タボラ

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タボラ(Tabora)は、タンザニア中央部に位置し、タボーラ州の州都である。

地理・交通[編集]

タンザニアの鉄道路線の概略図。西端にKigoma、途中にTabora、そしてタンザニアの首都のDodoma、インド洋岸のDar es Salamと路線が続いている。また、Taboraからは、Mwanzaへと北上する路線が分岐している。

タボラには、東のインド洋沿岸のダルエスサラームから、西のタンガニーカ湖岸のキゴマまで続く、鉄道路線の中央線英語版が通っている[1]。中央線から、他の路線が分岐する箇所であるカリウアの駅と同様に、やはり路線が分岐する箇所であるタボラの駅も、 中央線内における主要駅の1つとして数えられる[2]。なお、タボラからは、シニャンガ州の州都であるシニャンガを経由して、北のビクトリア湖岸のムワンザまで続く鉄道路線も伸びている[1]

なお、タボラには空港も設置されている[1]。また、主要道路としては、北北東のンゼガ英語版などへと伸びている道路が挙げられる[1]

都市の規模[編集]

2002年時点でのタボラの推計人口は、約12.7万人であった[3]。なお、これはタボーラ州の西隣のキゴマ州の州都であるキゴマの2002年時点の人口とさして変わらない[3][注釈 1]

歴史[編集]

タボラは1850年代までには、アラブ人キャラバンの中継地点として栄えていた。当時のタボラはウニャニェンベ、またはカゼーと呼ばれていた。インド洋に面したバガモヨからのキャラバンがタボラまでやってきて、ここから北のヴィクトリア湖周辺や北西のブガンダ王国、西のタンガニーカ湖畔の交易の拠点だったウジジ、南西のザンビア西部にまで向かっていった。当時、この地域の最大の交易品は奴隷であり、タボラは奴隷貿易のターミナルであった[4]1871年にはニャムウェジ人の王、ミランボによってタボラは征服され、以後タボラは、ニャムウェジ人勢力の中心都市となった。また、この地方の交易の中心だったタボラには、19世紀後半にヨーロッパ人の探検家も訪れ、リチャード・フランシス・バートンジョン・ハニング・スピークデイヴィッド・リヴィングストンヘンリー・モートン・スタンリーなどが探険の途中にタボラを訪れた[5]

1885年に形式上はドイツ領東アフリカに組み込まれたものの、1891年ですら未だ実効支配は及んでいない状況であった。ただ、次第にドイツ施政下においてもタボラは重要な都市としての地位を占め、1914年には海岸のダルエスサラームから、タボラを通って、タンガニーカ湖畔のキゴマを結ぶ鉄道が開通した。さらに、その後のイギリス領時代に、タボラからヴィクトリア湖畔のムワンザへと鉄道が建設され、タボラは鉄道交通における要衝となった。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 参考までに、キゴマの2002年時点の推計人口は、約13.1万人であった。

出典[編集]

  1. ^ a b c d Projections Provinciales Reajustees (Map No. 3667)"UNITED REPUBLIC of TANZANIA" (pdf)”. un.org. Department of Peacekeeping Operations (Cartographic Section) (2006年1月). 2021年8月6日閲覧。
  2. ^ Railways Network”. Tanzania Railways Limited. 2016年3月7日閲覧。
  3. ^ a b 二宮書店編集部 『Data Book of The WORLD (2012年版)』 p.290 二宮書店 2012年1月10日発行 ISBN 978-4-8176-0358-6
  4. ^ 吉田昌夫『世界現代史14 アフリカ現代II』山川出版社、1990年2月第2版。p.28
  5. ^ 吉田昌夫『世界現代史14 アフリカ現代II』山川出版社、1990年2月第2版。p.30