ノート:オフィス・ゲンキ

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オフィス・ゲンキの前身会社設立に至るまでのエピソード[編集]

1975年ニッポン放送をキーステーションとする「ライオン・フォークビレッジ」の北海道地区代表を選ぶオーディション番組で落選した松山を、番組を担当していたSTV(札幌テレビ放送)の竹田健二ディレクターと、キャニオンレコードの山本詔治にその才能を見出された。
竹田健二と山本詔治は、まだ素人のレベルだった松山を「1年後にコードデビューを!」と口説き落とし、それからの1年間、竹田は毎週末開かれていた札幌STVホールでの公開番組に松山を出演させ、同時に、STV深夜放送のディスクジョッキーに抜擢し、松山の天性とも言えるトークに磨きをかけた。
その一方で、竹田健二は松山に「毎週、5~7曲の作品創り」をノルマとし、そのカセットテープを山本詔治送り、二人は相談しながら「1年後のデビュー曲」と、タイミングを探っていた。
松山のデビュー曲「旅立ち」は、竹田健二が彼に与えたこの作詞作曲ノルマの中の一曲(注:原曲は高校在学中に作曲済み)であり、山本詔治はキャニオンレコードからの発売日を、全国の小中高大学生の卒業式直前の1月21日に決め、「旅立ち」のテスト版レコードを全国の高校の放送部宛てに送るなどの活動をした。
「旅立ち」は発売直後に北海道地区でトップ1に躍り出て業界を驚かせたが、それ以外の地区ではまだ松山は知名度が無く、デビュー後もまだ芸能事務所に所属せず、竹田の出演アレンジに従って活動を行っていた。
1977年竹田が急性心不全を患い36歳で急逝、竹田ディレクターと共に二人三脚で松山を支えていた35歳の山本詔治は、プロデューサー契約(印税)をしていたキャニオンレコードから、いずれかの既存芸能プロダクションに所属し芸能活動を継続する提案を受ける。
松山の意見を聞くが「竹田さんが居なくなって、山本さんが事務所をやってくれないのなら、歌を辞める。」という松山の言葉に感銘を受けた山本詔治は、キャニオンレコード、担当していた松山以外の複数のタレントたちとも話し合い、合意を得た上で、同社とのプロデューサー契約(高額の印税契約)を辞退し、山本詔治のあだ名であったパンタから命名した『(株)オフィス・パンタ』を創立し、まだ全国区になっていなかった松山に全てを賭けるという暴挙(?)に出たのは、竹田健二が急逝した夏の翌年、1978年1月であった。

--114.51.11.17 2010年7月15日 (木) 00:22 (UTC)[返信]