ノート:イランの歴史

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翻訳しての感想と課題[編集]

初版はen:History of Iranのからの翻訳(終わってから見てみたらフランス語版のほうがはるかにまとまりがよかった……。悲しい)。初版訳者として感想と課題をノートしておく。世界最古の文明→アーリア到来→栄光のペルシア帝国→アラブの侵略→黄金の中世→モンゴルの破壊→「目覚め」としての立憲革命→近現代史という流れ。全体的にはHisotry of IranというよりもHistory of Iraniansであり、イラン民族主義の良くない点が前面に出ている。これを読んで疑問を感じないなら、歴史的感覚が相当ズレているので世界のどこの地域のものでも良いから新しめの概説書を読んだ方がいい。また内容のバランスが著しく悪い。セルジューク朝が終わるとあっという間に立憲革命がはじまる。ここまでの研究水準(考古学部は除く)はおおむね1970年代くらい。現代に近づくほど比重が重くなるのは当然の姿だが、異民族が関わるところはなるべく端折ってそれを実現するのはアウト。また近代史に関しては、おそらく革命で海外に出たイラン人が書いたものとほぼ同定できるような内容。やや中立性を欠く。以下章を追ってみる。

古代
アーリア前のイラン。マンナエとかジーロフトとかとにかく見つかったものは何でも書いてあるが、一方でエラムに関しては記述が少ない。古いを強調しすぎ。もう少し沿革的な流れが必要。項目の箇条書きは好ましくない。ペルシア帝国。バランスが悪い。1段目のイラン=ペルシア論争については分量が多すぎ、2段目はイラン民族主義POV。3段目。ハカーマニシュ朝~サーサーン朝は名前を列挙しているだけで分量少なすぎ。
イスラームの征服
Intermediate eraという扱いはどうか。ターヘル朝によるイラン復興までの暗黒時代と見てはならないだろう。アッバース朝革命とかマワーリー問題とか少しは書けるだろう。ついでに周りの画像がパルティアとアカイメネス朝なのはどうか?「イスラーム征服後のイラン」。なぜ節が立つかと言えば、イスラームの征服を章としてしまったから。これしか節がないので流れがよくない。ウマイヤ朝・アッバース朝からの独立の闘い~ターヒル朝による独立の芽生え~ブワイフ朝による完全独立の達成という流れは民族主義POVなうえに古すぎ。いい加減にしてほしい。
中世
テュルクの到来をもって中世への劃期とするが前章の時代はどういう扱いになるのか?無理に中世という言葉を使う必要はない。なぜかターヒル朝とサーマーン朝などが再登場。前章と内容がぐちゃぐちゃ。整理の要あり。セルジューク朝期については問題ない。イスマーイール派への言及もあってよい。
第一次世界大戦以前
見出しが不適切。とおもったらそんなことなく最初の一段落でサファヴィー朝にはじまり、パフラヴィー朝までいってしまう。イルハン朝も白羊朝も出現せず。で、戦争に負けて立憲革命。いくらなんでも端折りすぎ。
世界大戦
パフラヴィー朝初期の対外関係ばっか。レザー・シャーの国内政策は必要。というか、章として設ける必要があるのだろうか、と思わないでもないがイラン民族主義的立場からすれば領土の変容が要になるのは明らかなので、こうなってるのだろう。ただ分離主義者、イラン本来の領土云々は少々言葉が強い。
アメリカ合衆国とシャー~現在
石油国有化運動と白色革命。悪くはないが重複があるし、少々圧政面を強調しすぎているかもしれない。社会の変容は一言あってしかるべき。イスラーム革命:このままでよい。が次章と統合して良い。ただしPOVな用語は目につくので修正。イスラーム共和国:まぁ、こんなもんか。一番最後のほうは少々「現在進行中の~」のきらいがある。

以上--Kotoito 2006年2月9日 (木) 19:45 (UTC)[返信]

いくつか加筆しながら、なんかイラン高原の歴史上肝心なものが抜けまくっていて、テュルク-モンゴル系政権の意義が妙に軽く流されている、と思って投稿履歴とノートを見たら(おい、最初に見ろよ>自分)、こういうことだったのですね。やっぱり大手術が必要そうですね。英語版を翻訳して新記事立ててから後で大後悔というのは、私も実はニクバエで経験済みであります。やっぱり自分の専門分野は1からフレームワークを作ってから記事構築したほうがいいのかも。アップロードしてからがっくり来ますから。--ウミユスリカ 2006年2月10日 (金) 00:43 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。正直この状態で公開してしまうのもどうかとは思いましたが、翻訳は原文よりに、そして車輪の再発明はなるべくさける、という方針のもと投稿しました。これからこの記事を最優先に大手術を行いたいと思います。Kotoito 2006年2月10日 (金) 10:39 (UTC)[返信]
とりあえず「イスラームの征服」にあたる部分を改訂。というか書き直し。やはり思っていたとおり自分で書くと分量が多くなりがちです。この調子でガージャール朝まで書くとどういうことになるのか恐ろしい。が、とりあえず書いてから分割なりで削ってけばいいかな、と思います。構成・章立てについてご意見賜りたく --Kotoito 2006年2月10日 (金) 18:06 (UTC)[返信]

古代ペルシアの固有名詞表記について[編集]

失礼します。古代部分の加筆を考えて、昨日手持ちの書籍を一通り洗っていたのですが、こちらの記事の固有名詞表記の方針というのはどのような物になっているでしょうか。

一番大きな所ではハカーマニシュ朝アケメネス朝(又はアカイメネス朝)、アルシャク朝アルサケス朝ササン朝サーサーン朝、などです。

記事全体としては原音表記が重視されている(最近のイスラム史系の書籍でも同様なのでそういう流れなのでしょうか)ように見えるのですが、一方で古代部分のペルシア、パルティアなどはパルスア、パルサワとはなっていません。

私としては慣用表記を中心に記述したいと考えています。理由は私自身の問題として、ペルシア語等の知識が無いため原音表記法の正確性に難が出てしまうこと、アケメネス朝やパルティアは慣用表記名で既に記事があること(ササン朝はサーサーン朝で記事がたっているのですが・・・)、手元の書籍を見た限り基本的にササン朝以前は慣用的な表記法を用いているものが多いこと、そしてやや消極的な理由としては、人名のクロス(クルシュ)、ダーラヤワウ、フシャヤールシャといった表記が非一般的に過ぎ、読み手の混乱を招くと思われること、などです。

記事全体の一貫性を保ちたいと思いますのでご意見をいただければ幸いです。--TEN 2006年5月29日 (月) 03:59 (UTC)[返信]

ハカーマニシュ(アケメネス)朝に限っての意見です。私の見た感触だと、1990年代後半以降の出版物の場合、一般向けの書籍であってもギリシア語慣用表記から原音再現表記に急速に移行しているように感じられます。だから、非一般的に過ぎるということはないのではとは考えています。しかし、屈折語であるペルシア語固有名詞は複雑な語尾活用をするため、こうした語尾変化を起こさない日本語の文章内で表記するとき、主格表記を採用する立場と、名詞幹表記を採用する立場が統一されていないように感じられます。例えば、ダーラヤワウシュとするか、ダーラヤワウとするかという立場の違いですね。ギリシア語人名でも同様の問題がありますが、通常は主格表記、新約聖書の翻訳では名詞幹表記が定着しています。だから、歴史学の著作ではアルケラオスとなっている人名が、聖書ではアケラオなどとなってますよね。一時期日本語の聖書でも主格表記採用の動きがあったようですが、イエスをイエススと表記するなどの信者になじみのないやり方が嫌われ、「ススだらけの聖書」などと揶揄されて、定着しませんでした。それと、ギリシア語でΧで転写されている音を破裂音にするか、摩擦音にするかも、著者によってまちまちです。これはクセルクセスをクシャヤールシャンとする立場と、フシャヤールシャとする立場によく示されるかと思います。ですから私は、ここ数年の、古代イラン史の研究者が一般向けの書籍を執筆する方針の傾向に合わせて、原音表記を基準にしたいと思っていますが、肝心の研究者の採用している仮名転写の統一性がまだ取れていないのではないでしょうか。このあたりの事情に詳しい方の助言をいただきたいと思います。--ウミユスリカ 2006年5月29日 (月) 05:18 (UTC)[返信]
Kotoitoです。TENさん、ありがとうございます。さて、固有名詞表記なのですが、私も現在、そちら方面の専門がどうなっているのかは全くわからない状態です。とりあえず新しい方の山川世界各国史『西アジア史II』を参考にしたのですが、まぁ独走状態で使っている一部の方々がいるという話もあって判然としません。アケメネスとするならアカイメネスの方がいいとは思いますが、なんとも。ただ原音方面への移行趨勢は確実です。また、サーサーン朝については確実に「サーサーン朝」と表記していると思います。またササン朝ペルシアとかセレウコス朝シリアとかみたいな何々朝どこどこは禁じ手となったようですね。--Kotoito 2006年5月29日 (月) 10:11 (UTC)[返信]

リストの都合上、インデントを戻します。帰宅したのでとりあえず書き始めようかと思っている所ですが、固有名詞表記法が安定しないのはなんとも心もとない話であります(^^; ちょっと長くなりますが、とりあえず参考として、手持ちの書籍のうち新しめのものの中から幾つか列挙してみます。

  • 『世界の歴史4 オリエント世界の発展』(小川英雄/山本由美子 中央公論社 1997年) メディア時代についてはヘロドトスの記録と同時代史料の対照を行っている関係でギリシア語表記、原音(推定)表記がそれぞれ使用されている。アケメネス朝~アルサケス朝時代についてはほぼギリシア語表記、何人かの人名、若干の地名には原音が括弧などで付記されているが、ヴォロガセスのように付記の無い者も多い。なおアケメネスには括弧でハハマーニシュと付記されている。サーサーン朝時代はサーサーン朝表記、基本的に原音によっていると思われる。
  • 『歴史学の現在 古代オリエント』(前田徹他五名 山川出版社 2000年) 扱ってるのは主に古代メソポタミアについてですが、アケメネス朝時代については若干の言及あり。基本的にギリシア語(を元にした)慣用表記によっている。アケメネス朝時代以降は本の主題から外れることもあって固有名詞についてあまり詳細に扱われていない。
  • 『古代王権の誕生III 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ編』(角田文衛/上田正昭監修 角川書店 2000年) 原語のアルファベット転写が随所に記述されるものの、日本語カナ表記になるとアケメネス朝~サーサーン朝(同書ではササン朝表記)にいたるまでほぼギリシア語(を元にした)表記。
  • 『アイハヌム 2001~2005』 (加藤九祚 東海大学出版会 2001年~2005年) バクトリア史やパルティア史についてかなり踏み込んだ記述のある貴重な邦語書籍。アルサケス朝についてはギリシア語(を元にした)慣用表記を採用。
  • 『世界史リブレット4 マニ教とゾロアスター教』(山本由美子 山川出版社 1998年) 79ページしかないけれど程よくまとまっている。サーサーン朝時代に関してはほぼ原音表記の模様。アルサケス朝は数行触れるという程度なもののギリシア語(を元にした)慣用表記
  • 『ゾロアスター教論集』 (伊藤義教 平河出版社 2001年) ちょっと敷居が高く私の知識水準では厳しいのですが、カルティールについては大いに参考にする予定。サーサーン朝表記。原音のアルファベット転写、一部分についてはアラム文字の表記もあり、カナ表記も原音に相当気を使っている。
  • 『中村元選集[決定版] インド史I II III』(中村元 春秋社 1997年~1998年) インド史の書籍ですが、イラン世界とのかかわりについて随所に記述あり。アケメネス朝やアルサケス朝などについてはギリシア語に基づくが長音記号を無視していない(アカイメネース、クセルクセース等)

他にも何冊かあるのですが、指し当たって見直してみての感想。ササン朝以前は慣用の・・・と書きましたが私の認識違いで、サーサーン朝期についていえば原音表記が相当進んでいるようです。一方でアルサケス朝時代以前についていえば、私の手持ちの書籍(のうち新しめの物)を見る限り、やはり原音表記が一般的という認識には至りません。

原音を重視するというのは歴史学一般の傾向ですが、古代イランに関する限り、まだ始まったばかりと言うことがいえるのではないかと思います。少なくてもギリシア語(を元にした)慣用表記のみで書かれている本はあっても、原音を中心として記述している本はまだ珍しいものと言えると思います。

表記としてはサーサーン朝に関してはご指摘の通りで、一般使用頻度はともかくサーサーン朝表記が中心になっているのは間違いないと思うので「サーサーン朝」を用いることにしたいと思います。アルサケス朝以前については、初記述時にアケメネス、(ハカーマニシュ朝)のように慣用表記の後に原音表記を括弧で付随する方法をとりたいと思うのですがいかがでしょうか。原音の表記方式がまだ揺れているというのも本文中でそれを中心とするのをためらわせます。

正直、寡少な資料をもとにした意見なのでこの方法についてそれほど自信があるわけではありません。書きあがるまでにはまだ暫く時間がかかると思うので、この件について更にご意見を伺いたいと思いますのでよろしくお願いします。--TEN 2006年5月29日 (月) 12:28 (UTC)[返信]

上にように考えていたのですが、記事全体と統一するため、ハカーマニシュ朝表記を採用しました。ゾロアスター教の発生についての部分も書いたのですが、ちょっと長くなりすぎているので保留です。エラム部分(指し当たってクティク・インシュシナク以外のエラム人には触れる必要がないかと思います)がちょっと浮いてしまっていますが、メディア・ペルシアに関する記述の時に繋がりを持たせられればと思います。--TEN 2006年5月29日 (月) 16:02 (UTC)[返信]

古代部分の加筆について[編集]

指し当たってエラム時代からサーサーン朝時代まで記述してみましたが、構成・分量などこれでいいのかどうなのか必ずしも自信があるわけではありませんので意見等いただけると幸いです。参考文献全般に、イランの歴史というよりはバビロニア・エラム関係史、ギリシア・ペルシア関係史、ローマ・パルティア関係史といった内容であるものが多いのですが、この対外関係史は意識的に削ってみました。また、どうしても4王朝の歴代誌のような構成になってしまうのですが、セレウコス朝からパルティア前期まで多くの本でヘレニズムが触れられているので、この部分で1節にしてみました。固有名詞表記については、やはり頂いたご意見を参考にして、また既に存在する文章を重視してわかる限り原音表記に従って記し、初回時に(アルサケス朝)等と記す形にしてみました。ただ、私としてはハカーマニシュ朝、アルシャク朝という表記法には違和感を覚えるのが正直な所ではあります。最後に先史時代についてなのですが、私も知識が無く、正直今の所文章を削ってまとめるという程度の補正しかできなさそうなので手付かずとなっています(^^;--TEN 2006年6月3日 (土) 11:51 (UTC)[返信]

TENさん。本当にありがとうございます。ようやく私も加筆を始めましたが現代まではもうすこし時間がかかりそうです。対外関係史についてはイランの場合特に一項目十分に立てられるのですよね。ご配慮正しいと考えます。まぁぶっちゃけ王朝名はだいぶ私も慣れてきましたが、人名となると結構厳しいものを感じてはいます。とまれ、がんばりますので現代までいったら調整に入りたいと考えます。その際ぜひよろしくお願いいたします。

To Do[編集]

とりあえずこれから必要なことをリストしていきましょう。--Kotoito 2006年6月17日 (土) 12:41 (UTC)[返信]

勢力図
各見出し一つは必要でしょう。文字で説明すると本当にややこしいし、概念的にわかりずらい。作成はやります。
工芸品など
どうしても文章が長くて文字が多くなりがちで読みにくいので、関連画像をCommonsから積極的に拾います。
テンプレートの見直し
勝手に作ったので美しくありません。
重要キーワードの遺漏チェック
おとせないキーワードというのがあると思います。それといちおう受験などにも役に立つように。
指し当たってゾロアスター教やミトラ教、マニ教、マズダク教、シーア派などについてはもう少し記述が必要かと思います。--TEN 2006年6月24日 (土) 12:57 (UTC)[返信]
各項目間のバランス調整、見出しなどの構成
一番大切
冒頭に一気に読める超簡単な概説
いるかも

鉱物資源を巡るメソポタミア交易
やはりイラン史のひとつの原動力は、やっぱり穀倉地帯のメソポタミアと、鉱物資源供給地たるイラン、アフガニスタンの間の交易でしょう。この視点が欠けていては、画竜点睛を欠きます。--ウミユスリカ 2007年1月6日 (土) 11:50 (UTC)[返信]

テュルク・モンゴル系諸政権とイラン世界[編集]

議論の途中で失礼いたします。少々挨拶が遅れましたがKotoitoさんのお招きで書き込みさせていただきました。Haydarと申します。早速モンゴル帝国統治時代の部分に手を入れさせてもらいました。(フレグの西征をオゴデイ時代としていたのはさすがにまずかろうと思いまして) モンゴル時代前後がペルシア語文芸の重大な画期だったことは良く知られている通りですので、イルハン朝などについては今後はそれを絡めて書ければと思うのですが・・・如何せん書くべき分をどのくらいにしたら良いのか、いまひとつ判断ができていません。セルジューク朝やモンゴル帝国などのテュルク・モンゴル系の集団が、もともとイラン・イスラーム的な文化を享受していた問題とか、シーア派だけでなくスンナ派のシャーフィイー法学派などもいろいろ政権と関わっていますのでそれも触れるべきかとか。あとやはりホラーサーン同様、歴史的なアゼルバイジャン地方の項目は必要な感じを受けました。Haydar 2006年6月28日 (水) 14:55 (UTC)[返信]

加筆ありがとうございました。TENさんにもHaydarさんにもお願いしておきながら私の遅筆のせいで全体的見通しを得るのが大変難しくなっていると感じています。現在地図を作成することにかまけてしまって字を書いていませんでした。おまけに無知というか確かめもせずに適当な事を書いてしまっていますね。恥じ入るのみです。なるべく急いでこの後を書きます。私としては本項目をもって各時代の概要がつかめることを目標としたいと考えています。--Kotoito 2006年6月28日 (水) 15:08 (UTC)[返信]
> Kotoitoさん 毎度ながらお疲れ様です。地図を作成されていたのですね。重ねてご苦労様です。ネットでの閲覧の便を考えれば地図や系図、画像資料などできるだけ視覚情報を自分も多く載せたいところですが、画像添付のガイドラインの諸々を見ると自分で作成するのにはいささか二の足を踏んでしまいます。先々月くらいまでパリ国立図書館のサイトで『集史』パリ本の挿し絵部分を一括掲載していて、これは便利と思いどこかのコンテンツにリンクを貼る心づもりだったのですが、先日確認したときは早くも掲載が終了していてひどく落胆してしまいました。フレグなど主要なモンゴル王族の肖像に使えそうだったのですが・・・ 自分も記憶違いなどで適当なことを書いてしまい、あとで慌てて修正することもままあります(汗 これも気を付けねばなりません。
Kotoitoさんの執筆されている箇所は大変多いようですので、余裕をみてゆるゆるとやっていきましょう(^^ 自分は文章を要約するということがどうにも苦手でして、何かしら触れておいた方がいいなと思ってついつい記事を付け足す悪い癖があります。自分なりに修正を加えて行くつもりですが、要約として不適当な部分があれば、Kotoitoさんはじめイラン史などに明るい方々に修正して頂ければと思っております。Haydar 2006年7月1日 (土) 13:17 (UTC)[返信]