ドイツ保護領カメルーン

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ドイツ保護領カメルーン
Kamerun
ドイツ領

 

 

 

1884–1916
 

 

国旗 国章
現代の国境に重ねたドイツの領域
緑:ドイツ保護領カメルーン
暗灰:その他のドイツ植民地
黒:ドイツ帝国
首都 ドゥアラ(1884~1910)
ブエア(1910~1916)
言語 ドイツ語(公用語)
ドゥアラ語
バサ語
ベティ語
その他の地域語
政府 保護領
総督
 •  1884 グスタフ・ナハティガル
 •  1887–1906 イェスコ・フォン・プットカマー英語版
 •  1914–1916 カール・エバーマアー英語版
歴史
 •  創立 1884年
 •  解体 1916年
通貨 金マルク
現在 カメルーンの旗 カメルーン
中央アフリカ共和国の旗 中央アフリカ共和国
チャドの旗 チャド
ガボンの旗 ガボン
ナイジェリアの旗 ナイジェリア
コンゴ共和国の旗 コンゴ共和国
1901年1972年のカメルーンの領域の変遷
  ドイツ領カメルーン
  イギリス領カメルーン
  フランス領カメルーン
  カメルーン共和国
提案された国旗

ドイツ保護領カメルーン (ドイツ語: Kamerun)は、ドイツ植民地帝国の一部として、1884年1916年に現在のカメルーンを中心とする地域に存在した国家。 ガボンの北部、コンゴ共和国の北部、中央アフリカ共和国の西部、チャドの南西部、ナイジェリアの極東部を含んだ。

歴史[編集]

1868年、ハンブルク貿易会社のC. Woermannがカメルーン川(ウォリ川英語版)デルタのドゥアラ地区に郵便局を設置した。

1874年、Woermann はリベリア担当のWilhelm Jantzenと共にジャンセン&トーミエン英語版を設立した。 これにより、ハンブルクとドゥアラが海路と空路で結ばれた[1]。 現地の首長から土地を買い上げ、バナナ等のプランテーションを開始した。 全ての西アフリカ会社を代表するAdolph Woermannは、本国の外務相に「保護」を請願した[2]

1884年アフリカ分割の中でドイツ保護領カメルーンが設置された。 この際グスタフ・ナハティガルが大きく貢献した。 ハンブルクやブレーメンを拠点とする何十ものドイツ企業がカメルーンに進出した[3]

本国の支出により、港町のドゥアラに向けて2本の鉄道が引かれた。 北線はマネングバ山英語版までの160kmを、南線はニョング川英語版マカク英語版までの300kmを結んだ[4]。 郵便や電信、河川交通が発達し、沿岸部と内陸部を結んだ。

1911年第二次モロッコ事件の後に結ばれたフェス条約によって、ドイツは新カメルーンを獲得し、これを保護領に併合した。

1914年第一次世界大戦が勃発した、フランスベルギーイギリスカメルーン戦線英語版によってドイツ保護領カメルーンを征服した。

1916年、北部のモラ包囲戦英語版が終結し、ドイツは完全に駆逐された。

1919年ヴェルサイユ条約が結ばれ、この地域はイギリスとフランスが分断して委任統治を行った。

1961年フランス領カメルーンイギリス領カメルーンが統合し、現在のカメルーン共和国になった。

写真[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Washausen, Hamburg und die Kolonialpolitik, p. 68
  2. ^ Washausen, p. 116
  3. ^ By 1911 the total volume of trade reached over 50 million gold marks [Haupt, p. 64].
  4. ^ This line was later extended to the current Cameroon capital of Yaoundé.

参考資料[編集]