ヌビア王国

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ヌビア人の勢力範囲、この地域が基盤となって成立した。(ベラルーシ語)

ヌビア王国 (ヌビアおうこく) とは、前26世紀から後4世紀の間、現在の南エジプト及びスーダンにおいて存在した一連の王国である。古代ヌビア人による国であるエジプト第25王朝クシュメロエ王国などのを指した。初期は古代エジプトの色濃い影響下にあり、後にエジプト本土にエジプト第25王朝を建てるもすぐに撤退、都市ナパタ英語版メロエを中心とした国家として4世紀末ごろまで存続し、アクスム王国などキリスト教諸国に取って代わられた。

ヌビア王国のことを、古代エジプト人はクシュと呼び、後に古代ギリシア人はエチオピアと呼んだ[1]

沿革[編集]

元来、ヌビアの地は古代エジプトの植民地であり、その影響下に置かれ、金の産出地として知られた。後にヌビア王国の中心地となるナイル川第4急灘に近いナパタのゲベル・バルカルにはエジプト新王国の主神であるアメンの神殿が建設され、ヌビアの宗教的中心地であったという。

古代エジプトがエジプト第3中間の混乱期を迎えると、テーベの王朝のヌビアへの支配は衰退し、代わって土着のヌビア人の王朝が力を持ち始めた。ヌビア王国の王、カシュタのころ、ヌビアはとても有力になり、その息子であるピアンキの時代になると、ヌビアはエジプトを征服し、エジプト第25王朝(ヌビア朝)を打ち建てた。

このころの文化は、ほとんどエジプト化されていたと考えられている。[要出典]その証拠として、のちに本拠地となるメロエのちには、エジプト的なピラミッドがいくつも建造された。

ピアンキ王が死去したのち、紆余曲折を経てタハルカ英語版ファラオの時代、メソポタミアアッシリアの侵攻を受け、ヌビアの宮廷はナパタへと退却し、エジプト支配期は終焉した。一方で、ヌビアに撤退したのち、古代エジプトとは異なる文化や宗教が栄え、それらはヌビアのピラミッドなどに遺構をとどめている。紀元前590年に首都ナパタはエジプト軍に侵略され[1]、メロエに遷都してからはヒエログリフを基にしたヌビア王国独自のメロエ文字も誕生し、交易や黒人初となる製鉄によって繁栄し、ヌビア王国の中心地となった。また、ケルマ、カワ、エル・クッルなどの都市は通商で栄えた。

一方、南部のエチオピア高原に位置するキリスト教系の王国であるアクスム王国は、次第にヌビア王国を脅かす勢力として台頭し、350年ごろにはメロエが、4世紀には完全に滅ぼされ[2]、ヌビア王国の故地にはキリスト教系の王朝が誕生した。こうして、かつて「ヌビア王国」と呼ばれた、エジプト・クシュの文化を受け継ぎ、メロエ、スーダン[3]を支配した国家は消滅した。しかし、滅亡こそしたものの、その民族と文化の系譜は「アスクム王国」、そして、「エチオピア」へと連なっていったのである。[要出典]

540年頃には、ハルツーム周辺に成立したノバタエ王朝はキリスト教化され、652年にヌビア一帯はエジプトのイスラム勢力の支配下に入った。しかし、ドンゴラを中心としたナイル川流域の小規模なキリスト教系の王国は、14世紀にエジプトのマムルーク朝に征服されるまで存続し、独立を保った[1]

文化[編集]

ヌビア王国の文化は、ほとんどエジプト化されていたと考えられている。[要出典]宗教的にもかなりエジプトの影響を受けており、前述したようにアメン信仰が盛んであった。都であったナパタ。メロエの周辺には王室の墓地が造営され、エジプトのピラミッドの影響を受けたピラミッド墓が現在でも残っており[4]、それらは現在ではヌビア遺跡として世界遺産に登録されているものもある[5]

エジプトの王朝のようにアメンの神官たちが勢力を拡大し、政策にも影響を及ぼすこともあった。しかし、エジプトの宗教が信仰されていたとともに、その他の宗教も広く信仰されていたと考えられている。[要出典]例えば、インド由来とみられる神も崇拝された。

黒人の造形感覚と古代エジプト、古代ローマ、古代ギリシアの美術様式を生かした独自の美術工芸品を残した。メロエ文学も成立した[1]

脚注[編集]

関連項目[編集]