トブルク包囲戦

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トブルク包囲戦
AustraliansAtTobruk.jpg
戦争北アフリカ戦線
年月日1941年4月10日 - 11月27日
場所イタリア領リビア トブルク
結果連合国の勝利
交戦勢力
オーストラリアの旗 オーストラリア
イギリスの旗 イギリス

ポーランドの旗 西側ポーランド軍英語版
チェコの旗 自由チェコスロバキア軍

ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
イタリア王国の旗 イタリア王国
指導者・指揮官
オーストラリアの旗 レズリー・マーズヘッド英語版 (1941年9月まで)
イギリスの旗 ロナルド・スコビー英語版 (1941年9月から)
ナチス・ドイツの旗 エルヴィン・ロンメル
戦力
27,000人 35,000人
損害
5,989 12,296
航空機 74–150
北アフリカ戦線

トブルク包囲戦(トブルクほういせん、: Siege of Tobruk)は、ゾネンブルーメ作戦に基づき、1941年4月10日から11月27日まで行われたドイツアフリカ軍団によるトブルクの包囲。

コンパス作戦(1940年12月8日~1941年2月9日)によりイタリア第10軍英語版を撃破したイギリス連邦諸国軍を含むイギリス軍は、べダ・フォム英語版にて残存部隊の機動包囲作戦英語版を行っていた。しかし、1941年頭、イギリス西部砂漠軍英語版(WDF)主力はギリシャシリアに派遣され、リビアのドイツ軍やイタリア軍とは対照的に武器と補給品も不足していた。そんな中発動されたゾネンブルーメ作戦により、連合軍はエジプト領内への退却を強いられる。一方、オーストラリア軍第9師団英語版からなる守備隊はトブルクに残存しており、WDFが再編し反攻体制をとれるまで港湾の防御を担っていた。4月10日、そこにエルヴィン・ロンメル元帥率いるドイツ軍が侵攻。ブレヴィティ作戦英語版(5月)、バトルアクス作戦(6月15日~)を経てクルセーダー作戦を実行。

枢軸国側に奪われたトブルク占領地域の供給港は、イギリス空軍の爆撃圏内にあったベンガジより900キロ、トリポリより1500キロエジプトとの国境線に近かった。包囲戦により枢軸軍は国境から迂回し、トブルク守備隊は枢軸軍の数度にわたる攻撃を撃退した。港は砲撃や、エジプトから飛来する英空軍の急降下爆撃機や中型爆撃機の援護爆撃を頻繁に受けた。また、英国の地中海艦隊(沿岸艦艇も含む)などの連合国海軍は海上封鎖を行い、増援部隊と補給物資を運び、負傷者や捕虜を収容した。11月27日、トブルクはクルセーダー作戦により第8軍(1941年9月から西部砂漠戦線の英国軍およびその他の連合軍地上戦力を隷下におく)によって包囲解除された。

しかしその後、ドイツ軍は1942年6月に再びトブルクを包囲し、これを占領した。4万5000名以上の捕虜と1000両以上の戦車、野砲を破壊ないし鹵獲し[1]、ドイツ軍は次なる拠点エル・アラメインに迫った。

背景[編集]

地形[編集]

西部砂漠戦線は、エジプトのマルサ・マトルーフから唯一の舗装道路である海岸沿いのビア・バルビアイタリア語版に沿ってリビア・キレナイカ沿岸のガザラ英語版までの距離390 km間で展開された。その内陸をエジプト・リビア国境を挟み240 kmに渡って広がるサハラ砂漠西部のエジプト砂海には、ジャグブーブ英語版シワ・オアシスがある。西部砂漠は、英国の言葉ではリビアの東キュレニアをも含むようになった。海岸から内陸の隆起した海抜約150 m上には、石の多い平原が砂海200-300 kmに渡って広がる[2]。近隣のカッターラ低地にはチーターリムガゼルが生息するが、この地域にはサソリクサリヘビハエがごくわずかに生息しているに過ぎない。そのような過酷な大地を拠点とする遊牧民族のベドウィンは連帯力が強く、太陽や星、コンパス、そして経験と環境によって培われた "砂漠のカン"で容易に横断が可能である。しかし欧州出身の将兵はそうもいかず、例えば1940年9月にイタリア軍がエジプトに進軍したとき、現地で編成されたマレッティ部隊英語版はサイーディ・オマルへの道を見失い、航空機に発見されざるを得なかった[3]

春夏の日中は極めて暑く、夜は非常に寒い。また、シロッコ(現地ではギブリと呼称)と呼ばれる地中海に向かって吹く熱風は、細かい砂を巻き上げ、数メートル先の視界を阻むのみならず、食糧や設備を覆い、目、肺、機械に入り込む。ゆえに、自動車や航空機には特殊なオイルフィルターが必要であり、故障すれば不毛の大地ゆえ軍事用品は外部から輸送されなければならない[4][5]。ドイツ式やイタリア式部品の不足により、ドイツのエンジンはオーバーヒートする傾向にあり、タンクエンジンの持続力は2,300~2,600 kmから480~1,450 kmにまで低下した[6]

沿岸部の地表は硬く、海岸は何度も削られて峡谷のようになり、それが海面まで階段状に降りるように連なっている。そうした地形にイタリアが構築したトブルク要塞は、バルディア~エル・アデン間の道路沿いにあるピラスチーノ砦よりも港に近い位置にあり、二重の半円形に掘られた強化陣地とコンクリート壁、良好な射弾観測地点、対戦車溝とその後ろに配置された有刺鉄線やブービートラップなどの防御態勢を完備していた[7]。守備を担っていたのはエンリコ・ピタッシ=マネッラ中将率いる第22軍団で、隷下にはビンチェンツォ・デッラ・ムラ少将率いる第61歩兵師団 スルト英語版とマッシミリアーノ・ヴィエティナ少将率いるトブルク港海軍守備隊、また港には装甲巡洋艦サン・ジョルジョ英語版が停泊していた。

トブルクの制圧[編集]

1941年1月5日朝、連合軍第7機甲師団英語版バルディア英語版砦のイタリア軍守備隊(第63歩兵師団 キュレネ英語版)を制圧し、ただちにエル・アデン(現トブルク空港英語版)に展開、翌日、港湾の破壊を開始した。7日にはオーストラリア軍第19旅団英語版が東部に、第16旅団英語版が西部に到着した。バルディアからの移動中も少数の残余部隊の抵抗を受けたが、イギリス軍第4機甲旅団英語版は要塞の西部境界線に展開、支援部隊は西部出口を塞ぎ、第7機甲旅団は西部からの干渉を避けるため防御網を構築した。すでにイタリア空軍はコンパス作戦開始以降、多数の航空機を喪失しており、その上エル・アデンの整備拠点が制圧されてしまったため、航空戦力の維持が困難となってしまった[8]

まず、エル・アデン道路東端より豪第16旅団の1個大隊が夜襲を行い、残りの部隊と第7戦車連隊は東部から西部に散開、港に向かって前進した。第17旅団と支援部隊は陽動作戦に回り、連合軍の射撃を無力化しようとする守備隊砲兵部隊を撹乱せしめた。一方、上空からの掩護任務を受けた英砂漠空軍は砂嵐のため離陸が遅れたものの、ベニナ英語版およびアル=ベルカ英語版の占領した爆撃機飛行場からトブルクへと飛び立った。1月20日深夜、連合軍の砲艦数隻がトブルク港に艦砲射撃を行い、更に待ち構えていた駆逐艦が停泊中のイタリア海軍巡洋艦サン・ジョルジョ英語版を轟沈せんとした。サン・ジョルジョは港から離れようとしたが、到着したビッカース ウェリントンによって撃沈された[9]

21日午前5時40分、第2オーストラリア帝国軍第3大隊英語版は砲兵の掩護射撃のもと攻撃を開始した。要塞周辺のブービートラップや地雷、鉄条網、対戦車溝はすでに工兵部隊によって無力化されていた。1時間後、豪第16旅団はマチルダII歩兵戦車18両を随行して守備隊の抵抗を切り抜けつつ、1.6 km後方に散開した。第16旅団が散開を終えた午前8時40分、第19旅団は北進し、弾幕を張る守備隊砲兵部隊の後方に回り込んで砲撃を行い、これを無力化した。一方、第2オーストラリア帝国軍第8大隊英語版はバルディア/エル・アデン間の十字路で対戦車壕と機関銃座の足止めを食らっていたが、やがて到着した豪歩兵部隊と随行する戦車7両、そして後方からの対戦車砲2門と戦車2両の援護射撃が敵陣地左方を叩いたため、午後2時には攻撃を再開し右方面を突破出来た。伊守備隊はピラスチモ要塞で抵抗を続けていたが、午後9時30分に中央のソレロ要塞が陥落、ピタッシ=マネッラ中将率いる伊守備隊本部は降伏した[10]

豪第8大隊が夜明けまでに進軍した距離は32 kmで、うち戦闘で進撃した距離は8.0 km、損害は100人に上った。また、この日までに英空軍第55および113航空隊はブリストル ブレニムを56回出撃させ、豪空軍第3航空隊と英空軍第73および274航空隊はグロスター グラディエーターホーカー ハリケーンで西部方面の偵察を行った。トブルクの半分は夜間に制圧され、守備隊は港で武装解除された。サン・ジョルジョは大破後もトブルク港にとどまり守備隊の掩護に徹したが、海軍基地が陥落し敗北が避けられないと見るや、鹵獲を防ぐべく乗組員により自沈処分された。不眠不休で抵抗を続けていた第61歩兵師団の将兵数千人も投降し、第2オーストラリア帝国軍第6騎兵襲撃連隊英語版は港に到達、海軍守備隊も降伏して午後3:45までにトブルク要塞の伊守備隊は完全に無力化された。守備隊の投降者は20,000人、鹵獲は重火器208挺および戦車87台、死者は将校18人および下士官兵750人、負傷者は将校30人および下士官兵2,250人であった[11]。一方、連合軍第13軍団の損害は400人で、うち大半の355人がオーストラリア人であった。連合軍の攻撃は、港湾設備より補給物資を集中的に攻撃したため復旧は容易で、掃海作業を終えた翌日1月24日には早くも港を開港している[12]

戦闘序列[編集]

枢軸国[編集]

連合国[編集]

前兆[編集]

ゾネンブルーメ作戦[編集]

1941年2月、連合軍はイタリア軍の第10軍英語版および空軍英語版第5飛行隊を破った。その後、連合軍首脳部は最小限の力でエリアを維持し、残りのWDFをギリシャに送ることにした。ドイツ軍がリビアに増援を送る可能性があったにもかかわらず、豪州第9師団英語版と英国第2機甲師団英語版(長:マイケル・ガンビア=パリー英語版少将)は、ギリシャに送られた旅団グループを除き、キレナイカ軍政府司令部(長:ヘンリー・メイトランド・ウィルソン英語版中将)隷下のキレナイカ守備隊に残された。エジプト駐留軍司令部英語版の指揮権はリチャード・オコーナー中将に引き継がれ、英国第13軍団英語版司令部は豪州第1軍司令部(トーマス・ブレーミー英語版中将)に置き換えられた。エジプトのアーチボルド・ウェーヴェル中東駐留軍司令部英語版は、ドイツ軍が攻撃できまいと5月まで信じていた。そうでなければ、豪州第9師団に加え2個師団と支援部隊、特に砲兵部隊を配備させ、第2装甲師団の戦車をオーバーホールさせていただろう[14]

第2装甲師団は偵察連隊と第3装甲旅団(長:レジナルド・リミントン准将)を持ち、軽戦車連隊と鹵獲したフィアットM13/40戦車を保有していた。巡航戦車連隊は、途中で多くの故障が発生し、師団を強度不足の装甲旅団に持ち込んだ後、3月下旬に摩耗したトラックで到着した。イギリスの戦車のほとんどは使い古され、イタリアの戦車は遅く、信頼性は低下した。イギリスの第2支援団(小規模な歩兵旅団に類似する)は、自動車大隊、25ポンド砲の野戦砲連隊、対戦車砲隊、機関銃隊しかなかった。師団の輸送能力は不足しており、整備要員は人手不足で、スペアパーツもなかった。豪州第9師団隷下の2個旅団(長:レスリー・モースヘッド少将)は、訓練、装備、輸送が不十分な豪州第7師団英語版(長:ジョン・ラバラック英語版少将)の2個旅団と交換された[15]

枢軸軍の補給事情[編集]

北アフリカ戦線へと向かうイタリア輸送船団

枢軸軍の補給はヨーロッパから来ており、配達は陸路で行われた。コンパス作戦(1940年12月-1941年2月)の後、枢軸軍が使える港はトリポリのみが残った。トリポリは最大4隻の軍艦または5隻の貨物船で1か月あたり約46,000トン輸送可能な能力を持った。トリポリからベンガジまでは、バルビア通りに沿って970 kmで、アレクサンドリアへの距離の約半分に値する。道路は浸水する可能性があり、英砂漠空軍英語版(DAF)の影響を受けやすく、代替の砂漠のトラックは車両の摩耗を増加させた。1941年初頭の枢軸軍のエジプト国境手前480 kmの進軍により、補給路の輸送距離が1,800 kmに増加した。ベンガジは4月に制圧されたが、沿岸船は15,241トンしか運搬できず、港はDAFの制圧区域だった。トブルクでは1日あたり約1,524トンを摂取できたが、輸送が不足している以上その制圧も無意味であった[16]

ドイツ軍自動車化師団では1日あたり360トンを要し、補給物資を480 km移動するには1,170台の2トントラックが必要だった[17]。7個枢軸師団、空軍および海軍部隊では、1か月あたり71,000トンの補給が必要だった。ヴィシー・フランス政府はフランス保護領チュニジアビゼルトを補給拠点とする事に同意したが、1942年後半まで物資が同地を通過することはなかった。1941年2月から5月にかけて、46,000トンの余剰物資が配達された。マルタからの攻撃は何らかの影響を及ぼしたが、船の損失が最も多かった5月に、91%の物資が到着した。リビアの輸送不足はトリポリにドイツ軍の物資を残し、イタリア人は225,000人に配達するために7000台のトラックしか保有していなかった。6月に記録的な量の物資が到着したが、前線では不足が悪化した[18]

6月からマルタに対する枢軸軍の攻撃は少なくなり、輸送船の損失は7月には19%だったが、ベンガジが爆撃されて船がトリポリに転向した9月には25%に増加した。10月の給気はほとんど差がなかった。補給は、7月から10月まで月平均73,000トンだったが、陸路による燃料供給の30〜50%の消費が削減され、前線へと補給を運ぶトラックの35%が使用不能となった。11月、クルーセーダー作戦中に5隻の船団が沈没し、道路の輸送部隊も対地攻撃を受けたためは昼間の移動を停止した。供給の不足と英国第8軍の攻撃により、12月4日からエルアゲイラへの退却を余儀なくされ、バルビア通りは連合軍の待ち伏せにより破壊された残り約半分の枢軸軍輸送車の残骸で溢れかえった[19]

トブルク要塞の備え[編集]

陸路でトブルクに向かうイタリア軍将兵

トブルク要塞の作業は3月に開始された。本来イタリア軍の防衛線だった港から13〜14 km離れた2列のコンクリート製掩体壕を利用し、港を砲撃の射程距離外に保つべく、防衛線を港から半径約48 kmまで拡張した。イタリア軍は、バルディアとエルアデムの交差点を除き、中程度の防御をほとんど確立していなかった。また有刺鉄線は修理されておらず、対戦車溝は未完成だった。連合軍は、境界線から約2マイル(3.2 km)離れた別のラインを選択し、元のラインが改装されている間にこれに取り組んだ。豪州第24歩兵旅団と新たに到着した豪州第18旅団(第7師団から分離)の2個大隊が境界線を引き継ぎ、豪州第20および第26旅団は4月9日まで外側のカバー位置を取り、防衛についてはさらに作業が行われた。中に入ると、豪州第9師団隷下の3個旅団が防御を引き継ぎ、第18旅団が予備になった[20]

英国第3機甲旅団の幹部は人員や設備とともに、エジプトから海路で送られ、装甲車軽戦車15両、巡航戦車26両と4台の歩兵戦車の部隊からなる2個複合連隊の連隊をトブルクで再編成した。4個の25ポンド砲連隊、2個の対戦車砲連隊、および各歩兵旅団に1個の対戦車中隊があり、イギリスの第4対空旅団には16個の重量砲隊と59個の軽量砲隊があり、2個を除くすべてのボフォース 40mm機関砲部隊が港に到着していた。後方地域部隊はトブルクに集結し、36,000人のうち3分の1は駐屯要員、もしく地元の難民か戦争捕虜だった。モースヘッドは積極的な防御を計画し、5マイル(8.0 km)の正面を保持している大隊では、敵軍が全力で攻勢して来た場合、どこにでも侵入が予想され、撤退はないので排除する必要があると強調した[21]

包囲戦[編集]

トブルクへの戦力投入[編集]

4月8日までにドイツ軍主力はデルナへの進軍を完了したが、一部の部隊が補給不足によりジャバル・アル・アフダル県にて足止めを食らっていた。第15装甲師団ドイツ語版ハインリッヒ・フォン・プリットヴィッツ・ウント・ガフロン英語版少将は南西からの第5軽師団、西部からの第27歩兵師団とともにトブルクの東方入り口をふさぐべく偵察部隊、対戦車砲部隊、機関銃部隊の隊列を派遣し、その指揮を執るよう命じられた。4月10日、ロンメルは「我々の目標はスエズ運河であり、トブルク奪還によって成し遂げられる」との命令を下した。翌日、トブルク港を包囲すると同時に第5軽師団が東部、プリットヴィッツ支隊が南部、第27歩兵師団が西部を包囲。また3個偵察部隊がバルディアに、混成部隊がサルームからマルサ・マトルーフへと派遣された。そのころ英第7機甲師団はトブルクを離れてハルファヤ峠英語版シディ・バッラニ英語版の戦線へと転進しており、サルームやカプッツォにて苦戦を強いられていた[22]

エル・アデン道路の戦闘[編集]

イタリア軍機関砲部隊

4月11日から12日にかけ、第5軽師団隷下の第5装甲連隊はエル・アデン道路より豪第20旅団に攻撃を仕掛けその防御力を試していたが、意外にも歩兵力・火力ともにそれが高いことがわかった。そこで、大部隊の移動を偽装し戦意をくじくとともに、13日深夜から14日未明にかけての夜襲を策した。しかし、要塞内部に展開していた第45及び55飛行隊の爆撃を受ける。第2オーストラリア帝国軍第17大隊英語版が守備を務める西部の戦車壕を突破すべく、日没後に攻撃を開始した。また、第5装甲連隊の車両通過と北進を行うべく、夜明けまでに橋頭堡の設置を開始。連隊は2個縦隊を組み、守備隊の退却を阻止するため港と西部にそれぞれ展開した[23]

しかし、その先には正面に王立騎馬砲兵第1連隊英語版がおり、戦車隊は方向転換を図るも、そこでハルダウンしていたクルセーダー巡航戦車より3方向から挟撃を受ける。第5装甲連隊は16台を失い撤退した。一方、豪軍歩兵は頑として撤退せず、ドイツ軍歩兵を膠着させた。ドイツ軍第8機関銃大隊の人員75 %が死亡、連合軍は28名が死亡し64名が負傷、戦車2台と野砲1門の損害を負った。攻撃は中止され、第5装甲連隊とシュウェリン部隊は塹壕に撤退した[24]

ラス・エル・マダカル[編集]

4月16日、ロンメルは西部からの攻撃を指揮し、第132装甲師団アリエテは第102装甲師団トレントの第62歩兵連隊によって増強された。第2オーストラリア帝国軍第48大隊英語版は反撃に転じ、803人を捕虜とした。朝、第132装甲師団アリエテは再び攻撃を開始し、戦車隊がオーストラリア軍陣地に最接近したが、戦車5両が撃破された。その後、歩兵は戦車隊を掩護せず撤退していたことが判明した。モースヘッドは、守備隊に枢軸軍の混乱を利用し、石の多い地面を素早く掘ることが出来ないよう偵察や小規模な出撃を行うことを命じた。4月22日、第2オーストラリア帝国軍第48大隊、3個歩兵戦車、25ポンド砲砲兵隊が、ラス・エル・マダカルの南西にあるファブリス分遣隊が展開する小丘を襲撃した。襲撃者は2つの銃座を破壊し、370人を捕虜とした。同時に、第2オーストラリア帝国軍第23大隊英語版の部隊がデルナ道路を渡って前進し、損害の大きい攻撃で、第27歩兵師団ブレシアから約100人の投降者を出した。それはドイツ軍をして第15装甲師団をトリポリから急行せしめた[23]

航空戦[編集]

4月の枢軸軍への打撃はトブルクの状況を大いに好転させた。しかし、ドイツ国防軍空軍の第10航空軍団英語版は2月以降、シチリアから100機~150機の航空機をリビアに派遣しており、急降下爆撃機や爆撃機が昼夜問わず建物、対空砲台、大砲等を狙い戦術爆撃をたびたび敢行していた[25]。イギリス空軍第6及び第73飛行隊英語版ウェストランド ライサンダー直協機と不可欠な地上要員を除きエジプトに撤退してしまった。少なくともホーカー ハリケーン戦闘機10機が昼間は港におり、そして4月19日、第73および第274ハリケーン飛行隊が戦闘機に護衛されたスツーカを迎撃した。それから2日後、第73飛行隊の稼働可能な機体は5機となってしまっていた。23日までには3機が撃墜され、2機が撃破された。戦力を失った同飛行隊は25日に撤退を余儀なくされる。第274飛行隊の戦闘機はゲラウラに、第6飛行隊はトブルクに留まり、偵察任務を請け負っていた。ガザラ英語版デルナベニナ英語版の枢軸軍の飛行場への爆撃は夕暮れや夜に実行されたが、それらの直掩攻撃は、砂漠での最後のハリケーン14機により間隔をもってのみ維持できた[26]

海戦[編集]

3月、ギリシャへの輸送艦の警護のため駆逐艦は沿岸艦隊より撤退し、4月に4隻が編入された。トブルクの守備隊をエジプト領内まで運ぶため、10日~11日の深夜に砲艇による救助作戦が実行され、ボンバ英語版とGambutの飛行場周辺のビア・バルビアイタリア語版にて攻撃を受けた。12日にはラス・タヨネッツ~ラス・アル・ティン間を駆逐艦6隻と巡洋艦2隻による掃海作戦が行われた。翌日、3隻がサルームを砲撃。15日、ガザラ飛行場爆撃への報復として輸送船がバルディアとカプッツォにて砲撃を受けた。ビア・バルビアからの飛行場や港湾への砲撃は4月末まで続けられた。また、奇襲隊がバルビアよりトブルクに投入された[27]

4月11日から12月10日までの間、47,280人がトブルクから救出され、34,113人の補充要員と補給物資33,946英トン(34,491トン)が投入、34隻が撃沈され33隻が損害を受けた[28]

バルディア襲撃作戦[編集]

バルディアの襲撃は、ロバート・レイコック英語版大佐率いる英第6師団特殊部隊「レイフォース英語版」の「A」大隊によって4月19、20日に計画され、設備や機器を破壊し、枢軸軍の通信網を混乱せしめるものであった。「A」大隊と王立戦車連隊の戦車隊からなる上陸部隊は、防空巡洋艦コヴェントリー英語版と駆逐艦スチュアート英語版、ボイジャー、ウォーターヘンの護衛のもと、兵員輸送艦グレンガイル英語版に乗艦し、そこから上陸用舟艇(LCA)で4つのビーチに上陸することになった。到着時に、1台のLCAを下げることはできず、後ろのLCAを展開させるのは困難だった。また、事前に潜水艦トライアンフ英語版から探照部隊がファルトボートで上陸し誘導灯を照射する手はずであったが、トライアンフは友軍の航空機に誤爆され潜水と回避行動をとっていたため探照部隊の上陸が出来ず、したがってLCAからの上陸は無灯火で行われた[29]。これらの問題の結果、主力部隊は遅れ、反対ではないものの別の海岸に上陸した。一旦上陸すると、港の枢軸軍はもぬけの殻で、インテリジェンスに欠陥があったためいくつかの目標を見失い、他の目標も存在しないことが判明した。コマンド部隊は再乗船する前にイタリア軍の補給施設と沿岸砲兵隊を破壊した。上陸部隊のうち約70名は道を見失って別のビーチに上陸してしまい、枢軸軍の捕虜となった[30]

突出部の戦闘[編集]

The second battle of Libya. Before zero hour; the Brigadier commanding tank units in Tobruk instructs tank commanders on the operations, using a sand table for demonstration purposes.
戦車隊の作戦を立案しているトブルクの英軍司令部

3月以降にトブルクを占領できなかった後、イタリア軍司令部と国防軍最高司令部はエジプトへの進出が再開される前にトブルクを占領し、物資を蓄積することに同意した。ロンメルは、支援部隊がその地域に到着し、特に弾薬、燃料、水を運ぶ輸送機でドイツ空軍が強化された上で、よく計画を練って攻撃しなければトブルクは陥落させられないと考えていた。4月27日、ベルリンから陸軍総司令部副参謀総長フリードリヒ・パウルス少将が派遣され、ロンメルの意図について質問したのち、ソルムが失われた場合に可能な援軍がほとんどないことと、その地域の防御の可能性を予測することを銘記させた。パウルスは状況を把握するまで4月30日に予定されていた攻撃を中止させ、イータロ・ガリボルディが4月29日に到着したと同時に、一日早く繰り上げ4月29日に攻撃の進行を許可した。もはやシワ・オアシスから北のソルラムまで、エジプトのフロンティアに枢軸軍の勢力圏を確保するような野心的なことは考えられなかった[31]

トブルク守備隊は防衛の作業を続け、地雷原を敷設した。最初は南西部の外側と内側の境界の間に敷設された。枢軸軍の港への爆撃と2隻の補給船の沈没にもかかわらず、1か月に5,000英トン(5,100トン)の補給物資と12個の歩兵戦車が引き渡された。一方、ロンメルは前述の伊豪両軍の戦闘から約2週間後、同じくラス・エル・マダカル南西の丘の両側より実行され、最近アフリカに到着して間もない第5装甲師団が右翼、第15装甲師団が左翼を担った。4月30日午後8時00分、ドイツ軍両師団は側面からのアリエテ師団と第27歩兵師団ブレシアの掩護の元、攻撃を開始した。ドイツ軍歩兵は港まで進撃が可能か探るべく、ピラストリーノ砦近辺への偵察に向かうだろう。そうでなければ、イタリアの歩兵は側面を掘り下げ、翌日に攻撃のために砲兵を前進させるからである[32]

1941年秋、トブルク付近を視察するマノーブラ軍団長ガストーネ・ガンバラ英語版、第20機械化軍団長アレッサンドロ・ピアッツオーニらイタリア軍将官

丁度その時、最前線のワジ・ジアイダにはオーストラリア軍第26旅団の23大隊、24大隊、48大隊が展開していた。オーストラリア軍はこの日、防衛線への爆撃と砲撃に持ちこたえた後、更なる攻撃に備えた。4月30日の夕方に団結していた枢軸軍は、砲撃によって分散されていた。

ふたこぶ山の襲撃[編集]

解放作戦[編集]

ブレヴィティ作戦[編集]

バトルアクス作戦[編集]

クルセーダー作戦[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『ロンメル語録―諦めなかった将軍 』219項 ジョン ピムロット
  2. ^ Luck 1989, p. 92.
  3. ^ Playfair 1954, p. 116.
  4. ^ Lewin 1998, p. 149.
  5. ^ Playfair 1954, p. 115.
  6. ^ Creveld 1977, p. 183.
  7. ^ Playfair 1954, p. 290.
  8. ^ Playfair 1954, pp. 287–288.
  9. ^ Playfair 1954, p. 291.
  10. ^ Playfair 1954, pp. 292–293.
  11. ^ ITOH 1974, p. 376.
  12. ^ Playfair 1954, p. 293.
  13. ^ Panzer-Regiment 5”. Lexikon der Wehrmacht. 2018年1月4日閲覧。
  14. ^ Playfair 2004a, pp. 1–3.
  15. ^ Playfair 2004a, pp. 2–4.
  16. ^ Creveld 1977, pp. 182–187.
  17. ^ Creveld 1977, pp. 182–185.
  18. ^ Creveld 1977, pp. 185–187.
  19. ^ Creveld 1977, pp. 189–190.
  20. ^ Playfair 2004a, pp. 390, 36–37.
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参考文献[編集]

Books

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関連項目[編集]

関連作品[編集]