ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス
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![]() ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス T. Quinctius T. f. L. n. Flamininus[1] | |
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![]() キュノスケファライの勝者フラミニヌス(デルポイ考古学博物館所蔵) | |
出生 | 紀元前228年 |
死没 | 紀元前174年頃 |
出身階級 | パトリキ |
氏族 | クィンクティウス氏族 |
官職 |
トリブヌス・ミリトゥム(紀元前208年) プロプラエトル(紀元前205年-204年) 公有地分配10人委員(紀元前201年) ウェヌシア入植3人委員(紀元前200年) 財務官(紀元前199年) 執政官(紀元前198年) 前執政官(紀元前197年-194年) レガトゥス(紀元前192年、191年) ケンソル(紀元前189年) レガトゥス(紀元前183年) ラケダエモン使節団聴取委員(紀元前183年) |
指揮した戦争 | 第二次マケドニア戦争、ナビス戦争、キュノスケファライの戦い (紀元前197年) |
ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス(ラテン語: Titus Quinctius Flamininus, 紀元前228年 - 紀元前174年頃)は、共和政ローマの政務官。第二次ポエニ戦争後のマケドニア遠征で主に活躍し、ギリシアへ自由をもたらした。
経歴[編集]
初期の経歴[編集]
彼が最初に歴史に登場するのは第二次ポエニ戦争中で、トリブヌス・ミリトゥムとして執政官マルクス・クラウディウス・マルケッルスの下で戦った[2]。そして紀元前205年にはプロプラエトルとしてタレントゥムに赴任する[3]。
紀元前201年、スキピオ・アフリカヌスのアフリカ遠征に従軍した退役兵たちに土地を分配することが決定した。元老院はプラエトル・ウルバヌスのマルクス・ユニウス・ペンヌスに、サムニウムとアプリアのアゲル・プブリクス(公有地)を測量・分配する10人委員会を任命するよう命じた。フラミニヌスはそのうちの一人に選ばれている[4]。更に翌200年にはウェヌシア入植のための3人委員になっている[5]。
紀元前199年、執政官選挙に立候補したが、ティトゥス・リウィウスによると、護民官マルクス・フルウィウスとマニウス・クリウスは、フラミニヌスがクァエストルであることを理由に反対した。彼らはパトリキはクルスス・ホノルムの順序を踏まないのかと問題提起したものの、元老院は民衆の投票に委ねることを決定し[6][7]、当時基準の年齢30歳よりも若かったが、紀元前198年の執政官に選ばれた。
第二次マケドニア戦争[編集]
執政官として軍団指揮権を保持した彼はプブリウス・スルピキウス・ガルバ・マクシムスの後継としてアンティゴノス朝との第二次マケドニア戦争に従軍、マケドニア王ピリッポス5世を追撃し、アオウスの戦いで勝利した。しかしながら戦役の最中に彼の執政官の任期が切れ掛かっていたために休戦交渉を始め、この休戦期間を利用して彼は前執政官に就任、戦争を継続し、紀元前197年にキュノスケファライの戦いでマケドニアを破った。この戦いでローマで生まれた軍制であるレギオはギリシア古来の軍制ファランクスよりも優れていることが証明された。ピリッポス5世はローマに降伏、彼が攻め落としたすべての都市を放棄することとさらに1,000タレントゥムの賠償金をローマに支払う約束をさせられた。このローマが下した判断は、しかしながら、マケドニアを敵視していたアカイア同盟には不満であった。
紀元前196年にはフラミニヌスはコリントスの運動競技会に出席、ここでマケドニアからのギリシアの解放を宣言する。フラミニヌスはギリシア語に堪能で、またギリシア文化の信奉者であったため、ギリシア人は彼を解放者として一部の都市では神と崇められるまでに褒め称え、横顔を刻印した硬貨を発行するほどであった。
セレウコス朝との戦争[編集]
またリウィウスによれば、フラミニヌスのこの行動は彼の純真なギリシア人への尊敬から出ていたというが、同時に彼はギリシアを解放することによってマケドニアに対抗する形でローマの影響力をギリシアで強力にすることができるという利点も理解していたという。そしてアカイア同盟とともに彼はローマ軍を率いてスパルタとのナビス戦争に勝利し、ローマに帰還し凱旋式を挙げた。
アッタロス朝のエウメネス2世がセレウコス朝のアンティオコス3世の侵略に対しての助力を要請してきたのに応じて、紀元前192年フラミニヌスは交渉のため再び東方へ赴き、アンティオコス3世に対しこれ以上のギリシアへの干渉を中止するよう警告する。東方に広大な領土を持ち諸部族を治め「大王」を自認していたアンティオコス3世は、ローマ人であるフラミニヌスが何故ギリシアを代表して警告を発するのが理解できなかったという。交渉の末に、ローマが干渉をやめるのならセレウコス朝も手を引くと約束したが、この約束は守られず、すぐにローマはセレウコス朝と武力衝突に発展する。そして紀元前191年フラミニヌスはテルモピュライの戦いでアンティオコスを破った。
以降[編集]
紀元前189年にはケンソルに就任している。この年のケンソル選挙は激戦で、直近の戦争に勝利して金回りの良かったマニウス・アキリウス・グラブリオが一番人気だったが、ノウス・ホモであったため落選し、フラミニヌスとマルクス・クラウディウス・マルケッルスが当選した[8]。高位政務官経験のない4名が元老院から除名され、カペーナ門からマールス神殿までの舗装などのインフラ整備を行った。またカンパニア人のケンスス(国勢調査)はローマで行うことが決定された[9]。
紀元前183年にカルタゴから亡命したハンニバルを捕らえるためにビテュニアへ赴くが、ハンニバルは自害、目的は果たせなかった。以後のフラミニヌスの動向はよく分かっておらず、紀元前174年頃に没した。
出典[編集]
- ^ Broughton Vol.1, p. 330.
- ^ Broughton Vol.1, p. 293.
- ^ Broughton Vol.1, p. 303.
- ^ リウィウス『ローマ建国史』31.4.1-3
- ^ Broughton Vol.1, p. 325-326.
- ^ リウィウス『ローマ建国史』32.7.8-11
- ^ プルタルコス『対比列伝』フラミニヌス、2.1-2
- ^ リウィウス『ローマ建国史』37.57
- ^ リウィウス『ローマ建国史』38.28
参考文献[編集]
- T. R. S. Broughton (1951, 1986). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association