ニコラエ・ティトゥレスク

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ニコラエ・ティトゥレスク
Nicolae Titulescu
Nicolae Titulescu.jpg
生年月日 (1882-03-04) 1882年3月4日
出生地 ルーマニア王国の旗 ルーマニア王国クラヨーヴァ
没年月日 1941年3月17日(1941-03-17)(59歳)
死没地 フランスの旗 フランス国カンヌ

在任期間 1927年11月24日 - 1928年11月9日
元首 ミハイ1世
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ニコラエ・ティトゥレスクルーマニア語: Nicolae Titulescu, 1882年3月4日 - 1941年3月17日)は、20世紀前半のルーマニア王国政治家外交官である。ルーマニアの財務大臣、外務大臣、そして国際連盟総会議長を務めた(1930年 - 1932年)。

生涯[編集]

生い立ちと教育[編集]

1882年クラヨーヴァにて、弁護士の家庭に生まれる。父親の私有地で幼少時代を過ごす。1900年に高校を首席で卒業後、フランスに留学して法律を勉強する。『Essai sur une théorie des droits éventuels』という題名の論文を書いて博士号を取得する。この頃、パリにてフリーメイソンに接触する[1]1905年、ティトゥレスクはルーマニアに帰国し、ヤシ大学(ro:Universitatea „Alexandru Ioan Cuza” din Iași)の教授となる。1907年、ティトゥレスクは首都のブカレストに移住する。

政治活動[編集]

1912年にルーマニアで行われた選挙の後、ティトゥレスクはテーケ・イオネスク(en:Take Ionescu)に率いられ、保守民主党所属の国会議員となる。その5年後には、ルーマニアの首相イオン・ブラティアヌ(ru:Брэтиану, Ионел)内閣の財務大臣として入閣する(1919年まで)。1918年の夏、イオネスク、オクタヴィアン・ゴガ(ro:Octavian Goga)、トライアン・ヴイア、コンスタンティン・ミレ(en:Constantin Mille)とともに、パリにて「ルーマニア国家委員会」を設立する。これは挙国一致でルーマニア国民の権利を国際的世論で推進すること(親フランス政策ならびに大ルーマニア主義を推進)を目的とし、ルーマニアが「事実上」の全権大使的な機関として公式に認めたものである。

パリ講和会議ではルーマニア全権代表としてトリアノン条約に調印している。1927年から1928年にかけて、ティトゥレスクは外務大臣にもなっている。小協商バルカン協商の強化に努めた。駐ロンドン公使にもなっている。

1921年の初期、ティトゥレスクは、ジュネーブで開かれた国際連盟の会議に、ルーマニア代表として出席する。1930年1931年には議長に選出された。テイトゥレスクは、国の主権の尊厳、世界中の全ての国々の平等、集団安全保障、大きな国と小さな国とが接している状態でお互いが攻撃し合うのを防いで良好な関係を築くため、平和の維持のため、国境の安定を維持するために奮闘した。

1936年6月エチオピア帝国の皇帝ハイレ・セラシエ1世が「エチオピアがファシスト・イタリアによって侵略され、占領された」と発言した、というイタリア人ジャーナリストによるおどけに対し、ティトゥレスクは大きく反応した。ティトゥレスクはその場で立ち上がり、「野蛮人は出て行け!」と叫んだという[2]

亡命と死[編集]

1936年後半、ルーマニア国王カロル2世はティトゥレスクの全ての公職を剥奪し、ルーマニアから出ていくよう要求した。ティトゥレスクは最初にスイスに、後にフランスに移った。亡命中、ティトゥレスクは会議と新聞記事を通して平和の維持のための思想の普及を続け、その後ほどなくして起こった戦争の危険に気付く。ティトゥレスクは1937年11月にルーマニアに帰還し、全国農民党のイウリウ・マニウ(ro:Iuliu Maniu)の努力に貢献した。ルーマニアに帰還できたのは、マニウの尽力が一役買っている。同年、ティトゥレスクは再びルーマニアを離れ、フランスに避難する。カンヌにて、ティトゥレスクはファシズム体制となった祖国を非難する。

1941年3月17日、ティトゥレスクは長期間患ったのち、同地で死んだ。祖国ルーマニアに葬って欲しい、というのが彼の遺言であった。

その後[編集]

1989年ニコラエ・チャウシェスクによるルーマニア社会主義共和国革命で崩壊すると、ティトゥレスクの望みは叶えられることになる。パリの弁護士ジャン・ポール・カルテロンによる法的な手続きを経て、ティトゥレスクの亡骸は1992年3月14日ブラショフ聖ニコラエ聖堂の隣、ro:Șcheii Brașovuluiのスファンタ・エカテリーナ墓地に再び葬られた。

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

  1. ^ http://tratatuldeistorieamasoneriei.ro/ilustiri_fm.html Nicolae Titulescu
  2. ^ Barker, A. J., The Rape of Ethiopia 1936, p. 133