」という「哲学的な解釈」ですね。しかし、私の見ます所「アキレスと亀」に、無・ゼロあるいは無限小は登場する必然性がない。運動をゼノン式に捉えたものを数列に変換した上では、考慮すべきは発散と収束とであるに過ぎない。そしてそのどちらも、明確な概念となっていたかどうかは別として、古代ギリシャでも数列としてあると見られ得るでしょう。収束の例で一般的に述べるのは古代ギリシャでは無理であったとしても、二分割の例を見れば、収束列の存在はあり得ると認識されていたはず、と思います。そして、両者の例があると示されたならば、論理的には話は終わっている。「論理的には片づいた」ということの説明は別として、それらに加えての「不思議」は、エピソードに過ぎない。現在記入されているエピソード「哲学的な解釈」における「不思議」に対して、この事典項目中に解決しておくべき観点がある、と考えるかどうかは、ほとんど個人的な感想に過ぎないのではないか。--石井彰文会話) 2016年5月1日 (日) 11:05 (UTC)

「哲学的な観点から」の書き変えの必要に関して[編集]

現在(2016.6.27)「哲学的な観点から」の節に書かれている内容は、Clinamenさんの書き込まれた文章が、一度削除され、のち、Treeplaceさんが多少の書き加えをして復活されたもの、それに最近Circodelsolさんが書き加えられたもの、以上が主です。Clinamenさん&Treeplaceさんのものは「数学的な解釈」の節の内容と対質しつつ哲学的見解を述べるという形でした。ところが「数学的な解釈」の内容がその後大幅に書き換えられて、対応関係がなくなりました。その責任は「数学的な解釈」の内容をばっさり削った私にあるのですが、かといって「哲学的な観点から」なるものを素人の私が書くというのも、そのようなものを調べた事もない身としては出来かねます。そのうち何方かがと思っていましたが、現れない様ですので、気づいた問題点だけを指摘しておきます。 (1):アキレスと亀の問題で特徴的な事ですが、ゼノンの主張と真反対を数学が証明すると考えられてしまう点です。アキレスが必ず追い越すという「常識」を数学が裏書きしてくれると誤解し、それに対して、いや哲学的に考察するべき事もあるのだというパターンです。そのように見られる「数学的な解釈」の対応する個所はばっさり削除しました。理由は先に書いてあるとおりです。 (2):数学が級数・極限を持ち出す点を、Clinamenさん&Treeplaceさんは哲学と数学との違いと見られた。無限小を持ち出すCircodelsolさんも同じなのですね。ギリシャ哲学と近代数学との違う点を見ておられるのです。しかし、そのもう一つ前を見るべきでしょう。「運動」をどう捉えるかです。ゼノン=アリストテレスはロゴス或いは幾何学によって捉えようとしている。近代、ガリレオ等によってなされたのは数量的関係として記述するということです。ただし「二分法」・「アキレスと亀」は時間を数量的に扱えばよいのですから、ガリレオまで待つ必要はない。ゼノン=アリストテレスと数学との違いは、ロゴス&幾何学に頼るか、数量化するかであると考えます。 (3):数量化される事によって、ギリシャ哲学が得意とする幾何学の問題から、解析学の問題になった。解析学で無限を厳密に扱えるようになったのが近時に属することを、この件と関わるとする見解を言う方もいますが、疑問です。「二分法」・「アキレスと亀」は、数量化によって無限数列の収束か発散かという問題に変換され、課題が鮮明になったに過ぎないのではないか。幾何学的な像でも収束か発散かを見うるものは有るはずです。「級数」と捉えて初めて収束の例が見つかるというわけではないでしょう。ただし、「アキレスと亀」では「追いつくか否か」は時間・空間・速度の三者の関係なので、幾何学的な捉え方は難しい。ゼノンとアリストテレスはしくじっていると見える。解析学的捉え方によってゼノン=アリストテレスによる捉え方の限界が明確に出来た、ということでしょう。 (4):位置関係と物体・空間像。Clinamenさん&Treeplaceさんは、無限分割可能と「無限に足し合わせられたものからなっている」とは異なると言われます。或いはCircodelsolさんは量子論を持ち出して「描像がそもそも不適切」と言われます。そのこと自体は争うような事ではありませんが、それらの指摘がこの「パラドックス」を捉えるのに必要な論点として適切に述べられているかは、疑問です。ゼノン=アリストテレスが問題としている論理は、運動を位置関係で捉えようとするものです。異なる二点間ABの距離が位置であり、AA間は距離0でなければならない。それを点の「大きさ」が0と云うのは、ナンセンスです。距離0を無限に集めても距離0のママであるというのは、距離の考え方の必然でしょう。時空間を無限分割可能であると見做すのは、ゼノン=アリストテレスの論理が立てた仮定になるはずです。それは、位置及び時間はいくらでも分割できると「考える事が出来る」という事です。それは連続という事の意味の一つで、数学はその仮定から、それを実数空間であると定式化したに過ぎない。我々が現に生存する時空間が、そのような「点」で出来ているかどうかなどは問題にしていない。数学的な見地は原子論そのものではない。位置を示す「点」、時刻を指す「点」で世界が出来ていると受け取るのは、形式と質料の混同である、と私は見ます、「混同」がゼノン・アリストテレス側に在るのか、解釈側に在るかは別として。加えて、Circodelsolさんが持ち出す量子力学ですが、量子力学が「時空が量子化されている」と主張し、そこに量子化的最小単位があると主張するなら、その最小単位を記述する数値は仮想的実数空間上に現れるモノであるはずです。そのような観点では、ゼノン=アリストテレスの問題に寄与する論理はないではないか。 (5):超準解析に関して。超準解析の解説をこの節に入れる事自体は疑問に思いますが、横に置いて。飛ぶ矢の件の解説にもっとも親和性が高いはずですが、有意味な説明になっているか。「厚み0にスライスしたら」に「実は誤りが潜んでいる」と書かれていますが、何が誤りなのか。「誤り」の説明がないと見えます。それは単に「止まっていると言う」事が間違いだとしているに過ぎないのではないか。「実は誤り」という事の意味が、運動とは継続があってこその概念で、動いているなら若干の時間動くし、静止しているというなら、若干の時間静止していなければならない。という事であれば、その若干の時間を無限小と見ればよいというのは、数学の技術上の問題に過ぎないだろう。切片の見方、瞬間の意味はゼノンの言としては伝わって居ず何とも言えない。単なる時間の切片だと見れば、連続体の切片であるからといって厚みが要るわけではない。問題とされるべきは、ある時刻にそこに居るという事は、運動があるか否かとは別事で、「棚に飾ってある矢」と「飛ぶ矢」との区別は、時間の切片だけではなされ得ないことではないか。飛ぶ矢の件は、結局、ゼノンが何をどう説明しているのか、という解釈の問題と不可分でしょう。Circodelsolさんの説明が成功していないのは、話が次に量子論に流れている事で明らかである、と私には見えたのですが。 (6):量子力学の登場。量子力学の解説がここに不要と言う事は当然として、パラドックの解決は量子力学の示す「現実」が与える、という見解は論外でしょう。実際に亀と競争して追い越したぞ、という主張と変わらない。とは言え、ゼノン=アリストテレスが暗黙に仮定する前提に、近代的世界像を加えたもの、実体的同一性を持った「点物体」が四囲と無関係に運動するという観点、時空はユークリッド空間であり観測とは無関係に在るという決めつけ、それを批判的に捉えたものを「哲学的な観点から」の節に書き加える事には、異議はありません。現状のものは、しかし、以上いくつか挙げたように哲学的と言いうるものかどうか、疑問があります。哲学研究と言いうる論点をお持ちの方の登場を期待する所以です。--石井彰文会話) 2016年6月27日 (月) 04:28 (UTC)

う~ん、大変失礼ながら、石井さんのこの文章にレスしようという気になる人はあまりいないのでは?改行もなくぐちゃっと書いてあって、大半の人はそれだけで読む気が失せるはず。新聞記者の記事原稿だったら間違いなくデスクに突き返されるはず。
「内容が正しければいいじゃないか」というのは学者さんなどにときどき見られる傾向ですが、その学者の世界でもあまりに読みにくい論文は放置されるもの。ガロアの論文でもそういうことがありました。ガロアはそれで被害妄想を強めて、後の決闘に至るわけですが。簡潔・明晰に書くことを優先すべきでは。
それに、私(circodelsol)の記載内容が本当に適切かどうかはともかく、私の投稿内容を本当にご理解くださったのか大いに疑問です。例えば:
>「厚み0にスライスしたら」に「実は誤りが潜んでいる」と書かれていますが、何が誤りなのか。
厚み0にスライスということはなく、無限小(dt)の厚みがあるんですよ、ということ。
>異なる二点間ABの距離が位置であり、AA間は距離0でなければならない。それを点の「大きさ」が0と云うのは、ナンセンスです。距離0を無限に集めても距離0のママであるというのは、距離の考え方の必然でしょう。
ところが、超準解析では無限小の距離が定義できます(dx)。その無限小の距離を集めれば、有限値の距離は作れます(∫dx)。
>Circodelsolさんが持ち出す量子力学ですが、量子力学が「時空が量子化されている」と主張し、そこに量子化的最小単位があると主張するなら、その最小単位を記述する数値は仮想的実数空間上に現れるモノであるはずです。
これは思い込み、それこそ独自研究ではありませんか。連続的なユークリッド空間とはあくまでモデル(数学用語)です。超ひも理論の世界観に対応した空間の純粋数学理論があるぐらいで。つまり、連続ユークリッド空間は超ひも理論を記述するモデルとして不適切ということで。
数学者・飯高茂の言ですが、「数学で大事なのは、論理性・厳密性以前に、「数覚」とでもいうべき肌感覚の理解だ。」(要旨)とのこと。つまり、肌感覚なしで論理性・厳密性だけを追究していると、全く頓珍漢な理屈をこねくり回すだけということになりやすい。そこに注意しようということです。
無限小を肌感覚で理解する例え話としては、紙はどうでしょう。紙は普通、2次元平面のように語られます。
「でも、実際は厚みがあるじゃないか。」
「いやいや、仮想的に0と考えるんだ」
「いや、0と考えると実は不都合がある。数学的なユークリッド平面であっても、無限小の厚みがあると考えておくべきだ。」--Circodelsol会話) 2016年8月18日 (木) 03:51 (UTC)
超準解析の考えで「解決」できるという立場から、大胆にシンプルにまとめてみます。
1.ニュートン力学が適用できる巨視的な物体の運動
 空間はユークリッド空間で連続的と見なせる。連続的なので、無限小の考えが適用でき、「多から一が構成される」ことも「飛んでいる矢は動いている」ことも自然に説明がつく。
「連続的と見なせる」というのはあくまで仮定。本当に連続的かは保証されていない。ただ、観測誤差が実用では無視できる範囲に収まる。(たとえば、10^-10mといった誤差は日常生活では全く支障ないし、そもそも測定不能)
ニュートン力学は決して普遍的な理論ではない。あくまで近似理論である。速さが光速に近くなれば、特殊相対性理論が必要になるし、原子などの小さい世界については量子力学が必要。
2.量子力学が適用される微視的な物体の運動
(1)空間は連続的と見なすが、粒子の運動は不連続(シュレーディンガー方程式などで扱える状況)
空間が連続的なので、無限小の考えも適用可能だが、粒子の運動が不連続かつ不確定性原理があるので、「飛ぶ量子力学的粒子は不動ではない」「量子力学的A粒子はT粒子を追い越せる」と言える。
(2)時空が不連続。よって、粒子(というか、ひも)の運動も不連続
不連続なので、無限小の考えは適用できない。あとは、(1)と同様。ただし、ある時空ピースだけを見れば、「量子力学的粒子は不動」とは言える。
>その若干の時間を無限小と見ればよいというのは、数学の技術上の問題に過ぎないだろう。
ここは独自研究では?数学においては、技巧か本質かというのは結構微妙です。技巧に過ぎないと思われたものが実は本質だったということはよくあります。具体例はすぐには物理でしか思いつかなくてすみませんが、超ひも理論におけるひもの境界条件(数学用語ですが、あまり気にしなくて結構です)。数学者はついつい抽象的に「境界条件」と考えてしまうのですが、そういう条件を与える実体があるのじゃないかということからブレーンという概念が出てきたわけで。--Circodelsol会話) 2016年8月19日 (金) 01:40 (UTC)
石井さんならずとも、無限小なる考えに抵抗を覚えるのはわかります。上記の石井さんの意見は、何とか無限小を否定したくて論じてみたが、推測に推測を重ねて数学的には隙だらけになってしまったというふうに見えます。ですが、自然数→整数→有理数→実数→複素数と、数の概念を拡張してきた歴史においても、抵抗を示した人がたくさんいることを思い返してはいかがでしょう。
今でこそ数学者でなくても複素数か実数までの概念は受け入れられていますが、自然数の概念しかなければ「マイナス2個のりんごって何だ。」とか言ってマイナスの数を否定しようとした人がいました。正方形の1辺の長さが有理数なら、その対角線の長さが無理数になることは今でこそ一般常識のレベルですが、「整数比で表せない数」の存在がどうしても受け入れ難くて否定しようとした人もいます(ピタゴラス)。
上記の数の拡張というのは、代数学的に言えば「の拡張」です(有理数になるまではだが)。で、実数に無限大とその逆数(無限小)を加えて体を拡張したものが超実数です。この超実数を受け入れてしまえば、微積分の説明・解釈が直感的でわかりやすくなりますよ。有理数→実数と受け入れてきたのなら、もう1ステップ、超実数を受け入れてはいかがでしょう。--Circodelsol会話) 2016年9月7日 (水) 00:58 (UTC)

以下は、遺憾ながら、パラドックスの解明ではなく、ミスリードな文の削除の件に過ぎません。私が先の(4)で、点の「大きさ」が0と云うのはナンセンス云々と書いた件で、circodelsolさんは「無限小の距離を集めれば、有限値の距離」と返してきましたが、「点が無限小の大きさ」を改め「無限小の距離」とするのは一つの進歩です。(問題が残ることは下記で指摘しますが、さておき、)同時に、「距離」が二つの点に実数を対応させる関数である、と思い出されていれば、「点の大きさ」なる言葉が、没概念であると気づかれたはずですが。今度は面の厚さですか?!

「アキレスと亀の」云々だけがNanashi999さんにより削除されましたが、疑問です。circodelsolさんの記述は、同根の思い込みです。「点の大きさ」「時間の幅」の規定もなく、「無限小」という言葉と結びつけると解ける、としているだけ。「無限小の距離を集めれば、」などと、言っているだけのことであれば、聞き流せば良い話です。しかし、パラドックスが解けるというためには、「点が無限小の大きさを持つとすれば」ではなく、持つのか持たないのか、決めていただかなければならんでしょう。意味不明の「点の大きさ」をいくら集めても「有限値の距離は作れ」ないのですし、持たないなら一体何の話をしているのか。「不動の矢」の方を検討してみましょう。その文章にある、時間に幅があるというのは、当然であると見えます。しかし、その文章は、「時間には1秒未満の幅があるでの速さは定義できる」と言い直しても数学的には同じです。これは三重に無意義です。ゼノンの言う瞬間が、無限小の幅を持つ(~1秒未満の幅を持つ)ものでなければならないことが示されて居ないこと。第二に、有ると言うならそれは如何なる幅としてあるのか。第三に、幅があるだけでどうして速さが定義できることになるのか。 第二に関して、時間の無限小の幅(=距離)が、何の規定もされないなら、範囲を指しているに過ぎないので、「1秒未満」と異ならない。(「無限小の距離を集めれば、有限値の距離」とはルーズな表現。無限小超実数の逆数に対応する無限大超自然数を掛けると有限超実数になる、とは言えます。しかし、その無限大超自然数に対し、より小さい無限大超自然数があるケースでは、より小さい無限大超自然数を掛けても無限小超実数のママです。大きい方はきりが無いので、より大きい無限大超自然数を掛ければ、無限大です。すなわち、如何なる無限小超実数であるか規定されていなければ、「無限大超自然数を掛けると有限超実数になる」、とは想像の中の話に過ぎない。それだけではなく、超実数を実在の対象に、実在の距離、時間に関して使い得るのかどうかと言う根本的問題を横に置いています。「実際には」と時間を言うのに超実数を登場させてよいのかこそが示されるべきです。) 第三に関して、速度の定義に時間の幅が必要なのは当たり前です。或る時刻に於いて速度が定義できることと、或る点で微分可能、は同値です。運動が微分可能な関数で与られて初めて速度が定めうる。その件は数学的な解釈で既に触れているし、関数が要るということは、<運動が先に捉えられていなければならない>という意味です。その哲学的な問題は、より一般的な形で、先にClinamenさんが標題「哲学史的な観点から」の頃から、「連続がまずあって、それを切片に切って把握することができる」云々と指摘されている。circodelsolさんの無限小云々が、哲学的見解として未熟である所以です。

○Nanashi999さんに伺います、「現代では解消されたと考えることが可能である」。言葉上で露骨に逃げていますが、これではε-δ論法ではバークレーに反論できていなかったかの如くの文になっている。そういう意味なのですか。ライプニッツ・ニュートンの解析学レベルなど、ε-δ論法で基礎付けようと、超準解析であろうと、解析学として同じ、と「超準解析への招待」なんかでも書いているのではないか。このような文自体が不必要だと考えますが、とりあえず質問。--石井彰文会話) 2016年10月21日 (金) 23:21 (UTC)

今回もぐちゃっと書いてあって読みにくいですね。引き続き、改善を希望します。
>これではε-δ論法ではバークレーに反論できていなかったかの如くの文になっている。そういう意味なのですか。ライプニッツ・ニュートンの解析学レベルなど、ε-δ論法で基礎付けようと、超準解析であろうと、解析学として同じ、と「超準解析への招待」なんかでも書いているのではないか。
この箇所はおっしゃるとおりですね。解析学を厳密に論じるに当たって、ε-δ論法なら実数の範囲で済みます。しかし、無限小を使う場合、物理屋さんみたいにやや怪しげに使うならともかく、厳密に論じようとすると、数(体)を実数から超実数に拡張しなければなりません。だから、大学初年級程度の数学では無限小を堂々とは教えられません。
でも、物理屋・工学屋みたいに数学はあくまで道具としての位置付けなら、道具として問題なく使えればOK。数学的に厳密な根拠が得られればそれに越したことはない。こういう立場の人もいます。超準解析が確立するまでの無限小がその1つですし、工学で欠かせないフーリエ変換なんてのもフーリエ自身の論文は数学的にはかなりいい加減だったといいます。今でこそ後世の数学者によって厳密な証明が付されていますが、フーリエの論証がいい加減でも数学的な本質は的確に捉えていたことは科学史的にきちんと押さえておくべきでしょう。
>それだけではなく、超実数を実在の対象に、実在の距離、時間に関して使い得るのかどうかと言う根本的問題を横に置いています。「実際には」と時間を言うのに超実数を登場させてよいのかこそが示されるべきです。
禅問答的に逆に質問してみたいです。
1辺が1cmの正方形の対角線の長さはいくらか?
・・・√2 cmでしょ、と思った方へ。少し立ち止まって考えてみてください。「現実の長さに、1.41421356・・・cmなんてことが本当にあるのか」考えてみてほしいです。√2 というのは「2乗すると2になる数」という英語の関係代名詞みたいな定義で、具体的にどんな数かはこの定義ではわかりません。定義に基づいていろいろ計算していくと具体的な数値はわかってくるが、無理数です。
こういう立場から、工学では「√2cm」 とは基本的に書かず、有効数字を示した上で、「1.4142cm」みたいに書くものです。「√2 」というのは理学的な立場での書き方です。実は。
石井さんの指摘もこれと同じではないでしょうか。哲学的に、それこそ理念的に論じたいなら、超実数の概念も受け入れることをためらってはならないのでは。「√2 cm」という書き方に疑問を持ったことがないなら、尚更です。
解析学の基礎付けとして、ε-δ論法と無限小(超準解析)のどちらを取るかですが、後者だと微積分の解釈が直感的でわかりやすくなるメリットがあることは上でも書きました。これは天動説と地動説の関係によく似ているように思います。まず、最初にお断わりしておきますが、天動説は「誤り」ではありません。常に地球を原点として記述する座標変換の問題とも言えるからです。地動説が正しいのなら、それと同様の確かさで天動説も正しいです。どちらで天体の運行を記述しても無矛盾です。
ただ、天動説だと理論がものすごく複雑になってしまいます。同じ現象(天体の運行)を矛盾なく記述できるのなら、シンプルな理論のほうがいい。そのシンプルな理論が地動説ということです。
ε-δ論法は数を実数の範囲で論じられますが、極めて間接的な論法なので難解です。教える先生も教わる学生も悩むと上でも書きました。しかし、無限小なら厳密に論じるには超実数の準備が要るけれども、微積分の解釈が直感的で明快になります。かつ、何度も書いたとおり、物理屋さんは超準解析が成立する前から無限小の考えを使って、いろいろ成果を上げていました。
というわけで、超準解析の考えでゼノンのパラドックスが解決できるという立場自体はフーリエ同様、正しいのではないでしょうか。論証はともかく。--Circodelsol会話) 2016年10月23日 (日) 02:44 (UTC)
>運動が微分可能な関数で与られて初めて速度が定めうる。
ここは必ずしも正しくありません。まず、量子力学の不確定性原理。
ΔX・ΔP ≧ ℏ/2
速度の代わりに運動量Pが用いられていますが、それはさておき、PはXを微分して得られる従属変数ではないですね。この2者は独立変数です。
では、ニュートン力学の世界ならどうか。位置の時間微分で速度を定義できるのはもちろんですが、速度を先に定義することも可能です。都筑卓司「なっとくする物理数学」で「速度は実在する」旨書かれています。電荷Qの時間微分が電流Iですが、そのIから静的な量である磁界Hが生じます。時間微分から静的な値が発生するというのがポイントです。かつ、工学的・実用的な話ですが、この磁界Hの強さに比例して車のスピードメーターが振れるようにしてあるということで。つまり、磁界が実在するなら、速度も実在する。で、位置はその積分として定義する。そういう理論構成も可能ということです。
「工学的・実用的」というところで引っかかる人がいるといけないので、あくまで思考実験ということにしておきましょうか。特殊相対性理論における時間の遅れの説明でも光が上下することで時間の経過を測定する仮想的な時計が出てきますが、あれと同じで。
「そういう理論構成も可能」で私の印象に残っているのは三角関数。
cosx = 1-x^2/2!+・・・
と定義して始める数学書を見たことがあります。実はcosのテーラー展開になっているのですが、なんでいきなりこんな式を思いつくのか不自然ですよね。でも、理論構成としては可能ということです。--Circodelsol会話) 2016年10月23日 (日) 14:24 (UTC)
石井さんは論点を把握してないようです。私が加筆したのは「バークリーが指摘した微積分の定義上の曖昧さついては現代では解消されたと考えることが可能である」というもので、単に数学的な定義の問題に過ぎません。たとえば数学では 0.999... = 1 という定義は「総和」の概念に基づけば真であるとみなされます。しかし哲学では 0.999...の「総和」など、完結しないものとしての「無限」の概念からして矛盾だと考えます。つまり数学と哲学は研究対象が異なってます。数学では実用性を優先し現実世界の無限にコミットしていないので、現実的無限を仮構しても、それで定義間・概念間の整合性があり、計算が成功するならば問題はないのです。しかし哲学では無限は形而上学に関わるので、現実世界においては現実的無限を峻拒し、仮構することさえ認めないということです。--Nanashi999会話) 2016年10月24日 (月) 05:41 (UTC)
>有ると言うならそれは如何なる幅としてあるのか。
このあたりは超実数をあくまで実数の発想で捉えようとしている感じですねえ。dtとしか書きようがないと思います。ないしはε-δ論法の発想に戻ってしまっているというか。
超実数が納得しかねているようですから、理論としてはっきり確立している量子力学を例に出します。そこではたとえば運動量は演算子
Px=-ihδ/δx
で定義されます。この定義に対し、「運動量というからに、具体的な数値がなきゃおかしいだろう。なんで演算子なるもので定義になるんだ」とか「何を偏微分するのか書いてないではないか。実は波動関数を微分するんだろうけど、何を微分するか書かなきゃ数学記号としておかしい」みたいに批判しているような印象です。
あるいは「電荷Qの時間微分が電流I」の記述をとらえて、「電荷は電子か陽子(かクオーク)の最小単位がある。だから、不連続。よって、微分などできない」なんて批判と同根でしょうか。
超実数を批判して実数の発想に戻ってしまうのは、「空を見ればどう見たって動いているのは星々・月・太陽である。なぜ地動説なるわけのわからんものを導入するのか」という批判と同じかもしれません。--Circodelsol会話) 2016年10月24日 (月) 07:09 (UTC)
>数学でも無限が実在するのかどうかに定説はなく、実在すると仮定する立場を実無限、実在は怪しいので、無限に操作を続けて行ける事実だけを扱うとする立場を可能無限と言うと理解しています。
suzuki999さんとnanashi999さんが可能無限と実無限に言及されました。これに関して雑談ですが、整数の個数と実数の個数は違うという話をどこかで聞いたことがありませんか?「個数」は有限集合に対する言葉で、無限集合については「濃度」といいますが、わかりやすくするため、「個数」で通します。
で、整数・偶数・有理数の個数は実は同じ(偶数⊂整数⊂有理数なのに)。しかし、実数の個数は整数の個数より大きい。つまり、一口に「無限個」といっても本質的な違いがあるわけです。実数よりも本質的に大きい「個数」も数学的には容易に定義できます。「集合Xの部分集合の集合」の個数です<*ref>有限集合なら要素の個数をnとして、可能な部分集合の総数は2^n。で、2^n>n。これと同じ推論が無限集合にも当てはまることが証明されている<*/ref>。実数の個数は整数の部分集合全体の個数として定義できるので、この定義を一般化して、いくらでも大きな「個数」を定義できます。
nanashi999さんによれば、哲学的には可能無限しか扱えないということですが、この発想だと思考がそこで止まってしまって、整数と実数のように無限にも本質的な違いがあることが見抜けないのではないでしょうか。
>後者だと厳密だが大幅に不便になる。怪しいものを証明なしで扱うには公理で仮定すれば良い
公理系をどう用意するかというのは結構微妙な問題です。公理が少なすぎるとものすごく不便になり、証明も煩雑になるだけでなく、証明できる事柄も大きく減ってしまいます。かといって、あまりに公理を用意すると、公理による証明結果同士に矛盾が生じてその理論が崩壊してしまいます。
だから、公理は独立かつ無矛盾が保たれるようにして、なるべく多く用意するのがいいと私は思っています。
で、可能無限と実無限の話に戻ると、実無限を認める立場のほうが整数と実数の個数が区別できるようになる点で、より優れた公理系といえるのではないでしょうか。
>数学では実用性を優先し
ここはちょっと違和感を覚えました。こんな関係になりますかねえ:
形而上的 哲学>数学>物理学>化学>生物学などの学問 形而下的・実用的
これは高校と大学の授業の実体験を踏まえてのものです。大学の生物学は生化学とかばかりで、高校の化学みたい。大学の化学は量子化学などが出てきて、高校の物理みたい。以下、大学の物理は高校の数学みたい。大学の数学は高校の倫理社会(哲学)みたい。--Circodelsol会話) 2016年10月26日 (水) 06:19 (UTC)
Circodelsolさんの質問ですが、哲学が可能的無限しか扱えないというのは、形而上学的な「実在」の現実的無限は認めないという意味です。二分割のパラドックスを例にすると、一見有限の空間に無限個の地点が実在しているように思えますが、無限個の実在とは矛盾なので、無限とは可能的であるしかないということです。この哲学的主張には数学に対するコミットメントはありません。数学では現実的無限を仮定していますが、現実的無限を仮定した上で、Σ なり lim なりの概念で無限を操作し、それで現象の説明が可能ならば数学的には真であるでしょう。しかし数学は「空間に無限個の地点が実在する」などという形而上学的主張はしていませんので、それが「実用性」ということであり、数学的に真であると認めてもそれは形而上学の問題とは関係ないということです。
ちなみにこの論点の相違を全く理解していないのが石井さんの方。私がページを加筆修正する前は、ゼノンのパラドックスは数学的に完全に解消されたかのような記述になっていました。私はそれを哲学的観点から概略以下のように修正しました。
①ゼノンのパラドックスには哲学的問題と数学的問題があり、哲学的・形而上学的問題は解消されていない。
②バークリーが指摘した数学上の定義の曖昧さは解消されたと考えられる。
というものです。で、石井さんは①の方を理解せずに②に対して的外れな突込みをしたわけで、二重に間違ってるわけです。--Nanashi999会話) 2016年10月26日 (水) 13:48 (UTC)

ゼノンに関わらない話がまだ続きます。Circodelsolさんへ、(1)「逆に質問してみたいです..」と来ましたか。すなわち、ご自身の言葉「実際には」の説明も出来ない。それが、無限小・超実数の理解に欠けるという自覚に繋がらなかったのですね。その背景にあるのは、実数の考察にも欠けているということでしょう。(2)「√2 cmでしょ、..」二千数百年前に捉えられたそれは、ごく特異な実数に過ぎません。超実数が、そのような無理数の線上にあるものなら、Circodelsolさんも超準解析の勉強を、「難しい」と放り出すことはなかったでしょうにね。(3)「ここは必ずしも正しくありません。..」ご自身の「時間の幅」を横に置けば、無駄話です。(4)「dtとしか書きようがない..」、それはつまり、無限小の定義もご存じないということ。ニュートン・ライプニッツ時代へ戻ることを超準解析だと見るのですか。ライプニッツなら退歩と言うかも知れません、「無限小」とは量ではないと、Circodelsolさんの理解に対し。(5)「超実数が納得しかねているようですから..」???。私が書いた無限小超実数云々、意味がとれないなら、超準解析の本を繙くぐらいなされてはいかが。(*)「超準解析の考えで..」などと誇大広告が出来るのも、点の大きさなるものに無限小を結びつけることの批判を「超実数を批判」などと見えるのも、根は同じです。せめて、超準解析の無限小の定義を使って、命題「点の大きさは無限小である」を数学的に記述できるのか、それぐらい考えてみてはいかが、繙いてから。

Nanashi999さんへ、その(2)の「マト」ですが、微積分の定義などここでは関連の遠い話です。超準解析云々と同時に削除します。異論があるようでしたらその折りに。もっとも、いつとは決めかねますし、先に何方かが書き変えるかも知れませんが。--石井彰文会話) 2016年12月14日 (水) 00:36 (UTC)

一言だけ。「資本論」を読んだことがなくても、マルクス主義をある程度は論じられるものです。なのに、「あんた、資本論、読んだことあるのか。第○部第×章にはこういう記述があるが、どういう意味か論述してみい。できないならおととい来い。じゃあ、削除する。」。こういう論法に見えますが。ROMってる方がいらっしゃったら、意見を期待します。
そういう難解な議論で煙に巻くのを防ぐことも、ウィキペディアが出典主義を取る理由の1つでしょう。私が上に書いたとおり、「超準解析で解けた」と主張する人はいるわけで。--Circodelsol会話) 2016年12月14日 (水) 06:08 (UTC)

数学的解釈に否定的意見[編集]

数学的な解釈で追いつく例と追いつかない例をのせているのに追いつかない例を説明するなら,追いつかない例では有理数Qの飽和拡大Q*を考えたときのすべての有理数より大きな有理数q*について亀とアキレスの差が0以上になるという例を載せて,追いつく例で有理数のデデキントコンプリートを考えたときωステップで亀とアキレスの距離が等しくなると載せるのが合理的だと考えました.オタカイザー

「否定的意見」と書かれていますが、「否定」なのか、改善意見なのか。合理的な例の挙げ方という改善意見と受け止めます。言われているのが、時空間にどういった数学的モデルを当てはめるかという事から説き始め、それによって、どういった事例が生まれるか、という系統だった記述がよい、という趣旨でしょうか。そうであるなら、賛成です。ただし、このノートであれば、数学の専門用語が飛び交っても当然でしょうが、本文の記事は違います。この項目は、数学を専攻しているものが参照に来ると限定される項目ではない。例を必要とするのは、数学的訓練を受けていない読者であると想定するべきです。下は中学生くらいをも念頭に記事が書かれるべきでしょう(念頭であって、中学レベルでなければならんという意味ではありません)。数学的に正確・厳密な例を、誰でも分かる平易な表現で、という殆ど矛盾した要請に答える必要があります。面倒な作業とも言えますが、なされるなら、大変結構なことだと思います。--石井彰文会話) 2017年3月5日 (日) 05:49 (UTC)

前書き及び概要への疑問[編集]

現在(2017.3.9)の前書き第一文では「ピタゴラス派への批判」と断定されています。参照に挙げられているStanford哲学百科では、そういう見解もあるとしているだけです。Macmillian哲学百科では、その証拠はないと書かれています。Internet哲学百科では、その論争には立ち入らないとしています。ピタゴラス派への批判という見解もあるようですが、異論があるのだから、現状のような断定は問題でしょう。また、ゼノンが論じているのは、運動だけではないし、続く8つあるとの文と整合しない。いくつあるかは数え方の問題でもあるから、出典を示しておくべきでしょう。冒頭の記述への疑問です。

概要の前文に書かれて居る内容ですが、まず第一、「ゼノンの意図」とか「ゼノンの考えであった」とか、概要の記事が中身の殆どないときなら、なんらかの説明と言えなくはないが、疑問です。いろいろな解釈があるのですから、以下で各種の解釈が挙げられればそれで充分で、ゼノンの真意など知れるはずはない、と言うべきでしょう。第二に、「パラドクシカルである所以」ですが、その説明は要るのでしょうか。いろいろな人が論じてきたというという事実で十分ではないか、と思いますが。「それは容易ではない。結果として」という表現も疑問です。単に容易ではない事から論じてこられたというのは、一つの解釈に過ぎない。2000年以上取り上げられているという事実は重い。認識の問題に深く関わっているという見解の方が強いのではないか。多様な解釈を提示されていれば,ことさらいう必要はないのではないか。第三に、「点やアトムからなる」という前提から不可能を導いたという見解も、一つの見解に過ぎない。連続性のパラドックスと受け止め得るものもあり、運動に関しては2種に分けられるというのが通説ではないか。「運動自体を否定ではない」という見解は、そうだろうと思いますが、ここで断言してしまうことではないと考えます。概要の前文は簡略なものにし、一部は前書きに入れ、運動以外のパラドックスに触れる項と運動の項に分ける、という構成を提案。--石井彰文会話) 2017年3月9日 (木) 00:32 (UTC)

上記の構成で書き換えました。各パラドックスへのコメントは必要ではないかも知れませんが、更に増やすなど、詳しい方が追加されるでしょう。ついでに「数学的解釈」を「運動のパラドックスの数学的解説」と標題を変えました。数学的に見れば、パラドックスと呼びうるものではないという観点からのものです。「パラドックスになっていないという見解」を、数学的解決と解釈し、いや哲学的には解決していないのだ、という過剰反応をする方が居られます。そういう見方から一歩距離を置く意味でも、「解釈」ではなく、ゼノンの言に対して数学的な解析を示す、という意味合いで「解説」と穏やかな言葉にしてみました。もっと適当な言葉があれば、それでも良いのですが。また項目の中の記述も文言をいじる必要があると思いますが、何方かよろしく。別件ーーこのノート中の脚注refタグは、見にくいので、外しました。--石井彰文会話) 2017年4月6日 (木) 05:07 (UTC)

「哲学的な観点から」節以下の刷新[編集]

前文の書き換えによって、幾分「ゼノンのパラドックス」と名乗る項目記事らしくなったと思いますが、感想文の集まりのような「哲学的な観点から」以下を直したいと思います。問題点は以前に私見を書きましたが、以下のように全面的に書き換えることを提案します。

  • 項目名「哲学的な観点から」以下を削除し、「哲学的解釈」と新たに書き換える。「的な観点から」という緩いものではなく、「学的」と言いうる解釈に限定する、という意味です。
  • 専門家の見解を全面に押出した記述形式にする。

ここの記事は、これまでいくつか私見が書き込まれてきました。その中でClinamenさんの記述は削られることなく残ってきたのですが、それも含めて削除します。Clinamenさんの記述は、出典が記されていないと言うことよりも、ゼノンに関してある程度知識のある者に対するまとめのようなものになっている、そこが問題だと思います。段階が踏まれていないのではないか。これまで、ゼノンのパズルを解いたとして書き込まれた「解決」などは、Clinamenさんの記述を完全に無視していました。アンタッチャブルではあっても、事典の記事として斟酌されていないというわけです。私見を書き込んだ者を責めるべきでしょうが、もう一方の問題もあるでしょう。記事を追加しようとする者に対しても、先に書かれている記事を踏まえないと追記できない、と思わせる必要がある、ということではないでしょうか。この項目の特殊性=「素人にも解けると思える」を考えれば、踏まえるべき段階があることを示す記事でなければならない。記述の形式を、専門家の見解を並べる、とするのが、よいと考えます。実際にはおびただしい数の論文があるのですから、アウトライン的な範型がいる。基調として藤沢令夫の論文「運動と実在」の流れを踏襲するものプラスアルファが適当ではないか、と思います。具体的には記事を呈示するしかないでしょうね。--石井彰文会話) 2017年4月14日 (金) 12:09 (UTC)

かなり冗長とも中途半端とも言える記述に書き換えましたが、一方に、追加したいと考える方も多数出てくるでしょう。が、形式としてはお気に入りの見解を追加しやすいものではある、と思います。個人名項目と「経験・観測の問題として」などが混ざっていることについては、適当な分類ができるなら、知恵者にお願いした。
  • suzuki999さんの「アキレスと亀の平易な解決」を削除しました。個人的には当初から疑問でしたが、参照文献が挙げられていたので控えていました。その文献『パラドックス!』を見たところ、複数の筆者が居るのですが、明示的にそれを「解決」だといっている論文は見つかりません。問題のない文章になることを「解決した」と思い得る方は、suzuki999さん以外に居るのでしょうか?追いつくまでは問題がないということでは、ジェームズの個所で触れているということで、充分だと考えます。それ以上にこれを「解決」と事典に記述するべき根拠があるとお考えなら、反論をどうぞ。--石井彰文会話) 2017年5月9日 (火) 07:28 (UTC)
大胆に書き変えられましたね。出典に基づいて書くという意味でのウィキペディアルールを守ってのことなので、内容そのものには異議なしとします。ただ、「誰々はこう言った」とあれこれ羅列しているだけで、「誰々の主張を理解するのも大変だが、ところで、このページでの結論は一体何なんだ?」というのが大半の人の感想ではないでしょうか。
哲学というより社会思想史みたいになっていますし、エポケーそのもののように思えます。「結論を急ぐと大抵は間違えるから、判断しないことが学者として忠実な姿勢なのだ」というふうに言われていますが、ただの思考停止に堕しているケースも多いようです。この記事ではどうでしょうか。少なくとも民間企業とか軍隊でエポケーなどしていたら、倒産・全滅してしまいます。その時点で最上の結論を出す・決断する。そして、行動する。不都合が生じたら、軌道修正。こういう方向性があってもいいと思います。
石井さんにだけではなく、ROMっている方々にも問題提起します。--Circodelsol会話) 2017年5月16日 (火) 06:34 (UTC)