エマヌエル・ド・グラッフェンリード

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『1枚の写真に写っていた紳士はレース界のレジェンドでした』”. ken@埼玉の備忘録. 2023年12月23日閲覧。 “ 1976年当時、サイトユーザーが撮影した写真で、三栄書房AUTO SPORTアーカイブ日本の名レース100選 001 ’76 F1 イン・ジャパンにも掲載されている。” エマヌエル・「トゥーロ」・ド・グラッフェンリード男爵(Baron Emmanuel 'Toulo' de Graffenried1914年5月18日 - 2007年1月22日)は、スイスのレーシングドライバー。彼はF1世界選手権23戦に出場、デビュー戦は1950年のイギリスグランプリで、生涯の通算成績は9ポイントであった。彼はまた数多くのノンタイル戦にも出走している[1]

ド・グラッフェンリードのレース経歴は1936年に始まり、自らの所有するマセラティヴォワチュレットで出走した。最も忘れられない結果のいくつかは自身のホームコース、ベルン近くのブレムガルテン・サーキットで達成された。彼はFIA世界選手権が行われる前年の1949年イギリスグランプリに勝利した。その後は6シーズンで7戦に出走、様々な結果を挙げた。最高の結果は1953年ベルギーグランプリの4位であった。

レースから引退すると、ド・グラッフェンリードはローザンヌで車の販売代理店を経営し、アルファロメオロールス・ロイスフェラーリなどを販売して生活費を稼いだ。また、彼は映画『スピードに命を賭ける男』の撮影でカーク・ダグラススタント・パーソンを務めた。その後彼は1970年代から1980年代にかけて多くのF1イベントに出演、フィリップモリスマールボロブランドの宣伝を担当した。

1976年に開催された最終戦F1世界選手権インジャパンの観戦の為、来日している[2][3]

ド・グラッフェンリードは最初のイギリスグランプリ優勝者と見なされ、1998年のシルバーストン・サーキット50周年祭では84歳で生涯最後のレーシングカーの運転を行った。彼は死去当時、FIAの第1回選手権である1950年イギリスグランプリに出走したドライバーの中で最後まで生き残った人物であった。

F1での年度別成績[編集]

所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 WDC ポイント
1950年 マセラティエンリコ・プラーテ 4CLT/48 GBR
Ret
MON
Ret
500 SUI
6
BEL FRA ITA
6
NC
(23位)
0
1951年 アルファロメオ 159 SUI
5
500 BEL ITA
Ret
ESP
6
16位 2
マセラティエンリコ・プラーテ 4CLT/48 FRA
Ret
GBR GER
Ret
1952年 4CLT SUI
6
500 BEL FRA
Ret
GBR
19
GER NED ITA
DNQ
NC
(24位)
0
1953年 A6GCM ARG 500 NED
5
8位 7
マセラティ/バロン・デ・グラッフェンリード BEL
4
FRA
7
GBR
Ret
GER
5
SUI
Ret
ITA
Ret
1954年 A6GCM ARG
8
500 BEL FRA GBR GER SUI ITA ESP
Ret
NC
(36位)
0
1956年 マセラティセントロ・スッド 250F ARG MON 500 BEL FRA GBR GER ITA
7
NC
(33位)
0

参照[編集]

  1. ^ The Formula One Archives”. 2007年8月4日閲覧。
  2. ^ 三栄書房AUTO SPORTアーカイブ日本の名レース100選 001 ’76 F1 イン・ジャパン(2006年2月発行)
  3. ^ 『1枚の写真に写っていた紳士はレース界のレジェンドでした』”. ken@埼玉の備忘録. 2023年12月23日閲覧。 “1976年当時、サイトユーザーが撮影した写真で、当該雑誌にも掲載されている。”