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バブ (バハイ教の預言者)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハイファにあるバーブの聖廟

バブ(出生名:ʿAlí Muḥammad;[ˈæli moʊˈhæməd];1819年10月20日 – 1850年7月9日)は、バーブ教を創設したイランの宗教指導者。バハイ信教における中心的人物の一人でもある。幅広いテーマに及ぶ著作の中で、自らはモーセ、イエス、ムハンマドに比肩する地位にある神の顕示者であり、トーラー、福音書、クルアーンに匹敵する深遠な啓示を受けているという主張を徐々に明らかにしていった[1][2][注釈 1]。バブはまた、この新しい啓示が、世界の和合と平和の確立に必要な創造的エネルギーと能力を解き放つのだと明言した[4]。

バブは自らを、イスラム教の伝統的な称号「バーブ」(「門」を意味する)[注釈 2]と称した。しかし、その意図は、それまでこの称号に結び付けられてきたいずれの意味とも大きく異なる霊的な立場を主張することにあったことは、文脈から明らかであった[6]。バブは、自らの使命において中核とする目的は、自らよりも偉大な霊的光明、すなわち世界の諸宗教が約束してきた御方の到来の準備として道を開くことであると宣言し、この約束された救済者を「神が現し給う御方」と呼んだ[7] 。そして自らはこの救世主たる人物へと導く「門」であり、その御方のメッセージは全世界に広められるようになると告げた[8]。

バブは1819年10月20日、シーラーズで、フサイン系統のサイイドの家系に生まれた。この家系からは多くの者が、シーラーズやブーシェフルで商業活動に従事してきた[9] 。シーラーズに生誕したバブも例外ではない。カージャール朝期イランで商人として生業を営んだ。そして1844年、25歳のときにバーブ教を創設した。続く6年間にわたり、多数著した書簡や書籍において、イスラーム法や伝統を廃止することで新たな宗教を樹立し、和合・愛・他者への奉仕を重視する新しい社会秩序を提示した[10][5][11] 。諸芸術と科学の学習を奨励し[12] 、教育の近代化を進め[13]、 女性の地位向上を図った[14] 。さらには、「累進的啓示」の概念を提示したことで、諸々の宗教は内実的に一貫し、時代をおいて連続して定期的に出現し、これまでと同様にこれからも刷新されていくことを明言した[15] 。また、倫理[16] 、真理の独立探求の必要性も、人間は生まれながらに崇高であることも強調した[17] 。さらに、婚姻・離婚・相続に関する規定を示し、実施はされなかったものの、自らの教えを基盤にして築かれる将来の社会に向けた規範を定めた[12] 。全体を通し、バブは自らの啓示と法を、前述の「約束された人物」の到来を念頭に置いた観点から常に論じた。それまでの諸宗教が約束された人物に散発的に言及するにとどまったのとは異なり、バーブ教の根幹典籍でありペルシア語で記された『バヤーン』には、その人物の到来に備えることに主眼が置かれている[18] 。

バブは下層階級の民や貧困層、都市の商人・職人、そして一部の農村住民の間で人気を博した[19] 。しかし、正統派の聖職者と政府の反対に直面し、最終的には、政府により、彼とバビと呼ばれる数千人の信徒が処刑された[20][注釈 3]。

背教の罪で処刑執行がなされた日、バブはタブリーズの公共広場で縛られ、750挺の小銃を構える銃殺隊の前に立たされた。最初の一斉射撃の後、バブの姿が消えていることが判明したが、その後発見され、広場に連れ戻された。そして二度目の斉射で、バブは絶命した。詳細については異なるものの、最初の斉射でバブが落命しなかったことでは、どの記録も一致している[注釈 4] 。バブの殉教は様々な人々によって記録され、彼が伝えたメッセージへの関心を高めた[22] 。彼の遺骸は秘密裏に保管されて運ばれ、カルメル山の斜面にアブドル・バハが彼のために特別に建てておいた霊廟に1909年に埋葬された。

バハイ信教の視点において、バブの役割は、ユダヤ教におけるエリヤやキリスト教における洗礼者ヨハネに比肩する。彼らと同様、先駆者としての役割を果たしたとみなされている[23] 。一方で、バブの位置付けは先駆者にとどまらない。独立した「神の顕示者」の一人としてもみなされている。この見解は、現在約800万人の信徒を擁するバハイ信教[24]の教義の根幹をなしている。1863年、バハイ信教を創設したバハオラは、自らがバブが予言した「神が顕し給う御方」であると宣言した。これを受け、19世紀末までにバブ教徒の大多数がバハイ信教へと改宗した[25] 。バハイはバブを、アダム、アブラハム、モーセ、ゾロアスター、クリシュナ、釈迦、イエス・キリスト、ムハンマド、バハオラと並ぶ、人類を導く聖なる顕示者の一人と定義している[26]。

背景

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幼少期

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10歳になる前にバブが練習した書道の筆跡

バブは1819年10月20日(ヒジュラ暦1235年ムハッラム1日AH/イラン暦1198年メフル27日SH)に、シーラーズの中流階級の商人の家に生まれた。アリー・ムハンマドと名付られた[23] 彼は、ムハンマドの末裔であるセイイェドであった[27] 。両親ともにフサイン・イブン・アリーを介してムハンマドへとさかのぼる家系であったことに由来する。父はムハンマド・リダー、母はファーティメ(1800年–1881年)という名であった。母はシーラーズの著名な商家の娘であり、後年、バハイとなる。父は彼がまだ幼少であった頃に亡くなり、母方の叔父で商人のハージー・ミールザー・サイイド・アリーが彼を養育した[28][29]。

シーラーズにて、彼は叔父によってマクタブ(初等学校)に通わされ、そこで6、7年ほどを過ごした[9] 。バブは年少の頃から、法学やアラビア語文法の学習を含む、当時の教育課程の主流であった形式的かつ正統的な神学ではなく、傍流とされていた数学や書道に惹かれていた。しかも、類まれな霊性、創造性、想像力を発揮して没入する姿勢は、教師たちの怒りを買い、19世紀のペルシアの学校制度の中では容認されなかった[30] 。こうした教育制度への失望から、彼は後年、大人は子どもの尊厳を大切にし、子どもが玩具を持ち遊ぶことを許すようにと教え[31] 、生徒に対して決して怒りや厳しい態度で臨んではならないと説いた[32]。

彼は15歳から20歳の頃に、叔父が家業とする商会に加わり、イランのブーシェフル(ペルシャ湾の近く)で商人となった[28] 。そして、インド、オマーン、バーレーンとの交易に重点を置いた事業において、誠実で信頼性高い商人として知られるようになった[33] 。しかし、初期のいくつかの著作からは、商いよりむしろ、宗教文献の研究に専心していたことがうかがえる[9]。

結婚

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1842年、バブは23歳のとき、母の希望に沿い、シーラーズの有力商人の娘で20歳のハディージャ・スルターン・ベグム(1822年 - 1882年)と結婚した[34] 。幸福な結婚生活であったが、二人のただ一人の子、アフマドと名付けられた男児は生まれた年(1843年)に死亡し[35]、ハディージャはその後妊娠することはなかった。若い夫婦は、バブの母とともに、シーラーズの質素な家を住まいとした。ハディージャは後年、バハイとなった[35]。

シャイフ派運動

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1790年代のイラクにおいて、シャイフ・アフマド(1753年–1826年)は、シーア派内部で新たな学派を創始した。彼の弟子たちはシャイフ派と呼ばれ、マフディー(隠れイマーム)、あるいはその代理の出現によって、神の導きが間もなく再びもたらされることを熱烈に待望した。シャイフ・アフマドはイスラム教の教えを文字通りには解釈しなかった。たとえば、預言者ムハンマドの昇天(ミラージュ)について、肉体と魂が共に昇ったとする通説を否定し、それは霊的な出来事であったと説いた[36] 。また、終末に予期される死者の復活も肉体的なものではなく、霊的な性質の復活であると主張した[37] 。このような見解から、シャイフ・アフマドは当時の正統派シーア派の神学者たちと対立し、1824年には不信心者として糾弾された[38]。

シャイフ・アフマドの死後、指導権はカーズィム・ラシュティー(1793年–1843年)に移った。彼は、第12代イマームが小隠れ(隠遁)に入ってから太陰暦で1000年後に当たる1260年AH(1844年)を再臨の年として重視した[39]。1841年、バブはイラクへの巡礼に赴くと、カルバラーの周辺に7か月間滞在し[40] 、カーズィム・ラシュティーの講義に出席した[40]。カーズィム・ラシュティーは、1843年12月の自らの死に際し、まもなく出現すると彼が予言したマフディーを探し求めるよう、弟子たちに勧告した[28] 。その一人、ムッラー・フサインは、モスクで40日間の徹夜の祈りを行った後、シーラーズへ赴き、バブと出会った[41]。

人物像と外見

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バブは、温和で才気溢れ、非常に高い知性に恵まれた人物として、どの資料でも描写されている[23] 。アイルランド人の医師は、彼を「非常に穏やかで華奢な姿のやや小柄な男。ペルシア人としてはかなり色白で、心に強い印象を残す、澄んだ柔らかな声の持ち主」と描写している[42]。ショーギ・エフェンディは「温和で若々しく、抗いがたい魅力をもつバブ」と語り、「比類なき謙遜さ、動じることない静謐さ、発言すれば人を惹きつける」とも称賛している[43] 。「彼に会った多くの人々を魅了した」とも評される特質も備えていた[42]。

宣言

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バブの宗教的指導者としての使命が開始したのは、シーア派イスラームにおける高名な殉教者で犠牲の象徴であるイマーム・フサインの裂かれた喉から滴る七滴の血を飲む夢を見てからであった[34][33] 。1844年4月にその夢を見るまではクルアーンの伝道に心を傾けていたが、以降は、神からの霊感によるものとする詩句や祈りを書き記すことができるようになった。それらが啓示であることを最初に信じたのは、妻のハディージェだった[43]。

バブが神からの霊感を最初に受け取ったのは、1844年4月3日の夕刻であった。妻がその聖なる瞬間を目撃している[43] 。バブが自らの使命を公にする初めての機会は、ムッラー・フサインがシーラーズに到着したことで到来した。5月22日の夜、ムッラー・フサインはバブの自宅へ招かれた。[注釈 5] 。中に通されると、カーズィム・ラシュティーから探究を託された「約束の御方」を探していることを伝えた。バブは自らこそが約束の御方であり、神の知識の担い手であると宣言した[9] 。ムッラー・フサインは、バブによる、自らはカーズィム・ラシュティーが出現を予言した隠れイマームであるという宣言を受け入れる最初の者となった[28][9] 。その言葉を納得できたのは、提示したすべての問いに、バブが満足のいく答えを返したからだけにとどまらない。「ユースフ」についての長大な注釈を自分の目前で非常な速さで書き上げたことにも起因する。『カユーム・アル=アスマー』と称されるこの註解は、バブが啓示を受けて記した最初の書とみなされている[28] 。バブがこのようにして自らの使命を宣言したこの日はバハイ信教の聖日に指定されている。

生ける文字

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ムッラー・フサインがバブの最初の弟子となってから5か月も経たないうちに、カーズィム・ラシュティーの他の弟子17人も、バブを神の顕示者として認めた[44] 。その中には、のちに「清浄」を意味するタヘレという称号を与えられた女流詩人、ファーティメ・ザッリーンタージ・バラガーニーも含まれていた。彼ら18人の弟子は「生ける文字」と呼ばれた。各人の称号には「神の霊」を表す一文字が含まれ、それらを結び合わせることで「神の言葉」を成すとされたのである。彼らはイランとイラク全土において、アブラハムの宗教の回帰かつ継続ともいえる新しい宗教を広める任務を授けられた[9] 。バブは、彼ら18人をその霊性の高さゆえに選んだことを強調し、自らを含めた19人を、アラビア語で「和合(Unity)」を意味する wāḥid (アブジャド記数法で「19」に相当)の体現者と位置づけた[45] 。また、ペルシア語で著した『バヤーン』において、彼は「生ける文字」の象意について述べている。すなわち、十二イマーム派における「14人の無謬者」(ムハンマド、12人のイマーム、ファーティマ)に、4人の大天使を加えた存在と同一であるとしている[45]。

旅と投獄

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「生ける文字」とのちに呼ばれる18人が彼の地位を認めた後、バブはクッドゥースを伴い、イスラム教の聖都であるメッカとメディナへの巡礼に出発した[9] 。メッカのカアバ神殿で、自らがガエムであると公言すると、カアバ神殿の管理者を務めていたメッカのシャリーフに書簡を送り、自らの使命を宣言した[46] 。巡礼の後、バブとクッドゥースはブーシェフルに戻ったが、これを最後に再び相まみえることはなかった。

ヴァキール・モスク(シーラーズ)

その後、クッドゥースはシーラーズに向かい、総督のフサイン・ハーンにバブが自ら明言した地位を伝えた。それを聞いた総督はクッドゥースを拷問し、1845年6月にバブをシーラーズへ召喚した[47]。

バブは、1846年9月に市内でコレラが流行するまで、叔父の家宅から外出禁止の措置を受けた[9] 。軟禁が解かれると、イスファハーンへ向かった。金曜礼拝を執り行うイマームが自宅にバブを招くと、多くの人々が彼に会いに訪れたことで、イマームは彼への認識を改めるようになった。ある非公式の集まりで、バブが地元の聖職者と議論した際、瞬時に聖句を書き上げると、彼への人気が急上昇した[48] 。イスファハーン総督で彼の支持者であったマヌーチェフル・ハーン・ゴルジーが死去すると、同州の聖職者からの圧力が高まった。その結果、1847年1月、モハンマド・シャーから、テヘランへの出頭が命じられた[49] 。しかし、バブが国王に謁見することはなかった。テヘラン郊外の野営地で数か月を過ごした後、宰相の采配で、国の北西端のタブリーズへ送られ、拘禁されたためである[9]。

イラン、マークーの要塞(2008年)

タブリーズで40日を過ごした後、バブはトルコとの国境近くのアゼルバイジャン地方にあるマークーの要塞へ移送された。そこでの収監中に、バブは最も重要な著作『バヤーン』の執筆に着手したが、未完に終わっている。マークーでもバブの人気が高まり、マークーの総督までが改宗したため、宰相は1848年4月に彼をチェフリークの要塞へ移した[28] 。そこでもバブの人気は高まり、看守たちは彼に課された制限を緩めた。

タブリーズでの裁判

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1848年6月、イスラム教聖職者一団の前で背教罪で裁かれるため、バブはチフリークからタブリーズへ連行された。その途上、ウルミーイェの町で10日間を過ごし、そこで彼の姿と知られている唯一の肖像画が制作された。その複製はのちにバハオラに送られ、現在はバハイ世界センターの国際アーカイブに所蔵されている[50]。

皇太子も立ち会ったこの裁判は1848年7月に開かれ、地元の聖職者多数が参加した。彼らはバブに対し自らの主張の性質や教えについてを問いただし、奇跡を起こすことで、神聖な権威を証明するよう要求した。また、自らの主張を撤回するよう諭した。この裁判の目撃証言は9つ現存し、そのうち数件はさらに古い情報源に基づいている可能性がある。9つのうち6つはイスラム聖職者による記録であり、バブを否定的見解で描いている[51] 。9つすべての証言に共通して見られる回答は一つしかない。バブによる「われは、あなた方が千年の間待ち望んでいたその者である」という言葉であった。[51]。

結果的に、判決は下されなかった。死刑を求刑する聖職者もいたが、政府はバブの高い人気を考慮し、寛大な判決を下すよう彼らに圧力をかけた。また処刑を防ぐため、医師たちにバブを心神喪失と宣言するよう依頼した。一方、体面を保ち聖職者をなだめるために、政府がバブが自論を撤回したという噂を流した可能性もあるとされている[52]。

バブの裁判には出席しなかったが、反バブ運動の旗手であるシャイフ・アル=イスラームは、バブが精神正常であると認定された場合は死刑とするという条件付きの判決を下した。これに並行し、「矯正不能の背教者の悔悟は受け入れられない。汝の処刑が延期されている唯一の理由は、汝の精神の健全さに疑いがあるからである」と述べられた[52]ファトワーも発された。

皇太子付きの侍医を務めていたウィリアム・コーミックがバブを診察し、恩赦の根拠を見出すようにと求める政府の要請に応じた[51] 。バブは医師の見解によって処刑を一時的に免れたが、聖職者たちが代わりに体罰に処すよう主張したことで、足の裏への20回の鞭打ちを受けた[52]。

裁判の後、バブはチャフリークの要塞に戻るよう命じられた。

宣言

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1846年9月、バブはシーラーズのマスジド・イ・ヴァキールでこの説教壇に立ち、シーラーズの人々に語りかけた。

バブは初期の著作(1844年–1847年)において、自らの役割を「門」(báb)と位置づけていた。しかし「門」という称号は本来、第12代イマームが姿を隠してから、彼と信徒との仲介役を務めた4人の代理人の呼称であった。それが後期の著作では、自らの地位が隠れイマームそのものであり、さらに神から遣わされた新たな預言者であることがより明確に宣言されるようになった[53][54]。

バブによるさまざまな主張の本質も、それらが多様な集団にどのように理解されたかも、簡単に結論づけることはできない。批判者は主張内容の変遷はバブ自身の志向の変化を反映したものであると主張し、支持者は終始一貫した自己アイデンティティを慎重かつ段階的に開示していったものであったと説明する[55] 。たとえば、バブの最初の著作はクルアーンと同じ文体で書かれており、当時の人々が読めば、バブが明言したように、神の啓示に関する内容であると難なく認識されただろう[55] 。ナーデル・サイエディは次のように述べる。

「マークーへの追放以前の初期の著作では、のちにその真の地位が明らかにされることに人々を準備させるために、真の主張は曖昧にされている[54]」。

マヌチェフリーによれば、低位の立場を名乗るという手法は、隠れイマームの出現への期待感を醸成するとともに、迫害や投獄を免れる意図もあった。というのも、マフディーであることを公然と宣言すれば、即刻、死刑に処されかねなかったからである。事実、公の宣言を開始した当初の数か月に慎重な方針を採用したことで、論争を最小限に抑えつつ最大限の注目が得られた[56]。

しかし、その地位が徐々に明らかにされていったにかかわらず、一般の人々や彼の一部の信徒の間で混乱が引き起こされた。初期の信徒の中には、彼を神から遣わされた権威ある預言者と見なす者もいたため、バーブ教団内部で見解の不一致が生じた[56] 。バブは自らのメッセージを慎重に伝えるつもりであっても、タヘレをはじめとする多くの信徒が、到来が約束された隠れイマームであってかつ、マフディーであると公言したのである[56]。

バブの最初の代表作『カユーム・アル=アスマー』では、その著者は、モーセ、イエス、ムハンマドおよび彼ら以前の者たちからなる神の使者の系譜に連なる者として位置付けられている。全人類に宛てられたこの注解書は、地上の諸民族や東西の支配者たちに多く言及し、霊的・社会的な刷新が意図された新たな「驚くべき」大業を受け入れるよう誘っている[57] 。セイイェド・アリー・モハンマドが、この注解書の多くの箇所で、自らをイスラム教の伝統的な称号「バブ」(門)と称していても、その語によって彼が意図したのは、従来それに結び付けられてきたどの意味とも霊的次元で大きく異なる主張であったことは文脈から明らかである[6] 。彼が「門」という称号を用いた目的は、二つの次元で理解できる。一つの次元では、自らは神から遣わされた独立した預言者であるという、挑戦とも聞こえかねない主張に付随する衝撃を少なくすることにあった。別の次元では、自らの主張が意味するものを理解し受け入れた者たちに対しては、この称号は先駆者としての役割を示すことにあった。すなわち、世界の大宗教の聖典で到来が約束され、世界的平和を実現するための教えをもたらす「バ(バハオラ)の門」としての役目を指し示すものであったのである[58][注釈 6]。

マークーにおける投獄は、バブの生涯と使命における転機となった。9か月に及ぶ投獄期間、約束されたガエム(隠れイマーム)としての地位を公言し、イスラム教の社会法を廃止した。バブは、使命を果たすために動き始めた頃は、自らの新たな宗教制に人々が移行しやすくなるようにしてかつ、新たな啓示で動揺させないための慈愛ある配慮として、クルアーンの法に従っていた、と説明した。言うなれば、神に由来する教えを大衆が徐々に理解できるよう、自らの真の身分を意図的に覆い隠していたにほかならない。称号の「バブ」(門)でさえ、神の顕示者であることがもたらす衝撃を緩和するために選んだものであった[59] 。彼は次のように述べた。

約束された御方が授けられた数多くの恩寵が群れなすイスラム教徒に行き渡り、彼らが救済に到達できるようにしたその御恵みの溢流に思いを巡らしなさい。まことに、創造の起源を体現する御方、「われはまことに神なり」との御言葉を体現する御方が、ムハンマドの末裔である約束されたガエムの到来のために、自らを「門」(バブ)とし、最初の御書においてクルアーンの法の遵守を命じられたことを見なさい。それは、人々が新たな聖典と新たな啓示のゆえに動揺することがないよう、彼の宗教を自分たちの宗教と同様のものと見なせるように、願わくは彼らが真理から背を向けず、自分たちが存在せしめられた目的を無視することがないようにするためであった [59]。

処刑

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バブが処刑されたタブリーズの兵営広場

1850年半ば、新たに宰相の座に就いたアミール・キャービール[60] がバブの処刑を命じた。各地のバーブ教徒の蜂起が鎮圧され、運動の求心力が翳りを見せつつあったことに、おそらく起因する。銃殺刑が確定したバブは、チェフリークからタブリーズへ送還された。処刑前夜、独房へ連行される途中、ゾヌズ出身の若いバーブ教徒ムハンマド=アリー(アニス)が彼と共に殉教させてほしいと嘆願した。アニスは直ちに逮捕され、バブと同じ独房に収容された。

1850年7月9日朝(ヒジュラ暦1266年シャアバーン月28日AH)、バブは収監されていた兵営の中庭に連行された。彼の処刑を見物しようと何千人もの人々が集まった。バブとアニースは壁に吊り下げられ、多数の兵士からなる銃殺隊が射撃の準備に入った[9] 。西洋の外交官によるものを含む数多くの目撃証言が、その顛末を伝えている[注釈 7]。射撃命令が下った。細部については異なるが、最初の斉射が失敗した点では記録が一致している。弾丸は、二人を壁から吊していた縄を断ち切ったにすぎなかった[注釈 8] 。第二陣の銃殺隊が呼び寄せられ、再び射撃命令が下された。今回の斉射で、バブは殺害された[9] 。バーブ教およびバハイ信教の伝承では、最初の斉射でバブが絶命しなかったことは奇跡であると信じられている。バブとアニースの遺骸は溝に投げ込まれ、犬に喰われたとされたが、この行為は当時テヘラン駐在の英国公使ジャスティン・シールによって非難された[9]。

遺骸は少数のバーブ教徒によって秘密裏に回収され、その後隠匿された。時を経て、バハオラ、次いでアブドル・バハの指示に従い、イスファハーン、ケルマーンシャー、バグダード、ダマスカス、ベイルートを経て、1899年にカルメル山の麓の平野にあるアッカへ海路で密かに移送された[61] 。1909年3月21日、遺骸は、現在のハイファ(イスラエル)にあるカルメル山山腹の聖廟に埋葬された。アブドル・バハはこの目的のために建立しておいたのである。近接するバハイ信教世界センターでは、バブの聖廟を囲む庭園の見学が可能である。

教えと遺産

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バブの教えはその核心において、人類家族の成員すべてが諍いを止め、和解するよう求めている。これは、人類史における新たな段階の到来を画するものであった[62][63] 。「……汝らを一本の樹から創り、同じ樹の葉と実のごとくならしめたり。これ汝らが、互いに慰めの源とならんがためなり……。汝らは皆、不可分の一つの民であるべし……」[64] 。バブはこの言葉に示唆したように、信徒と非信徒を区別してはならないことや、他者が必要としていることを客観的認識をすることを含めた、普遍的な倫理的視座を強調した[65] 。これらの教えの目的は、「人類の革命的変容」のための基盤を築くことにあった[66]。

バブは、人間の幸福と安寧は、究極的には黄金律に従って他者に接すること、とりわけ悲しませないことにかかっていると説明している。また、自然・人為を問わず、万物に美と霊的な目的を吹き込み、それらを完成状態へと導くことにも重点を置いている[67][68] 。このような姿勢で臨むことで、文明そのものが神聖な事業となる。バブはこの事業は「バハオラの秩序」に視線を定めることによってのみ理解されうるとの見解を示している[69] 。サイーディが強調するように「バブの著作の広義な意味での重要性は、バハオラの著作と切り離しがたい関係にあるという点にある」[70]。

バブの教えでは、神、宗教、預言者という概念に新たな解釈が提示され、それに準じて、天国、地獄、復活という概念も再解釈されている[71]。バブの主要な教えには、累進的啓示、宗教の連続性と刷新[15] 、教育の近代化[13]、 女性の地位向上[14] 、聖職者の廃止[17]、 倫理の重視[16] 、真理の独立探求、人間の生まれながらの高貴さが[17]が含まれている。しかし、バブが最も強調したのは、彼がしばしば「神が顕し給う御方」と呼んだ救世主的人物の出現であった[72] 。バブは、この約束された御方を常に念頭におきながら、自らの啓示と法を論じた。約束された御方への言及は散発的に暗示されるにすぎなかった従来の宗教とは異なり、バーブ教の母なる書『バヤーン』の主な焦点は「神が顕し給う御方」に至る道を開くことに置かれている[18]。

主要な教義

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バーブ教の中心的教義の一つは、宗教(神の啓示)は累進的に展開するという概念である[73] 。この概念において、神は預言者たちを通して累進的にご自身を顕現し、人類の進歩に伴い、その教えはより包括的に洗練されたものとなっていく[74] 。それぞれの宗教は、当時の社会で具体的に必要とされているものに応えるために出現し、先行する宗教を凌駕していくが、最終的には完全性をさらに高めた新たな宗教の出現へと道を開く[75][15] 。彼ら預言者は、存在の世における神の完全な反映と見なされる[15] 。バブは、同一の太陽(神)を映す鏡にたとえ、預言者たちの一体性を強調する[15] 。さらに、神の啓示は継続的な過程であり、人類史を通じて新たな預言者が現れ続けていく、と明言する[15]。

バブは宗教を、神の意志と人類の歴史的段階との相互作用から生じる躍動的な現象と見なし、神の意志で押し付けられた絶対不変のものとする伝統的見解を退けた[15]。宗教は人類と同様に、動的で進歩する実在であると論じたのである[15]。

バブは、復活を世界の終末としてではなく、古い宗教の衰退と新たな啓示による再興として新たに解釈した。この累進的な展開を説明するために、彼は季節を比喩として用いた[71]。冬に枯れ、春に再び芽吹く樹木のように、宗教もまた衰退と更新の時期を経験すると論じたのである[71]。累進的啓示と呼ばれるこの概念は、歴史の変遷と人間の主体性を包含し、未来志向の観点を促すものである[71]。

従来の宗教では、将来の預言者についての手掛かりを時折りほのめかしてきたにとどまるが、バーブ教の聖典『バーヤーン』は、「神が顕し給う御方」と言及される、著者自身のバブよりも偉大な救世主的人物を中心に内容が展開されている[18]。バブは、自らの使命を、この約束された御方に至る道を準備することにあると位置づけている[72]。この人物は、神に由来するすべての属性を備え、神と同等の権威を持つと描かれている[76]。バブは、外面的要素に囚われず、人格や行為から、約束された御方を認識できるよう、独立探究を勧めている[77]。また、自らがバーブ教の聖典で地位を明かされた顕示者であることを理由に、約束された御方が登場しても、過去の諸宗教が新たな預言者に反対してきたのと同様に、彼を拒絶することがないようにと諭している[77]。

バブは、既成概念を盲従せずに批判的思考によってその是非を判断し、真理の独立的探求に取り組む能力が、人間に生来的に備わっていることを強調した[17] 。聖職者階級を廃止し、預言者の正当性を測る真の試金石は奇跡ではなく、もたらす啓示の力であることを強調した。また、礼拝に人間の仲介は不要とし、聖職者の権力構造をなきものとし、聖職者が主導する会衆礼拝を禁止した[17] 。バブは、聖職者こそが宗教腐敗の主因と見なしていたのである[13]。

バブは合理性、科学、効率的な教育を強く擁護した[13]。履修科目がよく整えられ、倫理、多様な意見の尊重、科学的探究、社会における女性の役割を教える学校を基盤にした進歩的な社会を構想した。また、自然科学の学習を奨励しただけでなく、時代遅れの科目が廃され、より平易な言語が用いられるよう、教育改革を提案した[13]。

バーブ教は、当時の一般的な規範から女性の生活を大幅に改善した[14][78] 。バブは自らの法において女性と男性を概して平等に扱い[14] 、イスラーム法によって課されていた女性への負担を軽減した[14] 。多妻制を抑制し、強制結婚や妾(側室)制度を禁じ、より大きな自己決定権を女性に与えた[78] 。女子教育を奨励し、神の御前では女性は男性と同等であるとみなした[79] 。社会規範に挑戦した著名な女性弟子、タヘレを支援したことも、女性の権利向上へのバブの取り組みを示している[14]。

バブは、たとえ自分に害を加えた者に対しても、許し、親切な振る舞いを示すことを、そして他者のために善をなすことを強調している。個人の資質向上、環境保護、美しく繁栄した社会を築くことを提唱している[16] 。暴力を禁じ、親切で穏やかな振る舞いによる平和的共存を促進する[13] 。総じて、バブは、和合、愛、奉仕、そして暴力の否定を中心に据えた共同体を構想していた[16]。

バハイ信教との関係

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将来の約束された人物への言及が時折の示唆にとどまっていた従来の宗教とは異なり、本質的に、バーブ教の母典たる『バヤーン』全体が、バブが「神が顕し給う御方」と呼ぶ、自らよりもさらに偉大な救世主的人物についての論述にほかならない。バブは常に、自らの啓示と律法をこの約束の御方の文脈で論じている[18]。 バブが常に強調したように、彼自身の使命の本質と目的は、人々をその御方の出現に備えさせることにあった[72] 。バブはこの救世主的人物を、神に由来するあらゆる属性の源であると記し、その御方の命令は神の命令に等しいと述べている[76] 。彼は信徒たちに対し、独立探求によって約束の御方を探し求め、外的な理由によってではなく、固有の実在・事績・属性にもとづいて御方を認識するよう求めている[77] 。さらに彼は、これまでの宗教の信徒が自分たちの聖典を根拠に次の預言者に反対したのと同様に、自らの著作を根拠にその御方に反論し、御方から自分を遠ざけることのないよう警告した。このことが、『バヤーン』全体を通じて繰り返し強調されている[77]。 バブはさらに、約束の御方の出現が差し迫っていることを告げ、その出現の時を自らの宣言の年から9年および19年後と述べた[80]。

1863年、バブが自らの使命を宣言してから19年後、バハオラは同志たちとともに追放されていたイラクで、さらに1866年にはエディルネで、バブによって約束された人物であることを公言した[81]。 バブ教徒の大多数は彼を受け入れ、のちにバハイと呼ばれるようになった[82]。

バハイ教における記念行事

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バハイ暦では、バブの誕生・宣言を祝い、逝去を追悼する行事が、バハイ信教の共同体によって毎年執り行われている[83] 。1944年5月、バブがムッラー・フサインを前に自らの地位を宣言してから100周年を記念する祝賀行事がイリノイ州ウィルメットのバハイ教礼拝堂で催され、その一環としてバブの肖像画の開帳がなされた[84] 。

「双子の神の顕示者」という観念は、バハイ信教における根本的概念であり、バブとバハオラの関係を説明する。両者いずれもが独立した神の顕示者と見なされ、各人が個別の宗教(バーブ教とバハイ信教)を創設し、独自の聖典を啓示したが、一体不可分に役割が連続していると理解されている。バハイの観点からは、バブとバハオラの使命は切っても切り離すことはできない。バブの使命は「神が顕し給う御方」の到来に人々を備えることであり、その御方は最終的にバハオラとして顕れた。バブとバハオラはいずれもバハイ信教の中心的人物として崇敬を受けている。また、バハオラとバブの関係は、イエス・キリストと洗礼者ヨハネの関係に比せられても、同一の時代に二人の神の顕示者が現れるという稀有な出来事であったことが強調されている[85]。

影響

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アブドル・バハはバブの影響を次のように要約している。「ただ一人で、ほとんど想像も及ばない大事業に着手した……。この輝かしき御方は、ペルシアの律法、慣習、礼節、道徳、習慣の根底を揺るがすほどの力をもって立ち上がり、新たな法、信仰、宗教を打ち立てた」[86]。 彼はマルティン・ルターに比せられることもある[要出典]。

バーブ教運動は、19世紀のイランにおける宗教的・社会的思潮に大きな影響を与えた。イスラーム世界における啓蒙時代について論じたクリストファー・デ・ベレーグは、次のように記している:

1840年代に始まったバーブ教運動は、19世紀半ばのイランにおいて社会的進歩性の重要な触媒となり、宗教間の平和、男女間の社会的平等、そして革命的な反君主制を推進した……さらに、世俗主義、国際主義、ならびに戦争を否定する近代的ビジョンを提示した。このビジョンこそが、それを—バハイ信教として—現在まで、約500万人から成る点在する共同体の中で存続させ、中東の近代化についてのいかなる叙述にも含める資格を与えている[25]

著作

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バブは、神の顕現者によって啓示された聖句こそがその使命の最大の証拠であると述べた。事実、バブの著作は二千を超える書板(タブレット)、書簡、祈り、哲学的論考から構成されている。多くの著作はバーブ教徒から具体的になされた質問に応じて啓示されたものであった。バブは時に、啓示された言葉を書記の前で詠唱することで、速やかに一冊の書に成したことが目撃されている。啓示された言葉はバハイ信教の聖典の一部を成すが、とりわけ彼による祈りは、個人によっても、礼拝の集まりにおいても、しばしば唱えられている[87] 。

バブの著作は、学術的関心と分析も喚起してきた。エルハム・アフナンは、バブの著作は「読者の思考を再構成し、彼らが時代遅れの信念や世襲の慣習の鎖から解放され得るようにした」と述べている[88] 。ジャック・マクリーンは、バブの著作に見られる新奇な象徴性に注目し、「バブの聖なる著作の宇宙は隅々まで象徴的である。数、色、鉱物、液体、人間の身体、社会関係、身振り、行為、言語(文字と言葉)、そして自然そのものは、神の御名と属性(asmá va sifát)のより深い実在を映す鏡、あるいはしるしである」と述べている[87] 。バブは、既存の神学用語では不十分と見なしたときには、多くの新語を生み出した。そのため、彼の著作には言語的革新性が特徴として盛り込まれている[87] 。片や、自由連想や意識の流れの描写が顕著な作品もある[89] 。複数の研究者は、宗教的に重要な特定の語や句の継続的反復が、バブの著作全体に通底する独自の特徴であると指摘している[90]。バブ自身は自らの著作を五つの様式に分類した。すなわち、神から啓示された聖句、祈り、注解、理性的論述(アラビア語による)、そしてこれら四つの範疇に入る著作をペルシア語で記した一群である[88] 。研究者たちは、バブの著作には、西洋の思想家であるヘーゲル[91]、カント[92]、およびジェイムズ・ジョイス[93]の著作との共通点があることも指摘している。

しかし、バブ自ら、50万節を超えていると述べた著作の大部分は失われている。1ページ25節とするなら、合計で2万ページに相当する[94] 。一方、クルアーンは6,300節から構成されている。ナビール・イ・ザランディーは、The Dawn-breakersの中で、バブはマークーでの幽囚の期間、クルアーンの完全な注解書を9点啓示していたが、跡形もなく失われた、と述べている[95] 。現存する書の中でバブ自らによる正確な記述の確定は必ずしも容易ではない。状態の良いものがあれば、相当な検証作業を要するものもある。バブの代表作のいくつかは、彼が信頼していた書記の自筆で今日に伝えられている[96]。

バハイ信教世界センターの文書部門には、バブの書簡(タブレット)約190通が所蔵されている[97] 。バブの著作の英語による唯一の編纂書Selections from the Writings of the Bábには、代表作から抜粋した文章がいくつか収録されている。デニス・マケインは著書Sources for Early Bábī Doctrine and Historyの中でバブによる多くの著作に言及している。以下に記す要約の多くは、同書を出典とする。バブは、代表作に加えて、妻や信徒に宛てた多数の書簡、目的別の多くの祈りの言葉、クルアーンの節や章に関する多数の注解、そして多数のフトバ(説教)を啓示した(その多くは実際には朗誦されなかった)。しかし、これらの多くは失われ、散逸を免れたものは各種編纂書の中で伝えられている[98]。

三段階

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バブの著作は、年代順や主題別など、さまざまな類型に分類された上で記述されてきた[99] 。バブ自身は、自らの著作を前後二つの段階に分けている。すなわち、周到な準備段階として自らの地位と教えを巧妙に覆い隠した結果、周囲の人々がその心や知性で十分に受け止められなかった前期と、自らがシーア派イスラム教の約束された第十二イマームであるだけでなく、トーラー、福音書、クルアーンによって到来が予言されていた新たな世界宗教をもたらす預言者であると公言した後期が相当する[1] 。この新しい啓示は、地球規模の和合と平和の確立に必要な創造的エネルギーと能力を放出するだろう、と彼は明言した[4]。

バブの教えは、独自の主要な主題を内包した、さらに三つの段階が踏まれたものであると理解することができる。初期の教えはクルアーンとハディースの解釈を主な特徴とする。神とその預言者、そして全人類の一体性を強調する新たな解釈上の観点から、神学的信念に対する一般的理解を構成し直すものであった[99] 。初期のバーブ教の教義は新たな宗教法を啓示することよりも、「宗教法の内面的かつ神秘的な意味に焦点を当て」「儀礼的行為を霊的な旅へと転換する」[100]ことに焦点が置かれた 。これらの主題への取り組みは後年も続くが、焦点は次第に、哲学的見地からの解明へ、そして最終的には法の公布へと移行していく。

第二の哲学的段階においては存在と創造の概念が形而上学的見地から説明され、第三の立法段階においては神秘的・歴史的諸原理を統合[101]することで、著作は歴史的意識を獲得していく[102] 。そして、累進的啓示の原理が明確に確立される[103]。

バブは、この第二段階において、霊的真理の認識の仕方、人間の本質、信仰の意味、善行の本質、霊的旅路に就く前提条件、そして世界は永遠か創始されたかの問題など、宗教における多くの基本的課題を論じている。世界における「真の正義」の実現と、かかる正義の達成における宗教の中心的役割も、この段階における主要な焦点となっている。彼はさらに、『歌唱に関する論考』において音楽の哲学を探究し、「人間の他のあらゆる行為と同様に、歌唱は行為者の意図と行為の機能に応じて、道徳的にも不道徳的にもなりうる」と述べている[104]。

1848年、バブの教えは大きな転換を迎えた。イスラム法を公式に廃止し、独自の教義と実践体系を導入したことに起因する[9] 。この転換に伴い、彼は極めて急進的な命題を提示した。すなわち、宗教とは、人間に対する神の意志の一方的な強制ではなく、「神の意志が、人類の発展の歴史的段階と相互作用を起こした産物」として理解される必要があるというものであった[99] 。言うなれば、人間の理解力や行動様式が進化を遂げていくのと同様に、宗教もまた、進歩する現象であると述べたのである。バブはこの時期、ペルシア語による主要な聖典『バヤーン』において、新たな宗教の創始を宣言した。彼が体系化した法規には、結婚、埋葬、巡礼、祈り他の実践に関する規定が詳細に盛り込まれている。それらはバーブ教を国教とする将来の国家を念頭に置いたものと推察される。しかしその一方では、神の使者として地球規模の教えを伝えることが約束された「神が顕現させる者」の到来が著作全体にわたって強調されていることから、彼を迎えるための下地づくりが意図されていたとも想定される。言わば、これらの法すべての実施は「神が顕し給う御方」を承認することにかかっていた。したがって、法が施行される前提要件は、神の次なる啓示をもたらす「神が顕し給う御方」を認識するための霊的な準備を整えることだったのである[53]。

宣言以前の著作

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スーラアル=バカラに関する注釈は、バブが自らの使命を宣言する約6か月前にあたる1843年11月または12月に執筆が開始された。前半は1844年2月または3月までに完成し、後半は宣言の後に著された。宣言以前に啓示されたバブの著作のうち、完全な形で現存するのは、本書をおいて他にない。十二イマーム派の信仰に対するバーブの姿勢が本書で明らかにされている[105] 。宣言以前の重要な出来事については、彼の妻も言及している[106]。

シーラーズ、1844年5月–9月

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  • Qayyúmu'l-Asmáʼ(『ユースフ』の章の注釈)[要出典]の第1章は、1844年5月22日の夕刻、バブがムッラー・フサインを前にして宣言を行ったときに執筆された。全体で数百ページに及び、執筆に40日を要した。バハイは啓示の書と見なしている。バブはアラビア語で長編を何冊か執筆していたが、本書はその一つである。バーブ運動の初年に広く流布され、バーブ教徒にはクルアーンや聖書に相当する役目を果たした。バブは本書の中で、自らが神の顕示者であると明言しているものの、隠れイマームの僕と称する他の言明を前面に押し出したことで、伝わりにくくされている[107] 。タヘレがこの作品をペルシア語に翻訳した。
  • Sahífih-yi-makhzúnihは、1844年9月にメッカへ出発する前に啓示された。主として特定の聖日や祭日に朗唱される14の祈りから構成されている。イスラムの隠れイマーム到来への期待に内容はとどまっている[108]。

巡礼(1844年9月–1845年6月)

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バブはメッカへの9か月半の巡礼の間に多くの著作を執筆した。

  • Khasá'il-i-sabʿih:バーブが巡礼を終えてブーシェフルへ海路で戻る途中で著した書。バーブ教共同体が遵守すべきいくつかの規定が列挙されている。写本の一つがイランに現存している可能性がある[109]。
  • Kitáb-i-Rúḥ(「霊の書」):この書は700または900の詩節から成り、バーブが巡礼からブーシェフルへ船で戻る途上に執筆された。バブが逮捕された際、原本はほとんど破壊されかけたが、いくつかの写本が現存する[110]。
  • Sahífih baynu'l-haramayn(「二つの聖域の間での論考」):アラビア語によるこの書は、1845年初頭にバーブがメッカからメディナへ向かう旅の途上で書かれた。著名なシェイフ派の指導者から寄せられた質問に応答する形をとっている[111]。
  • Kitáb-i-Fihrist(「目録の書」):1845年6月21日、メッカへの巡礼から戻った後にバブ自身が編纂した自著の一覧。ごく初期の著作の書誌[112]。

ブーシェフルとシーラーズ、1845年3月–1846年9月

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バブは1845年3月から6月にかけてブーシェフルに滞在し、その後にシーラーズに滞在した。

  • Sahífih-yi-Jaʿfariyyih: 宛先は判明していないが、100ページを超えるこの論考を1845年に著した。バブの基本的な教えの多くが述べられ、特にシャイフ派の信条のいくつかに関連づけられている[113]。
  • Tafsír-i-Súrih-i-Kawthar(「スーラ・アル=カウサル」の註解): バブはシーラーズ滞在中にヤヒヤー・ダーラービー・ヴァヒードのためにこの注解を記した。シーラーズ滞在期に啓示された作品の中では最重要の位置を占める。章数はクルアーンの中で最も少なく、わずか3節から成るにすぎないが、注解は200ページを超える分量に達する。この書は広く流布し、少なくとも十数点の初期写本が現存している[114][115]。

イスファハーン、1846年9月–1847年3月

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  • Nubuvvih khásish:全50ページからなるこの書は、総督マヌーチェフル・ハーン・ゴルジーの質問に応じて2時間で啓示された。イスラム教徒とキリスト教徒の論争で取り上げられる重要な主題である、ムハンマドが預言者として特有の立場にあったことについて論じている[116][48][117]。
  • Tafsír-i-Súrih-i-va'l-ʿasr(スーラ・アル=アスルの註解):バブがイスファハーンで著した二つの重要な作品の一つ。この都市の首席聖職者ミール・サイイド・ムハンマドの要請に応じ、公開の場で自発的に執筆された。そのほとんどが一晩で書かれたことで、居合わせた人々を驚かせた[118]。

マークー、1847年晩夏 – 1848年5月

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バブは1847年3月にイスファハーンを離れ、テヘラン郊外に数か月間滞在したのち、トルコ国境に近いイランのマークーの要塞へ送られた。そこで最も重要な書がいくつか著された。

  • ペルシア語バヤーン:本書がバブの代表作の中でも最重要であることは疑いない。熟成された教えがこの中に要約されている。1847年後期から1848年初めにかけてマークーで執筆された。「和合」を意味するワーヒドと題された9つの章からなり、各章は「門」を意味するバブと題する19の節に分けられている。例外は最後のワーヒド(章)であり、10のバブ(節)だけが収められている。バブは、この書を完成させるのは「神が顕し給う御方」の役目であると説明した。バハイは、バハオラの『キターブ・イ・イーカーン(確信の書)』が『バヤーン』の完成版であると信じている。各ワーヒド(章)は内容のアラビア語要約で始まるため、バブが著した他多くの書より読みやすい。本書の抄録はSelections from the Writings of the Báb (バブの書物からの選集)に収められており、A. L. M. Nicolas は全体をフランス語に翻訳し、150ページの4巻本として刊行した[119]。
  • アラビア語バヤーン:バヤーンは二つの言語で著された。本書アラビア語版は、前記したペルシャ語版よりも短く、重要性も低い。11のワーヒド(和合)と題する章からなり、各章はバブ(門)と題する19の節からなる。バブの教えと法が簡潔に要約されている。1847年後半から1848年初めにかけてマークーで執筆された[120]。
  • ダラーイル・イ・サブイフ(「七つの証拠」):この名称の著作は2つあり、長い方はペルシア語、短い方はアラビア語で記されている。いずれも1847年後半から1848年前半にかけてマークーで著された。ニコラはペルシア語による『七つの証明』を「セイイェド・アリー・モハンマドの筆から出た従来の宗教観を覆す著作の中で最も重要なもの」と評した[121] 。この書の受取り人は判明していない。バーブ教徒ではない人物か、信仰がすでに揺らいでいた信徒に宛てられたものと想定されている。[要出典] アラビア語版は、ペルシア語版に見出される七つの証拠の要約である。

チェフリーク、1848年5月–1850年7月

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バブは、裁判のために短期間タブリーズを訪れたことを除き、チェフリークで2年間を過ごした。その地で記された作品は、秘教的・神秘主義的色彩が強く、主題別の整理はあまりなされていない。[121] 多数の小品に加えて、主要な書物2冊が著された。

  • Kitabu'l-Asmáʼ(「御名の書」):神の御名についての非常に長大な書。処刑前、チェフリークで過ごした時期に執筆された。写本には文の異同が数多く見られ、原初に復元するには相当の労力を要する[122]。
  • Kitáb-i-Panj Sha'n(「五つの階位の書」):アラビア語とペルシア語による書。1850年3月から4月にかけて、すなわち処刑のわずか3か月前に作成された。バブの最終期の著作の一つ。17部に分けられ、計85節から成る。各部は神の様々な御名を冠している。各部は5つの「階位」、すなわち詩句、祈り、説教、注解、そしてペルシア語による啓示の言葉から成る。各部は別々の日に作成され、それぞれ別の人物に宛てられた。したがって本書は、互いに関連のない素材を集めた一種の雑録である。いくつかの節はバブの教えの基本テーマのさらなる解説である一方、他の節では神の御名が延々と反復され、その語根変化が記されている。[123]

脚注

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注釈

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  1. ↑ 。もっとも、顕示者としての地位を宣言した後に著した最初の書『カユーム・アル=アスマー』から、自らは神からの啓示を受領した者であると称していたことは明らかであった。実際、バブの第二の弟子であるムッラー・アリー・イ・バスターミーは、バブがその地位を宣言した1844年、イラクでシーア派とスンナ派の聖職者が集まった場で、異端として共同で断罪されている。これは、神の啓示であると明言された書(『カユーム・アル=アスマー』)を受け入れ、その著者、バブを彼が信じていたことに起因する[3]
  2. ↑ 「バーブ」という語([bɑːb]。「門」または「扉」を意味する)は、隠れイマームの代理人を指す語である[5]
  3. ↑ 。3回にわたってイラン軍に包囲され攻撃を受けても、バビたちは自衛した。それでも最終的に、ほぼ全員が虐殺された。バブはジハードを決して許さず、攻勢的にならないこと、剣によって改宗させないことを信徒に諭した[12][20][21]
  4. ↑ 。共なる殉教を自ら願い出たアニースは最初の斉射で死亡したとするものがあれば、バブは剣でとどめを刺されたとするものもある。弾丸が、二人を壁から吊していた縄を切断したとする記録もある。参照: Firuz Kazemzadeh, Kazem Kazemzadeh, and Howard Garey, "The Báb: Accounts of His Martyrdom", in World Order, vol. 8, no. 1 (Fall, 1973), 32. イスラム教徒によるものを含め、すべての記述が、バブが最初の斉射を生き延びた点では一致している
  5. ↑ ムッラー・フサインはシーラーズの門でバブに出迎えられた。二人は以前にカルバラーで会っており、面識があった
  6. ↑ バーブがムッラー・フサインに最初に自らの主張を明かした際の言明は、彼自身を神の使者としてだけでなく、とりわけ「神の想起」および「神の証」としても述べており、これは久しく待望されてきた隠れイマームを明白に指していた  [3]
  7. ↑ ヴィクトリア女王のテヘラン駐在全権公使サー・ジャスティン・シールは、この処刑について1850年7月22日付でヘンリー・ジョン・テンプル英国外務大臣に書簡を送っている。この書簡は、ロンドンの外務省の公文書館(Public Record Office)に所蔵される原文文書 F.O. 60/152/88 として残っている
  8. ↑ ある記録ではアニースは最初の斉射で命を落としたとし、別の記録ではバブは剣でとどめを刺されたとしている。詳しくは、Firuz Kazemzadeh、Kazem Kazemzadeh、Howard Garey「The Báb: Accounts of His Martyrdom」World Order第8巻第1号(1973年秋)32頁を参照。イスラム教徒によるものも含め、すべての記録が、バブが最初の斉射を生き延びた点で一致している

出典

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参考文献

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参考文献

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  • BBC (2009年). “The Báb”. BBC. 2022年12月13日閲覧。

外部リンク

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