ダライ・ラマ8世

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ジャムペル・ギャツォ
ダライラマ8世
Jamphel Gyatso, 8th Dalai Lama - AMNH - DSC06244.JPG
在位 1762年 – 1804年
前任 ケルサン・ギャツォ
後任 ルントク・ギャツォ
チベット語 འཇམ་དཔལ་རྒྱ་མཚོ་
ワイリー 'jam dpal rgya mtsho
転写
(PRC)
Qambê Gyaco
漢字 強白嘉措
スーナム・ダルギェ
プンツォク・ワンモ
生誕 1758年
ツァン地方トプゲル(チベット
死没 1804年(45–46歳)
チベット
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ダライ・ラマ8世ジャムペル・ギャツォチベット文字:འཇམ་དཔལ་རྒྱ་མཚོ་、1758年 - 1804年)は、チベット仏教ゲルク派の有力な化身系譜であるダライ・ラマの8代目として認定された人物である。名はジャムペーギャムツォ、ジャムペル・ギャムツォ、ジャンペル・ギャンツォとも表記される。1762年から1804年まで、ダライ・ラマ7世の下で成立した第二次ダライラマ政権の首長の座にあった。

出生[編集]

1758年、チベット南西部ツァン地方トプゲルのラリカンに生まれた[1]。父親のスーナム・ダルギェと母親のプンツォク・ワンモは、もともとチベット東部カム地方の人で、口承物語「ケサル王伝」に登場するチベットの伝説的英雄の一人、ダラ・ツェギャルの末裔とされている[1]

母親のブンツォク・ワンモがダライ・ラマ8世となる子を懐妊して間もなく、ラリカンの地は大豊作となり、1本のオオムギに3本から5本もの穂がついたと伝わるが、これは前代未聞のことであった[1]。また、母親とその親類が庭で食事をしていると、巨大な虹が現われ、その弓形の一端が母親の肩にかかったという逸話も伝承されていて、これは聖者の誕生を告げる吉兆であるのだという[1]

誕生して間もなく、その子は微笑しながらしきりに天を仰ぎ、蓮華座を組んで瞑想の姿勢をとるようになった[1]。その子のことを伝え聞いたパンチェン・ラマ6世(または3世)ロサン・ペンデン・イェシェーは、この子がまぎれなくダライ・ラマ7世の転生者であると語った[1]

成長と即位・受戒[編集]

シガツェのタシルンポ寺
ラサのポタラ宮

幼いジャムペル・ギャツォが会話できるようになるとすぐ「3歳になったらラサに行く」と周囲に語ったと言われている[1]。ラサはダライラマ政権の首都でチベット仏教の聖地であった。次第にチベット全体が、この子を正統なダライ・ラマ8世であると確信するようになった[1]。ダルクパ・タイェは、多数の僧侶を伴ってラサを訪れ、当時2歳であったその子をシガツェタシルンポ寺に連れて行き、認定式を執り行った[1]セラ寺ガンデン寺デプン寺の代表および国の神託僧(クテン)によって認定がなされ、タシルンポ寺にあったパンチェン・ラマ6世は、その子に「ロサン・テンペー・ワンチュク・ジャムペル・ギャムツォ」の法名を正式に授けた[1][2]

1762年、4歳となったジャムペル・ギャツォは臣下とともにラサに往き、ポタラ宮で正式にダライ・ラマ8世として即位した[1]。即位式を主催したのは、ダライ・ラマ7世没後に新たに設けられた名代職(ギェルツァプ)に任命されたテンギューリン寺のテモ活仏ジャムペル・デレクであった[1]。1765年、ジャムペル・ギャツォ少年はパンチェン・ラマ6世から沙弥戒を受け、1777年に満19歳で具足戒を受けた[1]

ダライ・ラマ8世が幼少の間、政治情勢は比較的穏やかであった[2]乾隆帝は1750年代後半にイリ地方を本拠とするジュンガル部を大破し、タリム盆地の征服の乗り出したためチベットへの監視を強めることはなかった[2]。また、モンゴル人の脅威も遠のいたので、乾隆帝は摂政の任命やダライ・ラマ認定もこころよく承認した[2]。清から派遣された駐蔵大臣(アンバン)の官吏としての生活も快適なものであった[2]

治世[編集]

ダライ・ラマ8世は世事に関心が薄く、政務を代行する名代が1777年に没してからも、ツェムンリン寺から摂政を選んで政務を任せた。1781年になってようやく親政を始めたが、事実上は摂政らが執政を続けた[3]。ダライ・ラマ8世が没してからダライ・ラマ13世が実権を握るまでの時代、名代職が権力を振るって暗躍し、その実権の争奪にしばしば謀略が巡らされるようになったが、ダライ・ラマ8世が摂政などに権力の独占を許したことがその傾向の遠因となったとも言われる[4]

1780年にパンチェン・ラマ6世が北京で客死すると、その実の兄弟であるシャマルパ10世(9世とも数える)ミパム・チュードゥプ・ギャムツォと、その兄弟でタシルンポの寺務職にあったドゥンパ・リンポチェが相対立するようになった[2]。タシルンポに対してパンチェン・ラマ6世の遺産の相続を要求したシャマルパ10世は、乾隆帝からの莫大な贈り物をドゥンパ・リンポチェが無断で分配したことに立腹した[5]。1781年生まれのジャムペル・ギャツォの従弟(後のパンチェン・ラマ7世ロサン・テンペー・ニマ)が1782年にパンチェン・ラマ6世の転生者として見出されると、ゲルク派とシャマル派の反目はいっそう深まり、両派の寺院は互いに遺産を奪おうとしていると非難しあう状況となった[2]。そうした中、シャマルパ10世はネパールへ布教に赴き、ネパール王ラナ・バハドゥル・シャハの摂政に、ゲルク派への不満やタシルンポ寺の富のことを伝えた。このことが、ネパールのグルカ軍がチベットに侵攻し、1791年にはシガツェとタシルンポ寺を攻略するに至る一因となった。

ゴルカ王プリトビ・ナラヤン・シャハが1769年にネパールを制圧して開いたネパール王国は、第3代ラナ・バハドゥル・シャハの在位期間に、貨幣鋳造問題をめぐってチベットに対して軍事行動を起こした。ネパールがチベットに侵攻したグルカ戦争清・ネパール戦争)は1788-1789年と1791-1792年の2度に及んだ。これに対してダライ・ラマ政権は自力で対処できず、清朝の援軍を仰いだ[6]。この結果、ようやくチベットからグルカ兵を撃退することができたものの、清朝からの強い統制を受けることとなった。清の軍勢はこのときカトマンズまであと5キロメートルというところまで迫っている。チベット政府は、戦後処理の一環として清により行政・軍事・教団運営などの制度改革を強制され、ダライ・ラマやパンチェン・ラマの転生者の認定にくじを用いる金瓶掣籤の制度が導入された[6]。これは、乾隆帝が下賜した金瓶に入れられた転生者の候補の中から駐蔵大臣(アンバン)が抽選するというもので、これにより、化身ラマの認定プロセスそのものに清朝が直接関与する事態を招いた[6][7][注釈 1]。この制度によってダライ・ラマ認定や即位のプロセスにおける清朝の存在は従来になく強まったものの、あくまでも最終段階でくじ引きをさせたものにすぎず、清朝が特定個人の任免権を有するわけではなかった[6]

ダライ・ラマ8世は、宗教面においては目覚しい業績を上げ、ダライ・ラマ7世の代に造営されたラサ近郊の有名なノルブリンカの庭園と夏の離宮を完成させた功績がある[1]

ダライ・ラマ8世が死去したのは1804年、47歳のことであった[1]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ この後、1822年のダライ・ラマ10世、1842年のダライ・ラマ11世、1857年のパンチェン・ラマ8世、1888年のパンチェン・ラマ9世、1995年のパンチェン・ラマ11世の転生認定に際し、くじ引きが行われた。手塚(2010)p.189

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 石濱裕美子「チベット仏教世界の形成と展開」『中央ユーラシア史』小松久男編、山川出版社〈新版世界各国史〉、2000年10月。ISBN 4-634-41340-X
  • 田中公明『活仏たちのチベット』春秋社、2000年。
  • 手塚利彰「ダライラマの出現とその歴史的背景:「民族的自決権」はいかにして剥奪されたか」『中国はなぜ「軍拡」「膨張」「恫喝」をやめないのか』櫻井よしこ北村稔編、文藝春秋、2010年10月。ISBN 978-4-16-373270-1
  • 宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』刀水書房、2002年10月。ISBN 4887082444
  • 山口瑞鳳「ダライ・ラマ」『世界大百科事典 第17版』平凡社編、平凡社、1988年3月。ISBN 4-58-202700-8
  • 山口瑞鳳『チベット 下 (改訂版)』東京大学出版会〈東洋叢書4〉、2004年(原著1988年)。
  • ロラン・デエ『チベット史』今枝由郎訳、春秋社、2005年10月。ISBN 4-393-11803-0

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

先代:
7世(ケルサン・ギャツォ)
ダライ・ラマの転生
8世:1762年 - 1804年
次代:
9世(ルントク・ギャツォ)