チャルーア族



チャルーア族(チャルーアぞく、Charrúa)は、現在のアルゼンチン北東部のリトラル地方、ブラジル南部、ウルグアイに住んでいたインディオの部族である。当初は狩猟民であり、漁労と採集により生計を立てていた。大きな建築物を建てることはなく、最後までテントで暮らしていた。
社会
[編集]移動する狩猟採集民で、スペイン人とともに馬がもたらされると乗馬を覚え、以前にも増して強力になった。
文化
[編集]食人の文化があったといわれている。
歴史
[編集]スペイン人による征服の直前において、現ウルグアイの地域には5,000人ほどの先住民しかいなかったが、チャルーア族はグアラニー族と並んでその中で主要な民族だったようである。
ラ・プラタ川にやってきた最初のスペイン人の航海者フアン・ディアス・デ・ソリスは当初チャルーアに友好的に迎えられたが、ソリスはこれを無視してチャルーア族に従うよう強制した。4年後、再びこの地に赴いたソリスはチャルーア族に殺害された。
ヨーロッパ人を信用するにあたらないとみなしたチャルーア族は、1536年に建造されたブエン・アイレ(ブエノスアイレス)市を激しく攻撃し、この町は1541年に放棄された。こうして、チャルーア族はラ・プラタ地域でヨーロッパ人の最大の敵となった。
ソリスとの接触からヨーロッパ人との長きにわたる戦いが始まった。チャルーア族はアメリカ大陸の先住民の中でも稀に見るほどの闘争心を持って徹底的に戦い、しばしば攻め込んできたスペイン人征服者を撃破したが、次第に勢力が衰えて、1800年ごろまでには今のウルグアイ北部にまで追い詰められていった。
1800年代初頭にバンダ・オリエンタルでも南米の解放戦争が始まると、チャルーア族は解放者ホセ・アルティーガスのトゥパマロス軍に加わり、スペイン軍やブエノスアイレスからの独立戦争に加わるが、ブラジルから侵攻してきたポルトガル軍の侵略によりアルティーガスが失脚し、その後第二次ウルグアイ独立戦争が終わってウルグアイが独立すると、ウルグアイの初代大統領となっていたフルクトゥオソ・リベラはチャルーア族を脅威とみなし、1831年、リベラの甥のベルナルベ・リベラにだまし討ちにあってサルシプエデス川の戦いで敗れ、1,000人ほどに減っていたチャルーア族は民族集団としてはここで滅びる。ここでわずかに生き残ったチャルーア族の4人はフランスに売り飛ばされ、見世物にされた。彼らを偲んだ「最後のチャルーア」の銅像がモンテビデオに建てられ、遺骨は2002年にようやく169年ぶりにウルグアイに帰った。
チャルーア族の誇り高い闘争心はウルグアイ人にとって誇りであり、ガラ・チャルーア(garra Charrúa チャルーアの爪)という言葉はチャルーア族の不屈の闘争心を表し、現在ではサッカーの試合など、決して負けられないときにウルグアイ人の魂のようなものを表現するべく使われることもある。似たような意味で「サングレ・チャルーア」(sangre Charrúa チャルーアの血、自分たちにチャルーア族の血が流れていることを誇る)ということもある。
サッカーウルグアイ代表チームは「ロス・チャルーアス」と呼ばれる。ブラジルのポルトアレグレのラグビーチームにもチャルーアの名を冠するものがある。