ディノ・ラジャ
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引退 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ポジション | パワーフォワード/センター | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
基本情報 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
クロアチア語 | Dino Rađa | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
国籍 |
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生年月日 | 1967年4月24日(56歳) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
出身地 |
![]() クロアチア スプリト | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
身長(現役時) | 211cm (6 ft 11 in) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
体重(現役時) | 120kg (265 lb) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
キャリア情報 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ドラフト | 1989年2巡40位 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
選手経歴 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1987-1990 1990-1993 1993-1997 1997-1999 1999-2000 2000-2001 2001-2002 2002-2003 |
KKスプリト ヴィルトゥス・ローマ ボストン・セルティックス パナシナイコスBC KKザダル オリンピアコスBC KKシボナ KKスプリト | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ディノ・ラジャ(Dino Rađa 1967年4月24日-)は、クロアチアスプリト出身のバスケットボール選手。現在KKスプリトの会長を務めている。
経歴[編集]
クラブチームでの経歴[編集]
地元のKKダルヴィンでキャリアを開始した。その後KKスプリトに入りプロ生活を始めた。そこで彼はトニー・クーコッチと共に2度ヨーロッパのクラブ選手権を制覇した。また1988-89シーズンにはユーロリーグファイナル4MVPに選ばれている。その後彼はセリエAのヴィルトゥス・ローマに移籍して、チームの3連覇には立ち会わなかった。1990-91シーズン、彼は平均18.1得点をあげ、ヨーロッパのスポーツジャーナリストによる投票で、そのシーズン2番目に活躍した選手に選ばれた(最も票を集めたのはトニー・クーコッチ)。その後彼は平均得点を20.2得点、21.5得点とあげていき、1992年チームはコラチカップで優勝した。
1989年のNBAドラフト2巡目にボストン・セルティックスに指名されていたが、1993年にセルティックスと契約を結んだ。ルーキーシーズン、彼は平均15.1得点、7.2リバウンドをあげてNBAオールルーキーセカンドチームに選ばれた。セルティックスでは1試合平均16.7得点、8.4リバウンドをあげた。1997年、フィラデルフィア・セブンティシクサーズのクラレンス・ウェザースプーンとのトレードが持ち上がったが、6月24日、フィジカルテストに失格した。
この年彼はヨーロッパへ復帰、パナシイナイコスBCに加入、2シーズンを過ごしギリシャA1バスケットボールリーグでの連続優勝に貢献した。クラブ社長の息子との試合後ロッカールームでの諍いもあり、彼はチームを退団、1999年にクロアチアのKKザダルに加入した。2000年にはギリシャに復帰、パナシナイコスの長年のライバルであるオリンピアコスBCに加入したが優勝することはできなかった。2001-2002シーズンをKKシボナ、2002-2003シーズンはKKスプリトでプレー、リーグ戦の優勝を花道に現役を引退した。
国際大会での経歴[編集]
1987年、イタリアのボルミオで行われたバスケットボールジュニア世界選手権にユーゴスラビア代表として出場、金メダルを獲得した。その後、ユーゴスラビア代表、クロアチア代表としてもトニー・クーコッチ、ドラゼン・ペトロヴィッチ、ブラデ・ディバッツらとともに長年活躍し、1988年のソウルオリンピック、NBAに所属するマイケル・ジョーダンやマジック・ジョンソンら、ドリームチームが初めて出場した1992年のバルセロナオリンピックでも銀メダル、ドリームチームIIも出場した1994年バスケットボール世界選手権で銅メダルを獲得している。