ドリス・ウィッシュマン

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ドリス・ウィッシュマン
Doris Wishman
生年月日 (1912-06-01) 1912年6月1日
没年月日 (2002-08-10) 2002年8月10日(90歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国フロリダ州マイアミ
職業 映画監督、脚本家、独立系映画製作者
ジャンル セクスプロイテーション
ソフトコアハードコア
活動期間 1960年 - 2002年
配偶者 2度結婚。
Jack Abrahms(死別)、
2人目は離婚。詳細不明
主な作品
デッドリー・ウェポン(1973年)
ダブル・エージェント73(1974年)

ドリス・ウィッシュマン Doris Wishman1912年6月1日 - 2002年8月10日)は、アメリカ合衆国の映画監督、脚本家、独立系映画製作者。

独学の映画製作者ウィッシュマンは、実験的映画手法、過激な美学で注目され、しばしば「女エド・ウッド」と形容される。彼女の作品の大半は、1960年代・70年代のアメリカのセクスプロイテーション映画市場で公開された。ウィッシュマンは映画史上、最も多作な女性映画監督の1人でもあり、近年カルト信奉者により再認識されている。

1960年 - 1964年のヌーディスト期[編集]

ウィッシュマンは、1960年から1964年にかけて8本のヌーディスト映画を完成させた。伝説的なバーレスクの女王ブレイズ・スター (Blaze Starr)主演の『Blaze Starr Goes Nudist』(1962年)、『Other titles include Hideout in the Sun 』(1960年)、『Diary of a Nudist 』(1961年)、『Gentlemen Prefer Nature Girls 』(1962年)、『Playgirls International 』(1963年)、『Behind the Nudist Curtain 』(1963年)、『The Prince and the Nature Girl 』(1964年)。そして、ウィッシュマンのヌーディスト映画中、最も奇想天外な作品が、伝統的なヌーディストという素材をSFと組み合わせようと試みた、1961年の『Nude on the Moon 』である。商業的な可能性が失われた時点で、ウィッシュマンはヌーディストのジャンルに見切りをつけた。

1965年 - 1970年のセクスプロイテーション期[編集]

1960年代中頃、ウィッシュマンはセクスプロイテーションのジャンルで活動を始めた。この期間のウィッシュマンは、何本かの映画で「ルイス・シルヴァーマン (Louis Silverman) 」名義で監督している。

Bad Girls Go to Hell 』(1965年)は、ウィッシュマンの最も有名な映画の1つで、この時期のセクスプロイテーション映画に見られる要素を数多く持っている。主人公は彼女を強姦し、更に関係を強要しようとした男性を殺してしまい、巨大都市ニューヨークを逃走する若い人妻である。彼女はすぐに、様々な性的危機や暴力的な状況に遭遇する。このジャンルにおいて元型的な状況設定ではあるが、女主人公へのウィッシュマンの感情移入は、一部の評者から原型的フェミニストと分析された。この映画は、ウィッシュマンと撮影技師C・デイビス・スミス (C. Davis Smith)の最も初期の協同作業の1つでもあった。スミスは1960年代と70年代、多くのウィッシュマンの映画で密接に仕事をし、ウィッシュマンの遺作、『Each Time I Kill 』を彼女の死後に撮影監督として完成させた。

ウィッシュマンのセクスプロイテーション時代の他の映画として、『The Sex Perils of Paulette 』(1965年)、『Another Day, Another Man 』(1966年)、『My Brother's Wife 』(1966年)、『A Taste of Her Flesh 』(1967年)、『Indecent Desires 』(1967年)、『Too Much Too Often! 』(1968年)が挙げられる。全てモノクロームで撮られた。その後の『Love Toy 』(1968年)と『The Amazing Transplant 』(1970年)の2作はカラーで撮られ、実質的には急増しつつあったソフトコアのジャンルに、より近いものとなっている。

1971年 - 1983年[編集]

1970年代、ウィッシュマンは様々なジャンル、そしてジャンルの混合に挑戦した。『Keyholes Are for Peeping 』(1972年)は、コメディアン、サミー・ペトリロ (Sammy Petrillo)主演のセックス・コメディである。『デッドリー・ウェポン (Deadly Weapons) 』(1973年)と『ダブル・エージェント73 (Double Agent 73) 』(1974年)は、73インチ(約185cm)のバストで知られるストリッパー、チェスティー・モーガン主演のスリラー映画である。ウィッシュマンのチェスティー・モーガン主演映画は、彼女の最も有名で最も人気のある映画の一つで、誇張された美学で知られる。1970年代中頃、ウィッシュマンは少なくとも2本のハードコアポルノ映画を監督した。『Satan Was a Lady 』(1975年)と『Come with Me, My Love 』(1976年)は、いずれもパフォーマンスアーティストポルノ女優アニー・スプリンクルが主演した。

1971年に製作が開始され、1978年にようやく日の目を見た『Let Me Die a Woman 』(1978年)は性転換についてのセミ・ドキュメンタリー映画である。映画は実在のトランスジェンダーの人々の実態を数多く調査すると共に、多数の脚色されたドラマ部分を特色とし、後の伝説のポルノ男優、ハリー・リームスが(ティム・ロングとして)カメオ出演している。

1970年代後期にはスプラッター映画に興味が向かい、ウィッシュマンは『A Night to Dismember 』という映画でホラー映画に危険を冒して挑戦し、これは1983年頃完成した。この映画は寄せ集めの構造が目立ち、商業的に失敗し、ウィッシュマンは事実上引退に追い込まれた。

再評価と死去[編集]

1990年代に彼女の主にカルト的な評価が高まったことにより、人生の後半において、ウィッシュマンは、さらに3本の映画を完成させる事が出来た。セックス・コメディ『Dildo Heaven 』(2002年)、近代セクスプロイテーション映画、『Satan Was a Lady 』(同タイトルの1975年のハードコア映画とは異なる)。遺作となった『Each Time I Kill 』というスリラー映画は、マイアミ地区で撮られた。ウィッシュマンは2002年8月にマイアミフロリダ州)で悪性リンパ腫により死去した。90歳であった。そのわずか6週間前に映画の主要撮影は完了していた。映画はプロジェクトの製作総指揮者によって後に完成し、様々な映画祭で上映された。

2000年に、ウィッシュマンはエクスプロイテーション映画界で偶像視されるロジャー・コーマンデイヴィッド・F・フリードマンと並んで、アメリカのエクスプロイテーション映画の盛衰に関するドキュメンタリー映画『SCHLOCK! The Secret History of American Movies』に出演した。この映画のための彼女のインタビューの抜粋をウィッシュマンの1960年の最初の映画『Hideout in the Sun 』のDVD(2007年)で見る事ができる。より近年、ウィッシュマンはナショナルパブリックラジオの番組「Fresh Air」でもインタビューを受け、NBCの『レイト・ナイト・ウィズ・コナン・オブライエン』に2度ゲスト出演し、またHarvard Film Archiveの回顧展とNew York Underground Film Festivalの主役でもあった。

伝記作者[編集]

彼女の伝記作者マイケル・ボウエン (Michael Bowen)は、彼女の経歴の情報を集めるために、数年間を費やした。

出典[編集]

  • "Re-Search No 10: Incredibly Strange Films : A Guide to Deviant Films" RE/Search Publications 1986, ISBN 978-0940642096
  • "Schlock: Secret History of American Movies" Protagonist Productions/Pathfinder Pictures Ent 2003, ASIN: B0000DC13D

脚注[編集]

関連文献[編集]

外部リンク[編集]