ソコト帝国
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1804年 - 1903年
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(国旗) 
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首都 ソコト - スルタン
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1804年 - 1815年 ウスマン・ダン・フォディオ 1815年 - 1837年 ムハンマド・ベロ - 変遷
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ウスマン・ダン・フォディオが建国 1804年 帝国は滅亡してイギリスの北部ナイジェリア保護領となった 1903年
ソコト帝国(英語: Sokoto Caliphate)は、1804年から1903年までのちのナイジェリア北部のハウサ人地域を支配した国家。フラニ帝国とも呼ばれる。首都はソコト。
ハウサ諸王国のひとつゴビールのイスラム神学者、フラニ人のウスマン・ダン・フォディオがゴビールで宗教改革運動を起こしたものの、ゴビール王に街を追われた。彼はそこでジハードを宣し(en:Fula jihads)、弟子に推され王に即位。自らの出身民族・フラニ人の騎兵を従え、ゴビール軍をはじめハウサ諸王国を次々と攻略し(フラニ戦争, 1804年 – 1808年)、1809年にハウサ諸王国を統一した。
ウスマン引退後、1815年にウスマンの息子のムハンマド・ベロが即位。ベロがソコトに座して東を治め、ウスマンの弟でベロの叔父アブドゥッラーヒ・ダン・フォディオがグワンドゥに座して西を治めた。この時期帝国は最盛期を迎えた。ソコト帝国は拡大を続け、東のカネム・ボルヌ帝国や南のオヨ王国に大打撃を与え、征服こそできなかったものの両国滅亡のきっかけとなった。ソコト帝国の南東にはジハードに加わったモディボ・アダマによりアダマワ首長国が建てられた。
ソコト帝国は「フラニ帝国」との名の通り、フラニ人が中心となった国家であり、支配下の各都市にはフラニ人の太守が送り込まれたものの、その下の各都市国家の行政機構はそのまま残され、統治は非常に緩やかな、連邦制に近い形態であった。建国原理・統治原理がイスラム教であったため、この時期イスラム教はハウサ諸都市により浸透した。また、サハラ交易も引き続き繁栄し、ハウサ諸都市はサハラ越えのキャラバンでにぎわった。
19世紀末になると、ジョージ・トーブマン・ゴールディの勅許会社王立ニジェール会社がバンザ・バグワイのビダ王国とイロリン首長国へ探検を行なったことをきっかけに、ソコト帝国は海岸部のイギリス帝国と対立し、1903年にフレデリック・ルガード指揮下の王立西アフリカ辺境軍 (RWAFF)によってソコトが陥落してムハンマド・アタヒル1世は殺害され、帝国は滅亡してイギリスの北部ナイジェリア保護領とされた。
イギリスはソコトの首長制を温存したので、ナイジェリア独立後の現在においても、ソコトのスルターンは存在し、ナイジェリアのイスラム教徒に強い影響を与えている。