ネプチューン (軽巡洋艦)

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HMS Neptune (AWM 302461).jpg
艦歴
発注
起工 1931年9月24日[1]
進水 1933年1月31日
就役 1934年2月12日
もしくは2月23日[2]
退役
その後 1941年12月19日に戦没
除籍
性能諸元
排水量 基準:7,175トン
満載:9,740トン
全長 554.9 ft (169.1 m)
全幅 56 ft (17.1 m)
吃水 19.1 ft (5.8 m)
機関
最大速 32.5ノット
乗員 550名
兵装

ネプチューン (HMS Neptune, 20) は、イギリス海軍軽巡洋艦[注釈 1]リアンダー級軽巡洋艦に属する[注釈 2]。 艦名はローマ神話の海神ネプトゥーヌス (Neptunus) の英語読み「ネプチューン」に由来する[5][注釈 3]。 リアンダー級の4番艦で[注釈 4]第二次世界大戦地中海戦域で活躍した[8]マルタ島北アフリカ戦線を巡る攻防戦に従事中の1941年(昭和16年)12月29日トリポリ沖合でイタリア海軍が敷設した機雷によって沈没した[7]

艦歴[編集]

戦間期[編集]

1931年(昭和6年)9月24日、ポーツマス工廠で起工[7]。1933年(昭和8年)1月31日に進水[7]。1934年(昭和9年)2月12日に就役した[注釈 5]本国艦隊 (The Home Fleet) の第2巡洋艦戦隊 (2nd Cruiser Squadron) に配備された[注釈 6]

1936年(昭和11年)8月3日、ネプチューン(ベッドフォード艦長)はドイツキール軍港を訪問しドイツ海軍 (Kriegsmarine) の軍艦と共に、同地でおこなわれた観艦式に参加した[注釈 7][注釈 8]。 折しも1936年夏季オリンピックが開かれており、イギリス海軍はこの機会を利用して、自沈したドイツ帝国海軍の巡洋戦艦ヒンデンブルク (SMS Hindenburg) から引き揚げられた時鐘ドイツ政府に返還した[注釈 8]。ドイツ側は、「ヒンデンブルグ」の名を冠する軍艦が建造されるまで、ポケット戦艦ドイッチュラント (Deutschland) で使用すると返答したという[注釈 8]

1937年(昭和12年)7月、ネプチューンはアフリカ戦隊に配備され、しばらく姉妹艦アンフィオン (HMS Amphion) と共に[10]第6巡洋艦戦隊 (6th Cruiser Squadron) を構成した。南アフリカ周辺で行動する。

第二次世界大戦[編集]

1939年(昭和14年)6月29日、姉妹艦にして第6巡洋艦戦隊の僚艦「アンフィオン」はオーストラリア海軍に移管され、「パース」と改名された[7][11]。8月、「パース」は「ネプチューン」と別れ、アメリカ大陸経由でオーストラリア大陸にむかった。 9月1日、第二次世界大戦が勃発した。連合国軍の海軍戦力に対して劣勢のドイツ海軍は、ドイッチュラント級装甲艦(通称ポケット戦艦)や仮装巡洋艦により通商破壊を開始する(大西洋の戦い)。大西洋で装甲艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」が活動を開始したので、「ネプチューン」も対応に奔走した。

9月5日、「ネプチューン」はドイツ船「Inn」(2867トン)を沈めた[12]。 11月、貨客船「Waimarama」がポルトガル船「Nyassa」に偽装したドイツ船「アドルフ・ヴェールマン」と遭遇[13]。「Waimarama」船長は本物の「Nyassa」やその所在地を知っていたため疑念を抱き追跡したが、夜に見失った[13]。「Waimarama」からの知らせに最も近くにいた「ネプチューン」はその方へ向かい、11月22日にアセンション島付近で「アドルフ・ヴェールマン」を捕捉[14]。「アドルフ・ヴェールマン」は自沈し、「ネプチューン」は同船に乗っていた162名を収容した[14]

イタリア参戦後[編集]

1940年(昭和15年)6月10日、イタリア[15]、イギリスとフランスに宣戦を布告した[16]イギリス海軍は、アレキサンドリアを拠点とする地中海艦隊(司令長官アンドルー・ブラウン・カンニガム中将)に加えて、ジブラルタルを拠点とするH部隊(司令官ジェームズ・サマヴィル中将)を新編して対抗した[17]。 6月21日、軽巡洋艦オライオン (HMS Orion, 85) 、豪州海軍の軽巡洋艦シドニー (HMAS Sydney) などと共同で、リビアバルディア英語版を砲撃した。同月、MA3作戦で出撃中にイタリア駆逐艦3隻と交戦し、僚艦と共に[注釈 9]、伊駆逐艦エスペロ (Espero) を撃沈した[18]エスペロ船団の戦い)。

7月9日、ネプチューンはカラブリア沖海戦に参加した。戦艦ウォースパイト (HMS Warspite) を旗艦とする地中海艦隊は三つの部隊にわかれており、ネプチューンはジョン・トーヴィー中将が率いる快速の巡洋艦部隊(A部隊)に所属していた[19]。14時47分、軽巡オライオンがイタリア艦隊の煤煙を発見し、その5分後にネプチューンが敵艦2隻を視認して旗艦(カニンガム提督)に「敵艦隊見ゆ」の無電をおくった[20]地中海でイギリス軍艦がこのような信号を発したのは、1798年7月のナイルの海戦以来だったという[20]。この海戦で、ネプチューンはイタリア軽巡洋艦ジュゼッペ・ガリバルディ (Giuseppe Garibaldi) から命中弾を受けた。一方、ネプチューンはイタリア重巡洋艦ボルツァーノ (Bolzano) に損害を与えた。巡洋艦部隊同士の戦闘はイタリア有利だったが、ウォースパイトが砲撃を開始してイタリア戦艦を損傷させ、イタリア艦隊は撤退した[21]。 8月からはインド洋に配置転換し、同方面で船団護衛任務や通商破壊艦の捜索に従事した。

1941年[編集]

1941年6月4日、空母「ヴィクトリアス」のソードフィッシュがアゾレス諸島北方で補給兼哨戒船「Gonzenheim」を発見[22]。「ネプチューン」と戦艦「ネルソン」に逃走を阻止されて「Gonzenheim」は自沈に追い込まれ、「ネプチューン」は炎上する「Gonzenheim」に魚雷を撃ち込んだ[23]

その後、ネプチューンは1941年(昭和16年)10月に編成されたK部隊 (Force K) に所属した[8]。この部隊の任務はリビアへ向かうドイツとイタリアの輸送船団の攻撃であった[24]。これらの枢軸軍輸送船団は北アフリカ戦線で戦うドイツ陸軍アフリカ軍団へ兵員と装備を、イタリア本土やシチリア島から北アフリカに運んでいた[25]。この枢軸軍輸送船団をK部隊が攻撃し、大きな戦果を挙げた[26]

マルタのK部隊増強のため11月27日、ローリングス海軍少将が指揮する軽巡洋艦2隻(ネプチューン、エイジャックス)と駆逐艦2隻(キンバリーキングストン)からなるB部隊英語版が、C部隊(軽巡2隻、駆逐艦2隻)とともにアレクサンドリアから出港し、途中でC部隊と別れ11月29日英領マルタ英語版に着いた[27]。11月30日、敵船団の報告を受けてK部隊とB部隊(巡洋艦4隻、駆逐艦3隻)がマルタから出撃する[28][29]。途中で分派されたK部隊は戦果を挙げたが、B部隊は戦果無くマルタに帰投した[29]

12月15日、補給物資を積んだ輸送船ブレコンシャー (HMS Breconshire) が、マルタへ向けアレクサンドリアから出発した(マルタ輸送作戦[30]。同船の護衛として、アレクサンドリアからはフィリップ・ヴィアン英語版少将が率いる軽巡(防空巡)3隻(ナイアドユーライアラスカーライル)と駆逐艦8隻が同行した[8]マルタからもK部隊第4駆逐戦隊が出撃し、それに続いてネプチューンと駆逐艦ジャガー (HMS Jaguar) 、カンダハー (HMS Kandahar, F28) も出撃した[31]17日朝、ヴィアンの部隊と増援部隊(軽巡オーロラ、ペネロピ、ネプチューン、駆逐艦多数)が合流したあと、ドイツ空軍イタリア空軍の空襲を撃退する[32]。北アフリカへ向かう枢軸側輸送船団を守るため出撃していた戦艦3隻(リットリオアンドレア・ドーリアジュリオ・チェザーレ)を含むイタリア艦隊[33](司令長官アンジェロ・イアキーノ中将)と遭遇し、第1次シルテ湾海戦が発生した[34]。軽巡と駆逐艦しかいないイギリス側は圧倒的に不利だったが、敢闘して戦艦3隻を含むイタリア艦隊を追い返した[35]

海戦翌日の12月18日、分散していたイギリス艦艇は合流し、各艦はブレコンシャーを護衛して同日中にマルタに到着した[36]。海戦後、枢軸国船団はベンガジ行きとトリポリ行きに分かれた[37]。16時17分にウェリントン爆撃機よりトリポリへ向かう船団の報告があり、それを受けてK部隊は18時30分にマルタより出撃を開始した[38]。出撃したのは軽巡3隻(ネプチューン、オーロラペネロピ)、駆逐艦4隻(カンダハーランスライヴリーハヴォック)で、「ネプチューン」艦長のオコナー (O'Connor) 大佐が最先任であった[39]。トリポリ沖にはイタリア軍によって機雷が敷設されていて機雷線b、c、d、e、f[注釈 10]が存在しており、K部隊は機雷線dに突っ込むこととなった[40]。そこには70ファゾムまでしか敷設できないイタリアの機雷ではなく、より深い場所に敷設出来るドイツの機雷が敷設されていた[41]。機雷が敷設されたこと自体は知っていたイギリス側も、このことは知らなかった[42]

12月19日1時6分、先頭のネプチューンが触雷[43]。続いて「オーロラ」、「ペネロピ」も触雷した[44]。後進で機雷原より抜け出そうとした「ネプチューン」は再び機雷線dに突っ込むこととなり、1時16分に再び触雷[44]。さらに1時18分ごろにも触雷した「ネプチューン」は航行不能となり、東へ漂流していった[45]。そちらには機雷線cがあった[46]

なお、別資料[47]によれば、「ネプチューン」の最初の触雷は0時30分で、パラヴェーンが機雷を爆発させたが被害はなく、また3度目の触雷は1時となっている。また、2度目の触雷は1時12分、3度目は1時25分[48]ともいう。

一方、「オーロラ」は駆逐艦「ランス」、「ハヴォック」に護衛されてマルタへ向かい[注釈 11]、3隻(ペネロピ、カンダハー、ライヴリー)が残っていた[50]。オコナーは機雷原の外まで流されるまで「ネプチューン」の曳航開始を待とうとした[46]。3時過ぎになって曳航作業を始めようとしたものの、その際に接近しようとした「カンダハー」が触雷[51]。そのまま機雷線cまで漂流した「ネプチューン」も4時4分に触雷した[52]。機雷原に入る危険は冒せず、夜明けも近づいていたことから健在艦(ペネロピ、ライヴリー)は救助を断念して撤退し、その後、ネプチューンは沈没した[53][注釈 12]

「ネプチューン」では764名が死亡し、12月24日にイタリア水雷艇「カリオーペ」に発見されたカーリーフロート上で一人だけ生きていた者(2名が救助されたが、1名はその後死亡した[54]とも)が唯一の生存者であった[55]。または、763名中、生存者1名[36]

出典[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 二等巡洋艦 “レアンダー Leander[3] 全要目{排水量7,140噸 速力32.5節 備砲15糎砲8門、10糎高角砲4門 魚雷發射管8門(水上53糎4聯装) 起工1930年9月 竣工1933年10月 建造所 デボンポート海軍工廠} 同型艦“アキレス Achilles” “ネプチューン Neptune” 外計五隻あり。これは現在英國海軍が保有する既製二等巡洋艦中の最大級に属するものである。而してこれ等の二等巡洋艦は外形(主力艦以外にありては概ね外形によりてその價値の殆どが觀察せられる。)に於ても最近各國が建造中のものを除いては最も進歩してゐる。速力に於ては相變らず彼等が有する一等巡洋艦同様の感をもたせるが、その15糎砲の装備法などたとひ排水量に於て約2,000噸を増してはゐるが我が既成輕巡洋艦に比し一段の進歩振である。
  2. ^ 二等巡洋艦 “レアンダー Leander[4] 全要目{排水量7,040噸 速力32.5節 備砲15糎砲8門、10糎高角砲4門 魚雷發射管8門(水上53糎4聯装) 起工1930年9月 竣工1933年10月 建造所 デボンポート海軍工廠} 巡洋艦國英國の面目は繚蘭と花の如く列んだ二等巡洋艦に窺はれる。C級(カリプソ等Cによつて始まるもの) D級E級といつた世界戰爭の所産である諸艦は目下上から下までの大改装若返り法をほどこされてゐるが、先づ新時代の英國海軍巡洋艦として眞先に誕生し、今日西海に謳はれてゐるのがこの“ネプチュン Neptune” “オリオン Orion” “レアンダー Leander” “アキレス Achilles” “エージャックス Ajax” の5艦である。簡略なしかも堅固なる新艦型は7,000噸輕巡の一方の闘将たるに申分はない。全長165.65米、幅16.81米、平均吃水4.87米。
  3. ^ ネプチューン」は海王星の英語読みでもある。イギリス海軍の伝統ある艦名であり(同名の艦艇一覧表)、先代は弩級戦艦ネプチューン (HMS Neptune) で、ユトランド沖海戦にも参加している[6]
  4. ^ (イギリス海軍)リアンダー級軽巡洋艦 イギリスが第一次大戦後に初めて建造した軽巡洋艦[7]
  5. ^ 一部資料では[2]、1934年(昭和9年)2月23日竣工とする[7]
  6. ^ 竣工していた姉妹艦(リアンダーアキリーズオライオン)が既に所属していた。
  7. ^ イタリア王立海軍 (Regia Marina) の重巡洋艦ゴリツィア (Gorizia) なども参加している。
  8. ^ a b c 六、獨逸關係[9] 軍艦ネプチューン(艦長D.M.T.ベットフォード大佐)は八月三日キールを訪問して同十九日まで滞泊した。之は獨逸政府の招待を受けてキール週間のオリンピック・レガッタ及び國際海軍帆走競爭に参加した譯である。此の機會を利用して、スカッパー・フローに於て近頃引揚げられた沈没軍艦ヒンデンブルグの時鐘を八月十七日に獨逸海軍に返へした。此の時鐘は獨逸艦隊司令長官ラエドル大将(General-Admiral)によつて受取られ、當分軍艦ドイッチランドに使用することゝし、他日ヒンデンブルグなる軍艦の出來を待つて之に移す豫定であるといふ。因に此の授受の儀式には、大戰中ヒンデンブルグ號の艦長たりし大佐二人が参列した。
     國際海軍帆走競爭には、大佐J.W.Sドルリング氏が英國海軍帆走協會の代表として出席し、該チームとしてはH・デムハム中佐が艇長、B・ホワイト中佐―が次席として参加した。
  9. ^ イギリス海軍のトーヴィー中将が軽巡5隻(リヴァプール、オライオン、シドニー、グロスター、ネプチューン)を指揮した。
  10. ^ 機雷線 d、e、f は1941年5月1日に軽巡洋艦エウジェニオ・ディ・サヴォイア (Eugenio di Savoia) 、エマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタ (Emanuele Filiberto Duca d'Aosta) 、ムツィオ・アッテンドーロ (Muzio Attendolo) によって。機雷線 bとcはそれぞれ6月3日に軽巡ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレ (Giovanni delle Bande Nere) 、アルベルト・ディ・ジュッサーノ (Alberto di Giussano) および軽巡2隻(エウジェニオ・ディ・サヴォイア、ムツィオ・アッテンドーロ)によって敷設された。
  11. ^ なお「オーロラ」はマルタでも応急修理中に枢軸側の空襲を受けて損傷、イギリス本国に戻って修理をおこなっている[49]
  12. ^ 12月20日未明、救援にきた駆逐艦ジャガーが航行不能になっていたカンダハーを発見、生存者を救助したあと自沈処分とした。

脚注[編集]

  1. ^ #ネプチュン起工 p.3(抜粋)Date of laying keel 24th september,1931.(以下略)
  2. ^ a b #ネプチュン竣工 p.3(抜粋)Date of completion……23rd February 1934.
  3. ^ ポケット海軍年鑑 1935, p. 87(原本156-157頁)二等巡洋艦レアンダー
  4. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 83(原本148-149頁)二等巡洋艦レアンダー
  5. ^ 英国軍艦勇者列伝(2) 2020, p. 192.
  6. ^ 英国軍艦勇者列伝(2) 2020, pp. 186–192ドレッドノート級フライトII?
  7. ^ a b c d e f イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 18–19.
  8. ^ a b c 撃沈戦記(II) 1988, p. 280.
  9. ^ ブラッセー海軍年鑑 1937, p. 15原本5頁
  10. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 86(原本154-155頁)二等巡洋艦アンフイオン
  11. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 40a-42コラム(1)英連邦諸国の巡洋艦/■オーストラリア海軍
  12. ^ Chronology of the War at Sea 1939-1945, p. 2
  13. ^ a b Axis Blockade Runners of World War II, p. 55
  14. ^ a b Axis Blockade Runners of World War II, p. 56
  15. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 60–65(1)フランスとの戦争
  16. ^ ウォースパイト 1998, p. 158.
  17. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 76–81カラブリア岬海戦とスパダ岬海戦
  18. ^ 撃沈戦記(II) 1988, p. 281.
  19. ^ ウォースパイト 1998, pp. 160–164カラブリヤ沖海戦 ― 作戦開始
  20. ^ a b ウォースパイト 1998, p. 164.
  21. ^ ウォースパイト 1998, pp. 165–167.
  22. ^ Axis Blockade Runners of World War II, p. 97
  23. ^ Chronology of the War at Sea 1939-1945, p. 77, Axis Blockade Runners of World War II, p. 97
  24. ^ 撃沈戦記(II) 1988, p. 120.
  25. ^ 撃沈戦記(II) 1988, pp. 278–279加熱する北アフリカ
  26. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 121–122K部隊の栄光
  27. ^ The Royal Navy and the Mediterranean, Volume II:November 1940-December 1941, pp,206-207
  28. ^ Sea Battles in Close-up: World War 2 Volume Two, p.65
  29. ^ a b The Royal Navy and the Mediterranean, Volume II:November 1940-December 1941, p,207
  30. ^ 撃沈戦記(II) 1988, pp. 279–281バイアン少将、西へ
  31. ^ Struggle for the Middle Sea, p.156
  32. ^ 撃沈戦記(II) 1988, pp. 283–284夕暮れの会敵
  33. ^ 撃沈戦記(II) 1988, pp. 282–283.
  34. ^ 撃沈戦記(II) 1988, pp. 284–286シルテ湾海戦
  35. ^ 撃沈戦記(II) 1988, pp. 285–286.
  36. ^ a b Struggle for the Middle Sea, p.159
  37. ^ "The Demise of Force "K"", p. 102
  38. ^ "The Demise of Force "K"", pp. 102-103
  39. ^ "The Demise of Force "K"", p. 103
  40. ^ "The Demise of Force "K"", pp. 99-100, 104
  41. ^ "The Demise of Force "K"", pp. 99-100
  42. ^ "The Demise of Force "K"", p. 100
  43. ^ "The Demise of Force "K"", pp. 103-104
  44. ^ a b "The Demise of Force "K"", p. 104
  45. ^ "The Demise of Force "K"", p. 105
  46. ^ a b "The Demise of Force "K"", p. 106
  47. ^ The Royal Navy and the Mediterranean, Volume II:November 1940-December 1941, pp. 223-224
  48. ^ Sea Battles in Close-up: World War 2 Volume Two, p .74
  49. ^ 英国軍艦勇者列伝(2) 2020, p. 98.
  50. ^ "The Demise of Force "K"", pp. 106-107
  51. ^ "The Demise of Force "K"", p. 107
  52. ^ "The Demise of Force "K"", pp. 107-108
  53. ^ "The Demise of Force "K"", p. 108
  54. ^ The Royal Navy and the Mediterranean, Volume II:November 1940-December 1941, p. 224
  55. ^ "The Demise of Force "K"", p. 109

参考文献[編集]

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  • V.E.タラント、井原祐司 訳 『戦艦ウォースパイト 第二次大戦で最も活躍した戦艦』光人社、1998年11月。ISBN 4-906631-38-X 
    • 第七章 ―「Mare Nostrm(我らの海)」/第八章 ― カニンガムの池
  • 永井喜之、木俣滋郎 『新戦史シリーズ撃沈戦記・PARTII』朝日ソノラマ、1988年10月。ISBN 4-257-17223-1 
    • 第3部 第二次大戦 - 外国編 (20)イギリス空母「イラストリアス」/(23)イギリス軽巡洋艦「ネプチューン」
  • 三野正洋 『地中海の戦い』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1993年6月。ISBN 4-257-17254-1 
  • 本吉隆(著)、田村紀雄、吉原幹也(図版)「イギリスの巡洋艦」 『第二次世界大戦 世界の巡洋艦 完全ガイド』イカロス出版株式会社、2018年12月。ISBN 978-4-8022-0627-3 
  • Vincent P. O'Hara, Struggle for the Middle Sea, Naval Institute Press, 2009, ISBN 978-1-59114-648-3
  • The Royal Navy and the Mediterranean, Volume II:November 1940-December 1941, Frank Cass Publishers, 2002, ISBN 0-7146-5205-9
  • Eric Grove, Sea Battles in Close-up: World War 2 Volume Two, Naval Institute Press, 1993, ISBN 1-55750-758-9
  • Joseph Caruana , "The Demise of Force "K"", Warship International, Vol. 43, No. 1, International Naval Research Organization, 2006, pp. 99-111
  • Jurgen Rohwer, Chronology of the War at Sea 1939-1945, Naval institute press, 2005, ISBN 1-59114-119-2
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関連項目[編集]

外部リンク[編集]