ソニア・ヘニー

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Pix.gif ソニア・ヘニー
Sonja Henie
Figure skating pictogram.svg
Bundesarchiv Bild 102-11013A, Sonja Henie.jpg
ソニア・ヘニー(1931年)
基本情報
代表国: ノルウェーの旗 ノルウェー
生年月日: 1912年4月8日
没年月日: 1969年10月12日(満57歳没)
出生地: オスロ
 
獲得メダル
フィギュアスケート
オリンピック
Olympic rings with transparent rims.svg
1928 サンモリッツ 女子シングル
1932 レークプラシッド 女子シングル
1936 ガルミッシュ
パルテンキルヒェン
女子シングル
世界選手権
1926 ストックホルム 女子シングル
1927 オスロ 女子シングル
1928 ロンドン 女子シングル
1929 ブダペスト 女子シングル
1930 ニューヨーク 女子シングル
1931 ベルリン 女子シングル
1932 モントリオール 女子シングル
1933 ストックホルム 女子シングル
1934 オスロ 女子シングル
1935 ウィーン 女子シングル
1936 パリ 女子シングル

ソニア・ヘニーSonja Henie1912年4月8日 - 1969年10月12日)は、ノルウェーオスロ生まれの女性フィギュアスケート選手でのち女優。3度のオリンピック優勝(1928年、1932年、1936年)世界フィギュアスケート選手権で10度の優勝(1927年-1936年)ヨーロッパフィギュアスケート選手権6度の優勝(1931年-1936年)を果たした。1976年世界フィギュアスケート殿堂入り。

経歴[編集]

1912年、裕福な毛皮商人の家庭に生まれる。父親のヴィルヘルムは1894年の世界選手権自転車競技大会トラックレースで優勝した自転車選手でもあった。ノルウェーの子供たちがそうであるように幼い頃から5歳上の兄と共にスキーやスケートに親しみ、5歳で初めてスケートの大会で優勝した。父親は彼女の才能を信じ、著名なコーチに師事させ、そして11歳で学校を辞めさせて、スイスにスケート留学させた[1]。1927年14歳で世界フィギュアスケート選手権を制覇し、1936年まで10連覇を達成した。 1928年15歳10ヶ月でサンモリッツオリンピック優勝。この冬季オリンピックのフィギュアスケートでの最年少優勝記録は、1998年にタラ・リピンスキーに更新されるまで続いた。 1931年から1936年までヨーロッパフィギュアスケート選手権6連覇。

1936年のガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックで優勝し3連覇を達成。冬季オリンピックにおける3連覇は、フィギュアスケート男子シングルのギリス・グラフストローム、同ペアのイリーナ・ロドニナ、ノルディック複合個人のウルリッヒ・ベーリンク、スピードスケート女子500メートルのボニー・ブレア、同女子5000メートルのクラウディア・ペヒシュタイン、リュージュ男子1人乗りのゲオルク・ハックル、そしてのソニア・ヘニーの7人だけである。

1936年に引退し、その後はハリウッドへ移住。英語が得意ではない彼女のために父親がアイスショーをプロデュースし、新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストの愛人マリオン・デイヴィスに売り込むなど、派手に宣伝、ショーは大成功を収めた。そこで生まれたコネクションを生かして、20世紀フォックスとの契約にこぎつけた。アイスショーと映画の成功は彼女を『世界で最も裕福な女性の1人』とし、社交界の花とした。タイロン・パワーとの交際、破局を経て、1940年に当時NFLのブルックリン・ドジャースのオーナーで、その後ニューヨーク・ヤンキースのオーナーとなる富豪のダン・トッピングと結婚(1946年離婚)[1]

1946年、終戦直後のノルウェーにアメリカ軍に同行し一時帰国する。しかし1936年のガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックでのヒトラーとの写真やナチス式敬礼をした写真、初主演映画『銀盤の女王』(1936年)のドイツ公開プレミアにヨーゼフ・ゲッベルスらナチス幹部らを招待し、彼らとのパイプをドイツのノルウェー侵攻後にも維持していたことで[2]ヘニーは生家の広大な敷地を他のノルウェーの富裕層のようにドイツ軍に接収されることを免れた[1]。そして、ハリウッドで最も高額なギャラを受け取るスターの一人として、アメリカ軍のキャンペーンには参加しているにも関わらず、ナチスドイツとその傀儡政権であるクヴィスリング政権の圧政下にあって窮地に陥った故国に対して一切の援助を行わなかったばかりか、更に北米への亡命者への援助依頼を拒絶していたことが問題視され、多くの国民から「裏切者」、「ヴィドクン・クヴィスリングの仲間」と見なされていたヘニーは歓迎されることはなかった。ヘニーは「ナチ協力者」という批難に対し、「私はナチスが何かも何も知りませんでした。ナチス式敬礼はドイツでの礼儀と思って行っただけなのです。ナチスの幹部の方々は素晴らしい家庭人だと思っていました。そしてボルシェヴィキのような人たちが恐ろしい人たちで、彼らを恐ろしいとは思わなかったのです。」と弁解した[1]。しかし、6年後のオスロオリンピックにも招待されることはなかった[1]

1948年にアメリカ市民権を取得。

1949年にイングランド人初のロングアイランド入植者の子孫で、ロングアイランド・ガーディナー島の所有者だったウィンスロップ・ガーディナーと再婚(1956年離婚)。ガーディナーは彼女のビジネスパートナーでもあった。1950年より、復興が進む欧州でのアイスショー・ツアーを行ったが、故国ノルウェーへのツアーを行うことはなかった。しかし関係者はノルウェーでも復興が進み、彼女への反感が薄らいでいる状況を察し、1953年8月、オスロで公演を行うこととなる。公演の日の前夜、彼女は恐怖で倒れこむほどだったが、会場の観衆は温かく彼女を迎えた[1]。そして国王ホーコン7世から聖オーラヴ勲章第一級騎士を授与された(授与されることは1937年に決定していた)[2]

1956年、南米公演の失敗を機にショーから引退[1]。同年、ノルウェーの海運業者ニルス・オンスターと再婚[1]。 二人は美術コレクターでもあったことから、オスロ近郊に美術館と資料館を兼ねたヘニー・オンスター・アートセンターを建設し、国家に夫妻のコレクション及び5000万クローネを寄付した。1968年8月23日のオープンの日には国王のオーラヴ5世を招待した[1]。しかし、その直後の王太子ハーラルソニア・ハーラルセンの結婚式への出席は辞退した。「ナチ協力者」のイメージがくすぶり続けているからだ、という憶測がなされた[1]

1969年10月12日、パリからオスロへの機中、白血病で死去。亡骸はヘニー・オンスター・アートセンターの丘の上に埋葬された。

主な戦績[編集]

大会/年 22-23 23-24 24-26 26-27 27-28 28-29 29-30 30-31 31-32 32-33 33-33 33-35 35-36
オリンピック 8 1 1 1
世界選手権 5 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1
欧州選手権 1 1 1 1 1 1
ノルウェー選手権 1 1 1 1 1 1

主な出演映画[編集]

タイム誌1939年7月号
  • 銀盤の女王(1936年、アメリカ、原題:One in a Million)
  • 氷上乱舞(1937年、アメリカ、原題:Thin Ice)
  • 天晴れ着陸(1938年、アメリカ、原題:Happy Landing)
  • 燦めく銀星(1938年、アメリカ、原題:My Lucky Star)
  • 銀嶺セレナーデ(1941年、アメリカ、原題:Sun Valley Serenade)
  • 氷上の花(1943年、アメリカ、原題:Wintertime)
  • 氷上円舞曲(1948年、アメリカ、原題:The Countess of Monte Cristo)

関連項目[編集]

脚注[編集]

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外部リンク[編集]