ネバドデルルイス火山

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ネバド・デル・ルイス
ネバド・デル・ルイス
標高 5,321[1] m
所在地  コロンビア カルダス県
位置 北緯4度53分43秒
西経75度19分21秒
座標: 北緯4度53分43秒 西経75度19分21秒[1]
山系 アンデス山脈
種類 成層火山
最新噴火 2015年1月(継続中)
初登頂 1936年 M.Rappら
ネバド・デル・ルイスの位置(コロンビア内)
ネバド・デル・ルイス
ネバド・デル・ルイス
ネバド・デル・ルイスの位置(南アメリカ内)
ネバド・デル・ルイス
ネバド・デル・ルイス
Project.svg プロジェクト 山
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ネバドデルルイス山のハザードマップと実際の被害地域(赤線)。ラハールによる被害予想地域(灰色の線)と完全に符合しているのがわかる
ラハールに埋め尽くされたアルメロの市街地(1985年12月18日撮影)

ネバド・デル・ルイス火山スペイン語: Nevado del Ruiz)は、コロンビアカルダス県アンデス山脈中にある活火山。別名ラ・メサ・デ・エルベオ(La Mesa de Herveo)、地元インディヘナの言葉でクマンダイ(Kumanday)とも呼ばれる。 同国の火山の中で最も北に位置し、赤道直下ながら山頂付近はに覆われており、噴火のたびに融けた雪と火山噴出物による泥流(ラハール)が発生する。

1985年の噴火による災害(アルメロの悲劇 (Armero tragedy)以降、近隣の住民から火山は「眠れる獅子」と呼ばれるようになった。

1985年の噴火[編集]

過去に1595年1845年に大噴火し、ラハールによりそれぞれ636人、約1000人の死者を出していたが、1985年当時トリマ県アルメロの街は、1845年のラハールによる堆積物の上にあった。

1984年11月、ネバドデルルイスは約140年ぶりに噴火活動を開始。翌1985年9月11日水蒸気爆発によりラハールが発生して西側斜面を27km流下した。西側にはマニザレスという人口約35万人の都市があったが、水系が異なることもあり被害は受けなかった。10月7日、コロンビア国立地質鉱山研究所がアメリカの火山学者の指導の下にハザードマップを作成・公表し、地方自治体や関係諸機関に配布したが、噴火が一時沈静化していたことなどからほとんど評価されなかった。アメリカ地質調査所は新たに火山性地震の専門家を現地に派遣しようとしていたが、コロンビア最高裁占拠事件の影響で中止された。

そして11月13日15時過ぎ、本格的な噴火が起き、21時頃に最高潮に達した。噴火自体は「やや大規模(火山爆発指数3)」という程度のものだったが、この際発生した火砕流により雪や氷が溶け、東側斜面に大量のラハールが発生した。流下するラハールは最大幅50mに及び、発生から2時間半で100km以上の距離を流下して麓のアルメロを直撃した。その被害は甚大で、人口28,700人の約4分の3にあたる21,000人が死亡した。これを含め噴火による被害は死者23,000人、負傷者5,000人、家屋の損壊5,000棟となり、20世紀における火山噴火で2番目の被害者を出した(第1位はプレー山の噴火(1902年、約30000人))。

生還を果たした人たちによると、再度の噴火の可能性等の警告が行われたが、以前から偽情報が多く流れていたため、あまり聞き入れられなかった。さらに、市民のパニックを恐れた市長(被災により死亡)がラジオで「噴火はない」と終始放送を続け、その日の祭りのために近隣の住民が駆けつけたことも被害を大きくした。このことから、2008年2月12日にUNESCO国際惑星地球年の一環として、「正確な知識の不足と情報伝達の不備による世界最悪の人災による悲劇」のワースト5の一つとしてこの噴火災害を認定している。

被災した市街は、1990年代の中頃になっても6m以上の火山灰や瓦礫に埋もれたままで、簡素な野生動物除けのフェンスに囲まれ小さな木が育ち始めていた。地元の住民が建築資材として付近の石材を採取するたびに犠牲者の遺骨が見つかり、この地に点在する霊廟へと納められた。

現在、アルメロの街は被災地の北約8kmに移転しており、旧市街地は再建されることなく墓地として保全され、今でも多くの遺体が眠っている。

この災害の復旧には、その年のコロンビアのGNPの約20%にあたる77億ドルが費やされた。

犠牲者[編集]

1985年の噴火では、アルメロの人々が火山灰の泥濘に埋もれ身動きが取れなくなり、救助も行えないまま多くが亡くなった。中でも13歳の少女のオマイラ・サンチェスOmayra Sanchez)は、下半身が水中で挟まり、首と手だけが水の上に出た状態で救助を待ち続たが、為す術がなく3日後の11月16日に衰弱死した。救助を待つ彼女の写真と、息を引き取った後水の中に沈んでゆく映像は世界中に報道され、災害の衝撃と悲劇を伝えた。

脚注[編集]

参考書籍[編集]