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ダネヴィアケ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ダネヴィアケ
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン
こんにちのダネヴィアケ
ダネヴィアケの位置(ドイツ内)
ダネヴィアケ
座標北緯54度28分 東経9度27分 / 北緯54.467度 東経9.450度 / 54.467; 9.450座標: 北緯54度28分 東経9度27分 / 北緯54.467度 東経9.450度 / 54.467; 9.450
種類防塁、塁壁、堀
地上高3.6–6.0メートル
施設情報
管理者デンマーク人 (歴史的な ゲルマン族)
一般公開一般公開中
現況遺跡
歴史
建設紀元500年以前
以降複数回拡張
建設者不明
ゴズフレズ王、ハーラル青歯王、クヌーズ4世、ヴァルデマー1世ほかにより拡張補強
使用期間974,[1] 1848, 1864.
建築資材土、木材、石材、レンガ
土塁
ユネスコ世界遺産
所在地ドイツシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州シュレースヴィヒ
所属ヘーゼビューとダーネヴィアケの考古学的境界線群
登録区分(iii), (iv)
参照1553
登録2018年(第42回委員会)

ダネヴィアケ[note 1]Danevirke、近代: Dannevirke: Danewerk古ノルド語: Danavirki: DanevirkeあるいはDanework[10]文字通り「デーンの土塁」の意[11])は、ドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州にあるデンマークの防衛設備である。この歴史的に重要な線状の防衛土塁は紀元540年ごろの北欧鉄器時代英語版デーン人によってユトランド半島の地峡部を横切る形で建築された。ダネヴィアケはデンマークのヴァイキング時代中世盛期に多角的に拡張された。軍事目的での使用は1864年第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が最後である。

ダネヴィアケは複数の防壁と堀、そしてシュライの防護矢来[12]から成る。防壁は30キロメートルあり、東はバルト海沿岸に位置するシュレースヴィヒ近郊の、ヘーゼビューのかつてのヴァイキングの交易場から、西は半島の湿地の間の30キロメートルに及んでいる。東壁( : Østervolden)という名の防塁がシュライ湾エッカーンフェルデの入り江の間にあり、シュヴァンゼン半島を防衛した。

文献によれば、ダネヴィアケは808年デンマーク王ゴズフレズによって造成が開始された。100年の間に異教のフリジア人を、772年から804年にかけて古ザクセン英語版を征服したフランク人による侵略を恐れ、ゴズフレズは自分の領地を守るために巨大な建造物の造成を始め、フランク帝国の北部地域からユトランド半島を切り離した。しかしデーン人は北欧鉄器時代を通してずっとヘーゼビュー南部のザクセン人と衝突しており、近年の考古学的な発掘調査によって、ダネヴィアケの増築はゴズフレズ王の治世より少なくとも紀元500年ごろまで遡ることが明らかになった[13]。歴史的重要性とヴァイキング時代の交易路防衛を証明したことから、ダネヴィアケと近隣のヴァイキングの町であるヘーゼビューは2018年ユネスコ世界遺産リストに登録された[14]

象徴性

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ダネヴィアケ建設を命じるテューラ英語版ローランス・フレーリク刷。

伝説によればダネヴィアケの建設を命じたのは王妃テューラで、彼女は歴史上最初の王と認められたゴーム老王(在位:936年 - 958年)の妻だった。

19世紀中、ヨーロッパに国民国家が出現したことにより、ダネヴィアケはデンマークとデンマーク人とデンマーク文化独自の概念の強力な象徴となった。19世紀の初めから終わりまで、デンマークとドイツはデンマーク人にはスナユラン(Sønderjylland)あるいはスリースヴィ(Slesvig)、ドイツ人にはシュレースヴィヒ(Schleswig)としてさまざまな名で知られる領土の政治的、軍事的な所有権を巡り争った。第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(1848年 – 1851年)と第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(1864年)で両国は争いデンマークが敗れ、この地域はドイツに併合された。この敵対的な背景から、ダネヴィアケはまずドイツに対する精神的文化的障壁として、間もなく実際の軍事的な要塞となり、1850年と1861年に砲座の設置と塹壕により強化され、重要な役割を担った[15]

19世紀初め、ダネヴィアケはデンマークの国家主義の、とりわけドイツに対するデンマークの自治権の問題を扱う雑誌の題名に採用されたが、なかでも1816年から19年にかけてニコライ・フレデリク・セヴェリン・グルントヴィが出版したものが最も有名である。より初期の時代、ダネヴィアケは確かにデンマークとドイツの文化と言語レーエンを規定するものだった。しかし文化と言語の境界は次第に北へ移動し、19世紀までに遠くはフレンスブルクもドイツ語話者が多数を占めるようになった。しかし依然としてそうした地域もデンマークの一部だった[15]

考古学的記録

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1965年から1975年の間に行われた年輪年代測定法を用いた考古学的な発掘調査で、ダネヴィアケの主要な構造物は紀元737年から968年の間に3段階で建設されたことが立証された。したがって、これは8世紀の後半のオファの防塁英語版というウェールズとイングランドの間の防衛設備と同年代ということになる。

2013年に新たに行われた放射性炭素年代測定で第2期は西暦500年ごろに始まり、最古の要塞はそれよりもさらに古いことが明らかになった[13][16]。以前の放射性炭素年代測定では初期の建造物のいくつかは7世紀後半のものとされており、年輪年代測定法でも王ゴズフレズの治世よりもおよそ70年前の747年以降間もなく始められたことが示唆されている[17][18]

規模

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16世紀のカルタ・マリナに描かれたダネヴィアケ(赤で示された部分)、1539年出版。
ダネヴィアケの建築段階
リースホルム半島(: Reesholm、ライスホルム: Rejsholm)の対岸にあるステクスヴィヒ(: Stexwig、スティーイスヴィ: Stegsvig)に復元されたシュライ防衛矢来。
エッカーンフェルデ市近くに残る東壁の遺跡。シュヴァンゼン半島(: Schwansen、スヴェンス: Svans)を防衛する。

ダネヴィアケは全長約30キロメートル(19マイル)で、高さは3.6メートルから6メートル(12から20フィート)ある。中世には矢来柵英語版と石造りの壁で補強され、デンマーク国王がデンマーク軍の遠征の集合場所にされたが、これには南バルト海のスラヴ人に対する北方十字軍の襲撃も含まれる。特に12世紀の王ヴァルデマー1世はダネヴィアケの一部をレンガで補強し、これによって戦略的に重要なこの構造物を継続的に軍事利用できるようになった。そのため、補強された部分はデンマーク語でヴァルデマスムーアン(Valdemarsmuren、直訳で「ヴァルデマーの壁」の意。以下同じ)として知られる[19]

ダネヴィアケの建築段階

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ダネヴィアケと牛の道: Hærvejen / : Ochsenweg)の地図。
こんにちのアイダー川トレーネ川英語版ライダー・アウ英語版シュライ湾の地図。
  • ダネヴィアケ 1 主壁(: Hovedvolden / : Hauputwall)、北壁(: Nordvolden / : Nordwall)、東壁(: Østervolden / : Osterwall

最初のダネヴィアケの建造には5段階に分けられるが、放射性炭素年代測定によれば造成が始まったのはおよそ650年ごろである。最初の3段階は、簡素な土の壁だったが、737年に作られた4段階目の壁は重厚な木材で作られた塁壁だった。最終段階では、重い石壁を木柵の周囲に築くことにより補強した[18]。造成はアンガンチュール英語版によって始められ、シーフレズ によって続けられ、歴史的な記録によれば、808年にゴズフレズが終わらせたといわれている。

  • 主壁 ライゼ・オー英語版: Rejde Å、こんにちのライダー・アウ: Rheider Au)からダネヴィアケ・スー(Dannevirke Sø)と呼ばれる小さな湖まで。これはダネヴィアケの主要部である。おおよその高さは2メートル、幅は12メートルである。
  • 北壁 ダナヴィアケ・スーの北東部から始まり、北へ7キロメートル伸びる。
  • 東壁 全長は約3.3キロメートルあり、シュヴァンゼン半島を防衛している。
  • シュライ湾内にある全長900メートルの水中構造。


  • ダネヴィアケ 2 コーヴィアケ(: Kovirke、「牛の仕業」の意)/ コグラーベン(: Kograben「牛の堀」あるいは「区域の堀」の意)

ゴズフレズかハーラル青歯王のいずれかが建造したもので(これがフランク王国の年代記の808年に言及された新しい壁である場合、ハーラルが建造したものではない)、こんにちゼルカー・ノールドイツ語版と呼ばれるシュライ湾の南部からライゼ・オーへ向って7キロメートル南に伸びている。柵は高さ3メートルあり、最初に建造された壁よりもわずかながら頑丈だった。柵の後ろの土手は高さ2メートルで幅7メートルあり、幅4メートル、深さ3メートルのV字形のを伴っていた。防壁の建築年代は770年から970年の間と推定される[18]

  • ダネヴィアケ 3 主壁、曲壁(: Krumvolden / : Krummwall)、弓状壁(: Buevolden / : Bogenwall)、二重壁(: Dobbeltvolden / : Doppelwall)、接続壁(: Forbindelsesvolden / : Verbindungswall)、マルガレーテ壁(: Margarethenwall) 

主壁は拡張されて今や高さ約5メートル、幅約20メートルになった。曲壁はライゼ・オーを横切って建設され、主壁と重なっている。接続壁はダネヴィアケ・スー(Dannevirke Sø)付近の半円壁(: Halvkredsvolden、「半円の塁壁」の意、以下「半円壁」、ヘーゼビューを防護する土手)と主壁の隙間を埋めた。弓状壁と二重壁は重要な道路の分岐合流点を保護した。この壁はハーラル青歯王の築いたとされる構築物のほとんどと接続していた。アーリル・ヴェトフェルト英語版の『デンマーク王国年代記(Danmarks Riges Krønike)』には当時のダネヴィアケの拡張工事についてより詳しく書かれている。「そこで王妃テューラ英語版ゴーム老王の妻)は王国全土からデンマーク人を国境へ召集し、自身の監督の下スリーイン(Slien、シュライ湾)からトレーネ川へ至る湿地まで土と木材で防塁を築かせた。スコーネの住民はカーレガト(Karlegat)からトレーネ川まで、シェラン島とフュン島の住民はシュライ湾からカーレガトまでの東側を受け持った。ユラン人は全軍に食料を供給した」。この記述から、テューラによる増築は940年より前であることがわかる。接続壁は974年オットー朝ザクセン人の襲撃を受けた。

  • ダネヴィアケ 4 主壁

主壁の補強は954年に完了し、新しい接続壁が964年から968年が完成した。ハーラル青歯王が主な建設者であると考えられる[18]

  • ダネヴィアケ5 接続壁、曲壁、主壁

クヌーズ4世(在位1081年 - 1086年)の下、デンマークは神聖ローマ帝国と戦争状態にあった。12世紀初頭、ダネヴィアケは強化され、堀はより深く、壁はより高くなった。主壁の一部には花崗岩の大きな石を使った防塁が築かれた。

  • ダネヴィアケ 6 主壁とテューラボー砦 / テューラブルク砦(: Thyraborg / : Thyraburg

ヴァルデマー1世は有名な「ヴァルデマー壁」で要塞化した。これは花崗岩の巨石を土台にモルタルで固めた高さ7メートルの石の壁で、控え壁で支えられ、瓦で葺かれていた。これは大規模な補強であり、ユトランド半島を経由して北へ進軍しようとする軍隊を阻んだのは疑いようがない。これが真の意味で最後の補強である。後にテューラボー砦(Thyraborg)が建築される。

14世紀には、人員配置と費用がかかることと、バリスタトレビュシェット、またはそれに類する包囲攻撃兵器の発達によりダネヴィアケはその役割を失い始めた。

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争

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第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争

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1848年3月31日、第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発したが、プロイセンは4月19日の海戦まで参戦しなかった。そのためフリードリヒ・フォン・ヴランゲル将軍は1万2000人のプロイセン陸軍を率い、抵抗力に劣るダネヴィアケの塹壕へ進軍し、ダンネヴェルクドイツ語版近郊の町で短い戦闘を行なった後、デンマーク軍を撤退させ、シュレースヴィヒ公国の都市を占領した[20]。1848年8月2日に調印された休戦協定によりプロイセン軍はシューレスヴィヒ=ホルシュタインから撤退したが、戦争は終結しなかった。その後2年間ダネヴィアケ周辺で戦闘が続いたが、ダネヴィアケは戦闘で利用されなかった。最終的に講和条約が1852年5月8日に調印された。

第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争

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主要記事:ダネヴィアケ撤退英語版

ダネヴィアケが最後に軍事利用されたのは1864年の第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争である。感情的な国家主義象徴性のため、デンマークの世論とデンマーク軍は来るべき戦争がダネヴィアケ沿いで起こると予想した。数世紀に渡る放棄と腐朽ののち、ダネヴィアケの要塞は1850年と1861年部分的に修復と強化され、大砲が装備された。第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争では、初期にダネヴィアケの南方で小競り合いがあったものの、厳冬によりシュライ湾とダネヴィアケ - フーソム英語版間の湿地帯は完全に凍結し、容易に横断できる状態だった。また、ダネヴィアケの南側の地域は進軍するドイツ軍に征服された。予期せぬ側面攻撃の脅威によりデンマーク軍総司令デメーサ将軍英語版デュブル英語版要塞に全軍を撤退させていたためダネヴィアケでは戦闘は起こらなかった。この撤退はオーストリア・プロイセン軍にとって意外な出来事であり、デンマーク軍ほぼ全員が撤退を完了した。しかしその結果として重要な重砲が放棄されフレンスボーの鉄道が撤退に際し適切に使用されなかったのか理由は依然として歴史的議論の的になっている。撤退の知らせはダネヴィアケを難攻不落の要塞と考えていたデンマークの世論に大きな衝撃を与え、デメーサ将軍は直ちに指揮権を解かれた。以降ダネヴィアケはドイツ軍に帰属した[15][21]

第二次世界大戦

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第二次世界大戦中、連合軍によるノルマンディー上陸作戦後、ドイツ国防軍は連合国による二次侵攻がデンマーク経由で行われる可能性を懸念し、脅威に対抗するために土塁を対戦車塹壕に改造することを検討した。もしこの提案が実行されていたらダネヴィアケは破壊されていただろう。

計画を耳にしたデンマークの考古学者セーアン・テリングデンマーク語版は、全ての考古学調査の最高管轄権がナチス親衛隊(以下SS)のハインリヒ・ヒムラーにあることを知っていたため、直ちにSSのアーネンエルベとヒムラー本人にも電話をかけた。テリングは強く「アーリア文明」の重要な遺跡の破壊に反対し、ヒムラーは対戦車塹壕の建設中止の権限をテリングに与えた。ヒムラーはテリングに書面による命令が発送されるが、到着まで数日かかるだろうと伝えた。その後テリングは車で現場に向かい、国防軍の指揮官に建設作業を直ちにやめるよう命じた。現地の国防軍指揮官が拒否するとテリングはSSから報復措置を受けると指揮官を脅した。工事は中止され、2日後ヒムラーからの書面による命令が届いたが、それはドイツ国防軍による当初の命令とは相反するものだった[22]。テリングはこの遺跡の近くに定住し、1968年に亡くなるまで自身をダネヴィアケの守護者とみなしていた。

関連項目

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注釈

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  1. ^ 日本語書籍のカナ表記には揺れがありダネヴィアケ[2][3][4]ダーネヴィアケ[5]ダーネヴェルク[6]ダンネヴェルク[7]デーネヴィーケ[8]などがある。現代デンマーク語ではダネヴィアゲ[9]のカナ表記が現代デンマーク語の発音に即しているが、本稿ではダネヴィアケとした。

出典

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  1. ^ Else Roesdahl. “Broer, Ringborge og Dannevirke [Bridges, Ringcastles and Danevirke]” (デンマーク語). danmarkshistorien.dk. Aarhus University. 2014年12月20日閲覧。
  2. ^ 『デンマークの歴史』p.24、25、30、43、52、204、206(原語表記 : Danevirke デンマーク語からの翻訳)。
  3. ^ 『北欧史』p.7、43、46、238、239(原語表記なし)。
  4. ^ 『ヴァイキングの考古学』p.33-35、52、145(原語表記 : Dannevirke)。
  5. ^ 『ヴァイキングの世界』p.47(原語表記なし、英語書籍からの翻訳)。
  6. ^ 『ヴァイキング・サガ』p.22、336、410(原語表記 : Danewerk ドイツ語からの翻訳)。
  7. ^ 『ヴァイキングの考古学』p.33(原語表記 : Dannewerk)。
  8. ^ 『図説ヴァイキングの歴史』p.71、72、77、208(原語表記なし、英語書籍からの翻訳)。
  9. ^ 『デンマーク語固有名詞カナ表記小辞典』p.66、p.133。
  10. ^ Fehring, Günter P. (24 October 2014). The Archaeology of Medieval Germany: An Introduction. Routledge. ISBN 9781317605119. https://books.google.com/books?id=7RMcBQAAQBAJ&pg=PA140 
  11. ^ Ordbog over det danske Sprog: Virke
  12. ^ 木村寿夫訳、『ヴァイキング・サガ』p.416。
  13. ^ a b Danevirke – Ældre end hidtil antaget! Archived 25 September 2015 at the Wayback Machine. Museum South-Jutland. (デンマーク語)
  14. ^ Archaeological Border complex of Hedeby and the Danevirke”. UNESCO World Heritage Centre. UNESCO. 2022年9月25日閲覧。
  15. ^ a b c Lotte Flugt Kold (2014年11月3日). “Dannevirke” (デンマーク語). danmarkshistorien.dk. Aarhus University. 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年12月20日閲覧。
  16. ^ Uffe Christensen (2013年8月27日). “Danevirke er noget ældre end antaget” (デンマーク語). 2013年10月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月27日閲覧。
  17. ^ Matthias Schulz (2010年8月27日). “'Sensational' Discovery: Archeologists Find Gateway to the Viking Empire”. Spiegel Online International. 2014年2月27日閲覧。
  18. ^ a b c d Dannevirke” (デンマーク語). Gyldendal Business. 2012年2月1日閲覧。
  19. ^ Anders Bøgh. “Valdemarstiden 1157–1241” (デンマーク語). danmarkshistorien.dk. Aarhus University. 2012年3月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年12月20日閲覧。
  20. ^ Heinrich Sybel, The Founding of the German Empire by William I. 1890. Volume 1, page 253
  21. ^ Henrik Dannemand Jensen (2014年2月4日). “Da 40.000 danske soldater opgav Dannevirke og forsvandt i ly af natten [When 40,000 Danish soldiers gave up Danevirke and disappeared under cover of darkness]” (デンマーク語). 2014年12月20日閲覧。
  22. ^ including Himmler's warrant i Danish translation, authorizing Telling to protect the site

参考文献

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翻訳元

  • Andersen, H. Hellmuth (2004) (デンマーク語). Til hele rigets værn. Højbjerg: Moesgård & Wormianum. ISBN 87-89531-15-9 

翻訳

  • ヒースマン・姿子(第1章)、村井誠人(第6章のデンマーク) 著、百瀬宏熊野聰、村井誠人 編『北欧史』山川出版社〈世界各国史 21〉、1998年、43, 46, 216-217, 238-241頁。 
  • ルードルフ・プェルトナー 著、木村寿夫 訳『ヴァイキング・サガ』法政大学出版局、1997年、20-23, 336-337, 409-410, 415-419頁。 
  • ヘリエ・サイゼリン・ヤコブセン 著、村井誠人 訳『デンマークの歴史』ビネパル出版、1995年、23-25, 51-52, 203-207頁。 
  • B.アルムグレン 著、蔵持不三也 訳『図説ヴァイキングの歴史』原書房、1990年、71-72, 207-208頁。 
  • 『ヴァイキングの世界』熊野聰、朝倉書店〈図説 世界文化地理大百科〉、2000年、47, 81頁。 
  • Phillip Pulsiano, ed (1993) (英語). Medieval Scandinavia : an Encyclopedia. Sebastopol, California: Routledge. pp. 120-121. ISBN 0-8240-4787-7 
  • 新谷俊裕、大辺理恵、間瀬英夫(編)「デンマーク語固有名詞カナ表記小辞典」『IDUN : 北欧研究』第2巻別冊、大阪大学世界言語研究センターデンマーク語・スウェーデン語研究室、2006年6月。 

外部リンク

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