ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサート[注釈 1](独: Das Neujahrskonzert der Wiener Philharmoniker)は、毎年1月1日にウィーン楽友協会の大ホール(黄金のホール)で行なわれるマチネ(昼公演)の演奏会(コンサート)である。ヨハン・シュトラウス2世を中心とするシュトラウス家の楽曲が主に演奏される。映像は90[1]を超す世界各国に生放送され、世界中の人々がこのコンサートを楽しむ。日本における生放送の放送は、元日の夜のプライムタイム(ゴールデンタイム)に当たる。
目次
歴史[編集]
1938年ナチス・ドイツのオーストリア併合によるオーストリア人の不満をためないようヨハン・シュトラウスのワルツやポルカのコンサートが[2]1939年12月31日にクレメンス・クラウスの指揮により初めて開催され、1941年の第2回からはオーストリア初代大統領カール・レンナーが1950年12月31日に死去した影響で1月14日に延期となった1951年を除いて、1月1日の正午(CET)に開催されるようになった。
1955年以降ヴィリー・ボスコフスキーが指揮をし、1959年各国に中継され始めた頃から人気が高まり、現在は全世界の40カ国以上に生中継されている。2002年には小澤征爾が、日本人として初めて、アジア人ではズービン・メータに続き2人目の指揮者となった。
歴代指揮者(年)[編集]
1986年までに登場した指揮者はクラウス、クリップス、ボスコフスキー、マゼールの全部で4人に過ぎないが、1987年のカラヤン以降は、同じ指揮者が2年連続して指揮することはなくなった。
- 1980 ロリン・マゼール(1)
- 1981 ロリン・マゼール(2)
- 1982 ロリン・マゼール(3)
- 1983 ロリン・マゼール(4)
- 1984 ロリン・マゼール(5)
- 1985 ロリン・マゼール(6)
- 1986 ロリン・マゼール(7)
- 1987 ヘルベルト・フォン・カラヤン(1)
- 1988 クラウディオ・アバド(1)
- 1989 カルロス・クライバー(1)
- 1990 ズービン・メータ(1)
- 1991 クラウディオ・アバド(2)
- 1992 カルロス・クライバー(2)[注釈 2]
- 1993 リッカルド・ムーティ(1)
- 1994 ロリン・マゼール(8)
- 1995 ズービン・メータ(2)
- 1996 ロリン・マゼール(9)
- 1997 リッカルド・ムーティ(2)
- 1998 ズービン・メータ(3)
- 1999 ロリン・マゼール(10)
- 2000 リッカルド・ムーティ(3)
- 2001 ニコラウス・アーノンクール(1)
- 2002 小澤征爾(1)
- 2003 ニコラウス・アーノンクール(2)
- 2004 リッカルド・ムーティ(4)
- 2005 ロリン・マゼール(11)
- 2006 マリス・ヤンソンス(1)
- 2007 ズービン・メータ(4)
- 2008 ジョルジュ・プレートル(1)
- 2009 ダニエル・バレンボイム(1)
- 2010 ジョルジュ・プレートル(2)
- 2011 フランツ・ヴェルザー=メスト(1)
- 2012 マリス・ヤンソンス(2)
- 2013 フランツ・ヴェルザー=メスト(2)
- 2014 ダニエル・バレンボイム(2)
- 2015 ズービン・メータ(5)
- 2016 マリス・ヤンソンス(3)
- 2017 グスターボ・ドゥダメル(1)
- 2018 リッカルド・ムーティ(5)
- 2019 クリスティアン・ティーレマン(1)
- 2020 アンドリス・ネルソンス(1)
演奏曲目[編集]
ニューイヤーコンサートの曲目の選定は、ヨハン・シュトラウス協会会長やシュトラウス研究家など「シュトラウス一家の権威」が集まって行われている。 そこで決まった提案を指揮者とウィーン・フィルに送付し、この両者で検討される。 この際、ポピュラーで取り上げられる回数の多い曲と、なじみのない曲やニューイヤーコンサート初登場の曲を、出来るだけ交互に演奏するプログラムになるよう吟味される(指揮者によっては、その慣習が破られる時もある)。 ボスコフスキー時代には、このプログラムから約半数の曲が、英デッカ・レコードにより事前にスタジオ録音されLPとして各国で年末発売されていたが(日本ではキングレコード)、これらのアルバムは十年にわたって曲目の重複が無かった(そのため、キングレコードはシュトラウス生誕150年の1975年に『ウィンナ・ワルツ大全集』と銘打った10枚組セットにまとめて発売した)。
この演奏会ではアンコールとして演奏される3曲のうち、2曲目に『美しく青きドナウ』(ヨハン・シュトラウス2世)を、最後の曲に『ラデツキー行進曲』(ヨハン・シュトラウス1世)を演奏するのがならわしとなっている。 『美しく青きドナウ』の冒頭が演奏されると一旦拍手が起こり演奏を中断、指揮者およびウィーン・フィルからの新年の挨拶があり、再び最初から演奏を始めるのもならわしである。 新年の挨拶はその年の指揮者により色々な趣向で行なわれる。 例えば、2002年のコンサートではウィーン・フィルの楽員に縁のある国の言葉で新年の挨拶を述べるという形で行なわれた(日本語での挨拶はコンサートマスターのライナー・キュッヒル(妻が日本人)が行い、満州国生まれの小澤征爾が中国語で挨拶した)。 2007年はメータが「ルーマニアとブルガリアの欧州連合加盟を歓迎します」という挨拶を英独・現地語他で行った(この両国には、いずれもドナウ川が流れている)。 2009年にはダニエル・バレンボイムが挨拶の中で「中東に人間の正義があるように」と英語で語った。 イスラエル国籍をもつユダヤ人であるバレンボイムは、ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団などの活動を通じ、中東平和に積極的に献身していたためである。
『ラデツキー行進曲』では、ヴィリー・ボスコフスキー時代は聴衆からの自発的な手拍子であったが、マゼール時代以降指揮者が観客の手拍子にキューを出すのが恒例になった。 2001年のニューイヤーコンサートでは『ラデツキー行進曲』のオリジナルバージョンがプログラムのトップを飾った(指揮:アーノンクール)。 2005年のニューイヤーコンサートでは直前に起きたインドネシア・スマトラ島沖の地震、津波災害への支援を進める内容の挨拶が第2部の1曲目の後に行なわれ、恒例となっているラデツキー行進曲の演奏は行われなかった(指揮:マゼール)。
『美しき青きドナウ』と『ラデツキー行進曲』が、演奏会のラストにアンコールで必ず演奏されるようになったのは、第二次世界大戦後である。 『ラデツキー行進曲』における聴衆による手拍子や、演奏者の新年の挨拶が行われるようになったのは、ヴィリー・ボスコフスキー時代からである。 クラウス時代には『美しく青きドナウ』や『ラデツキー行進曲』など、人気曲の演奏開始早々に聴衆の拍手喝采と大歓声で演奏が中断されてしまうというハプニングがしばしばあったようである。 『ラデツキー行進曲』もそうだが、短いポルカなどは、アンコールにこたえて2度演奏することもあった。
ヴィリー・ボスコフスキー時代には、ウィーン・フィルの打楽器奏者であるフランツ・ブロシェクが毎年愉快な演し物を用意しており、名物となっていた。 例えば、『ジプシー男爵』の入場行進曲ではブタ飼いシュパンに扮したブロシェクが豚を抱えて登場、場内大爆笑だったり(1969年)、『鍛冶屋のポルカ』では鍛冶屋の親方に扮して飲み食いしながら演奏したり(1971年)、『山賊のギャロップ』では山賊に扮して演奏中の楽員から金品を盗んで回ったり(1972年)、『爆発ポルカ』では工事現場の作業員の格好をして爆破装置のスイッチを押し、曲の最後に舞台上に風船を飛ばしたり紙吹雪を降らせる(1974年)などである。 ブロシェク引退後も、打楽器パートが中心になって毎年さまざまな趣向が凝らされている。 少しエスカレートしすぎた1970年代前半には、「今年は悪ふざけをセーブ」という内容の記事が朝日新聞に紹介されたこともあった。 1976年は、エドゥアルト・シュトラウス1世のポルカで、ファゴットの先端(ベルジョイント)から花火が上がったこともあった。 2006年には、エドゥアルト・シュトラウスの『電話のポルカ』の最後で、指揮者のヤンソンスの持っている携帯電話が鳴り出すという演出があった。 2008年/2009年には、『美しき青きドナウ』のエンディングに、ダンサーの男女を客席通路で踊らせた。 2008年には、UEFA欧州選手権2008のオーストリアでの開催を記念し、奏者全員がタオルマフラーなどのグッズを身につけて演奏したり、指揮者と演奏者の間でイエローカード、レッドカードの応酬が繰り広げられた。 2010年には、『シャンパン・ポルカ』の演奏中に、打楽器奏者が実際にシャンパンを開けて乾杯を交わし、プレートルが「私の分はないのか?」と言いたげな仕草をするなどの演出があった。
また、1987年には、『春の声』において、ソプラノのキャスリーン・バトルと共演したが、このようなゲストを招く演出は、これ以降 見られない。テノール歌手のプラシド・ドミンゴが、1990年代初頭に指揮者かソリストで出演を希望したところ、ウィーン・フィル側が「コンサートの趣旨に合わない」として出演要請をはねつけたといわれる。一方で、ウィーン少年合唱団はこのコンサートでたびたび共演している。
曲目は、基本的にシュトラウス一家とウィーン・フィルやシュトラウス一家に縁のある作曲家(オットー・ニコライ、ヨーゼフ・ランナー、ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世、フランツ・スッペ、カール・ミヒャエル・ツィーラーなど)の曲で構成されるが、1977年のヴィリー・ボスコフスキーはシューベルトのイタリア風序曲(生誕180年)を、1991年はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(没後200年)の『コントルダンス』第1番K.609「もう飛ぶまいぞ」、同第3番、『3つのドイツ舞曲』第3番K.605「そり遊び」、ジョアキーノ・ロッシーニ『どろぼうかささぎ』序曲、フランツ・シューベルト(ブルーノ・マデルナ編曲)『ポルカ』『ギャロップ』とシュトラウス一家と離れている作曲家の作品が演奏された(指揮:アバド)。1997年にはフランツ・フォン・スッペの軽騎兵が演奏された。(指揮者はリッカルド・ムーティ)2003年のニューイヤーコンサートではカール・マリア・フォン・ウェーバーの『舞踏への勧誘』とヨハネス・ブラームス(ヨハン・シュトラウス2世と交友関係があった)の『ハンガリー舞曲』第5番・第6番が演奏された(指揮:アーノンクール)。モーツァルト生誕250周年となる2006年のニューイヤーコンサートではモーツァルト『フィガロの結婚』序曲やヨーゼフ・ランナー『モーツァルト党』などが演奏された(指揮:ヤンソンス)。また、2009年には、当コンサート史上はじめてフランツ・ヨーゼフ・ハイドンの曲が、彼の没後200年を記念して演奏された(曲は交響曲第45番嬰ヘ短調『告別』第4楽章)(指揮:バレンボイム)。2011年には生誕200年を記念してフランツ・リストの『メフィスト・ワルツ第一番』が、他にはジャック・オッフェンバックの『天国と地獄』序曲なども演奏されている(指揮:マゼール・1980年)。
曲が演奏されたことがある作曲家一覧[編集]
シュトラウス一家[編集]
オーストリアのワルツ作曲家[編集]
アニバーサリーの作曲家[編集]
- ジャック・オッフェンバック(1980年:没後100年記念)
- オットー・ニコライ(2010年:生誕200年記念)
- ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1991年:没後200年記念、2006年:生誕250年記念)
- フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(2009年:没後200年記念)
- フランツ・リスト(2011年:生誕200年記念)
- リヒャルト・ワーグナー(2013年:生誕200年記念)
- ジュゼッペ・ヴェルディ(2013年:生誕200年記念)
- リヒャルト・シュトラウス(2014年:生誕150年記念)
その他の理由[編集]
- フランツ・フォン・スッペ-ウィーン・オペレッタの開祖的存在であり、遅れてこの分野に進出したヨハン2世と覇を競った
- ハンス・クリスチャン・ロンビ - 「北欧のヨハン・シュトラウス」と呼ばれた
- ヨハネス・ブラームス - ヨハン2世と親交があった
- カール・マリア・フォン・ウェーバー - 「ウィンナ・ワルツの祖」と呼ばれることがある
- ピョートル・チャイコフスキー - 多くの作品が、パヴロフスクで仕事をしていたヨハン2世によってウィーンに伝えられた。バレエや交響曲にドイツ風ワルツをしばしば用い、ロシアのワルツ王と呼ばれる。
- エミール・ワルトトイフェル - 「フランスのヨハン・シュトラウス」と呼ばれた
- ロベルト・シュトルツ - 「20世紀のヨハン・シュトラウス」と呼ばれた
- エクトル・ベルリオーズ- 早くからヨハン1世らのワルツを高く評価し、自らの幻想交響曲にもドイツ風ワルツを導入した。
選曲理由不明[編集]
エピソード[編集]
毎年変わる指揮者は、公式には「楽団員全員による投票によって決定されている」とされている。毎年1月2日に(最近では1日のコンサート中にも)次年の指揮者が、楽団の公式ホームページ上で発表されている。 新年の初めであり会場の観客は正装をしているが、新年を祝う気軽で陽気なコンサートである。また、会場で飾られる美しい花々は1980年以来、イタリアのサンレーモ市から贈られることが伝統となっている。 同じプログラムで12月30日はオーストリア軍のために、12月31日夜はジルベスターコンサートとして演奏され、1月1日が本番のニューイヤーコンサートとなる。
気軽な雰囲気のコンサートであるがその切符を入手するのは極めて困難で、数ある音楽会の中でも最もプレミアが付く演奏会の一つである。日本人が会場に多い(ときに和服姿の女性)のは非常に有名であるが、この高額なプレミアを支払う財力はもちろんのこと、日本企業がウィーン・フィルやオーストリアとの密接なビジネスパートナーである一つの証明でもある。
一方、近年ではウィーン・フィルと国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)政権との関係に対する批判の声が挙がってきている。2012年12月26日には、野党「緑の党 (オーストリア)」は「ナチス政権下のウィーン・フィルの役割を客観的に調査する歴史家委員会を設置すべきだ」と要求しているとオーストリア通信(APA)が報じた。
上記報道によると、緑の党議員で歴史学者のハラルド・ヴァルザーは「ニューイヤー・コンサートはナチス政権の文化政策の一環だった」と主張する。
同議員によれば、「ウィーン・フィルのユダヤ系楽団メンバーがナチス政権によって強制収容所に送られ、そこで殺されたが、ウィーン・フィルはこれまで彼らを慰霊するコンサートを開催したことがない一方、ナチス政権の全国青少年指導者で戦争犯罪人と判決されたバルドゥール・フォン・シーラッハに名誉リンクを授与している」と批判し、「正しい歴史認識を拒否することはウィーン・フィルの名誉を傷つけるだけでなく、オーストリア共和国の名誉を傷つける。ウィーン・フィルの6人のユダヤ系メンバーがナチスに殺された。当時、楽団の解散は回避されたが、ナチスの政治プロパガンダにその演奏活動が利用されたことは事実だ」と述べている。
それに対し、ウィーン・フィルのクレメンス・ヘルスベルク楽団長はオーストリアのメディアのインタビューに答え、「1939年のニューイヤー・コンサートの発足はオーストリア国民に対する崇高な思いであり、一種の抵抗運動でもあった」と説明し、ナチス政権に迎合していたという批判を一蹴している。
なお、ウィーン・フィルのサイトでは「かつてのオーストリアの歴史の暗い一幕において、ニューイヤー・コンサートはオーストリア国民に自国へ回帰の念を呼び起こし、同時によりよい時代への希望をもたらした」と記述されている。
さらに、シュトラウス・ファミリーはユダヤ系であり、シュトラウス兄弟の母アンナ・シュトレイムはロマの血を引いているという説もある。
オーストリアでは戦後60年以上を経過した今日でも、反ユダヤ主義を標榜した政治家、文化人への追及、ナチス政権との関わりを検証する動きがある。
楽友協会の建物の隣にHOTEL IMPERIALがあり、その中にレストランがあるが、ラデツキー行進曲が聞こえてくると演奏会終了間近となり、シェフはシュニッツェルを揚げる準備にとりかかる[4]。