トゥルハン・スルタン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
トゥルハン・スルタン

トゥルハン・スルタンTurhan Sultan1627年 - 1683年)は、オスマン帝国の妃。夫はイブラヒム、息子にメフメト4世がいる。

生涯[編集]

母后になるまで[編集]

トゥルハンは1627年にロシア南東部で生まれた。彼女の故郷はタタール人に襲撃されたと思われ、クリム・ハン国を経由してトプカプ宮殿に送られた。トプカプ宮殿ではアティケ・スルタン(アフメト1世キョセム・スルタンの娘)と過ごし、イブラヒムの即位後は彼の妃となった。1642年にメフメトを出産した。

母后として[編集]

イブラヒムには異常な振る舞いが多く、1648年に退位させられ、程なくして殺害された。その後メフメト4世が即位、トゥルハンはヴァリデ(母后)となった。しかしキョセム・スルタンと権利をめぐり対立し、イェニチェリがキョセムを支持、黒人宦官がトゥルハンを支持する、という構図が出来た。1651年にキョセムはトゥルハンの影響力を削ぐべくメフメト4世の退位させる計画をたてた。しかしキョセムの使用人のメレキ・ハトゥンの密告によりこれが発覚し、トゥルハンは先手をうって刺客を送りキョセムを殺害した[1]

キョセムの死後トゥルハンは正式に摂政となったがキョセムと違い権力を乱用することは無かった。1656年にトゥルハンはキョプリュリュ・メフメト・パシャ大宰相に任命し全権を委任した。これは成功しヴェネツィア海軍を破ることに成功した。その後キョプリュリュ時代と呼ばれる時代を迎えオスマン帝国の領土は最大となった。

また、後にメフメト4世の妃のギュルヌシュ・スルタンが息子のムスタファ(後のムスタファ2世)を出産した時、ギュルヌシュはメフメト4世の異母弟のスレイマンとアフメトを殺害しようとしたがトゥルハンによって防がれた。

トゥルハンは1683年に死去した。彼女は権力を持っていた最後の母后であり、彼女の死は母后の時代の終焉を意味していた。

子女[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史. 中公新書. (2018年12月25日) 

関連項目[編集]