テオドシオス3世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
テオドシオス3世
Θεοδόσιος Γ' / Theodósios III
東ローマ皇帝
テオドシオス3世のソリドゥス金貨
在位 715年5月 - 717年3月25日

出生 不明
死去 717年以降(754年7月24日?)
子女 テオドシオス(息子)
父親 ティベリオス3世
テンプレートを表示

テオドシオス3世ギリシャ語: Θεοδόσιος Γ', ラテン文字転写: Theodósios III, 生没年不詳)はビザンツ帝国(東ローマ帝国)の皇帝である(在位:715年5月 - 717年3月25日)。

715年にビザンツ海軍テマ・オプシキオン英語版の部隊が皇帝アナスタシオス2世に対して反乱を起こし、アドラミュッティオン英語版でかつての皇帝ティベリオス3世の息子であった可能性のある徴税官のテオドシオスを皇帝に推戴した。テオドシオス3世は反乱軍を率いてクリュソポリスに向かい、715年11月に首都のコンスタンティノープルを開城させることに成功した。一方のアナスタシオス2世は数か月にわたってニカイアで抵抗したものの、最終的に退位して修道院へ引退することに同意した。しかし、臣下の多くはテオドシオス3世をテマ・オプシキオンの傀儡とみなしており、その正統性を認めなかったテマ・アナトリコンの長官のレオン・イサウロス(後の皇帝レオン3世)とテマ・アルメニアコン英語版の長官のアルタバスドス英語版が同盟して反乱を起こした。

レオンは716年の夏に帝位を宣言し、当時ビザンツ帝国への侵攻に乗り出していたウマイヤ朝のアラブ軍に支援を求めた。これに対しテオドシオス3世はブルガリアハーンテルヴェル英語版に支援を求め、ザゴリア英語版地方の割譲や貢納金の支払いを含む条約を結んだ。レオンはコンスタンティノープルに向けて進軍し、ニコメディアを占領するとテオドシオス3世の息子を含む多くの役人を捕虜にした。息子を捕らえられたテオドシオス3世は総主教ゲルマノス英語版やビザンツ帝国の元老院と協議し、自身の退位とレオンを皇帝として承認することに同意した。レオンは717年3月25日にコンスタンティノープルに入城し、テオドシオス3世とその同名の息子が修道院へ引退することを認めた。その後のテオドシオス3世の動向ははっきりしないものの、729年頃にエフェソス主教になり、754年7月24日に死去した可能性がある。

背景[編集]

「混乱の20年」と呼ばれる政治混乱期にあった717年時点のビザンツ帝国の領土を示した地図

674年から678年にかけて続いたアラブによる最初のコンスタンティノープルの包囲戦ウマイヤ朝軍が撃退されたのち、アラブとビザンツ帝国の間ではしばらく平和な時期が続いた[1]。その後、ビザンツ皇帝ユスティニアノス2世(在位:685年 - 695年、705年 - 711年)が戦争行為を再開したものの、アラブ側の勝利が続き、その結果としてビザンツ帝国はアルメニアコーカサス一帯の諸侯国に対する支配力を失い、アラブ側はビザンツ帝国の国境地帯を徐々に侵食していった。ウマイヤ朝の将軍たちは毎年のようにビザンツ帝国の領内へ侵入し、要塞や都市を占領した[2][3][4]。712年以降、アラブ側の襲撃が小アジア(アナトリア)のビザンツ領内の深部へ及ぶようになったことでビザンツ帝国の防衛能力は低下し、これらの襲撃に対するビザンツ側の反撃も乏しくなった。辺境地帯の多くの場所では住民が殺されるか奴隷にされ、さもなければ追放に遭い、(特にキリキアの)辺境の砦は次第に放棄されていった[5][6]。このような襲撃の成功はアラブ側の態度を増長させ、カリフワリード1世(在位:705年 - 715年)の治世には早くもコンスタンティノープルに対する二度目の攻撃の準備が始まった。そしてワリード1世の死後には後継者のスライマーン(在位:715年 - 717年)が軍事作戦の計画を引き継いだ[7][8][9]。スライマーンは716年の末にアレッポの北に位置するダービクの平原で軍の招集を開始し、軍の指揮を兄弟のマスラマ・ブン・アブドゥルマリク英語版に委ねた[10][11]

その一方でビザンツ帝国の北方の辺境ではスラヴ人ブルガール人による脅威が増大し、バルカン半島におけるビザンツ帝国の支配を脅かす存在となっていた[12]。皇帝フィリッピコス・バルダネス(在位:711年 - 713年)の治世中の712年にはブルガリアハーンテルヴェル英語版(在位:700年 - 721年)に率いられたブルガール人がコンスタンティノープルの城壁まで進軍し、周辺の土地を略奪したが、この時に略奪を受けた土地の中にはビザンツ帝国の有力者たちがしばしば夏に過ごしていた首都に近い別荘や領地も含まれていた[13]

テオドシオス3世が政権の座にあった時期は「混乱の20年英語版」と呼ばれ[14]、皇帝と有力者たちの争いや頻繁な帝位の交代が続く政治的に不安定な時代だった。この時代の貴族は小アジア出身者が多数を占め、貴族たちは皇帝の強大化を阻止し、現状を混乱させること以外に積極的な行動を示すことはほとんどなかった[15][16]。この混乱の20年は695年にユスティニアノス2世がレオンティオス(在位:695年 - 698年)によって打倒され、80年間政権を維持したヘラクレイオス朝が終焉を迎えた時から始まった。この政治混乱の時代には一時期復位したユスティニアノス2世を含め7人の皇帝が即位した[16]。現代の歴史家であるロミリー・ジェンキンス英語版は、695年から717年の間で有能と呼べる皇帝はティベリオス3世(在位:698年 - 705年)とアナスタシオス2世(在位:713年 - 715年)の二人だけであったと述べている[16]。この危機の時代はテオドシオス3世を打倒した皇帝レオン3世(在位:717年 - 741年)によって終わりを迎え、レオン3世が開いた王朝(イサウリア朝)は85年にわたって続いた[17]

即位までの経緯[編集]

艦隊の建造を含むスライマーンによる戦争への準備はすぐにビザンツ帝国の知るところとなり、皇帝アナスタシオス2世は圧倒的な規模によるこの新たな攻撃からコンスタンティノープルを防衛するための準備を始めた。このような準備には、貴族(パトリキオス)でコンスタンティノープルの首都長官英語版であるシノーペーのダニエルをアラブへの偵察のために外交使節を装って派遣するといった対策や、コンスタンティノープルの防衛体制の強化や[18][19][20]ビザンツ海軍の強化を図るといった対策が含まれていた[5][21]。9世紀のビザンツ帝国の歴史家であるテオファネスによれば、アナスタシオス2世は715年の初頭に海軍に対してロドス島で集結したのちフォイニクス[注 1]へ進軍するように命じた[5][23][21][24]。しかし、ロドス島でテマ・オプシキオン英語版の部隊が反乱を起こして税務長官で聖ソフィア教会輔祭でもあった指揮官のヨハネスを殺害し、小アジア南西部のアドラミュッティオン英語版に向けて航海した。そしてアドラミュッティオンでテオドシオスという名の徴税官を擁立し、テオドシオスの帝位を宣言した[5][9][21][24][注 2]。『ズクニーン修道院年代記英語版』はテオドシオス3世がコンスタンティノスの即位名で統治したと記しており、テオドシオス3世の全名を「テオドシオス・コンスタンティノス」としている[27]

歴史家のジョン・バグネル・ベリーは、無作為にテオドシオスが選ばれたことについて、すでに皇帝らしい名前を持っており、無名だが相応な人物であり、テマ・オプシキオンの将兵にとって容易に制御可能であったという以上に理由らしい理由はなかったと指摘している[28]。一方でビザンツ学者のグラハム・サムナーは、テオドシオス3世が皇帝ティベリオス3世の息子であるテオドシオスと同一人物であった可能性を示唆しており、それ故に同様に海軍の反乱によって帝位に就いた父親に連なる正統性を持ち、軍による擁立につながった可能性があると指摘している[29]。同じくビザンツ学者の小林功もサムナーの説を引用しつつ、混乱の20年における他の皇帝たちは即位前に軍か中央政府の要職といった社会的に高い地位に就いており、そのためテオドシオス3世についても地方の一介の小役人であったとは考えにくいとしている[30]。さらにサムナーは、このティベリオス3世の息子のテオドシオスについて、729年頃までにエフェソス主教になり、754年7月24日頃に死去するまでその地位を保持し、754年の聖像破壊派によるヒエリア公会議英語版における中心人物でもあったテオドシオスと同一人物であるとする説を提示している[31]。一方でビザンツ学者のシリル・マンゴー英語版とロジャー・スコットは、この場合テオドシオス3世が退位(後述)した後に30年以上にわたって生きたことになるため、この説を有力視していない[32]。一方で歴史家で貨幣学者のフィリップ・グリアソン英語版は、実際に主教になったのはティベリオスの息子ではなく、テオドシオス3世の同名の息子であったとする説を提唱している[33]

伝えられるところによれば、テオドシオスは皇帝になることを嫌がっていたとされており、テオファネスはテオドシオスが擁立された時の様子を次のように記している[34]

アドラミュッティオンに到着した時、指導者がいなかった犯罪者たちは、そこでテオドシオスという名の地元の男を発見した。テオドシオスは徴税官であり、政治に携わる人物ではなく一市民であった。彼らはテオドシオスに皇帝になるように強く要求した。しかし、テオドシオスは丘へ逃げて隠れてしまった。それでも彼らはテオドシオスを見つけ出し、皇帝として歓呼を受けるように強要した。[34]

こうしてテオドシオスは715年5月頃にアドラミュッティオンでテマ・オプシキオンの部隊によって皇帝テオドシオス3世として推戴された[32][34]。これに対しアナスタシオス2世は反乱を鎮圧するために軍を率いてテマ・オプシキオンのビテュニアに渡った。テオドシオス3世はアナスタシオス2世と戦うために留まるのではなく、艦隊を率いてコンスタンティノープルからボスフォラス海峡を渡ったところに位置するクリュソポリスに向かった。そしてクリュソポリスからコンスタンティノープルに対する包囲攻撃を開始し、6か月後の715年11月に首都の支持者たちが城門を開いたことでコンスタンティノープルを掌握することに成功した。数か月間ニカイアに留まって抵抗していたアナスタシオス2世は、総主教ゲルマノス英語版を含む中央政府の有力者たちが捕らえられて自分の前に連れて来られると抵抗を諦め、退位して修道院へ引退することに同意した[32][35][36][37]

治世[編集]

テオドシオス3世を打倒したレオン3世のソリドゥス金貨

テオドシオス3世が皇帝として最初にとった行動の一つは、コンスタンティノープル大宮殿に皇帝フィリッピコス・バルダネスが撤去した第6回全地公会議の描写を復活させたことであり[32][38]、この行為によって、『教皇の書』において "Orthodox"(正統派)という呼び名を得ることになった[32][注 3]。その一方でテオドシオス3世は、ビザンツの史料においてやる気もなければ能力もなかったと説明されており、多くの臣下からテマ・オプシキオンの軍隊の傀儡であると見なされていた。そのため、それぞれテマ・アナトリコンテマ・アルメニアコン英語版ストラテゴス英語版(長官)であるレオン・イサウロス(後の皇帝レオン3世)とアルタバスドス英語版はテオドシオス3世の正統性を認めなかった[39][40]。両者はアナスタシオス2世の打倒を阻止するために行動を起こすことはなかったが、テオドシオス3世の即位には異議を唱え、レオンは716年の夏にビザンツ帝国の帝位を宣言した[40][41][42]。また、ビザンツ帝国内の不和を好機と捉え、この混乱がビザンツ帝国を弱体化させるだけでなくコンスタンティノープルの奪取をより容易にすると考えていたアラブ人による支援も求めた[43][44][注 4]。一方のテオドシオス3世は、ブルガリアのハーンのテルヴェルと条約の交渉を行い、アラブ軍による差し迫った攻撃に対する支援を確保しようとしたとみられている。この時に結ばれた条約で、トラキアにおけるビザンツ帝国とブルガリアの国境、ザゴリア英語版地方のブルガリアへの割譲、ブルガリアへの貢納と亡命者の返還、そしていくつかの通商協定が定められた[32]

同じ頃にスライマーンの軍隊はビザンツ領内への進軍を開始し、アモリオンを包囲するとともに別働隊もカッパドキアへ進入した[45]。しかし、レオンは交渉によってアモリオンを包囲した部隊を撤退させることに成功した[46]。そしてアルタバスドスと同盟して帝位を宣言すると速やかにコンスタンティノープルへの進軍を開始し、最初にニコメディアを占領した。レオンはそこで他の高官たちとともにいたテオドシオス3世の息子を発見すると拘束し、その後クリュソポリスへ向かった。テオドシオス3世は息子が捕らえられたことを知ると総主教のゲルマノスやビザンツ帝国の元老院と協議を行い、自身の身の安全と教会の秩序を乱さないことを条件に退位し、レオンを皇帝として認めることに同意した[40][47][48][49]

ジョン・バグネル・ベリーは、コンスタンティノープルの有力者たちはテオドシオス3世にはアラブの脅威に対処するための十分な能力がないとしてレオンに味方したが、そのような事情がなければ自分たちを政治的に弱体化させるとは考えにくい無害なテオドシオス3世に味方したかもしれないと述べている[50]。また、アラブの脅威がなければテオドシオス3世が政権を維持し、宮廷の役人や有力者たちの統制下に置かれた名目的な皇帝がその後も続いたであろうと主張している[51]。一方で小林功は、レオンの支持の獲得と政権交代に結びついた要因として、アラブ軍がコンスタンティノープルに迫る緊迫した状況下で有能な軍人が求められていたためにテマ・オプシキオンも軍事経験を欠くテオドシオス3世ではなくレオンを支持せざるを得なかった点や、レオン自身もアナスタシオス2世によってテマ・アナトリコンのストラテゴスに任命され、アナスタシオス2世を支持していたことから、アナスタシオス2世の政権を支えていたコンスタンティノープルの有力者にとってもレオンが受け入れ易い人物であった点を挙げている[49]

退位とその後[編集]

717年3月25日にコンスタンティノープルへ入城したレオンは確固とした権力を手に入れ、テオドシオス3世とその同名の息子が修道士として修道院へ引退することを認めた[40][48][52]。テオドシオス3世はティベリオス3世の息子のテオドシオスと同一人物であった場合、修道院へ引退した後の729年頃にエフェソスの主教になった可能性があり、サムナーによれば、その後754年7月24日に死去している。また、テオドシオス3世とその息子のどちらかがエフェソスの聖フィリッポス教会に葬られている[32][53]。テオドシオス3世の治世について知られていることはごく僅かである[54]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 通常はリュキアに位置する現代のフィニケ英語版と同一視されているが、ロドス島の対岸のフェナケット[22]、あるいはフェニキア(現代のレバノン)であった可能性もある[5][9][23][24][25]
  2. ^ この反乱の原因について、ビザンツ学者の小林功は、アナスタシオス2世がクーデターによってフィリッピコス・バルダネスを廃位した際に利用した兵の出身母体であるテマ・オプシキオンのコメス(長官)のゲオルギオス・ブラフォスを失脚させるなど、テマ・オプシキオンを冷遇したことで軍の支持を得ていなかったためであるとしている[26]
  3. ^ ゲオルク・オストロゴルスキーなどによる一部の文献では、輔祭アガトンの記録を引用し、第6回全地公会議の描写を最初に復活させた皇帝をアナスタシオス2世としているものもある[13]
  4. ^ ビザンツ学者のロドルフ・ギラン英語版は、この時レオンはマスラマ・ブン・アブドゥルマリクに対してカリフの封臣になると申し出ていたが、実際にはアラブ人を自分の目的のために利用するつもりでいたと述べている[43]

出典[編集]

  1. ^ Lilie 1976, pp. 81–82, 97–106.
  2. ^ Blankinship 1994, p. 31.
  3. ^ Haldon 1990, p. 72.
  4. ^ Lilie 1976, pp. 107–120.
  5. ^ a b c d e Haldon 1990, p. 80.
  6. ^ Lilie 1976, pp. 120–122, 139–140.
  7. ^ Guilland 1959, p. 110.
  8. ^ Lilie 1976, p. 122.
  9. ^ a b c Treadgold 1997, p. 344.
  10. ^ Guilland 1959, pp. 110–111.
  11. ^ Eisener 1997, p. 821.
  12. ^ Vasiliev 1980, p. 229.
  13. ^ a b Ostrogorsky 1957, p. 136.
  14. ^ 中谷 2020, pp. 58–59.
  15. ^ Bury 1889, pp. 384–385.
  16. ^ a b c Jenkins 1987, p. 60.
  17. ^ Jenkins 1987, p. 63.
  18. ^ Mango & Scott 1997, p. 534.
  19. ^ Lilie 1976, pp. 122–123.
  20. ^ Treadgold 1997, pp. 343–344.
  21. ^ a b c 小林 2003, p. 84.
  22. ^ Mango & Scott 1997, p. 537 (Note #5).
  23. ^ a b Mango & Scott 1997, pp. 535–536.
  24. ^ a b c Lilie 1976, pp. 123–124.
  25. ^ Lilie 1976, p. 123 (Note #62).
  26. ^ 小林 2003, pp. 78–87.
  27. ^ Harrack 1999, p. 149.
  28. ^ Bury 1889, pp. 372–373.
  29. ^ Sumner 1976, pp. 291–292.
  30. ^ 小林 2003, p. 76.
  31. ^ Sumner 1976, pp. 291–294.
  32. ^ a b c d e f g Neil 2000.
  33. ^ Sumner 1976, p. 292.
  34. ^ a b c Sumner 1976, p. 291.
  35. ^ Haldon 1990, pp. 80, 82.
  36. ^ Treadgold 1997, pp. 344–345.
  37. ^ 小林 2003, pp. 84–86.
  38. ^ Ostrogorsky 1957, p. 135.
  39. ^ Lilie 1976, p. 124.
  40. ^ a b c d Treadgold 1997, p. 345.
  41. ^ Mango & Scott 1997, pp. 538–539.
  42. ^ Bury 1889, p. 378.
  43. ^ a b Guilland 1959, pp. 118–119.
  44. ^ Lilie 1976, p. 125.
  45. ^ Bury 1889, p. 381.
  46. ^ Jenkins 1987, pp. 62–63.
  47. ^ Haldon 1990, pp. 82–83.
  48. ^ a b Mango & Scott 1997, pp. 540, 545.
  49. ^ a b 小林 2003, pp. 93–96.
  50. ^ Bury 1889, p. 383.
  51. ^ Bury 1889, pp. 385–386.
  52. ^ Lilie 1976, pp. 127–128.
  53. ^ Sumner 1976, p. 293.
  54. ^ Kazhdan 1991, p. 2052.

参考文献[編集]

日本語文献[編集]

  • 小林功「八世紀前半におけるビザンツ皇帝選出のダイナミクス : 「混乱の時代」の皇帝たち」『史林』第86巻第1号、京都大学文学部史学研究会、2003年1月1日、doi:10.14989/shirin_86_71hdl:2433/239732ISSN 0386-93692023年6月19日閲覧 
  • 中谷功治『ビザンツ帝国 千年の興亡と皇帝たち』中央公論新社中公新書〉、2020年6月25日。ISBN 978-4-12-102595-1 

外国語文献[編集]

関連文献[編集]