チャールズ・E・ラフリン

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チャールズ・エリオット・ラフリン
Charles Elliott Loughlin USNA.JPG
チャールズ・エリオット・ラフリン
外国語 Charles Elliott Loughlin
渾名 エリオット
生誕 1910年2月19日
ノースカロライナ州 ウィルミントン
死没 1989年19月31日(満79歳没)
所属組織 Seal of the United States Department of the Navy.svgアメリカ海軍
軍歴 1933 - 1968
最終階級 US-O8 insignia.svg 海軍少将

チャールズ・エリオット・ラフリンCharles Elliott Loughlin, 1910年2月19日-1989年10月31日[注釈 1]は、アメリカ海軍の軍人、最終階級は少将

潜水艦クイーンフィッシュ (USS Queenfish, SS-393) の艦長として4度の哨戒を行う。35年の海軍歴の中で海軍十字章レジオン・オブ・メリットを2度ずつ、シルバースターを1度受章した[1][2]。しかし、ラフリンの経歴の中で最も知られているのは1945年4月1日に緑十字船阿波丸日本郵船、11,249トン)を撃沈し軍法会議にかけられた「阿波丸事件」である。

生涯[編集]

前半生[編集]

チャールズ・エリオット・ラフリンは1910年2月10日にノースカロライナ州ウィルミントンで生まれる。海軍兵学校(アナポリス)に進んだラフリンはテニスバスケットボールに才能を示してそれぞれのチームに所属し、特にバスケットボールの分野においては1932年から1933年のシーズン、1933年度全米大学体育協会(NCAA)選抜チーム英語版のメンバーに名を連ねた[2][3][4]。1933年に海軍兵学校(アナポリス)を卒業。卒業年次から「アナポリス1933年組」と呼称されたこの世代からは、アーチャーフィッシュ (USS Archer-fish, SS-311) 艦長として空母信濃を撃沈したジョゼフ・F・エンライトハリバット (USS Halibut, SS-232) 艦長を経て大将に登りつめたイグナティス・J・ギャランティン英語版などがいる。卒業後は戦艦ニューメキシコ (USS New Mexico, BB-4) に配属され、のちに「原子力海軍の父」と称されるようになる、機関長ハイマン・G・リッコーヴァー中尉(アナポリス1922年組)のサポート役を務める[1][3]。1938年、ラフリンは潜水艦畑に進んでコネチカット州ニューロンドンの潜水学校に入り、さまざまな潜水艦に乗り組んだあとS-14英語版 (USS S-14, SS-119) 艦長としてパナマ海域、カリブ海および西大西洋における防衛的な哨戒にあたり、1942年中に4度の哨戒を行った[3][5]。地味な日々であったが評価され、のちにクイーンフィッシュとして命名される潜水艦のキール据え付け段階から艦長に内定し、S-14の乗組員から未来のクイーンフィッシュの乗組員を優先的に選抜した[6]

クイーンフィッシュの艦長[編集]

クイーンフィッシュの行動に関する掘り下げた説明は当該項目に譲り、ここではラフリンがクイーンフィッシュ艦長時代に二度の海軍十字章およびシルバースターを受章するにいたった出来事を中心に説明する。

第1の哨戒・海軍十字章[編集]

クイーンフィッシュに救助されつつあるイギリス軍およびオーストラリア軍捕虜

8月4日から10月3日までの最初の哨戒は、バーブ (USS Barb, SS-220) 、タニー (USS Tunny, SS-282) とウルフパック「エドのインク消し Ed's Eradicators」を組んでルソン海峡南シナ海方面で行動した[7]。この哨戒では8月31日にミ15船団を攻撃してタンカー千代田丸(日本郵船、4,701トン)を、9月9日にタマ25船団を攻撃して2隻の輸送船、豊岡丸(鏑木汽船、7,097トン)と満州丸(日本海汽船、3,054トン)を撃沈した。

しかし、この哨戒のハイライトは9月18日に、9月12日に別のウルフパックの攻撃で海中に投げ出された、ヒ72船団加入の楽洋丸(南洋海運、9,418トン)に乗船していたイギリス軍およびオーストラリア軍捕虜を18名救助したことであった[8]。ラフリンは、この救助活動を含む最初の哨戒行動が評価されて最初の海軍十字章を受章した。

海軍十字章
合衆国大統領は、海軍少佐チャールズ・エリオット・ラフリンが1944年8月4日から10月3日までの間の、ルソン海峡およびフィリピン近海の日本勢力圏下にある海域におけるクイーンフィッシュの最初の哨戒での突発的に起こった英雄的行為に対して、海軍十字章を贈る。
ラフリン少佐は、敵の強力な水上と空からの制圧があったにもかかわらず、攻撃的かつ非常に粘り強い戦術を駆使して日本の海上輸送に対して効果的な攻撃を行い、1,300トンの敵駆逐艦、2隻の大型タンカー、2隻の大型貨物船の総計48,000トンにおよぶ艦船を撃沈した。また、撃沈された日本船から放り出されたイギリスとオーストラリアの捕虜の救助作業に参加して18名を救助し、重傷者には特に手厚い治療を行って、母港に輸送した。彼のスキルと勇気、義務への献身ぶりは、アメリカ海軍における崇高な伝統と合致している[9]

第2の哨戒・海軍十字章[編集]

10月27日から12月2日[10]までの二度目の哨戒ではバーブおよびピクーダ (USS Picuda, SS-382) とウルフパック「ラフリンズ・ルーパーズ I "Loughlin's Loopers I"」を編成し、ラフリンはウルフパックの指揮官となる[11]東シナ海で行動して11月8日に2隻の輸送船、八光丸(朝鮮郵船、1,948トン)と京城丸(中川汽船、1,051トン)、11月9日に特設砲艦長寿山丸(朝鮮郵船、2,131トン)を撃沈し、11月15日にはヒ81船団を攻撃して陸軍特殊船あきつ丸(日本海運、9,186トン)を撃沈した[12]。この二度目の哨戒も評価されて、二度目の海軍十字章に代わる金星章を受章した。クイーンフィッシュそのものに対しても、前回哨戒分と合わせて大統領殊勲部隊章英語版が授与された[13]

海軍十字章
合衆国大統領は、海軍少佐チャールズ・エリオット・ラフリンが1944年10月27日から12月2日までの間の、日本勢力圏下にある海域におけるクイーンフィッシュの二度目の哨戒での突発的に起こった英雄的行為に対して、海軍十字章に代わるゴールドスターを贈る。
熟練かつ積極的なラフリン少佐は、敵の強力な護衛陣を突破して通商路を繰り返して攻撃し、合計して35,300トンの艦船を撃沈して1万トンの艦船に損傷を与えた。日本側の厳しい反撃にさらされたものの、彼は見事にそれをさばいて自らの艦を損傷から救った。彼の行為は、ラフリン少佐自身とアメリカ海軍に対する最高の使用の裏付けである[9]

第3の哨戒・シルバースター[編集]

12月29日から1945年1月29日の三度目の哨戒では「ラフリンズ・ルーパーズ」の編成を継続し[14]、ラフリンは引き続いて指揮官を務めたものの、ウルフパック全体の戦果自体は大きかったにもかかわらず、クイーンフィッシュ自体の戦果は少なかった。ウルフパックは日本軍のフィリピンへの増援を阻止し、1月7日のモタ30船団への攻撃では4隻を撃沈して3隻に損傷を与えたと報告したが[15]、クイーンフィッシュは撃沈の1隻について3分の1の戦果が認められたのみであった[注釈 2]。僚艦バーブ艦長のユージーン・B・フラッキー少佐(アナポリス1935年組)は、モタ30船団攻撃時のラフリンの攻撃ぶりを「信じられないほど下手な魚雷発射」と評し、ラフリン自身も後輩に指摘されるまでもなく戦時日誌に「畜生」と殴り書きするほどの出来の悪い攻撃だった[16]

シルバースター
合衆国大統領は、海軍少佐チャールズ・エリオット・ラフリンが1944年12月29日から1945年1月29日までの間の、台湾海峡および中国沿岸部における「クイーンフィッシュ」三度目の哨戒で示した、目覚ましい勇気と恐れを知らぬ精神を評価してシルバースターを贈る。
巧みに接敵して敵の強力な護衛網を貫いて魚雷攻撃を仕掛け、ほかの潜水艦と協力して1万トンのタンカーを撃沈し、銃撃で300トン級の敵哨戒艇を撃沈した。グループの指揮官としても、彼の指揮のもとで合計6万トンもの敵船を沈め、任務遂行に貢献した。彼のスキルと勇気、義務への献身ぶりは、アメリカ海軍における崇高な伝統と合致している[9]

南カリフォルニア大学のロジャー・ディングマン教授は、この三度目の哨戒における実入りの少なさはラフリンとクイーンフィッシュの乗組員に「これまでで最も屈辱的な経験」[17]を与え、次の哨戒に「傷ついた評判を回復するチャンス」[18]を与えたとする。

阿波丸事件と軍法会議[編集]

2月24日からの4回目の哨戒において、ラフリンのクイーンフィッシュは冒頭に記したように、1945年4月1日に緑十字船「阿波丸」を撃沈する[19]。いわゆる阿波丸事件である。

直前の3月28日、太平洋艦隊潜水部隊英語版司令官チャールズ・A・ロックウッド中将(アナポリス1912年組)は指揮下の全潜水艦に以下のようなメッセージを発信した。ロックウッド中将が阿波丸に関するメッセージを発信したのは二度目で、最初のものは3月上旬に発せられていた[18]。しかし、この最初の電文はラフリン以下乗組員は見なかったし注意もしなかった[18]

3月30日から4月4日までの間に、担当海域に安全を保証された阿波丸が通過した。阿波丸は夜には点灯して航行し、船体に白十字を描いている[19]

ラフリンのクイーンフィッシュが阿波丸に関する二度目の電文を受信したのは間違いないが、拙い文章であったために、ラフリンはこうつぶやいた。「生まれてから、こんなあほうな電文は見たことがない」。[20]。潜水艦宛ての電文は、そのほとんどがロックウッドの腹心であったリチャード・G・ヴォージ大佐(アナポリス1925年組)が自ら起草するか目を通すかしていたが、この阿波丸通過に関する二度目の電文に関しては、ヴォージがフィリピン出張中であったため副官が作成したものであった[20]。電文に関する不運が二度続き、シーフォックス (USS Sea Fox, SS-402) からの報告に基づき、ラフリンのクイーンフィッシュは濃霧の中で「駆逐艦」を探知し、魚雷を4本発射して目標の「駆逐艦」を撃沈し、生存者1名を救助した[21]。この生存者、阿波丸の調理師であった下田勘太郎の口から電文が洗いなおされ、撃沈したのが阿波丸であることを知った[22]。ラフリンは「そんな馬鹿な!」と叫んだ[23]のちロックウッドに撃沈を報告し、シーフォックスと捜索を行いながら太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥(アナポリス1905年組)と合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦本部長アーネスト・キング元帥(アナポリス1901年組)にも報告、キング元帥は即座に以下のように返答した。

クイーンフィッシュは、ただちに帰投せよ。ラフリンは軍法会議にかけられるであろう。

下田以外の生存者は見つからなかったが、積荷と思しきゴムが4,000個も発見され、そのうちの4つを回収してサイパン島に帰投した[19]

事件に関し、ロックウッドの懸念したことは以下の3つであった[19]

  • 事件が、アメリカが「ルシタニア号撃沈事件」のような恥ずべき騒動の原因を作ったと思われること。
  • 日本側が捕虜に対して「野蛮なる報復」を行う可能性。
  • 上記2つの点でラフリンが矢面に立たされること。

ロックウッド中将は弁護人を介したラフリンの証言に対し、3月28日の電文に関するいくつかの非難は受け入れた。弁護側は2つのことを持ち出してラフリンを弁護した。一つは阿波丸が安全が保証された通告済みの航路を航行していたとしても、生存者や積荷のゴムがそれと無関係であるかどうか。ラフリンは、それらが阿波丸のものかどうかは分からなかったとし、ともかく攻撃したのは間違いないと述べた。もう一つは意図の欠如に関してであった。ラフリンが採った戦術は小型艦船に対するものではなく、明らかに大型艦船に対する戦術であった。戦術に関する論争に際して、ラフリンのクイーンフィッシュにおける過去の哨戒記録を洗いなおした。ラフリンは審理では好意的に振る舞い、クイーンフィッシュを手放すことを惜しんだ[19]

しかし、軍法会議は「職務と合法的な秩序維持に過失があった」ことを認め、ラフリンは有罪と宣告されて海軍長官からの沙汰を待つ身となった。ニミッツ長官は処罰を寛大にするよう求めたが受け入れられず、逆にラフリンに重いペナルティが課せられることとなった。そして、キングは「ラフリンは今の立場にはいられない」と発言した[19]

戦後[編集]

4月16日付でクイーンフィッシュ艦長職から外されたラフリンは[24]、軍法会議のあとロックウッド中将のもとでスタッフに加わった[19]。その後はアナポリスに戻って運動教官を務める一方で募金活動を行い、アナポリスでの運動カリキュラムにサッカークロスカントリーおよびレスリングを復活させた[25]。軍務の方では潜水母艦オリオン英語版 (USS Orion, AS-18) 副艦長と潜水部隊司令を歴任。給油艦ミシシネワ英語版 (USS Mississinewa, AO-144) と重巡洋艦トレド (USS Toledo, CA-133) の艦長を務めたあと再び潜水艦と関わるようになり、第6潜水隊群司令としてポラリス搭載潜水艦の指揮を執った実績に対して、最初のレジオン・オブ・メリットが授与された[1]

レジオン・オブ・メリット
合衆国大統領は、海軍少将チャールズ・エリオット・ラフリンが1964年8月24日から1966年9月24日の間に務めた第6潜水隊群司令として卓越した功績に対し、レジオン・オブ・メリットを贈る。ラフリン少将は有能で機知に富むリーダーとして、アメリカ大西洋艦隊潜水部隊の軍事や運用部門に大いに関わった。特に、ポラリス搭載潜水艦に関する組織の形成、オーバーホール前の訓練方法および慣熟訓練の方法について、戦術外の負担についての監督を行った。持ち合わせたリーダーシップと専門知識を駆使し、サウスカロライナ州チャールストンにおける休暇中の乗組員に対する支援活動を機能させた。また、ラフリン少将は海軍におけるもっとも明瞭的かつ印象的なスポークスマンとしても記憶されるところである。これらの職務に加え、NATOでの職務および、東部大西洋方面潜水部隊における職務遂行の際に、ラフリン少将は海軍の伝統の維持と義務への貢献に対して最大限のパフォーマンスをして見せた[9]

その後、ラフリンはワシントンD.C.海軍区の司令官も務め、その職で二度目のレジオン・オブ・メリットを受章した[1]。そして、この職を最後に海軍を退役した。

レジオン・オブ・メリット
合衆国大統領は、海軍少将チャールズ・エリオット・ラフリンが1966年10月から1968年6月の間に務めたワシントン海軍区司令官としての功績に対し、レジオン・オブ・メリットの代わりに金星章を贈る。ラフリン少将はワシントンでの職務において、卓越したリーダーシップと判断を駆使し、海軍の多種多様な部隊の監督するなど、艦隊支援の任務を全うした。その職務のもと、軍民関係コミュニティの中において海軍が果たすべき重要な役割に関する意識を向上させ、拡充していった。ラフリン少将はまた、基地周囲の民間人との交流を維持し続け、軍人のための住宅地を増加させることに貢献した。さらに彼は、海軍の青少年向け行事や騒じょう対策にも乗り出し、民間との交流を積極的に奨励していった。ラフリン少将は卓越したリーダーシップと先見性、そして鋭い感性をもって、アメリカ海軍のために尽くした[9]

退役後のラフリンについては断片的な情報しかないが、妻とともに日本へ旅行のために来日したことがあり、日本の復興ぶりに目を見張った[26]。1979年12月7日には阿波丸事件に関するNHKの取材を受けている[27]。この取材においてラフリンは、「もう一度やり直しができたとしても、運命のあの4月1日と同じ状況、同じ事情ならば、また、まったく同じように行動するであろう」という発言を行っている[27]。ラフリンは1989年10月31日に79歳で亡くなり、アナポリス敷地内の墓地に埋葬されている[2]

記録[編集]

チャールズ・E・ラフリンの哨戒記録
  出撃地 出撃日 日数 戦時中認定の戦果
隻数/トン数
JANAC[注釈 3]認定の戦果
隻数/トン数
哨戒区域
S-14 -1 1942年 32[5] 0 / 0[5] 0 / 0[5] 大西洋[5]
S-14 -2 1942年 10[5] 0 / 0[5] 0 / 0[5] 大西洋[5]
S-14 -3 1942年 17[5] 0 / 0[5] 0 / 0[5] 大西洋[5]
S-14 -4 1942年 24[5] 0 / 0[5] 0 / 0[5] 大西洋[5]
クイーンフィッシュ-1 真珠湾[28] 1944年8月4日[28] 59[29] 6 / 48,800[29] 3 / 14,800[29] ルソン海峡および南シナ海[30]
クイーンフィッシュ-2 マジュロ[31] 1944年10月27日[31] 35[32] 4 / 38,500[32] 4 / 14,300[32] 東シナ海[33]
クイーンフィッシュ-3 アプラ港[34] 1944年12月29日[34] 32[35] 1 / 10,100[35] ⅓ / 951[35] 台湾海峡[36]
クイーンフィッシュ-4 真珠湾[37] 1945年2月24日[37] 46[38] 1 / 12,000[38] 1 / 11,600[38] 中国沿岸[39]


 

チャールズ・E・ラフリンの撃沈スコアランキング
順位(隻数) 哨戒回数 隻数/トン数
戦時中認定
隻数/トン数
JANAC
36[40] 8 12 / 109,400[40] 8 ⅓ / 41,718[40]


 

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ "Loughlin" の日本語読みは多様である。本項ではディングマン『阿波丸撃沈』の川村孝治の翻訳に拠った。ロリ・ロックリンも参照。
  2. ^ この3分の1は、1945年1月8日のタンカーの彦島丸(三菱汽船、2,854トン)の撃沈に関して、バーブおよびピクーダと戦果を三等分したもの(#Roscoe p.564)。ただし、実際には彦島丸に命中した魚雷はなく、沈没原因も魚雷回避中に座礁して果てたものである(#郵船戦時下 pp.744-745)。
  3. ^ JANAC英語版

出典[編集]

  1. ^ a b c d Loughlin, Charles Elliott (1910-1989)”. United States Naval Institute (2011年). 2012年9月6日閲覧。
  2. ^ a b c #Find a Grave
  3. ^ a b c #ディングマン p.51
  4. ^ Navy Men's Basketball: A Tradition of Excellence”. NavySports.com. United States Naval Academy (2011年). 2012年9月6日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q #Blair p.896
  6. ^ #ディングマン pp.50-51
  7. ^ #Blair p.706
  8. ^ #Blair pp.707-710
  9. ^ a b c d e #Hall of Valor
  10. ^ #SS-393, USS QUEENFISH p.83
  11. ^ #Roscoe p.504
  12. ^ #Blair pp.772-774
  13. ^ #Roscoe p.500
  14. ^ #Roscoe p.505
  15. ^ #Blair pp.808-810
  16. ^ #ディングマンp.58
  17. ^ #ディングマン p.58
  18. ^ a b c #ディングマン p.60
  19. ^ a b c d e f g #Blair pp.836-840
  20. ^ a b #ディングマン p.62
  21. ^ #ディングマン pp.62-65
  22. ^ #ディングマン pp.65-66, p.72
  23. ^ #ディングマン p.66
  24. ^ #ディングマン p.77
  25. ^ Captains Loughlin And Cutter”. Sports Illustrated (1957年6月3日). 2012年9月6日閲覧。
  26. ^ #ディングマン p.168
  27. ^ a b #ディングマン p.190
  28. ^ a b #SS-393, USS QUEENFISH p.10
  29. ^ a b c #Blair p.955
  30. ^ #SS-393, USS QUEENFISH p.9
  31. ^ a b #SS-393, USS QUEENFISH p.77
  32. ^ a b c #Blair p.960
  33. ^ #SS-393, USS QUEENFISH p.76
  34. ^ a b #SS-393, USS QUEENFISH p.112
  35. ^ a b c #Blairp.964
  36. ^ #SS-393, USS QUEENFISH p.111
  37. ^ a b #SS-393, USS QUEENFISH p.150
  38. ^ a b c #Blair p.969
  39. ^ #SS-393, USS QUEENFISH p.149
  40. ^ a b c #Blair p.985

参考文献[編集]

  • (issuu) SS-393, USS QUEENFISH. Historic Naval Ships Association. http://issuu.com/hnsa/docs/ss-393_queenfish?mode=a_p. 
  • Roscoe, Theodore. United States Submarine Operetions in World War II. Annapolis, Maryland: Naval Institute press. ISBN 0-87021-731-3. 
  • 財団法人海上労働協会(編) 『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』 財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6
  • 日本郵船戦時船史編纂委員会 『日本郵船戦時船史』下、日本郵船、1971年
  • Blair,Jr, Clay (1975). Silent Victory The U.S.Submarine War Against Japan. Philadelphia and New York: J. B. Lippincott Company. ISBN 0-397-00753-1. 
  • 駒宮真七郎 『戦時輸送船団史』 出版協同社、1987年ISBN 4-87970-047-9
  • ロジャー・ディングマン 『阿波丸撃沈 太平洋戦争と日米関係』 日本郵船歴史資料館(監訳)、川村孝治(訳)、成山堂書店、2000年ISBN 4-425-94611-1
  • 谷光太郎 『米軍提督と太平洋戦争』 学習研究社2000年ISBN 978-4-05-400982-0

外部リンク[編集]

関連項目[編集]