セヴァストポリの戦い (第二次世界大戦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
セヴァストポリの戦い
Eastern Front 1941-12 to 1942-05.png
セヴァストポリ侵攻時の戦線
戦争第二次世界大戦東部戦線
年月日:1941年9月から1942年7月
場所クリミア半島ソビエト連邦
結果:枢軸国軍の勝利
交戦勢力
Flag of the NSDAP (1920–1945).svg ドイツ
Flag of Romania.svg ルーマニア王国
Flag of Italy (1861-1946).svg イタリア王国
Flag of the Soviet Union (1936–1955).svg ソビエト連邦
指導者・指揮官
Flag of the NSDAP (1920–1945).svg エーリッヒ・フォン・マンシュタイン
Flag of Romania.svg ゲオルゲ・アヴラメスク
Flag of Italy (1861-1946).svg フランチェスコ・ミンベッリ
Flag of the Soviet Union (1936–1955).svg ドミトリー・コズロフ
Flag of the Soviet Union (1936–1955).svg イワン・ペトロフ
Flag of the Soviet Union (1936–1955).svg ゴーディ・レフチェンコ
Flag of the Soviet Union (1936–1955).svg フィリップ・オクチャーブリスキー
戦力
350,000以上 106,000
損害
100,000 以上戦死、負傷および捕虜 11,000 戦死、95,000 捕虜
独ソ戦

セヴァストポリの戦い(セヴァストポリのたたかい、ロシア語: Битва за Севастополя)は、1941年9月から1942年7月にかけての、クリミア半島セヴァストポリ要塞をめぐるドイツ軍とソ連軍の戦闘である。

背景[編集]

クリミア半島黒海に面し、東方のケルチ半島が黒海とアゾフ海を分かつ、戦略上の要衝である。ソ連黒海艦隊の根拠地であるセバストポリを抱え、クリミアから飛来するソ連軍爆撃機が、ドイツにとって死活的に重要なプロエシュチ油田を爆撃可能であったので、この制圧は、ドイツ軍にとって重要であった。しかし、クリミアへの陸路の侵攻ルートは、狭隘なペレコープ地峡を経るしかなく、セバストポリ要塞の防衛は、当時の世界レベルではトップクラスの堅度であり、更に、黒海の枢軸側海軍は弱体で、制海権はソ連黒海艦隊に握られていたので、その攻略は難航した。

経過[編集]

ペレコプ地峡突破[編集]

クリミア半島の制圧を任されたマンシュタイン第11軍は、1941年9月24日幅わずか7kmのペレコープ地峡に攻撃を開始。狭い地峡に奥深く敷かれたソ連軍陣地に苦しめられ、3日間激戦が続いたが、何とか突破、クリミア半島東部ではケルチ半島を、南部ではヤルタを制圧し、セヴァストポリ要塞を一時包囲した。

ソ連黒海艦隊の反撃[編集]

しかし、黒海艦隊は健在で、12月、海軍歩兵隊をケルチ半島に上陸させた。セヴァストポリにほとんどの部隊を集結させていたドイツ軍に対し完全に奇襲となり、東端のケルチにいた弱体な歩兵師団が包囲されてしまった。ドイツ軍はセヴァストポリの包囲を解いて反撃に出たが(トラッペンヤクト作戦)、ケルチ半島は東西に長く南北の幅は狭い地峡で、歩兵師団しか配属されていなかった第11軍はソ連の何重もの防衛線の突破に手間取り、翌年6月まで続く長期戦となったが、ブラウ作戦には何とか間に合った。

セヴァストポリ要塞攻囲戦[編集]

ドイツ陸軍に撃破されたセヴァストポリ要塞の30.5cm二連装砲塔。(戦後復元され三連装砲塔に改修されている。)

6月7日、セヴァストポリを再度包囲したドイツ軍であったが、ケルチ半島での戦闘の間に、要塞北面の地峡に多数の要塞砲を配置し、中でもガングート級戦艦の二連装主砲塔を流用して陸上に設置した砲台(地下に旋回装置・弾薬庫・自動装填装置・兵員の居住区が設けられていた)とトーチカ群が設けられており、工兵が爆破処理するのは不可能であった。

そこで、マンシュタインは、新旧・大小問わず1,300門もの大砲をかき集め猛砲撃を加えた。その際、ドイツから80cm列車砲「グスタフ」を分解して持ち込んだ。グスタフは、鉄道のレールの上に設置する80cm40口径の大砲で、最大射程47km、弾薬も普通の榴弾の他に、徹甲弾の先端に大量の爆薬を詰めた砲弾(徹甲榴弾)も使用された。列車砲ゆえに旋回できないのが難点だったが、ゆるいカーブの付いたレールを敷くことで射角を確保した。なお、同砲は列車砲ではあるが設置するのに複線が必要な上、設置用のクレーンで更に外側に二本、合わせて四本もの鉄道路線が必要であり、他の列車砲のように線路の上を走らせて戦場に持ち込むような事はできなかった。これ以外にも、カール自走臼砲などの重砲も投入された。

グスタフを始めとする重砲が開けた突破口から、短射程の砲が突入し、しらみつぶしに敵陣地を破壊していった。特に命中精度は低いものの大量の爆薬をばら撒けるロケット砲は、密集したトーチカ制圧に有効であった。当然のことながら急降下爆撃機による支援も行われている。

5日間の猛砲撃・爆撃で、要塞北面の陣地は全て破壊され、セヴァストポリ市街と軍港の包囲が始まった。要塞東面・南面にも防御陣地と砲兵隊が配置されていたが、北面ほど強力ではなく、次々と突破され、7月3日セヴァストポリは陥落した。

マンシュタインは、この功績により、元帥に昇進した。

その後、第11軍をケルチ海峡を渡ってカフカース地方へ進撃させる案もあったが、ヒトラーは、第11軍の要塞攻略の経験を活かしたいとして、マンシュタインと第11軍の大部分は、レニングラード戦線に転用された。

ソ連軍による奪回[編集]

クルスクの戦いに続いて始まったソ連軍の大攻勢により1943年10月にクリミア半島は大陸から遮断された。しかし、ヒトラーは、トルコへの政治的影響とルーマニアの油田地帯防衛を理由として、死守を命じた。ソ連軍は1944年4月上旬から半島での攻勢を開始し、5月13日に半島全域を制圧した。枢軸軍(ドイツ軍、ルーマニア軍)は一部が海路で半島を脱出できたものの、7.5万人が失われた[1]

脚注[編集]

  1. ^ 焦土作戦(下) P.288 - 324

参考文献[編集]

  • パウル・カレル著、吉本隆昭 監修、松谷健二 訳、『焦土作戦(上、下)』、学習研究社、1999年