ナイマンタイ

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ナイマンタイモンゴル語: Naimantai,? - 1348年)は、14世紀前半に大元ウルスに仕えたジャライル部国王ムカリ家出身の領侯(ノヤン)

元史』などの漢文史料では乃蛮台(nǎimántái)と表記される。

一族[編集]

ナイマンタイは建国の功臣ムカリの孫アルキシュの孫として生まれた。アルキシュはムカリの地位を継承したボオルの息子であったが、モンケクビライに仕えた兄のタシュスグンチャクバアトルに比べると影の薄い存在だった。クビライ以後の大元ウルスにおいてもスグンチャク家、バアトル家に比べてアルキシュ家についての記録はほとんどなく、アルキシュの息子クスクルの事蹟についても知られていない。

しかし、元代中期以後の内乱によってバアトル家のバイジュが暗殺される(南坡の変)などすると、相対的にアルキシュ家は存在感を増し、ナイマンタイの父クスクルはムカリ家当主の地位(国王位)を継承するに至った。クスクルの地位はナイマンタイの兄ドロタイに引き継がれ、ドロタイは天暦の内乱において上都派の主力として活躍した。天暦の内乱においてドロタイは敗北し処刑されてしまったが、内乱の勝者エル・テムルバヤンと結んで地位を高めたのがドロタイの弟ナイマンタイであった[1]

概要[編集]

前半生[編集]

ナイマンタイは果断かつ射撃に長けたことで知られており、14世紀初頭には大元ウルスにとって最大の仇敵であるカイドゥ・ウルスとの最前線に派遣された。1301年大徳5年)、カイドゥドゥア率いる大軍勢はアルタイ山を越えて進単し、大元ウルス側ではカイシャン率いる軍団がこれを迎え撃った(テケリクの戦い)。この激戦において武功を挙げたナイマンタイは貂裘・白金を与えられ、宣徽院使の地位を授けられた。1303年(大徳7年)にはモンゴル高原を治める嶺北行省の右丞に任じられた。このころ、軍の兵種30万石を横流しする者が現れ、10万石が失われるという事件が起こったが、ナイマンタイの要請によって追加の微発はされなかったので、民は深くこれに感謝したという[2]

1322年至治2年)には甘粛行省の平章に任じられた。甘粛方面では蘭州から甘粛、甘粛からエジナへという経路で糧食が運ばれていたが、ナイマンタイは甘粛ではなく寧夏を経由するルートの方が無駄が少ないと指摘し、経費を大きく削減した[3]

高官時代[編集]

1328年天暦元年)、帝位を巡って天暦の内乱が勃発すると、ナイマンタイの兄ドロタイは上都派に立ってエル・テムルら大都派と戦った。最終的に大都派が勝利を納めるとドロタイは処刑されてしまったが、ナイマンタイはカイドゥとの戦争で轡をともにした経緯からエル・テムルら大都派の首魁とは知己の間柄であり、乱後にナイマンタイの地位はむしろ向上した。ナイマンタイはこの時次期国王の座をも欲していたとみられるが、処刑された先代の直弟が後継者となるのは体裁が悪く、結局は遠縁のドルジが跡を継いだ[4]

当初、天暦の内乱を制して即位したのはトク・テムルであったが、その直後にチャガタイ・ウルスに亡命していたコシラがチャガタイ家の軍事力を背景に中央に乗り込み、クトクトゥ・カーンとして即位した。1329年(天暦2年)のクトクトゥ・カーンの短い在世期間、ナイマンタイはカーンの命によってチャガタイ・ウルス当主イルジギデイに派遣される使者に抜擢された。これはクトクトゥ・カーンの即位を助けたチャガタイ・ウルスへの返礼の使者であり、かつてオゴデイが兄チャガタイのため作らせた「皇兄之宝」と刻まれた宝印(タムガ)をイルジギデイに届けるよう命じられている[5]

中央アジアから戻ったナイマンタイは、今度は陝西行省の平章に任じられた。このころ、陝西地方では大飢饉が生じ、各地から食料が集められていた。ところが、かつて河南地方が飢饉であった時に陝西の民が食料の供出を拒んだ経緯から、河南出身の官吏が陝西への食料の供給を禁じるという問題が起こった。ナイマンタイは急ぎこの官吏を罰して食料を陝西に入れさせ、かつ貧民には鈔を供給して飢饉から救った[6]

1330年至順元年)には上都留守に任ぜられ、さらに開府儀同三司・知嶺北行枢密院事に昇格とされて宣寧郡王に封ぜられた[7]。上都留守は正二品、開府儀同三司は正一品であり、これは異例の昇進であった。また、「宣寧郡王」位も本来は最低ランクの「銀印亀紐」であるところを金印を与えられており、このような異例の厚遇は一時的とはいえ国王位を諦めた代償として与えられたものではないかと考えられている[8]

国王時代[編集]

1338年後至元4年)には、遂にムカリ家当主たる国王の称号を得た[9]。『元史』ナイマンタイ伝には記されないが、『元史』ドルジ伝には賄賂を用いて国王位を得たと記される[10]。次いで、辺境を安定させた功績により珠絡・半臂・海東名鷹・西域文豹などを与えられたが、これはモンゴルにおいて最も恩のある者になされる厚遇であった[11]

1342年至正2年)には遼陽行省の左丞相に任命されたが、すでに60歳を越える高齢であることを理由に官界から引退した。しかし、その後も軍士が物資の窮乏に苦しんでいることを考慮して麦400石・馬200匹・羊500頭を自ら供給してもいる。1348年(至正8年)に自宅で死去し、魯王に追封された[12]。ナイマンタイ以後、その子孫は遼陽方面に拠点を持つようになり、その一族のナガチュは明朝の成立後も遼陽方面に大勢力を持して明朝と対抗した[13]

子孫[編集]

ナイマンタイには2人の息子がいたと伝えられており、それぞれエセン・ブカ、コンクル・ブカと言った。長男のエセン・ブカはケシクテイに仕えてシュクルチを務め、監察御史・河西廉訪副使・淮西宣慰副使・中書参知政事・中書右丞などを歴任した。その後、元末明初の混乱期には遼陽地方に独自の基盤を築き、その勢力は一族のナガチュに受け継がれた[14]

次男のコンクル・ブカについてはほとんど記録が残っていない[15]

ジャライル部アルキシュ系国王ムカリ家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻139列伝26乃蛮台伝, 「乃蛮台、木華黎五世孫。曾祖曰孛魯;祖曰阿礼吉失、追封莒王、諡忠恵;父曰忽速忽爾、嗣国王、追封薊王」
  2. ^ 『元史』巻139列伝26乃蛮台伝, 「乃蛮台身長七尺、摯静有威、性明果善断、射能貫札。大徳五年、奉命征海都・朶哇、以功賜貂裘白金、授宣徽院使、階栄禄大夫。七年、拝嶺北行省右丞。旧制、募民中糧以餉辺、是歳中者三十万石。用事者挾私為市、殺其数為十万、民進退失措。乃蛮台請于朝、凡所輸者悉受之、以為下年之数、民感其徳」
  3. ^ 『元史』巻139列伝26乃蛮台伝, 「至治二年、改甘粛行省平章政事、佩金虎符。甘粛歳糴糧於蘭州、多至二万石、距寧夏各千餘里至甘州、自甘州又千餘里始達亦集乃路、而寧夏距亦集乃僅千里。乃蛮台下諭令輓者自寧夏径趨亦集乃、歳省費六十万緡」
  4. ^ 原田2007,81頁
  5. ^ 『元史』巻139列伝26乃蛮台伝, 「奉命送太宗皇帝旧鋳皇兄之宝於其後嗣燕只哥䚟、乃蛮台威望素厳、至其境、礼貌益尊」
  6. ^ 『元史』巻139列伝26乃蛮台伝, 「天暦二年、遷陝西行省平章政事。関中大饑、詔募民入粟予爵。四方富民応命輸粟、露積関下。初、河南饑、告糴関中、而関中民遏其糴。至是関吏乃河南人、修宿怨、拒粟使不得入。乃蛮台杖関吏而入其粟。京兆民掠人而食之、則命分健卒為隊、捕強食人者、其患乃已。時入関粟雖多、而貧民乏鈔以糴。乃蛮台取官庫未燬緡鈔、得五百万緡、識以省印、給民行用、俟官給賑饑鈔、如数易之。先時、民或就食他所、多毀牆屋以往。乃蛮台諭之曰『明年歳稔、爾当復還、其勿毀之』。民由是不敢毀、及明年還、皆得按堵如初。拝西行台御史大夫、賜金幣・玩服等物」
  7. ^ 『元史』巻139列伝26乃蛮台伝, 「至順元年、遷上都留守、佩元降虎符、虎賁親軍都指揮使、進開府儀同三司、知嶺北行枢密院事、封宣寧郡王、賜金印。尋奉命出鎮北辺、錫予尤重。国初、諸軍置万戸・千戸・百戸、時金銀符未備、惟加纓於槍以為等威。至是乃蛮台為請于朝、皆得綰符」
  8. ^ 原田2007.82頁
  9. ^ 『元史』ナイマンタイ伝では至元3年に任命されたこととなっているが、順帝本紀の記述(『元史』巻29順帝本紀2, 「[至元四年三月辛酉]以国王朶児只為遼陽行省左丞相……」)に従って4年とするのが正しい(原田2007,81頁)
  10. ^ 『元史』巻139列伝26朶児只伝, 「順帝至元四年、朶羅台弟乃蛮台恃太師伯顔勢、謂国王位乃其所当襲、愬于朝。……於是乃蛮台以賂故得為国王」
  11. ^ 『元史』巻139列伝26乃蛮台伝, 「後至元三年、詔乃蛮台襲国王、授以金印。継又以安辺睦隣之功、賜珠絡半臂並海東名鷹・西域文豹、国制以此為極恩。六年、拝嶺北行省左丞相、仍前国王・知行枢密院事」
  12. ^ 『元史』巻139列伝26乃蛮台伝, 「至正二年、遷遼陽行省左丞相、以年踰六十、上疏辞職帰。念其軍士貧乏、以麦四百石・馬二百匹・羊五百頭遍給之。八年、薨于家、帝聞之震悼、命有司厚致賻儀、詔贈攄忠宣恵綏遠輔治功臣・太師・開府儀同三司・上柱国、追封魯王、諡忠穆」
  13. ^ 和田1959,24頁
  14. ^ 和田1959,172頁
  15. ^ 『元史』巻139列伝26乃蛮台伝,「子二。長野仙溥化、入宿衛、掌速古児赤、特授朝列大夫・給事中、拝監察御史、継除河西廉訪副使・淮西宣慰副使、累遷中書参知政事、由御史中丞為中書右丞;次晃忽而不花」

参考文献[編集]

  • 原田理恵「元朝の木華黎一族」『山根幸夫教授追悼記念論叢 明代中国の歴史的位相 下巻』汲古書院、2007年
  • 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年