ダッチェス (駆逐艦・初代)

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艦歴
発注 1931年2月2日
起工 1931年6月12日
進水 1932年7月19日
就役 1933年1月24日
その後 1939年12月10日に沈没
退役
除籍
性能諸元
排水量 基準:1,375トン
満載:1,890トン
全長 329 ft (100.3 m)
全幅 33 ft (10.1 m)
吃水 12 ft 6 in (3.8 m)
機関 アドミラリティ・ボイラー 3缶
パーソンズ式蒸気タービン2基
2軸推進、36,000shp(27,000 kW)
速力 36ノット
航続距離 15ノットで5,870海里
乗員 145名
兵装 119mm(4.7in) Mark IX 単装砲 4門
76.2mm(3in)対空砲 1門
QF 2ポンド Mk.II 対空砲 2門
533mm(21in)Mk.IX 4連装魚雷発射管 2基
爆雷 20発
爆雷投射機 2基
爆雷投下軌条 1軌

ダッチェス (HMS Duchess, H64) はイギリス海軍駆逐艦D級

艦歴[編集]

1931年6月起工。1932年7月19日進水。1933年1月24日就役。

1935年12月1日昼頃、インド洋を航海中、乗員1名が腹痛を訴えたが、軍医が乗艦していなかったためマレーシアペナンに向かって全速で航行中、17時50分ごろ、欧州行きの貨物を搭載してシンガポールからコロンボに向かっていた「水戸丸」(日本郵船、7,061トン)を発見。国際信号旗M・J[注釈 1]を掲げて進路を変更。「水戸丸」に接近してWのモールス信号[注釈 2]を打電した。「水戸丸」の長水田正道船長は停船を指示し、「ダッチェス」からの救援要請を承諾。「ダッチェス」はボートを「水戸丸」に派遣し、事情を説明。「水戸丸」と「ダッチェス」が遭遇した位置からペナンまでは約1,020㎞もあり、ペナンまで15時間かかることから、長水田船長は船医の佐藤一郎医師を「ダッチェス」へ往診に行かせ、19時頃、患者を治療して「水戸丸」へ帰船。こうして腹痛に苦しんでいた乗組員は事無きを得たため、「水戸丸」は目的地であるハンブルクを目指して西へ、「ダッチェス」はペナンを目指して東へと向かった。別れ際、「ダッチェス」は「英国軍艦ダッチェス号より、貴船の絶大なる御救援を深謝す」と感謝の信号を何度も繰り返し発信した。このことは当時の日本の新聞で、美談として話題となった。

第二次世界大戦勃発時に中国方面から地中海へ移動。

1939年12月6日、駆逐艦「ダンカン」と共に戦艦「バーラム」を護衛してジブラルタル出港[1]。途中で駆逐艦「エクスマス」、「エクリプス」、「エコー」が加わり、12月12日にはスコットランド西方沖に達した[1]。4時27分に「バーラム」から変針命令が出た直後、キンタイア岬沖で「ダッチェス」と「バーラム」が衝突した[1][2]。衝突で「ダッチェス」は転覆し、約20分後に搭載爆雷が爆発して沈没した[1]。衝突の原因は、「ダッチェス」が「バーラム」の信号を読み誤ったことではないかと考えられている[1]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 国際信号旗2字信号で「医師の派遣を求む」という意味。
  2. ^ 「医療の助力を求む」という意味。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e Destroyers Down, p. 10
  2. ^ 『第二次大戦駆逐艦総覧』102ページ

参考文献[編集]

  • (issuu) SS-263, USS PADDLE. Historic Naval Ships Association. https://issuu.com/hnsa/docs/ss-263_paddle 
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9 
  • Arthur S. Evans, Destroyers Down: An Account of HM Destroyers Losses 1939-1945, Pen & Sword Maritime, 2010, ISBN 978-1-84884-270-0
  • M.J.ホイットレー、『第二次大戦駆逐艦総覧』、岩重多四郎 訳、大日本絵画、2000年、ISBN 4-499-22710-0

外部リンク[編集]

座標: 北緯55度19分01秒 西経6度06分00秒 / 北緯55.317度 西経6.100度 / 55.317; -6.100