ソーピースミス

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ソーピー・スミス(Soapy Smith)
Soapy Smith 1898c.jpg
スミス アラスカ州スカグウェー(Skagway)のバーで
生誕ジェファーソン・ランドルフ・スミス2世(Jefferson Randolph Smith II)
1860年11月2日
アメリカ合衆国ジョージア州コウェタ郡(Coweta County)
死没1898年7月8日(1898-07-08)(37歳)
アラスカ地区スカグウェー
死因銃傷
職業信用詐欺師、ギャング、賭博師、サルーン所有者、政治的ボス
配偶者メアリー・エヴァ・ヌーナン(Mary Eva Noonan)
子供ジェファーソン・ランドルフ・スミス3世(Jefferson Randolph Smith III)、メアリー・エヴァ・スミス(Mary Eva Smith)、ジェームズ・ルーサー・スミス(James Luther Smith)
ジェファーソン・ランドルフ・スミス1世(Jefferson Randolph Smith I)
エミリー・ドーソン・エドモンドソン(Emily Dawson Edmondson)

ジェファーソン・ランドルフ・「ソーピィ」・スミス2世(Jefferson Randolph "Soapy" Smith II)(1860年11月2日 - 1898年7月8日)は、アメリカ西部開拓時代の詐欺師、ギャングである。スミスは米国西部全体で信用詐欺計画をおこない、コロラド州アラスカ地区との両方で組織犯罪事業に大きな手を持っていた。スミスは、「賞品石鹸しのぎ」("prize soap racket")を通じて悪評を博した。そこで彼は売り上げを伸ばす目的で賞金をいくつかのせっけんの包装に隠して石鹸を売るのがつねであった。しかしながら、彼は手品のような手先の早わざを通じて、彼のギャングのメンバーだけが「賞品」の石鹸を購入することを保証するのがつねであった。このしのぎは、彼の「ソーピー」("Soapy")というあだなにつながった。

彼の石鹸しのぎその他の詐欺の成功は、彼が三連続の犯罪帝国の資金を調達を助けデンバー、クリードおよびスカグウェー、それぞれであったが、1898年7月8日に、彼はスカグウェーのジュノー埠頭の銃撃戦で殺害された。

初期[編集]

ジェファーソン・スミスは1860年11月2日に、ジョージア州コウェタ郡の富家に生まれた。祖父はプランテーションの所有者 兼 ジョージア州議会議員であり、いっぽう父は弁護士であった[1][2]。しかしながら、スミス家は南北戦争終結時に経済的破滅に直面し、1876年にテキサス州ラウンド・ロックに移り、新たに出発した。スミスが信用詐欺師としての経歴を始めたのはラウンド・ロックにおいてであった。1877年に、スミスの母親が死亡し、彼はその後すぐに家を離れたが、しかしではなく、1878年の無法者サム・バスの死亡を目撃する前ではなかった[1]

経歴[編集]

スミスはテキサス州フォートワースに移った。そこで彼は彼のために働くために緊密で規律のあるサクラと泥棒のギャングを結成した。彼はすぐに有名な犯罪ボスになり、最終的には「西部開拓詐欺師の王」("king of the frontier con men")になった[3]。テキサス・ジャック・バーミリオン(Texas Jack Vermillion)や「ビッグ・エド」・バーンズ("Big Ed" Burns)のような男らを含む、ソープ・ギャング(Soap Gang)として知られる、彼の詐欺師のギャングは、不注意な犠牲者との取引を行なって町から町へと移動した[3][4]。彼らの主な手口はショート・コン(short cons、手軽にその場で出来る信用詐欺)であり、それには詐欺師は迅速であり、準備と支援はほとんど必要なかった。ショート・コンには、豆隠し手品(shell game)[クルミの殻3個またはクルミ状の杯を伏せ、中に豆または小球を隠し、杯を動かしていき、どれに豆が入っているかを客に当てさせるいかさま賭博]、3枚賭博(three-card monte)[クイーンなどを含むカード3枚を示してから巧みな手さばきでよくきって卓上に伏せ、2対1の確率で客にクイーンなど特定のカードを当てさせる。しばしば仲間と組んで客をだます目的でおこなわれる]、および彼らのいわゆる「ビッグ・ミット」("big mitt")というやおちょうポーカー・ゲームがふくまれた。[5]。[

賞品石鹸しのぎ[編集]

スミスの最も有名なショート・コンは、デンバーの新聞諸紙が「賞品石鹸しのぎ」("prize soap racket")と呼んだ策略であった[6]。スミスは、にぎやかな通りの角に、石鹸を積んだ陳列ケースを1つ置くのがつねであった。彼は石鹸を売り、増え続ける見物人の群衆に話しかけながら、数少ない選ばれた石鹸を――1ドルから100ドルの範囲の――金銭で包むのがつねであった。彼はそれから金銭が隠れるようすべての石鹸を普通な紙で包んだ。

彼はそれから、金銭で包まれた「賞品石鹸」("prize soap")をふつうの石鹸と混ぜ合わせるふりを見せ、その石鹸を1個1ドルで群衆に売った。群衆の中のさくらはそれから石鹸を買い、それを引きやぶき、自分が金銭を勝ち取ったと大声で宣言し、すべての人が見ることができるようそれを振り回すのがつねであった。この芸当がさらに多くの石鹸の売りにつながった。売りの途中で、スミスは100ドル紙幣がまだ山をなして残っている、と発表するのがつねであった。その後、彼は残っている石鹸を最高入札者らに競売するのがつねであった[7]。操作と手品のような手先の早わざを通して、「勝ちとった」("won")唯一の金銭は彼のさくらに行った[8]

ある時、スミスは賞品石鹸しのぎをおこなったとして警察官ジョン・ホランドによって逮捕された。ホランドは警察の日誌に書いている間、スミスの名を忘れ、「ソーピー」("Soapy")と書いた[9]。そのあだながくっつき離れず、彼は「ソーピー・スミス」("Soapy Smith")として知られるようになった。

デンバー[編集]

1879年に、スミスは初めてデンバーに到着し、1882年までに、彼の帝国3つのうち1つめの帝国を首尾良く建設した。詐欺師らは通例、法律を回避するために町から町へと移動したが、スミスの権力とギャングが成長するにつれて、市役所での彼の影響力も成長した。それで彼は市に留まり、刑事訴追から保護された。評判によれば、1887年までに、彼は市内の犯罪活動の大部分に関与した。デンバーの新聞諸紙は、彼が市の犯罪者らと地下賭博を支配していると報じ、腐敗した政治家らと警察幹部が収賄した、と非難した[10]

チヴォリ・クラブ[編集]

1888年に、スミスはマーケットと17番街との南東角にチボリ・クラブ(Tivoli Club)を開いた――サルーン兼賭博場の複合。伝えられるところによれば、賭博場の入り口の上方の看板には、「買い手に注意させよ」("let the buyer beware")という意味のラテン語「"caveat emptor"」(買い手の危険持ち[買った商品に欠陥があっても売り手は責任を負わないということ])とあった[11]。スミスの弟バスコム・スミスはギャングに加わり、不正なポーカー・ゲームその他の詐欺の表看板である葉巻店をいとなんだ。それは奥の部屋の1つでおこなわれた[12]。その他の事業には、詐欺の宝くじ店、「確実なもの」("sure thing")株式取引所、偽のウォッチ時計とダイヤモンドの競売および存在しない事業の株式の売りが含まれていた。

政治その他の信用詐欺[編集]

収賄したために、街路をパトロールしている警察官らのなかには、スミスや彼のギャングのメンバーを逮捕しようとしないものもいれば、スミスのすばやい激しい怒りを恐れたものもいた。ときどき、スミスまたは彼の男らの1人が逮捕されたとき、彼らの友人ら、弁護士ら、および仲間らは常に刑務所からのすみやかな釈放を得る準備ができていた。1889年の市選挙後の選挙不正の公判は、スミス、市長、および警察署長の間の腐敗した関係と見返りに注意を向けさせた――地元新聞複数で「ロンドン人、ファーリーおよびスミスの会社」("the firm of Londoner, Farley, and Smith")と言及された複合[13]。市長は職を失なったが、しかしスミスは手つかずのままであった。彼は有名なチーヴァー・ブロック、チヴォリ・クラブの1ブロック南に事務所を1つ開いた。そこから彼は多くの事業をいとなんだ。これはまた、高級詐欺師らのための事業界の大物の事務所としても表看板になった[14]

スミスは、地下ボスとしての立場のために敵と好敵手がいなかったわけではない。彼は人生でいくつかの殺害未遂に直面し、加害者のうちいく人かを撃った。彼は賭博と不機嫌でますます有名になった。[要出典]

コロラド州クリード[編集]

1892年に、デンバーで反賭博とサルーン改革のさなかに、スミスは、チヴォリを売り、コロラド州クリードに移った。これは大きな銀鉱の発見の敷地に生まれた鉱業新興都市であった。彼はデンバーを拠点とする娼婦らを使って財産所有者らに近づき、説得して賃貸借契約に署名させ、クリードの大通りぞいに無数の土地を取得し、仲間に賃貸した[15]。彼は十分な味方を得た後、自分がキャンプのボスであると発表した。[要出典]

スミスは、義兄でギャングのメンバーであるウィリアム・シドニー・「キャップ」・ライト(William Sidney "Cap" Light)を副保安官として、2つめの帝国を始め、オーリンズ・クラブ(Orleans Club)と称する賭博ホール 兼 サルーンを開いた[16]。彼は、「McGinty」というニックネームの石化した男を購入し、少しの間入場料10セントで展示した。客らが列をなして待っている間、スミスは、豆隠し手品と3枚賭博をおこなってさらに多くの金銭をだまし取った[17]

スミスは友人らや仲間を町議会から保護し、もめごとを起こす暴力的な人々を追放するつまらない命令を複数出した。影響力ある新参者の多くが彼に会うために送られた。スミスはその過程で裕福になったが、しかし教会を複数建て、貧しい人々を助け、不幸な娼婦らを埋葬するためにそれを使いながら、金銭を気前よく与えることでも有名であった[要出典]

クリードのブームはすばやく衰えたし、腐敗したデンバー官吏らはデンバーの改革が終わりに近づいていると伝言した。スミスはデンバーに戻り、「McGinty」を持ってきた。クリードはすぐに1892年6月5日の大火で商業地区の大部分を失ったために、彼はちょうどよい時に立ち去った。破壊された建物の中にはオーリンズ・クラブがあった[18]

デンバーへの帰還[編集]

スミスはデンバーに戻るや、多くのショート・コンの表看板として役立つ新事業を開いた。そのうちの1つは、割引された鉄道乗車券とされるものに関係しており、潜在的な購入者らは乗車券販売業者が事務所を離れていると言われたが、 しかしいくつかの不正なゲームのいずれかをすることによってさらに大きな割引がすすめられた[19]。スミスが或る記者に「わたしは平均的な政治家が送る生活よりもさくらをすることのほうがより立派だと考える」("I consider bunco steering more honorable than the life led by the average politician.")と語ったとき、彼の力は、彼が自分が詐欺師であると報道に認め、それを悪いことだと思っていない点にまで成長していた[20]

1894年に、コロラド州の新しく選出された知事デイヴィス・ハンソン・ウェイト(Davis Hanson Waite)は、反腐敗改革の一環としてデンバー官吏3人をくびにした。彼らは職を離れることを拒否し、自分たちの仕事が脅かされていると感じた他の人たちと一緒にデンバー市庁舎で防備を固めた。知事ウェイトは州民兵に彼らを排除するよう呼びかけ、大砲2門とガトリング砲2門をもたらした。スミスは市役所の腐敗した役人と警察に加わり、副保安官に任命された。スミスと彼の男らのうち数人は、ライフルとダイナマイトを持って市庁舎の中央塔に登り、攻撃者らを追い払った[21]。しかしながら、知事ウェイトは最終的には民兵を撤退させることを決定し、かわりに法廷で戦った。そこではソーピー・スミスが重要な証人であった。コロラド州最高裁判所は、知事ウェイトはコミッショナーらを交代させる権限を持つが、しかし民兵を連れてきたことで叱責される、と裁定し、これは「市庁舎戦争」("City Hall War")として知られるようになった[22]

その後、知事ウェイトはデンバーのすべての賭博場、サルーン、売春宿の閉鎖を命じた。スミスはこの状況を悪用し、副保安官の新称号を使用して、不正なポーカー・ゲームで多額の損失を出した常連客らを逮捕し、自分のギャンブル・ハウスで偽の逮捕を行なった[23]。犠牲者らは、「警官」が逮捕されるのではなく――彼らの損失を取り戻すことなく――犯罪現場から立ち去ることを許可したとき、喜んで去った。

やがて、ソーピーと彼の兄弟バスコム・スミスはあまりに有名になり、最も腐敗した市の官吏らでさえもはや彼らを守ることができなくなった。彼らがサルーン経営者の殴打で謀殺未遂で起訴されたとき、バスコムは投獄されたが、しかしソーピーはなんとか逃げ、コロラドの指名手配犯になった。

スミスは立ち去る前に、メキシコの大統領ポルフィリオ・ディアス(Porfirio Díaz)に、彼の国にはアメリカのタフで構成された外国人部隊のサービスが必要であることを納得させようとした。スミスは大佐スミスとして知られるようになったし、取引が失敗する前になんとか新兵徴募事務所を組織することができた[24]

スカグウェーとクロンダイク・ゴールド・ラッシュ[編集]

Jeff. Smith's Parlor
Jeff. Smith's Parlor
Jeff Smith's Parlor の外の木製歩道に立つソープ・ギャング 1898年
Jeff. Smith's Parlor in 2009
Jeff. Smith's Parlor 2009年

1897年にクロンダイク・ゴールドラッシュが始まったとき、スミスはアラスカ州ダイイー(Dyea)[25]とスカグウェーに事業を移した。彼がホワイト・パス・トレイルで3枚賭博と豆隠し手品を1か月たらずおこなった後、鉱山委員会が彼にその地域を離れるように勧めたとき、スカグウェーを占領する最初の試みは失敗に終わった。彼はセントルイスワシントンD.C.に旅行し、1898年1月後半になってようやくスカグウェーに戻った[26]

スミスは、デンバーとクリードで行ったのとほぼ同じ方法で3つめの帝国を設立した[27]。彼は町の連邦副保安官を就業させ、支配権を得るために味方を集め始めた[28]。スミスは、電信線が壁までしか届いていない偽の電信局を開いた。電信局はメッセージを「送る」("sending")ための料金を受け取っただけでなく、現金を積んだ犠牲者らはすぐに、新しく見つけた「友人ら」("friends")とのポーカー・ゲームでさらに多くの金銭を失っていることに気づいた[29]。電信線は1901年までスカグウェーに着きも発ちもしなかった[30]。1898年3月にスミスは、事業をいとなむための事務所として Jeff. Smith's Parlor と称するサルーンを開いた[31][32]。スカグウェーにはすでに市庁舎があったけれども、スミスのサルーンが「本当の市庁舎」("the real city hall")として知られるようになった。

スミスの男らは、新しく来た人と友だちになり、その人から金銭を奪う最善の方法を決定することを意図して、新聞記者や牧師のような、さまざまな役割を演じた。新しく来た人は、破産(つぶ)される(wiped out)ときまで、「友人ら」("friends")によって不正な海運会社、ホテル、または賭博部屋に向けて舵をとられるのがつねであった。もしその男がもめごとを起こしそうか、ギャングに採用できなければ、それならばスミスが直接現われ、文明世界への帰り道を支払おうと申し出るのがつねであった[33]

自警団「101委員会」("Committee of 101")がスミスとそのギャングを追放するぞと脅したとき、彼は自身の「法と秩序結社」("law and order society")を形成した。これはメンバーが317人いるといい、自警団員らをむりやり服従させた[34]。しみったれた賭博師と詐欺師のほとんどは、実際はこの時点でスカグウェーを立ち去り、スミスはコミュニティにとって立派に見えるように他の手段に頼った[35]

米西戦争中の1898年に、スミスは陸軍省の是認を得て、「スカグウェー軍事会社」("Skaguay Military Company")として知られる、自身の義勇軍を結成し、みずからは大尉(captain)となった。スミスはウィリアム・マッキンリー大統領宛てに手紙を書き、彼の会社の公式の承認を得た。彼はそれを使って町の支配権を強化した[36]

1898年7月4日に、スミスは観兵式の第4師団の司令官として灰色の馬に乗って軍を率いた。グランドスタンドでは、彼は準州知事その他の役人のそばに座った。

死亡[編集]

銃撃戦を報じる『Skaguay News』1898年7月15日の見出し
ソーピー・スミスの検死解剖

1898年7月7日に、クロンダイクの坑夫ジョン・ダグラス・スチュワートが2700ドル(2017年ドルで82620ドル[37])の金(きん)の袋を持ってスカグウェーに来た。ギャングのメンバー3人はその坑夫を説得し3枚賭博のゲームに参加させた。スチュワートが損失を支払わなければならないことにののしったとき、男3人が袋をつかんで走った。「101委員会」("Committee of 101")はスミスが金(きん)を返すことを要求したが、しかし彼はスチュワートがそれを「かなり」("fairly")失ったと主張しながら拒否した。

7月8日晩に、自警団はジュノー埠頭で会合を開いた。スミスは、ウィンチェスターライフルを肩に、埠頭への行く手をさえぎる警備員4人の1人フランク・H・リードと議論を始めた。ジュノー埠頭の銃撃戦として知られる銃撃戦が予期せず始まり、男は2人とも致命傷を負った。

スミスの最後の言葉は「"My God, don't shoot!"」であった[38]。当時のカナダ騎馬隊の伝説的な長サム・スティールからの手紙は、別の警備員ジェシー・マーフィーが致命弾を発射したかもしれないことを示している[39]。スミスは弾丸1発を心臓に受けてその場で死亡した。彼はまた、左脚に弾丸1発を受け、左ひじ付近に重傷を負った。リードは片脚と鼠径部に銃弾を受けて12日後に死亡した。スチュワートを襲ったギャング3人は懲役刑を言い渡された。

ソーピー・スミスの墓

ソーピー・スミスは市の墓地の数ヤード外に埋葬された。

脚注[編集]

  1. ^ a b Smith 2009, p. 26.
  2. ^ Smith 2009, p. 20.
  3. ^ a b Robertson 1961.
  4. ^ Smith 2009, pp. 74-92.
  5. ^ Smith 2009, p. 197.
  6. ^ Smith 2009, p. 40.
  7. ^ Smith 2009, pp. 38-51.
  8. ^ Smith 2009, p. 45.
  9. ^ Smith 2009, p. 52.
  10. ^ Smith 2009, pp. 62-63.
  11. ^ Smith 2009, p. 124.
  12. ^ Smith 2009, p. 89.
  13. ^ Smith 2009, pp. 83-84.
  14. ^ Smith 2009, pp. 138-39.
  15. ^ Rocky Mountain News 02/29/1892, p. 6.
  16. ^ Smith 2009, p. 209.
  17. ^ Smith 2009, pp. 237-43.
  18. ^ Smith 2009, p. 245.
  19. ^ Smith 2009, p. 71.
  20. ^ The Road, 29 February 1896
  21. ^ Denver Times, 23 March 1894
  22. ^ Smith 2009, pp. 294-316.
  23. ^ Smith 2009, p. 321.
  24. ^ Smith 2009, pp. 361-63.
  25. ^ Smith 2009, pp. 450-51.
  26. ^ Spude 2012, pp. 22-34.
  27. ^ Smith 2009, p. 442.
  28. ^ Smith 2009, p. 510.
  29. ^ Smith 2009, p. 480.
  30. ^ Collier's Weekly, 11/09/1901
  31. ^ Smith 2009, p. 482.
  32. ^ Lyon, Robert (ed.) (2010). Jeff. Smiths Parlor Museum: Historic Structure Report : Skagway and White Pass District National Historic Landmark, Klondike Gold Rush National Historical Park, Skagway, Alaska. Anchorage, Alaska: U.S. Dept. of the Interior, National Park Service, Alaska Regional Office. https://permanent.access.gpo.gov/gpo5302/palor_museum_hsr.pdf 2018年7月8日閲覧。 
  33. ^ Pierre Berton, The Klondike Fever, Knopf, 1967, p. 149
  34. ^ Smith 2009, p. 468.
  35. ^ Spude 2012, pp. 35-55.
  36. ^ Smith 2009, pp. 487-90.
  37. ^ 2700 in 1898 dollars - Wolfram-Alpha”. wolframalpha.com. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  38. ^ The Skaguay News, 15 July 1898
  39. ^ Archives of Canada, Ottawa, Ontario, RG 18-A, Samuel B. Steele Collection, Vol. 154, File 447-98, Letter dated July 11, 1898.

文献[編集]

  • Robertson, Frank C.; Harris, Beth Kay (1961). Soapy Smith: King of the Frontier Con Men. New York City: Hastings House. ISBN 978-0-8038-6661-4 
  • Smith, Jeff (2009). Alias Soapy Smith: The Life and Death of a Scoundrel. Klondike Research. ISBN 978-0-9819743-0-9. https://books.google.com/books?id=sJ0rQwAACAAJ 
  • Spude, Catherine Holder (2012). "That Fiend in Hell": Soapy Smith in Legend. Norman: University of Oklahoma Press. ISBN 978-0-8061-4280-7 

読書案内[編集]

外部リンク[編集]