スミロ・フォン・リュトヴィッツ

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スミロ・フォン・リュトヴィッツ
Bundesarchiv Bild 146-1984-019-03, Smilo von Lüttwitz.jpg
ドイツ連邦軍中将たるリュトヴィッツ(1960年)
外国語 Smilo von Lüttwitz
生誕 1895年12月23日
ドイツの旗 ドイツ帝国
Dienstflagge Elsaß-Lothringen Kaiserreich.svg 帝国直轄州エルザス=ロートリンゲン シュトラースブルク
死没 1975年5月19日
西ドイツの旗 西ドイツ
ラインラント=プファルツ州の旗 ラインラント=プファルツ州 コブレンツ
所属組織

ドイツ帝国 ドイツ帝国陸軍

Flag of Weimar Republic (war).svg ヴァイマル共和国陸軍
Balkenkreuz.svg ドイツ国防軍陸軍
Bundeswehr Kreuz.svg ドイツ連邦軍陸軍
軍歴 1914-1918年(帝国軍)
1919-1933年(共和国軍)
1933-1945年(国防軍)
1956-1960年(連邦軍)
最終階級 中尉(帝国軍)
装甲兵大将(国防軍)
中将(連邦軍)

スミロ・フォン・リュトヴィッツ男爵ドイツ語: Smilo Freiherr von Lüttwitz, 1895年12月23日 - 1975年5月19日)は、ドイツ軍人貴族1920年カップ一揆を指揮したヴァルター・フォン・リュトヴィッツ中将は父にあたる。いとこには柏葉付騎士鉄十字章を受章したハインリヒ・フォン・リュトヴィッツ英語版男爵と、「戦車伯爵」として知られ、柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章を受章したヒアツィント・シュトラハヴィッツがいる。

経歴[編集]

1895年12月23日ドイツ帝国直轄州エルザス=ロートリンゲンの州都シュトラースブルクにて代々の軍人一家に生まれる。第一次世界大戦が勃発直後の1914年ドイツ帝国陸軍士官候補生として入営。大戦では戦傷章鉄十字を受章し、終戦時には中尉であった。戦後もヴァイマル共和国軍に残留するも、父が起こしたカップ一揆の影響か、10年以上経過した1930年に漸く騎兵大尉に昇進、この時既に34歳であった。

少佐に昇進後、ドイツ再軍備宣言がなされドイツ軍はドイツ国防軍に名称が変更される。1939年1月に中佐に昇進、第二次世界大戦勃発後の1941年11月には大佐に昇進。少将に昇進直後の1942年9月には第26装甲師団長に就任。1943年10月に中将に昇進。直後の1944年1月には解任されたが、すぐ再任される。結局は間もない4月11日に更迭されたが、9月には装甲兵大将に昇進と同時に第9軍司令官に任じられる。東部戦線でのヴィスワ=オーデル攻勢などを指揮したが、翌1945年1月19日にアドルフ・ヒトラー総統によって罷免された。第二次世界大戦中には戦傷章と鉄十字の他にもドイツ十字章騎士鉄十字章を授章されている。

敗戦後は1947年まで捕虜として過ごし、ヴェスターヴァルトにある福音アカデミーでの勤務等を経てドイツ連邦軍創設に関与する。この際、連邦軍ではアメリカ式の階級制度(上級大将を廃し、准将を新設)を導入した為、彼は大将ではなく中将として復帰した。連邦軍に参加した旧国防軍将軍としては、ハンス・レッティガー元大将(初代陸軍総監)やヨーゼフ・カムフーバー元大将(初代空軍総監)らと並び、高い階級にあった。第3軍団長を務め、1960年末に退役、ドイツ連邦共和国功労勲章を受章した。

叙勲[編集]

国防軍軍報からの引用[編集]

日付 オリジナルの原稿 和訳(英訳からの転訳)
1943年12月9日 In den schweren Kämpfen der vergangenen Nacht hat die 26. Panzerdivision unter Generalleutnant Frhr. Von Lüttwitz durch ihre beispielhafte Haltung und Standfestigkeit alle Durchbruchsversuche der Briten im Ostabschnitt der süditalienischen Front vereitelt.[10] 昨晩の激しい戦闘において、リュトヴィッツ男爵中将の指揮する第26装甲師団の模範的な精神と堅固さは、南イタリア戦線の東部地域で試みられたイギリス軍による全ての突破行動を阻止した。

脚注[編集]

  1. ^ a b Thomas 1998, p. 45.
  2. ^ Patzwall & Scherzer 2001, p. 289.
  3. ^ a b c Scherzer 2007, p. 519.
  4. ^ Fellgiebel 2000, p. 298.
  5. ^ Von Seemen 1976, p. 230.
  6. ^ Fellgiebel 2000, p. 80.
  7. ^ Von Seemen 1976, p. 42.
  8. ^ Fellgiebel 2000, p. 44.
  9. ^ Von Seemen 1976, p. 17.
  10. ^ Die Wehrmachtberichte 1939–1945 Band 2, p. 624.

外部リンク[編集]