ニコラウス・フォン・ファルケンホルスト

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ニコラウス・フォン・ファルケンホルスト
Nikolaus von Falkenhorst
1940年4月
生誕 1885年1月17日
ドイツの旗 ドイツ帝国
プロイセン王国の旗 プロイセン王国 ブレスラウ
死没 (1968-06-18) 1968年6月18日(83歳没)
西ドイツの旗 西ドイツ
ニーダーザクセン州の旗 ニーダーザクセン州 ホルツミンデン
所属組織  ドイツ帝国陸軍
 ヴァイマル共和国陸軍
 ドイツ陸軍
軍歴 1907年1945年
最終階級 陸軍上級大将
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ニコラウス・フォン・ファルケンホルストNikolaus von Falkenhorst1885年1月17日 - 1968年6月18日)は、ドイツ陸軍軍人1940年ヴェーザー演習作戦(ノルウェー侵攻)と1941年銀狐作戦を指揮。その後、1944年末までノルウェー駐留軍(第21軍)の司令官を務めた。

略歴[編集]

1885年、ドイツ帝国プロイセン王国領だったブレスラウに生まれる。生家は古くからのシレジア貴族軍人一家だった。元の姓はヤストジェムスキー (Jastrzembski) だったが、少尉時代の1911年に「フォン・ファルケンホルスト」に改名を許されている。

1907年にプロイセン王国陸軍に入隊。第一次世界大戦に従軍。一級鉄十字章二級鉄十字章戦傷章黒章を受章した。ドイツ敗戦後の1919年にはドイツ義勇軍(フライコール)に参加し、この後、ヴァイマル共和国軍 (Reichswehr) にも残留した。1925年から1927年まで兵務局で勤務。1933年から1935年にかけてはプラハベオグラードブカレストのドイツ大使館駐在武官として勤務した。1935年7月1日少将 (GeneralMajor) に昇進するとともに第3軍参謀長となった。1937年に中将 (Generalleutnant) に昇進。1939年歩兵大将 (General der Infanterie) に昇進した。

第二次世界大戦初頭のポーランド侵攻では第21軍団を指揮。1940年には北欧侵攻の作戦立案を任されたが、この計画はトップシークレットとされたため彼には十分な資料が与えられず、ベルリンの一般書店から購入したベデカー(民間人向けの旅行ガイドブック)なども駆使して計画を立てるはめになった。実際の侵攻作戦においてはオスロ・フィヨルド重巡洋艦ブリュッヒャー撃沈されるなど、特に海軍を中心に少なからず損害も発生したが、最終的に作戦は成功し、スカンディナヴィア半島から連合軍は駆逐された。この戦功により騎士鉄十字章を受章。

フィンランド軍のヤルマル・シーラスヴオ将軍とファルケンホルスト(左)

1940年末に第21軍団は編制に拡大され、彼は第21軍司令官としてノルウェー駐留独軍の最高指揮官となった。1941年2月、ベルリンの軍事裁判がノルウェー人10名に対しスパイ容疑で死刑判決を下した際、著名な探検家スヴェン・ヘディンの働きかけを受けたファルケンホルストはアドルフ・ヒトラーへの減刑嘆願を取り持ったこともある。ヒトラーはこの陳情を受け入れ、被告たちは懲役10年に減刑された。1941年6月に始まった独ソ戦では、フィンランド北中部で、銀狐作戦の指揮をとった。銀狐作戦の支作戦のひとつ、北極狐作戦では、フィンランドIII軍団を指揮下に持ったが、攻勢作戦はうまく進まず、ファルケンホルストとIII軍団司令官との間では、軋轢を生んだ。銀狐作戦が失敗して終了後の1942年1月からは、在フィンランドと北部ノルウェーのドイツ軍は、新設のラップランド駐留軍の管轄となり、ファルケンホルストの管轄は、在ノルウェー南部のドイツ軍だけとなった。その後、独軍のノルウェー占領後に国家弁務官として着任し強権的な占領地行政を敷いたヨーゼフ・テアボーフェンとの対立は日々激化し、ついに1944年12月18日、司令官職を更迭された。

その後ドイツの敗戦に至るまで第一線に復帰することはなかった。戦後イギリスとノルウェーの共同軍事法廷にかけられ、連合軍捕虜を親衛隊に引き渡して死刑に追いやった罪などにより1946年8月に死刑判決を受けたが、ヘディンらの働きかけにより、懲役20年に減刑された。さらに1953年7月23日には、狭心症を理由にヴェルルの戦犯刑務所から釈放された。釈放後は隠棲生活に入り、西ドイツのホルツミンデン (de:Holzminden) で死去した。

受章[編集]