ストラトフォード・カニング

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ストラトフォード・カニング

ストラトフォード・カニング(Stratford Canning、1786年 - 1880年)は、イギリス外交官。初代ストラトフォード・ドゥ・レッドクリフ子爵(1852-80)。

ロンドン生まれ。イートン校およびケンブリッジのキングスカレッジで学ぶ。1807年に外務省に入り、いとこでもあるジョージ・カニングのもとで働く。1808年にコンスタンチノープルのイギリス大使館の一等書記官になる。1810年に特命大使になる。1812年にロシア帝国オスマン帝国の間に締結されたブカレスト条約を交渉。1814年~1817年にスイス公使とウィーン会議の事務官を務め、1819~1823年まで在アメリカ合衆国公使を務めた。

反露派として有名であり1830年11月のポーランドのワルシャワ蜂起の後、それを鎮圧したロシアに対しての英国の意思を示すため当時外務大臣だったパーマストン子爵によって駐露大使に任命されるもののロシア皇帝ニコライ1世によって着任を拒否される。

1825年から1858年まで、数度にわたってコンスタンチノープル駐在の大使をつとめ、オスマン帝国の宮廷内に大きな影響力を持つに至った。オスマン帝国政府に改革を進めるよう要求し、ギリシアの独立にも尽力。エルサレムの管理権をめぐってロシアとオスマン帝国の対立が激化するとオスマン皇帝のアブデュルメジト1世に助言し、対ロシア強硬派の肩入れをしてクリミア戦争の勃発に一役かった。一男三女がいたが、すべて未婚で死去し、ストラトフォード・ドゥ・レッドクリフ子爵の爵位は彼の死で、一代限りで廃絶した。

出典[編集]

・オーランドー・ファイジズ著、染谷徹訳 『クリミア戦争 上』 白水社 2015年

  • CHAMBERS BIOGRAPHICAL DICTIONARY CENTENARY EDITION