ターラー・バーイー

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ターラー・バーイー

ターラー・バーイーマラーティー語:ताराबाई, Tara Bai, 1675年 - 1761年12月9日)は、インドデカン地方マラーター王国の君主ラージャーラームの妃で、シヴァージー2世の母。

生涯[編集]

1675年、ターラー・バーイーはマラーター王国の武将ハンビー・ラーオ・モーヒテーの娘として生まれた[1]。彼女はマラーター王国の初代君主シヴァージーの妃ソーヤラー・バーイーの姪にあたる。

1683年、ターラー・バーイーはマラーター王国の王子ラージャーラームと結婚した。当時、シヴァージーの死後、息子ラージャーラームを擁立しようとしたソーヤラー・バーイーは殺害されており、異母兄のサンバージーが王位にあった。

1689年2月、サンバージーがムガル帝国との戦争(デカン戦争)で捕えられ、3月に処刑されると、新王にラージャーラームが擁立された。その後、彼らはラーイガド城を捨て、シェンジに立て籠もった。

1696年6月9日、ムガル帝国軍がシェンジを包囲するさなか、シヴァージー2世を生んだ[2]。のち、シェンジが陥落する前にラージャーラームとともに逃げ、サーターラーを拠点とした[3]

1700年3月3日、ラージャーラームが死亡し、シヴァージー2世がマラーター王となったが、幼少のためターラー・バーイーが摂政となった[4]。ターラー・バーイーは有能な人物であり、帝国側から多くの城を奪還した。

1707年3月、ムガル帝国皇帝アウラングゼーブが死亡し、5月に帝国軍がデカンから撤退すると、ラーイガド陥落後に帝国の捕虜となっていたサンバージーの息子シャーフーが釈放され自由の身となった[5]。シャーフーはマラーター王位を要求し、サーターラーに向けて進み、アフマドナガルで兵を集めた[6]。だが、シヴァージー2世を擁するターラー・バーイーはこれを認めず、彼女も兵を集めた。

同年10月12日、ターラー・バーイーの軍勢はプネーの近郊ケードおいて、シャーフーの率いる軍勢に破られた(ケードの戦い[7]。ターラー・バーイーは戦場を逃げ、シャーフーはサーターラーに進軍した[8]。 その後、同年12月にシャーフーはサーターラーに入城し、1708年1月12日にマラーター王として即位した[9]。一方、廃位されたシヴァージー2世はコールハープルに分国を与えられた。 だが、ターラー・バーイーはシャーフーがマラーター王となったとはいえ、王国内で隠然となる力を持った[10]。結果として、それはバーラージー・ヴィシュヴァナートをはじめとする宰相一族の権力の伸長に繋がった。

1749年12月15日、マラーター王シャーフーがサーターラーで死亡し、王位はシヴァージー2世の息子ラージャーラーム2世が継承した[11]。この継承には祖母であるターラー・バーイーの後押しがあってからこそだった[12]。 だが、ターラー・バーイーがラージャーラーム2世を自身の孫ではないと言い出すなど、両者はすぐに不和になり、王国内は混乱した[13]。そのため、1750年に宰相バーラージー・バージー・ラーオは王国の行政府を王都サーターラーからプネーに移した。その結果として王権はさらに無力化し、国家の全権が宰相の手に移った[14]

1761年12月9日、ターラー・バーイーはサーターラーで死亡した。また、その年の1月には第三次パーニーパットの戦いが勃発しており、マラーター王国は大敗を喫している。

脚注[編集]

  1. ^ Satara 3
  2. ^ Satara 3
  3. ^ Satara 3
  4. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.211
  5. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.211
  6. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.212
  7. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.212
  8. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.212
  9. ^ Satara 3
  10. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.212
  11. ^ Satara 3
  12. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.216
  13. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.216
  14. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.216

参考文献[編集]

  • 小谷汪之 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』 山川出版社、2007年 

関連項目[編集]