テムルン

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テムルンモンゴル語: Temülün/Тэмүлүн中国語: 帖木侖)は、モンゴル部のイェスゲイ・バートルの娘で、チンギス・カンの妹。イキレス部のブトゥ・キュレゲンに嫁いだが、早世した。

概要[編集]

イェスゲイ・バートルとホエルンの間に生まれ、同母兄弟にテムジン(チンギス・カン)、ジョチ・カサルカチウンテムゲ・オッチギンらが、異母兄弟にはベルグテイがいた。テムジンが9歳になった時、テムルンは生まれたばかりでまだ乳母車の中にいたという[1]

テムジンの青年期、未だ勢力が小さく敵が多かった時代にはテムルンも屡々危険な目に遭っており、タイチウトの襲撃を受けた時にはカチウン、テムゲとともに崖の割れ目に隠れ潜み、メルキト部の襲撃を受けた時にはホエルンに抱かれて逃げたことなどが伝えられている[2]

テムジンは同じモンゴル部族に属するタイチウト氏のジャムカと決別して後、モンゴル部の他の氏族、モンゴルと同盟していた部族を調略して傘下に入れようとした。その一環としてイキレス部のブトゥにも使者を派遣したところ、好意的な対応を受けたために妹のテムルンを嫁がせ、姻戚関係を結ぶことにした。

ブトゥはテムルンとの婚姻に際して、宗族のエブゲンデイらをテムジンの下に派遣した。テムジンにブトゥが有する家畜の数を問われたエブゲンデイは馬30匹があり、その半分を以て妻を迎え入れる礼としたい答えると、テムジンは怒って「婚姻を結ぶのに財産を論じるとは、ほとんど商人のようなものではないか。古人は心を同じくするのは真に難しいと語ったものだが、朕が天下を取ろうとするに当たって、汝らイキレスの民がブトゥに従い忠義を尽くすならば、どうして返礼の財がいるだろうか」と語り、テムルンを嫁がせたという[3]

テムルンを娶ったブトゥはタイチウト討伐、ナイマン討伐などに参戦して大いにチンギス・カンを助けたが、ナイマン戦役後にテムルンは亡くなってしまった。しかしブトゥとの姻戚関係を重視したチンギス・カンは改めて自身の娘コアジン・ベキを嫁がせて姻戚関係を維持した。テムルン、コアジン・ベキとの婚姻によってブグゥは駙馬(キュレゲン)を称し、ブグゥの子孫は「イキレス駙馬王家」としてモンゴル帝国-大元ウルスで尊重された。テムルンを始めとするブトゥ家に嫁いだ女性達は至治元年(1321年)に「昌国大長公主」と追封され、『元史』巻109表4には「昌国公主位」として一覧表が記されている。

昌国公主[編集]

  1. 昌国大長公主テムルン(イェスゲイ・バートルの娘で、昌忠武王ブトゥに嫁ぐ)
  2. 昌国大長公主コアジン・ベキ(チンギス・カンの娘で、テムルンの死後ブトゥに嫁ぐ)
  3. 昌国大長公主イキレス(ブトゥの息子ダルカイに嫁ぐ)
  4. 昌国大長公主チャブン(チンギス・カンの娘で、テムルンの死後ダルカイに嫁ぐ)
  5. 昌国大長公主アンドゥ(オゴデイの息子クチュの娘で、ブトゥの息子昌武定王フルダイに嫁ぐ)
  6. 昌国大長公主イェスンジン(フルダイの息子忠靖王ジャクルチンに嫁ぐ)
  7. 昌国大長公主バヤルン(モンケ・カーンの娘で、ジャクルチンの息子昌忠宣王クリルに嫁ぐ)
  8. 昌国大長公主ブラルグチ(の死後、昌忠宣王クリルに嫁ぐ)
  9. 昌国大長公主イルハイヤ(テムル・カーンの娘で、クリルの息子昌王アシクに嫁ぐ)
  10. 昌国大長公主マイディ(モンケ・カーンの孫娘で、イルハイヤの死後、昌王アシクに嫁ぐ)
  11. 昌国大長公主ヤンガヤ(アシクの息子昌王バラシュリに嫁ぐ)
  12. 昌国大長公主ウルグ(バラシュリの息子昌王シャラムダルに嫁ぐ)

脚注[編集]

  1. ^ 村上1970,78/83頁
  2. ^ 村上1970,123/161頁
  3. ^ 『元史』巻118孛禿伝「太祖嘗潜遣術児徹丹出使、至也児古納河。孛禿知其為帝所遣、值日暮、因留止宿、殺羊以享之。術児徹丹馬疲乏、復仮以良馬。及還、孛禿待之有加。術児徹丹具以白帝、帝大喜、許妻以皇妹帖木倫。孛禿宗族乃遣也不堅歹等詣太祖、因致言曰『臣聞威德所加、若雲開見日・春風解凍、喜不自勝』。帝問『孛禿孳畜幾何』。也不堅歹対曰『有馬三十匹、請以馬之半為聘礼』。帝怒曰『婚姻而論財、殆若商賈矣。昔人有言、同心実難、朕方欲取天下、汝亦乞列思之民、従孛禿效忠於我可也、何以財為』。竟以皇妹妻之。」

参考文献[編集]

  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 1巻』平凡社、1970年
  • 元史』巻109表4
  • 蒙兀児史記』巻151表3