ドラガシャニの戦い

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ドラガシャニの戦い
Battle of Dragashani
Dragaşani Çarpışması
ワラキア蜂起ギリシャ独立戦争)中

神聖隊ドラガシャニにて戦う(The Sacred Band fights in Dragatsani)』
ペーター・フォン・ヘスによる絵画、アテネベナキ博物館en:Benaki Museum)蔵
1821年6月19日
場所オスマン帝国の旗 オスマン帝国ワラキアドラガシャニ
北緯44度39分40秒 東経24度15分38秒 / 北緯44.6611度 東経24.2606度 / 44.6611; 24.2606座標: 北緯44度39分40秒 東経24度15分38秒 / 北緯44.6611度 東経24.2606度 / 44.6611; 24.2606
結果 オスマン帝国の決定的な勝利
衝突した勢力

ギリシャ革命軍

オスマン帝国
指揮官
アレクサンドル・イプシランティス
ギオルガキス・オリンポスen:Giorgakis Olympios
アタナシオス・ツァカロスen:Athanasios Tsakalov
ニコラオス・イプシランティ(Nikolaos Ypsilantis)
ワシレイオス・カラウィアス(Vasileios Karavias)
カラ・アフメト(Kara Ahmed)
戦力
歩兵500
騎兵500[1]
騎兵2,000[2]
被害者数
400人以上が戦死 不明

ドラガシャニの戦い(ドラガシャニのたたかい、英語Battle of Dragashani/Battle of Drăgășaniトルコ語Dragaşani Çarpışması)は、1821年6月19日ワラキアドラガシャニで、オスマン帝国スルタン・マフムト2世の軍とギリシャの反乱軍「フィリキ・エテリア」の間で行われたギリシャ独立戦争初期の戦闘である。

前史[編集]

アレクサンドル・イプシランティスフィリキ・エテリアは、ワラキア蜂起の最中にオスマン帝国支配下のドナウ公国Danubian Principalities)への侵攻を行った。ロシア帝国陸軍大将で皇帝アレクサンドル1世副官であったイプシランティスは、自分の行動によってロシア帝国がギリシャの反乱軍に介入することを期待していたが、ヨーロッパ協約Concert of Europe)の主導者である皇帝はイプシランティスとの関係を一切否定し[注釈 1]、オスマン帝国に反乱軍対処のために公国に進駐する許可を事実上与えてしまったのである。同時にイプシランティスはワラキアのパンドゥール指導者トゥドル・ウラジミレスクと衝突し、最終的に彼はエタレイアに拷問されて死亡し[注釈 2]、ワラキアの反乱軍は撤退することとなった。

戦闘[編集]

トマス・ゴードン(Thomas Gordon)のギリシャ革命に関する本(1832年)にあるドラガシャニの戦いの挿絵

イプシランティスの勢力を撃退するために、カラ・アフメト(Kara Ahmed)の指揮の下、ドラガシャニに2000人のオスマン騎兵隊が駐屯した。ギリシャ軍(フィリキ・エテリア)は、イプシランティスとともに指導者たりしギオルガキス・オリンピオスGiorgakis Olympios)、ニコラオス・イプシランティス(Nikolaos Ypsilantis)、ワシレイオス・カラウィアス(Vasileios Karavias)との会議の後、7,500人による軍隊と4門の大砲からなる全軍でドラガシャニを攻撃することを決定した。

1821年6月19日、ワシレイオス・カラウィアスはオスマン帝国軍がドラガシャニから退却しているのに気づき、兵に攻撃を命じた。しかし、他の軍隊は準備ができておらず、カラヴィアスは500人の騎手と「神聖隊[注釈 3]のみで単独で行動をとった[2]

オスマン帝国は、攻撃力の規模が自らの半分にも満たないのに気づき、自身の立ち位置に戻ってギリシャ軍と衝突した[2]。すぐに、オスマン帝国の兵数がカラウィアスの奇襲を凌駕し、その後撤退したが、神聖隊は撤退しなかった。神聖隊は、勝利のためのいかなる希望も失われたにもかかわらず、自身の4倍の兵力のオスマン騎兵隊に対して戦い続けた[2]

ギオルガキス・オリンピオスは、数人の部下とともにオスマン軍を攻撃してしばらくの間オスマン軍の気をそらし、約100人を救出することができた。この敗北の後、ワラキアの蜂起は徐々に崩壊し始めた[4]。のちイプシランティスやウラジミレスクもプルート川沿いのスクレニで撃破された。

その後[編集]

先述の通りこの大敗の後、ワラキア蜂起は瓦解したが、ドナウ公国での革命がペロポネソス半島の蜂起を刺激することとなった[5]。この後6月23日には南部の都市カラマタを反乱軍が掌握している[注釈 4]

またアレクサンドル・イプシランティスは、オーストリア皇帝フランツ1世[注釈 5]に召喚され、オーストリア辺境でのオスマン帝国に対する軍事作戦を協議するという偽の手紙を兵に書いて、トランシルヴァニア地方のオーストリア領地域に退却したこともこの戦闘の余波によるものである[4]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ アレクサンドルはイプシランディスの軍籍を剥奪し激しく非難、非介入の態度を示し、さらにオスマン帝国へ支援する姿勢さえ見せたという。
  2. ^ オスマン帝国と協力してフィリキ・エテリアの背後を襲うという噂が広まったため処刑されたとも[3]
  3. ^ ニコラオス・イプシランティスとアタナシオス・ツァカロフが率いる上・中流階級の若いギリシャ人学生500人で構成された義勇部隊。
  4. ^ 尤もフィリキ・エテリアの蜂起とペロポネソス半島での蜂起の関連性には疑問の声もある。ギリシャ独立戦争#ギリシャ各地で立ち上がる炎参照。
  5. ^ 神聖ローマ皇帝としてはフランツ2世。

出典[編集]

  1. ^ Paparigopoulos, pp. 16–17.
  2. ^ a b c d Paparigopoulos, p. 17.
  3. ^ 阿部 (2001)、pp.99-100
  4. ^ a b Miller (1966), p. 68.
  5. ^ Goldstein (1992), p. 20.

参考文献[編集]

  • Goldstein, Erik (1992). Wars and Peace Treaties 1816-1991. Routledge.
  • Miller, William (1966). The Ottoman Empire and Its Successors, 1801-1927. Routledge.
  • Paparigopoulos, K. History of the Greek Nation. Vol. 6 (Greek ed.).