タキーン・アル=ハザリー

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タキーン・アル=ハーッサ・アブー・マンスール・タキーン・ブン・アブドゥッラー・アル=ハルビー・アル=ハザリーアラビア語ラテン翻字: Takīn al-K̲h̲āṣṣa Abū Manṣūr Takīn b. ʿAbdallāh al-Ḥarbī al-K̲h̲azarī933年3月16日没)は、ハザール出身のアッバース朝の軍司令官であり、3回にわたりアッバース朝のエジプト総督を務めた人物である。

アッバース朝のカリフムウタディド(在位:892年 - 902年)の統治下で成長し、将校の一人となる[1]。910年8月にイーサー・アル=ヌーシャリー英語版の後任としてエジプト総督に任命されたが、914年に起こったエジプトに対するファーティマ朝の侵攻を阻止できなかったためにアッバース朝軍の総司令官のムウニス・アル=ハーディム英語版によって915年5月に解任され、ズカー・アッ=ルーミー英語版が後任となった[1][2]

919年に起こったファーティマ朝によるエジプトへの2度目の侵攻の最中にズカー・アッ=ルーミーが死去したことで919年の秋に再びエジプト総督に任命され、920年1月6日にエジプトの首府のフスタートに入った。ムウニス・アル=ハーディムが率いる軍隊とサマル・アッ=ドゥラフィー英語版が率いる艦隊による支援の結果、最後のファーティマ朝の軍隊が921年7月8日にファイユーム・オアシス英語版を放棄するとともに砂漠を越えて逃亡したことで、アッバース朝は再びファーティマ朝軍の撃退に成功した[1][3]。その後、同年7月22日にエジプト総督を解任されたが、その数日後には短期間ではあるものの復帰した[1]

924年3月もしくは4月に最も長い在任期間となった3度目となるエジプト総督に復帰し、933年3月16日に死去するまでその地位にあった[1]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e Rosenthal 1985, p. 203 (note 964).
  2. ^ Halm 1996, pp. 201–205.
  3. ^ Halm 1996, pp. 207–212.

参考文献[編集]

  • Halm, Heinz Michael Bonner訳 (1996). The Empire of the Mahdi: The Rise of the Fatimids. Handbook of Oriental Studies. 26. Leiden: BRILL. ISBN 9004100563. https://books.google.com/books?id=usUjj9OV9l0C 
  • Rosenthal, Franz, ed (1985). The History of al-Ṭabarī, Volume XXXVIII: The Return of the Caliphate to Baghdad: The Caliphates of al-Muʿtaḍid, al-Muktafī and al-Muqtadir, A.D. 892–915/A.H. 279–302. SUNY Series in Near Eastern Studies. Albany, New York: State University of New York Press. ISBN 978-0-87395-876-9. https://books.google.com/books?id=GcKhwo8SmlMC 
先代
イーサー・アル=ヌーシャリー英語版
アッバース朝 エジプト総督英語版
910年 – 915年
次代
ズカー・アッ=ルーミー英語版
先代
ズカー・アッ=ルーミー英語版
アッバース朝 エジプト総督英語版
919年 – 921年
次代
アブル=ハサン・ヒラール・ブン・バドル英語版
先代
アフマド・ブン・カイガラグ英語版
アッバース朝 エジプト総督英語版
924年 – 933年
次代
アフマド・ブン・カイガラグ英語版