タヂマモリ

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田道間守(『前賢故実』より)

田道間守(たじまもり/たぢまもり)は、記紀に伝わる古代日本人物

日本書紀』では「田道間守」、『古事記』では「多遅摩毛理」「多遅麻毛理」と表記される。

新羅天日槍の後裔で、三宅連(三宅氏)祖。現在は菓子としても信仰される[1]

記録[編集]

田道間守の生まれについて、『日本書紀垂仁天皇3年条では天日槍新羅からの渡来人)の玄孫で、清彦の子とする。一方『古事記応神天皇段では、天之日矛(天日槍)の玄孫は同じながら多遅摩比那良岐(但馬日楢杵)の子とし、清日子(清彦)は弟とする。

『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」[2]すなわちタチバナ(橘)を求めに常世国に派遣された。しかし垂仁天皇99年7月1日[3]に天皇は崩御する。翌年(景行天皇元年)3月12日、田道間守は非時香菓8竿8縵(やほこやかげ:竿・縵は助数詞で、葉をとった8枝・葉のついた8枝の意味[4])を持って常世国から帰ってきたが、天皇がすでに崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺したという[5]

『古事記』垂仁天皇段によれば、多遅摩毛理は「登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)」[2](同じく橘)を求めに常世国に遣わされた。多遅摩毛理は常世国に着くとその実を取り、縵8縵・矛8矛を持って帰ってきた。しかしその間に天皇は崩御していたため、縵4縵・矛4矛を分けて大后に献上し、もう縵4縵・矛4矛を天皇の陵の入り口に供え置いて泣き叫んだが、その末に遂に死んだという。

後裔氏族[編集]

『日本書紀』『古事記』によれば、田道間守は三宅連(三宅氏)の祖とされる。

なお、この三宅連について『新撰姓氏録』右京諸蕃 三宅連条・摂津国諸蕃 三宅連条では、いずれも天日桙命(天日槍)後裔と記されている。

考証[編集]

「たじまもり」の名称については、「但馬国の国守(くにもり)」の意味とする説がある[6]。また「タチバナ」という名前を「タヂマバナ(田道間花)」の転訛とする説もある。

また、上記説話に見えるような果物や薬草を求めて異界に行く話は世界各地に伝わるが、この説話には特に中国の神仙思想の影響が指摘される[4]。説話の類例として、徐福蓬莱に不老不死の薬を求める伝説が知られる。

内藤湖南は『卑彌呼考』において、『魏志倭人伝卑弥呼からへ遣わされたと見える大夫難升米を田道間守に比定している。

信仰[編集]

田道間守に関しては、『日本書紀』『古事記』の説話に基づいて菓子神・菓祖とする信仰があり、中嶋神社兵庫県豊岡市)では「田道間守命」を菓子神として祭神に祀っている[1]。この中嶋神社の分霊は、太宰府天満宮福岡県太宰府市)、吉田神社京都府京都市)など全国各地で祀られ、菓子業者の信仰を集めている。

また佐賀県伊万里市には、田道間守の常世国からの上陸地の伝承があり、伊萬里神社には田道間守命を祀る中嶋神社が鎮座する。また和歌山県海南市橘本神社の元の鎮座地「六本樹の丘」は、田道間守が持ち帰った橘が初めて移植された地と伝える。

脚注[編集]

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  1. ^ a b 浜本年弘(2014年4月20日). “菓子祭前日祭:新庁舎に「甘〜く」花添え−−豊岡”. 毎日新聞 (毎日新聞社)
  2. ^ a b 「ときじくのかくのみ」とは、「時期を定めずいつも(トキジク)輝く(カク)実」の意味で、いつも黄金色に輝く橘の実を表す(『新編日本古典文学全集 2 日本書紀 (1)』小学館、2002年(ジャパンナレッジ版)、p. 335)。
  3. ^ 『日本書紀』景行天皇即位前紀では、垂仁天皇崩御年を99年2月とする。
  4. ^ a b 田道間守(国史).
  5. ^ 田道間守(古代氏族) 2010年.
  6. ^ 『新編日本古典文学全集 2 日本書紀 (1)』小学館、2002年(ジャパンナレッジ版)、pp. 335-337。

参考文献[編集]