セルゲイ・エセーニン

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セルゲイ・エセーニン

セルゲイ・アレクサンドロヴィッチ・エセーニンロシア語: Серге́й Алекса́ндрович Есе́нин、Sergei Alexandrovich Yesenin、1895年10月3日ユリウス暦9月21日)- 1925年12月27日)は、ロシアの叙情詩人20世紀のロシアで最も人気があり有名な詩人のひとり。

伝記[編集]

生い立ち[編集]

エセーニンはロシア帝国リャザン県ロシア語版英語版コンスタンチノボロシア語版で小作農の家庭に生まれ、幼少の頃は祖父の家で過ごし9歳の時から詩を書き始めた。

1912年、モスクワに転居し印刷会社の校正の仕事で生計を立てた。翌年、エセーニンは学外生としてモスクワ大学に入学し1年半学んだ。エセーニンの初期の詩はロシアの伝承に着想を得たものである。1915年、エセーニンはサンクトペテルブルクに転居しアレクサンドル・ブロークセルゲイ・ゴロデツキーロシア語版英語版ニコライ・クリューエフアンドレイ・ベールイらと知り合いになった。文壇でエセーニンの名が知られるようになったのは、サンクトペテルブルク滞在中のことであった。ブロークは特にエセーニンの初期のキャリアを手助けしてくれたという。

キャリア[編集]

1916年、エセーニンは最初の詩集「招魂祭ラドゥニツァ」(ロシア語: «Радуница»)を出版した。愛と人生についての心を打つ詩を集めた詩集で、エセーニンは当時ロシアで最も人気のある詩人の1人になった。エセーニンは1913年に出版社で一緒に働いていたアンナ・イズリャドノワロシア語版と結婚し、息子ユーリを儲けた。

後年、エセーニンはサンクトペテルブルクでニコライ・クリューエフと出会い、それから2年間のほとんどの時間を一緒に過ごす等、親密な付き合いをした。近年の研究者は、男性であるクリューエフ宛のエセーニンのラブレターがあると推測している[1]。1916年から1917年にかけて、エセーニンは軍務に就いたが、1917年に十月革命が起きるとすぐにロシアは第一次世界大戦から撤退した。革命はより良い生活をもたらすと信じられ、エセーニンもしばらくはそれを支持したが、すぐに幻滅し、The Stern October Has Deceived Me等の詩の中でしばしばボリシェビキの支配を批判している。

エセーニンとイサドラ・ダンカン。

1917年8月、エセーニンは後にフセヴォロド・メイエルホリドの妻となる女優のジナイダ・ライフロシア語版英語版と2度目の結婚をした。娘のタチアナロシア語版英語版と息子のコンスタンチンロシア語版の2人の子供を儲けた。コンスタンチンは後に有名なサッカー統計学者となった。

1918年9月、エセーニンは「モスクワ文藝家社中アルチェーリ」(ロシア語: «Московская Трудовая Артель Художников Слова», МТАХС)という自身の出版社を興した。

1921年秋、画家ゲオルギー・ヤクロフロシア語版のスタジオを訪れた際、エセーニンはパリを拠点とするアメリカのダンサーイサドラ・ダンカンと出会った。イサドラはエセーニンより18歳年上で、ロシア語はほとんど喋れなかった。エセーニンも外国語は話せなかったが、彼らは1922年5月2日に結婚した。エセーニンは妻をヨーロッパとアメリカへの旅に連れていったが、この時点で既にエセーニンのアルコール使用障害は制御不能なほどに酷くなっていた。エセーニンはしばしば酒を飲み、激しく怒り出してホテルの部屋を破壊したりレストランで騒ぎを起こした。イサドラとの結婚期間は短く、1923年5月にエセーニンはモスクワに戻った。エセーニンはすぐに女優のアウグスタ・ミクラシェフスカヤロシア語版と付き合い始め、民事婚していると噂されたが、イサドラとはまだ離婚が成立していなかった。

同年、詩人ナデジュダ・ヴォーリピンロシア語版との間に息子アレクサンドルができた。エセーニンはヴォーリピンとの間の子を認知しなかったが、長じたアレクサンドルはアレクサンドル・セルゲーエヴィチ・エセーニン=ヴォーリピンと名乗り(セルゲーエヴィチは「セルゲイの息子」を意味する父称で、更に、父親の姓エセーニンを拝借している)、傑出した詩人になった。ヴォーリピンは1960年代にはアンドレイ・サハロフらとソビエト連邦に対する反体制運動にも参加した。アメリカに移住してからは数学者としても活躍した。

晩年と死[編集]

エセーニンの晩年の2年間は飲酒と奇行の毎日だったが、エセーニンの最も有名な詩もこの頃に作られた。1925年、エセーニンはレフ・トルストイの孫娘であるソフィア・トルスタヤロシア語版と出会い、5度目の結婚をした。しかし、彼女はエセーニンを救おうと努力したがエセーニンは完全に神経衰弱に陥り、1カ月入院した。退院の2日後、エセーニンは自身の手首を切り自身の血で告別の詩を書き、翌日アングレテール・ホテルロシア語版英語版の暖房配管から首を吊って自殺した。まだ30歳だった。ただしこれは公式発表による死因であり、その死の真相は未解明である[2]

エセーニンの遺体はモスクワのヴァガンコヴォ墓地ロシア語版英語版に埋葬され、墓には白大理石の彫刻が飾られた。

セルゲイ・エセーニンの埋葬。

S.A.エセーニン名称リャザン国立大学ロシア語版英語版はエセーニンの名前にちなんでいる[3]

文化への影響[編集]

エセーニンはロシアで最も人気のある詩人の1人であり、盛大な国葬が行われたにもかかわらずエセーニンの著作のほとんどはヨシフ・スターリンニキータ・フルシチョフの政権下でクレムリンにより禁書とされた。ニコライ・ブハーリンによるエセーニンの批判がこの決定に大きな影響を及ぼした。1966年に限り、エセーニンの作品の多くが再版された。

なお、エセーニンの詩はロシアの学校で教えられ、多くに音楽付けられポピュラー曲になっている。その早すぎる死は文学者の中には同情を示せないとする者もいるが、一般の人にとっては礼拝に値するものであり神秘的な印象の形成に役だっている。

作品[編集]

  • The Scarlet of the Dawn (1910)
  • The high waters have licked (1910)
  • The Birch Tree (1913)
  • Autumn (1914)
  • I'll glance in the field (1917)
  • I left the native home (1918)
  • Hooligan (1919)
  • Hooligan's Confession (1920)
  • I am the last poet of the village (1920)
  • Prayer for the First Forty Days of the Dead (1920)
  • I don't pity, don't call, don't cry (1921)
  • Pugachev (1921)
  • Land of Scoundrels (1923)
  • One joy I have left (1923)
  • A Letter to Mother (1924)
  • Tavern Moscow (1924)
  • Confessions of a Hooligan (1924),
  • Desolate and Pale Moonlight (1925)
  • The Black Man (1925)
  • To Kachalov's Dog (1925)
  • Goodbye, my friend, goodbye (1925) (告別の詩)

出典[編集]

  1. ^ Leyland, Winston (ed),Gay Roots:Twenty Years of Gay Sunshine. San Francisco. 1991
  2. ^ エセーニンの死について (On Esenin's death)”. グリネル大学英語版. 2016年8月31日閲覧。 (英語)
  3. ^ 大学概要 (Кратко об университете)”. リャザン国立大学. 2016年8月31日閲覧。 (ロシア語)

外部リンク[編集]