ノア・ウェブスター
ノア・ウェブスター(Noah Webster, 1758年10月16日 - 1843年5月28日)は、アメリカの辞書編纂者、教育者である。ファウンディング・ファーザーズのひとり[1]。教科書の著者、聖書翻訳者、綴り字改革運動家、ライター、編集者としても活躍した。「アメリカの学問・教育の父」と呼ばれる。彼が著した通称「スペリングの青本」は5世代にわたり合衆国の子供たちに読み書きを教え、特に1828年初版の『アメリカ英語辞書』(An American Dictionary of English Language)に始まるメリアム=ウェブスター社の辞書が有名になったことから、アメリカ合衆国においてウェブスターの名は辞典を意味する普通名詞のように使われ、ウェブスターとはまったく関係ない辞典もウェブスターの名を冠している。
生涯[編集]
コネティカット州ウェストハートフォードの植民農園の一家に生まれた。父は作物を育てたり糸をつむいだりして家計を支えた。兄弟にはチャールズとアブラハム、姉妹にはマーシーとジェルーシャがいる。
16歳のとき、コネティカット州にある唯一の大学であったイェール大学に通学を始める。彼がイェールで学んだのはちょうどアメリカ独立戦争のさなかであり、食料不足から、多くの授業がコネティカット州グラストンベリで行われた。
彼がイェールを卒業したのは1778年のことである。ロー・スクールに通う経済的余裕がなかったため、グラストンベリ、ハートフォード、ウェストハートフォードの学校に教師として勤めた。やがて1781年に法学位をとると、同年、ハートフォードでの弁護士資格も認められた。
1789年、レベッカ・グリーンリーフと結婚。8人の子供をもうけた。1793年、ウェブスターは、ジョージ・ワシントン率いる新政府との交流を深めるため一家そろってニューヨークに移住。同年12月9日、ニューヨーク初の日刊紙『アメリカン・ミネヴァ』(後の『コマーシャル・アドバタイザー』)を創刊。また、隔週誌『ヘラルド/ガゼット・フォー・ザ・カントリー』(後の『ニューヨーク・スペクテイター』)も発刊した。1798年、再び一家でニュー・ヘイブンにもどる。
宗教的見地[編集]
ウェブスターが敬虔なキリスト教徒であったことは広く知られている。1828年の辞書には、それまでの参考書には見受けられないほどに聖書にまつわる定義が含まれているといわれる。ウェブスターは「聖書を無視した教育は無益だ」と考えていた。
- 「私に言わせれば、自由国家において教育を受けるあらゆる子供たちにとって、キリスト教はもっとも重要でもっとも基本的なもののひとつである。(中略)自由民の権利を守ろうと志す国家ならばどんな国家でも、キリスト教を基礎とせねばならないということは、私の中では明らかなことである」(An American Dictionary of the English Language 1828年版の序文より)
- 「公人を投票で選ぶ権利を行使するときは、権力をふるうにあたって神様を恐れるような人を選ぶよう、神様に命じられているようなものと心得なさい。共和政府の存続は、この義務を誠実に履行できるかどうかにかかっています。もし市民が自分たちに課せられたこの義務をおこたり、そして節義に欠く人物を公務につけるならば、政府はたちまち腐敗してしまうでしょう」(Value of Bible and Excellence of Christian Religion(1834年)所収『若者への助言』より)
教育的見解[編集]
教師として、かれはアメリカの小学校を「好ましくない環境にある」と考えるようになった。教室が一つだけの校舎に学齢がまちまちな児童が70人以上詰め込まれており、教師は訓練を受けておらず、机も配置されてなかった。しかし、ウェブスターが一番の問題としていたのは教科書だった。数が十分でない上に、イギリスの教科書を使用していたのである。かれは保守主義に基づいて「アメリカ人はアメリカの教科書で学ぶべき」と考え、3冊で構成された教科書 A Grammatical Institute of the English Language を書き始めた。これはスペラー(綴字法・1783年出版)、グラマー(文法・1784年出版)、リーダー(読本・1785年)から成る。子供を教育するアプローチとして、他でもないアメリカ流で、かつキリスト教主義を中心にすえたものを提供するのを目的としていた。
スペラーのそもそものタイトルは The First Part of the Grammatical Institute of the English Language といった。1786年に The American Spelling Book に変更され、さらに1829年、The Elementary Spelling Book に変更された。その青いカバーから The Blue-Back Speller (『スペリングの青本』)と呼ばれ、以後100年にわたり、ウェブスターの教科書が子供たちにどう読み、どう書き、どう発音するかを教えることになる。当時もっとも広く使われたアメリカの教科書であり、1861年までには年間の販売数が100万部に到達し、1部につき1セント未満の印税でありながら、さらなる仕事を進めるウェブスターの十分な収入源となっていた。ベンジャミン・フランクリンでさえ、孫娘に本の読み方を教える際にウェブスターの教科書を使っている。アメリカで最初に編まれた辞書であるともいわれる。また、スペリング・ビーという大衆的な書き取り競技を生み出すのに一役買った。
なお、ウェブスターの本の海賊版が出版され、他方著作権はといえば13の州で内容の異なるという有様で、それを見かねたウェブスターが制定を主張した連邦著作権は、1790年に議会を通過した。
辞書の編纂[編集]
1799年、43歳になったウェブスターは、包括的な辞書 An American Dictionary of the English Language を書き始めた。語源の調査のために、ウェブスターは、アングロサクソン語やサンスクリット語を含む26の言語を学ぼうとした。そのころのアメリカでは地域によってスペリングや発音、語法がまちまちであったため、ウェブスターはこの辞書によってアメリカ英語が標準化されることを期待していた。
パリやケンブリッジ大学に滞在していた1825年、辞書が完成。彼はイギリス英語のスペリングのルールは必要以上に複雑だと思い、1828年に出版した辞典「An American Dictionary of English Language」において、イギリスでは "colour" と綴られる「色」を "color" として、 "musick" と綴られる「音楽」を "music" として、"waggon" と綴られる「荷馬車」を "wagon" として、"centre" と綴られる「中心」を "center" として、"honour" と綴られる「名誉」を "honor" として収録した。また、保守主義を貫いていた彼は、それまでのイギリスの辞書には載っていなかったアメリカ独自の動植物に由来する言葉である「スカンク」や「カボチャ」などの単語も収録した。収録語7万語のうち、1万2千語がこれまで辞書に収録されたことのない単語だった。1828年にこの辞書を出版したとき、ウェブスターは70歳になっていた。
死の3年前にあたる1840年、第2版を2分冊構成で出版。その付録の改訂を終えた。
出典[編集]
- https://web.archive.org/web/20051218215228/http://noahwebsterhouse.org/biography.html The Noah Webster House, Museum of West Hartford History [英語]
- http://www.m-w.com/info/noah.htm メリアム=ウェブスター社のウェブサイト [英語]
- https://web.archive.org/web/20120430022952/http://www.ctheritage.org/encyclopedia/ct1763_1818/webster.htm コネチカット郷土史ウェブサイト [英語]
- http://encyclopedia.jrank.org/WAT_WIL/WEBSTER_NOAH_1758_1843_.html ブリタニカ百科事典第11版における伝記的記事 [英語]
- http://www.bartleby.com/65/we/WebsterN.html Columbia Encyclopediaにおける伝記的記事 [英語]
脚注[編集]
外部リンク[編集]
- 1800年頃のThe American Spelling Book
- Noah Websterの作品 - プロジェクト・グーテンベルク The Gutenberg Webster's Unabridged Dictionary
- ウェブスター:アメリカ英語辞書コレクション(原本) 岐阜大学図書館(1806年初版~1943年、100点)
- Webster's 1913 1913年版の Webster's Revised Unabridged Dictionary EPWING電子辞書